短編小説|冷やし中華やめました《上》
二話完結。父と子の物語です。
梅雨を迎えた六月。
山の向こうから、ゆっくりと夏が降りてくる。
湿った風が、店の暖簾をふわりと揺らした。
ここは、この町で唯一の中華屋さん。
父と母が営む、小さな食堂だ。
おれは物心ついた頃から、この店の匂いの中で育った。
引き戸を開けると、すぐにL字のカウンター。
六つの丸椅子は、どれも少しだけ高さが違う。
奥には、油で黒くなった換気扇と、父の背中。
右手には四人掛けのテーブルが二つ。
左手の小上がりには、座布団が四枚だけ。
昼寝をして母に怒られたのも、あの座布団だった。
カウンターの端には、小さな金魚の水槽。
赤いのが一匹、白いのが一匹。
扇風機の風が水面をわずかに揺らしていた。
棚には、色あせた漫画が並んでいる。『こち亀』と『美味しんぼ』の背表紙は、もう角が丸い。
”父の哲学書”を、もう何周したことか。そんなおれも高校生になり、受験勉強の合間を縫って、店の手伝いを続けている。
昼どきになると、農作業の人たちが汗を拭きながら入ってきた。
ざらついた木のカウンター。
壁に貼られた、去年のままの祭りのポスター。
毎年、この季節になると、店先には一枚の紙が貼られる。
「冷やし中華はじめました」
それが夏の始まりの合図。
おれは、その冷やし中華が一番好きだった。
細切りにされたきゅうりや錦糸卵の真ん中で、香ばしく炒められたカリカリのベーコンが乗った、うちだけの特別な冷やし中華。
けれど今年は、どこにも見当たらない。
店の前で立ち止まり、暖簾の隙間から父の背中を見る。いつもと変わらないようで、どこか違う。
胸の奥に、言葉にならないざわつきが生まれた。
雨上がりのある日。
昼の客が引けたあと、店の中に静けさが戻る。
カウンターの上には、食べ終えた丼の輪染みがいくつか残っていた。父はそれを布巾で拭きながら、ふう、と短く息をついた。
「今日も暑いな」
その声は、換気扇の音にすぐ吸い込まれていく。
テーブル席の端には、仕入れの伝票が重ねて置かれている。紙の端が少し丸まっていて、何度も触られた跡があった。
皿を下げながら、つい口に出た。
「親父、チャーシュー出しすぎじゃないか」
父は手を止めずに、「ああ」とだけ返す。
その横顔は、いつも通りだった。
ずっとそうしてきたから。
常連のじいちゃんが来れば、麺を少しだけ多くする。子どもが来れば、餃子を一つおまけする。
そんなことを、当たり前のように続けてきた。
けれど最近、仕入れの値段が上がっているのを知っていた。父が夜遅くまで帳簿を見ているのも、知っていた。
ふと、思い出したようにおれは言った。
「親父、今年は冷やし中華やらないのか?」
その一瞬、店内の空気が止まった。
扇風機の羽が、ぎい、と回り続ける。
父は布巾を畳み、低い声で言った。
「……実はな」
その静けさに、皿を持ったまま動けなくなる。
「あと1ヶ月で……店を閉める」
その言葉は、感情の起伏もなく、ただ長い沈黙の底から拾い上げられた石のように、ぽとりと落ちた。
父はそれ以上、何も言わない。
母も、いつも通り仕込みを続けている。
扇風機の風が、またぎい、と鳴った。その音が、店の終わりを静かに告げているように聞こえた。
それからの1ヶ月は、あっという間だった。
店はいつも通り開き、父はいつも通り鍋を振り、客はいつも通り腹を空かせてやって来た。
おまけをするのも、いつも通り。
誰も何も言わないまま、日常だけが淡々と積み重なった。
七月の中旬。
ついにその日はやってきた。
昼の営業が始まる前から、店の前には長蛇の列ができていた。
見慣れた顔も、何年も見かけなかった懐かしい顔も、みんなが狭い店先にひしめき合っている。
「大将、今日までおつかれさん」
「最後にラーメン食べたくてさ」
そんな声が、暖簾の向こうから漏れてくる。
開店後、店内は過去一番の熱気で満ちた。
汗を拭う農作業のじいちゃんも、近所の主婦も、学校帰りの高校生も。
父は、いつものように鍋を振りながら、一人ひとりに頭を下げていた。
照れたように笑う姿を、おれは目に焼き付ける。
常連たちに囲まれて写真を撮られ、握手を求められ、労いの品を渡される父。
これほどまでに、愛されていた。
これほどまでに、町の一部だった。
まだ、やれるはずだ。
値上げをしたって、誰も文句なんて言わない。
なのに、どうして。
なぜ、こんなにすんなり閉めてしまうのだろう。
汗をにじませて鍋を振る父の背中が、熱気の中でそこだけ頑なに見えた。
夜が更けても、客足は途切れなかった。
最後の客が「ごちそうさん、ありがとな」と暖簾をくぐり、その背中が夜闇に消えるまで、おれと母は何度も頭を下げた。
引き戸を閉めた瞬間、それまでの喧騒が嘘のように消え去り、虫の声が急に耳を刺すほど大きく聞こえた。
祖父から続いた半世紀の歴史が、いま、本当に終わったのだ。
父は暖簾を外し、椅子を上げ終えると、ふうと短く息をついた。
その背中が、いつもより小さく見えて、おれは急に視界がにじみそうになるのを必死にこらえた。
「おい……お前も、最後に注文しとけ」
父がおもむろに言った。
「……じゃあ、冷やし中華」
一拍置いて、おれは絞り出すように言った。
今年は一度も店先に貼り出されなかった、一番好きなメニュー。夏の始まりを告げるうちの味。
父は「そうか」とだけ言い、静かに厨房に戻った。
いつもなら聞こえるはずの、中華鍋を叩く小気味いい、あの威勢のいい音はもう聞こえない。
ただ、湯を沸かす、どこか寂しげな音だけが、無人の客席に響いていた。
しばらくして、カウンター越しに一枚のお皿が差し出された。
色鮮やかな錦糸卵ときゅうり、その真ん中に、少し焦げ目のついたカリカリのベーコンが山盛りになっている。
ごま油の香ばしい匂いが、おれの鼻腔をくすぐった。今年、この町で最初で最後の、うちの冷やし中華だ。
「ほら、できたぞ」
父はそう言うと、おれから目をそらすようにすぐ背を向け、換気扇のスイッチを切った。
箸を割り、麺をすする。
酸味の効いたタレが口いっぱいに広がり、ベーコンの旨味が追いかけてくる。
いつも通り、最高に美味い。
美味いのに、喉の奥がぎゅっと熱くなって、うまく飲み込めない。
視界が完全ににじんで、お皿の上がぼやけていく。おれは涙を悟られないよう、ただ必死に、頭を下げて麺をすすり続けた。
ぎい、と扇風機が回る。
油の匂いと、冷やし中華の味。おれの青春のすべてだったこの味が、今、終わろうとしていた。
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