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短編小説|冷やし中華やめました《下》

桜の蕾がふくらみ始めた、翌年の三月。


おれは進学のために、生まれ育ったこの町を離れることになった。


結局、あの最後の夜から今日まで、父は店を閉めた本当の理由を教えてくれなかった。


それどころか、四十五年続いた自分の城を畳んだあと、父は町外れにあるレストランの厨房で、一人の雇われコックとして働き始めていた。


プライドを捨て、若い店長の下で、くたびれたコックコートを着て黙々とフライパンを握る父。


なぜあんなにあっさりと店を捨て、あんな場所で働いているのか。


おれの中のザラついた違和感は、消えないまま澱のように胸の底に溜まっていた。


出発の朝。
駅の改札まで、父が車で送ってくれた。


車内に、店の匂いはもうなかった。ただの安い芳香剤の匂いが、妙に他人行儀で居心地が悪い。


「じゃあ、行くわ」


ロータリーで荷物を降ろし、そう言うと、
父は運転席の窓を下げ、無骨な顔を覗かせた。


何か言うのか、と思った。けれど、父は一度だけ小さく頷くと、「体に気をつけろよ」


それだけ言い残し、すぐに車を急発進させた。


父が何を考えているのか、やっぱり何一つ分からないまま、新しい世界へ一歩を踏み出した。


都会での暮らしは、息が切れるほど忙しかった。


大学を卒業し、小さな商社に就職してからは、さらに時間が加速した。


二十八歳になったおれは、日々の仕事に追われ、実家に帰る頻度も年に一度あるかないかまで減っていた。


それでも、東京のじっとりとしたアスファルトに熱気がこもる夏を迎えるたび、決まって”あの味”を思い出す。


十年前のあの夏、父が遺した“違和感”だけが、胸の奥でチリチリと燻ぶり続けていた。


そして、その答えは、
あまりにも突然、最悪の形でやってきた。


うだるように暑い、七月の夜だった。


仕事を終え、疲れ果ててマンションに戻ったその途端、図ったかのようにスマホが震えた。


画面には「母さん」の文字。


『お父さんね、お店の厨房で倒れて、そのまま……』


受話器の向こうの母の声は、掠れていて、今にも消えそうだった。


本当に、親父らしく、なんの前触れもなく、最後の瞬間まで、フライパンを握っていたらしい。


夜着のまま立ち尽くすおれの横で、隣にいた彼女が、心配そうに顔を覗き込んでいる。


「ちゃんと言い出せる時が来たら、親に紹介しよう」と思って、帰省のたびにタイミングを逃したままだった。


震える手でスマホを切り、「親父が死んだ」とだけ告げて、急いで夜行バスに飛び乗った。


通夜と葬儀は、驚くほど静かに終わった。


店を畳んで十年も経てば、かつての常連たちとの縁も薄れている。数人の親族だけで見送る小さな式が、粛々と執り行われた。


線香の煙がこもる実家の居間で、十年前のあの日を思い出していた。


店を畳んだ数ヶ月後、一度だけ店の跡地を見に行ったことがある。


すでに引き戸は外され、昼寝をした小上がりも、油まみれの換気扇も、すべてが容赦なく壊され、ただのコンクリートの塊になっていた。


自分の体の一部がもぎ取られたようなあの時の冷たい静けさが、父の遺影を前にして、再び足元から這い上がってくるようだった。


深夜、遺品整理の手を止めて、母がぽつりと麦茶を置いてくれた。目は真っ赤に腫れ上がり、手は小さく震えている。


その手が、古びた茶色い通帳と、一冊の使い込まれたノートを差し出してきた。


ノートは油と煤で茶色く汚れ、表紙が擦り切れた、父の手書きのレシピ帳だった。


「これ……お父さんがあんたにって」


通帳を開くと、毎月コツコツと、不定期に振り込まれた記録が、十年前のあの夏の前から、父が倒れる直前まで、びっしりと並んでいた。


「あの夏、お店の経営が難しくなってね。お父さん、掛け持ちでバイトまでしてたのよ。このままじゃ、あんたの大学の学費が出せなくなるって」


母は小さくため息をつき、擦り切れたレシピ帳の表紙を、愛おしそうに指でなぞった。


「それに、気を使わせたくなかったのよ。店が苦しいのを見たら、あんた、進学を遠慮しちゃうでしょ。店も背負わなくていいって。不器用な人だから、そうやって無理やり店を終わらせるしかできなかったの」


おれは、絶句した。


「新しいお店に移ってからもね、お給料が出ると『将来のために』って、コツコツ貯めてたの」


母の声が、ついに嗚咽に変わった。


「本当に……不器用な人よね。最後まで、何も言わないでさ……」


おれは、何も言えなかった。


あの夏、父が頑なに閉ざした口の裏にあった、優しすぎるほどの沈黙。


手渡されたレシピ帳の重みと、通帳に並ぶ名もなき記録は、父が言葉にしなかった、あまりにも大きくあまりにも広い、"不器用な愛情"だった。


東京に戻ったおれは、台所に立っていた。


母から受け取った、あの茶色いレシピ帳を開く。ページをめくると、あちこちに油の染みがついた、不揃いで力強い父の字が並んでいた。


目的のページを開く。そこには『冷やし中華(ベーコン)』と書かれていた。


きゅうりを刻み、卵を焼き、中華鍋でベーコンをじっくりと炒める。


パチパチとはじける油の音と、香ばしい匂いが狭いキッチンを満たしていく。


父のレシピ通りに作った冷やし中華を、テーブルに運ぶ。一口、麺をすする。


「……違うな」
思わず、苦笑いが漏れた。


タレの酸味が少し強すぎるし、ベーコンのカリカリ具合も、最後の夏に父が作ってくれたものには、どうしても及ばない。


やっぱり、あの味にはならなかった。


「何が違うの? すごく美味しそうだよ」


リビングから、彼女が顔を覗き込んできた。
手元にある油の染みたレシピ帳を、不思議そうに見つめている。


箸を置き、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
まだ、何一つ話せていなかった彼女の目を。


「これ、親父のレシピなんだ。……なぁ、今度、おれの実家に行かないか? 母さんに、それから、親父に紹介したいんだ」


一瞬きょとんとした彼女は、おれの真剣な表情を見て、何かを察したように優しく微笑んだ。


「うん。喜んで」


その穏やかな彼女の表情を見て、心の中で、引き出しにそっと仕舞った通帳を思い浮かべてた。


親父、ありがとう。


窓の外からは、今年もまた、ゆっくりと夏が降りてくる気配がしていた。







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