羽生善治という「光源」と、先崎学という「業」──鈴木忠平:いまだならず
ようこそ。二杯目のグラスは、少しスモーキーなシングルモルトにしましょうか。
今夜語りたいのは、鈴木忠平の『いまだ成らず』。
稀代の天才・羽生善治を描いたノンフィクションですが、これをただの「成功者の記録」だと思ったら大間違いです。
先日、ある知己(ここでは「S」と呼びましょう)が、この本を肴にAIと繰り広げた対話が、あまりにスリリングだったのでお裾分けしましょう。
※本記事は作品の核心に触れない範囲で書いています。
未読の方は、あらかじめ出版社公式ページであらすじなどをご覧ください。
参考URL:https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163918495
羽生善治という「光源」と、先崎学という「業」
凡百の書評なら、羽生善治の偉業や「AIとの共生」といった綺麗な言葉で片付けるところでしょう。
しかし、Sの視線はそこには止まりません。
彼がこの本に見出したのは、羽生という巨大な光源に照らされ、一瞬だけ、しかし鮮烈に立ち現れる先崎学という棋士への、震えるようなシンパシーでした。
「なぜ、ここで先崎学が一寸だけ、唐突に語られるのか。それは著者の鈴木氏が、先崎という男の『業』に、拭い去れないシンパシーを感じているからではないか」
Sのこの直感は、物語の主役を「無敵の天才」から「葛藤する人間」へと鮮やかに反転させます。
羽生がAIの海を軽やかに泳ぎ、自らの色を透明にしていく一方で、先崎は泥を啜りながら、人間としての不器用な情熱を盤上に叩きつけようとする。
Sがこの本に嗅ぎ取ったのは、羽生の完全無欠さではなく、その影で悶える「選ばれなかった天才」たちの、ざらついた生存の匂いでした。
タイトルに隠された「呪い」と「救い」
Sはさらに踏み込みます。
タイトルである『いまだ成らず』を、単なる謙虚な姿勢としてではなく、もっと残酷で重い「ズレ」として捉え直しました。
将棋において、駒が敵陣に入れば「成る」。
それは局所的な強化に過ぎません。
しかし、人生において「成る」とは、完成や到達を意味します。
Sは指摘します。
羽生がどれほど勝って「成って」も、それは人生の完成(成る)とは決して重ならない。
「将棋的な『成る』と、人生的な『成る』は概念として決定的にズレている。その埋まらない溝こそが、この本の真のテーマではないか」
AIが「努力の継続」と分析する横で、Sは羽生の背後に「完成を拒絶し、変化という濁流に身を投じ続ける狂気」を見ていました。
何者にもならないことで、何者にでもなり続ける。
その終わりのない旅の過酷さを、Sは自身の人生を削るようにして語ったのです。
変化に抗うな、しかし自分を捨てるな
世間はよく「AI時代をどう生きるか」などと説教臭い正解を求めますが、Sの解釈はもっと肉感的です。
彼が見抜いたのは、「羽生善治という現象」に直面した男たちが、どうやって自分の「個」を繋ぎ止めたかという物語でした。
先崎学が病を経験し、そこから再び駒を握る。その再生のプロセスは、羽生の合理性とは対極にある「不合理な人間の証明」です。
Sが先崎に寄せたシンパシーは、効率や正解ばかりを求める現代社会において、私たちがどこに「自分の顔」を残せるかという、切実な祈りそのものでした。
最後に残る「ざらつき」
『いまだ成らず』は、読み終えた後に爽快感をもたらす本ではありません。むしろ、自分の中にある「成れていない部分」を突きつけられ、居心地の悪い夜を過ごすことになる。
ですが、その居心地の悪さこそが、私たちがまだ「人間」である証拠なのかもしれません。Sが先崎学の苦悩に見た光。それは、羽生の放つ眩しすぎる後光よりも、ずっと私たちの足元を確かに照らしてくれます。
さて、チェイサーを。
次は、Sがなぜこのノンフィクションを「最高のホラー」と呼んだのか、その真意について語りましょうか。
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最後まで読んでいただきありがとうございます(_ _)