AOE2で歴史を自己満語り:7.東欧編
AOE2の文明に関する歴史的背景を、高校世界史+α程度の知識で自己満語りをしてみる。対象は本家の45文明+妄想文明3つ。正確性については保障しないが、「こんなのあったなぁ」「へー」などを思っていただけると幸い。
今回は東欧編。高校世界史の資料集、浜島書店『世界史詳覧』をあわせて見るのがおすすめ。Google Mapを縮小表示で地球儀にして参照するのも良い。
各文明の分布はこんな感じ。

クマン:灰色(東)
ブルガリア:茶色(南)
マジャール:赤(西)
結構互いに入り乱れてる感じっぽい
ブルガリアやマジャールが東の方にいたり、クマンが西の方にいたりする
スラヴ
東欧を代表する文明です。ウクライナ西部を拠点とする民族で、6世紀頃から西、東、南へそれぞれ移住しました。西スラヴはポーランド人やスロヴァキア人、チェック人(ボヘミア)が、東スラヴはウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人が、南スラヴはクロアチア人やセルビア人が有名です。
ウクライナ西部が中心なのでウクライナ人は実質中央スラヴですね。AOE2のスラヴも専ら中央スラヴを指します。東スラヴの人々を同一グループとして見だしたのはロシア帝国からで、現在もロシアは政治的にスラヴにこだわっています。なおウクライナ語はポーランド文化圏の影響が強いそうで、ロシア語よりもポーランド語に近いらしいです。
(ちなみにキエフはウクライナ語でクィィユと呼びます。英語読みの影響でキーウが定着しましたが、これはどっちかというとロシア語っぽいです)
せっかくなんで南スラヴも解説しましょう。ポーランドとボヘミアを含む西スラヴは省略します。
南スラヴではクロアチアやセルビアが王国を建国したりしました。どんな国かイメージ湧かない?クロアチアはサッカーと赤屋根の住宅街が有名な国ですね。セルビアはプロプレイヤーDauTの国であり、オペラ「セルビアの理髪師」の国でもあります。第一次大戦のきっかけとなった国でもありますね。
クロアチア王国(南スラヴ)
クロアチアには8世紀末にパンノニアとダルマチアにそれぞれ国ができました。ただ両サイドのフランク王国とビザンツ帝国の影響力は大きく、9隻までは実質両国の属国でした。
10世紀に入ってトミスラヴ率いるクロアチア軍がフランク王国とハンガリー王国(マジャール)に勝利し、ようやくクロアチア王国が建国されます。彼はクロアチア地域を統一し、ビザンツ帝国と協力して第一次ブルガリア帝国と戦いました。
彼の死後は封建制が整備され、自由農民の農奴化に伴う軍事力低下などが発生しました。これに後継争いも加わり、領土の一部をヴェネツィア(北イタリア)やブルガリア、ビザンツ帝国に取られます。ビザンツ帝国の承認もあってクレシミル4世の時代(在位:1058-1074)にクロアチア王国は最大領土を記録しますが、ブルガリア人とセルビア人の反ビザンツ蜂起を支援したことでビザンツ帝国の反感を買いました。ビザンツ帝国は南イタリアのノルマン王国(シチリア)の軍隊を使ってクロアチアに大打撃を与えました。これによりクレシミル4世の王朝は一時終焉を迎えました。
次期王のズヴォニミルはローマ皇帝の承認を得て王位につき、ノルマン王国のロベルト・イル・グイスカルド(シチリア)を支援して、ヴェネツィア(北イタリア)とビザンツ帝国(ビザンティン)を敵に回しました。またハンガリー王国(マジャール)の王家の娘を嫁にしており、この頃からクロアチアとハンガリーの関わりが強まってきます。
その後の1091年頃からクロアチア王国の情勢は不安定になっていきました。王朝の断絶により後継者争いが発生し、それにあわせてハンガリー王国がクロアチア支配へと動き始めました。クロアチア王家にはハンガリー王家も関わっているので、ハンガリー王はクロアチア王兼任の正当性を主張しました。同時に軍事行動も起こし、幾度か勝利を得ました。こうして1102年にはクロアチア王位にハンガリー王カールマーンが就き、ハンガリー=クロアチア同君連合が誕生しました。ハンガリー王国のクロアチア支配とも言えるでしょう。
その後のクロアチアはオスマン帝国(トルコ)やナポレオンフランス、オーストリア帝国の支配下に入ったりしています。1918年には第一次大戦でオスマン帝国とオーストリア=ハンガリー帝国が敗北し、セルビアなどと共にいわゆるユーゴスラビアとなりました。
セルビア(南スラヴ)
セルビアには1171年に王国が建国されました。それまではビザンツ帝国の影響が大きかったのですが、ビザンツ帝国の力が衰えた隙にステファン・ネマニャがセルビアを統一してネマニッチ朝を創始しました。
13,14世紀には第二次ブルガリア帝国やビザンツ帝国と争いを繰り広げました。ヴェルブジュドの戦いなど目覚しい勝利で領土を南に拡大し、ステファン・ウロシュ4世の頃に最盛期を迎えてセルビア帝国と称しました。東にはシルクロード、南には地中海、西にはロンバルディア商業圏という好立地のおかげで経済的な発展も大きかったようです。
そんな栄光もつかの間、王が交代した途端にセルビア帝国は急速に衰退しました。小アジアの新勢力であるオスマン帝国(トルコ)が南東から来襲し、マリツァ河畔の会戦やコソボの戦いなどセルビアは負けに負け、最終的にはオスマン帝国の支配下に入りました。
以降セルビアが再び立ち上がるのは19世紀初頭、ナポレオンの時代が終わった後になります。セルビア蜂起によってセルビアはオスマン帝国から独立し、第一次大戦後にユーゴスラビアに再編されました。パン=スラヴ主義の中でロシアと協力することになります。
東スラヴ
中央・東スラヴの地域は以下のように変遷しました。
東ゴート(200~454)
フン(375頃)
スラヴ(6世紀頃)
ノヴゴロド国(バイキング:862~1478)
キエフ公国(スラヴ:882~1243)
ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国:モンゴル、タタール:1243~1502)
ポーランド=リトアニア連合王国支配地域
モスクワ大公国(1480~1547)
ロシア帝国(1547~1917)
9世紀には北欧からノルマン人(バイキング)であるルーシ族が侵入してきて、ノヴゴロド国を建国しました。このルーシという名前はロシアの語源でもあります。ここでの説明は省略します。
同じく9世紀にキエフ公国が建国されました。スラヴ人とルーシ人は互いに交流を深め、キエフ公国はウクライナ西部からロシア主要部までの広い土地を統一しました。この頃にウラディミル1世が宗教統一のためにギリシア正教を輸入しています。また黒海、バルト海を利用した交易も盛んに行われました。
ただし13世紀に入ると、そこにモンゴルの脅威が襲い掛かります。「タタールのくびき」と呼ばれるジョチ=ウルスの統治は、貢納さえ支払えば平和だったようですが、キエフ公国の諸侯たちは彼らの力を頼りながら内乱を続けます。なおジョチ=ウルスはさらに先のハンガリー(マジャール)やブルガリア、ポーランド、神聖ローマ帝国(チュートン)に対しても攻勢を仕掛けていました。
250年程のジョチ=ウルスの時代が過ぎ、新たに登場したのがモスクワ大公国です。これは1917年のロシア革命に至るまで続いた国です。イヴァン4世が正式にツァーリ(皇帝)の称号を用いるようになってロシア帝国となりました。
イヴァン4世の政治は恐怖政治であり、それは独裁者スターリンに「レーニンの先駆者」と言わせるほどのものだったようです。ロシア内政は「農奴制」「イェルマークのシベリア遠征」「農民反乱の鎮圧」「強硬外交」といったワードに代表されます。ある意味共産主義と親和性が高いと言えるかもしれません。
なおウクライナベラルーシはモスクワ大公国には入りませんでした。タタールの時代から、この地域はポーランド=リトアニア連合王国に組み入れられ、ポーランドリトアニアの文化圏の中で育ちます。ポーランドとモスクワ大公国が対立するようになったとき、ウクライナの人々は「支配されるなんてこりごりだ」と思うようになり、コサックという自由人共同体を作ります。彼らはのちに有名な傭兵として活躍します。ロシア革命後のロシア内戦でも表に出てソ連と戦います。
その後は列強諸国との力の差が浮き彫りになっていき、1917年のロシア革命でソビエト連邦に変わり、冷戦を通じて独裁の力が弱まっていき、1991年にソ連が崩壊して今に至ります。
AOE2では
先述の通り、東スラヴ(実質中央スラヴ)が主なモデルになっています。
ボーナスに反映されている通り、畑や歩兵の強さ、ギリシア正教などの宗教の力などがスラヴの力の源だったのでしょう。ユニークユニットのボヤールは貴族的な支配階級の人々のこと、城主テクのデティネツはルーシの城壁のこと、帝王テクの親衛隊はドルジーナというキエフ公国の親衛隊(国軍)のことのようです。
クマン
今シリーズ1の曲者黒海周辺を拠点とする文明です。クマン人の他にペチェネグ人やキプチャク人(ポロヴェツ人)、ハザール人、カザフ人なども包括しているトルコ系民族です。タタールと系統が似ています。
(今シリーズ書いてる途中、「クマンてキプチャク=ハン国の文明だろ」→「え、キプチャク=ハン国はタタールなのか。クマンは土着民なのね」→「いやトルコ系遊牧民なんかーい」とクマンの立場が二転三転しました…)
(追記)広義的な意味合いとして、クマン=キプチャク=ポロヴェツと考えてよさそうです。クマンは東欧的な呼び方、キプチャクはアジア的な呼び方、ポロヴェツはスラヴ的な呼び方らしいです。自称はクマンかキプチャクっぽい。
クマンがウクライナにやってくるのは8世紀頃、ペチェネグ人がスラヴやマジャールを押しのけて定住しました。ペチェネグは北のキエフ公国やノヴゴロド国、マジャールと対立し、ブルガリアやビザンツ帝国と同盟していました。ただ11世紀に入るとキエフ公国に大敗し従属化に入ります。さらにはブルガリアと共に反ビザンツ運動を行ったとして、ビザンツ皇帝アレクシオス1世の要請によりキプチャク人の軍隊がペチェネグを壊滅まで追い込みました。
この頃黒海の東はハザール人の国家が形成されていました。ハザール=カガン国はビザンツ帝国と友好関係を結びつつ、イスラム帝国などと対立しました。ウクライナにあった大ブルガリアを支配下に置いたり、北欧とイスラム圏を結ぶ交易で栄えたりしていましたが、10世紀になるとペチェネグやキエフ公国の台頭などにより衰退しました。
その後は11~13世紀にかけてキプチャク人(ポロヴェツ人)がウクライナを支配しました。キプチャクはキエフ・ルーシと対立ししばしば抗争を繰り広げました。しばらくはキプチャク側の優勢が続いてましたが、12世紀に入ると状況が逆転し、キエフ・ルーシ側がキプチャクを追い込むようになりました。1150年頃からはキエフの政争にキプチャク兵が使われた…ってことでいいのかな(読みづらくてよくわからん)。
でなんやかんやあって、イーゴリ公(スラヴ)vsコンチャーク(クマン)の様相になりました。韃靼人の踊りで有名な歌劇『イーゴリ公』の舞台です。この戦いではコンチャーク側がイーゴリ公を捕らえ、そのまま敵陣まで押し寄せる程の勝利を収めました。幸いにもキエフ公国の街は守られ、イーゴリ公も特段酷いことはされなかったようです。
しかし13世紀にはモンゴル軍が押し寄せました。モンゴルは賄賂でキプチャク人を釣って他の部族を制圧し、その後キプチャク人をも制圧してウクライナの地を支配しました。この時キエフ公国に逃げ込んだキプチャク人の中にはキャンペーンにもなっているコチャン・ハーンもおり、彼の働きによってクマン・キエフ・ルーシが一時的に対モンゴルで同盟を結ぶことになりました。まぁ負けたんですけどね…
こうしてウクライナはモンゴルの土地となり、その後はモスクワ大公国が支配するようになります。なおこれらの他にもクマンは周辺国の官僚に入り込むなどの活躍をしていたようです。インドで奴隷王朝(ヒンドゥスタン)を建国したバイバルスも、元々はモンゴル軍に捕らえられたキプチャク人です。
ボーナス通りの速さと粘り強さが持ち味の文明だったと言えるでしょう。弓が強かったらしいキプチャク人がユニークユニットに採用されている他、グルジア王国やラテン帝国、ビザンツ帝国といった国々にクマン人やキプチャク人が傭兵として雇われていたという話も帝王テクに採用されています。トルコ系の民族がマムルークやグーラムといった軍人奴隷としてイスラム世界で重宝されたのは前に書いた通りで、クマン人たちもモンゴル帝国を通じてマムルークとして売られました。
ブルガリア
ヒンドゥスタン、タタール、トルコ、クマンと説明してきて今度こそ最後のトルコ系遊牧民です。ちなみに明治ブルガリアヨーグルトはブルガリア政府に認定されているちゃんとしたブルガリアヨーグルトらしいです。
ブルガリアの元となったブルガール人は、5世紀頃に黒海とカスピ海の間で形成されました。大ブルガリアという国を作りましたが7世紀に北と西に分かれて移住することとなり、北ではヴォルガ=ブルガールが、西ではブルガリア帝国が誕生しました。今回は現在のブルガリアにも繋がるブルガリア帝国の方だけ解説します。
7世紀頃、ブルガリア人はバルカン半島に入り、ビザンツ帝国やスラヴ人を圧倒してブルガリア帝国を建国しました。その最大領土はバルカン半島ほぼ全域であり、特にボリス1世とシメオン1世の時代が黄金期でした。文学・文化の面では東欧1だったと言えるでしょう。
10世紀にはビザンツ帝国の支配下に入りますが、12世紀末に蜂起によってブルガリア帝国が再興されます。かつての領土も取り戻し、黒海やアドリア海を通じた交易や東欧世界の文化の中心地タノルヴォなど、ブルガリアは目覚しい発展を遂げました。
但し13世紀にはモンゴルのジョチ=ウルス(タタール)の軍に敗北したり、14世紀にはオスマン帝国(トルコ)の支配下に入ったりと悲惨な状態になりました。ブルガリアの文化人は東欧各地に移動し、ブルガリア文化を輸出していきました。
以上が中世のブルガリアの様子。wiki見ると色々書かれているみたいですね。(wikiの読み過ぎで疲れてきた筆者)
近代のブルガリアは民族復興運動と露土戦争によって1878年に登場、青年トルコ革命によるオスマン帝国の混乱に乗じてオスマン帝国から完全独立しました。第二次大戦では共産党クーデターで枢軸側から連合側に寝返り、戦後も共産党体制が続きましたが、ソ連崩壊とともに民主化が進んで現在に至ります。
ブルガリアのボーナスは装備強化系ばっかりな印象ですが、これぞまさしく東欧1の実力故のものなのでしょう。コニクはブルガリア語で「騎手」の意味、クレポストは「要塞」の意味らしいです。あぶみは乗馬の際に足を乗せるところ、バガインは第一次ブルガリア帝国内の小規模軍隊の指揮官のことで、鎧や兜の整備をしていたようです。
マジャール
フン族の後継にしてハンガリー(hungary)の主要民族です。フン族としてゲルマン民族を追いやってヨーロッパに侵入し、アヴァール人としてフランク王国などを襲撃し、マジャール人としてハンガリー王国を建国して定住しました。歩兵が主流だったヨーロッパに騎士が登場したのは、フン族が騎馬技術を持ち込んだからなんでしょうね。
6~9世紀頃、アヴァールはハンガリーの地を拠点として、フランク王国などヨーロッパ広範囲を襲撃することで生計を立てていました。海からはバイキング、陸からはアヴァールが襲撃に来るため、フランク王国などでは地方防衛の需要から地方領主の力が強まり封建制が進みました。800年頃にはフランク王国とブルガリアとスラヴの攻撃で衰退しました。
900年頃にはハンガリー大公国が建国され、マジャールの時代が到来します。ハンガリーの平原を統一したハンガリー大公国は武力でもってヨーロッパ中を脅かしました。但し955年のレヒフェルトの戦いで東フランク王国(フランク、チュートン)がマジャール軍の侵攻を撃退するなど、次第に対抗勢力が力をつけるようにもなりました。
1000年には正式にハンガリー王国となり、周辺国の侵略などを通じて東欧の軍事大国としての地位を確立しました。1240年のモンゴル侵攻を受けてからは要塞建築など防衛体制も整えるようになりました。
14世紀に入ってからは王朝断絶に伴い選挙王政が行われ、ナポリ王や神聖ローマ皇帝などがハンガリー王を兼ねたりしました。一方でオスマン帝国の脅威も近づいてくるようになり、ニコポリスの戦いやモハーチの戦い、第一次ウィーン包囲といった戦いで敗北を繰り返しました。当時の王家だったヤゲヴォ家がモハーチの戦いで断絶し、オーストリアのハプスブルク家に王家が交代しました。こういった背景からオーストリアのハンガリー支配が進むようになります。
第一次ウィーン包囲により、1541年からはオスマン帝国がハンガリーを支配しました。140年もの間はハンガリーの発言権の少ない状態が続くことになりました。1683年の第二次ウィーン包囲でオーストリアが勝利してハンガリーを奪い返しましたが、ハンガリー独立運動は撃退してオーストリアが支配を続けました。
その後もハプスブルク家の支配が続きますが、ナポレオンの遠征やウィーン体制への反乱などを通じて19世紀半ばにはハプスブルク家が力を弱めます。ハンガリーも不満が高まっていたので、ハンガリーの支配からハンガリーとの共同統治に路線を切り替え、オーストリア=ハンガリー帝国が成立しました。なおこの同君連合は第一次大戦で崩壊しました。
AOE2のマジャールはフン族譲りの弓騎兵+ハサーの王道編成が輝ける文明として人気です。ハサー自体15世紀のハンガリーが発祥で、それがボーナスやユニークユニットに反映されていますね。城主テクのコルヴィニア軍は黒軍として知られるハンガリー軍のことで、オスマン軍を撥ね退ける程強力だったようです。帝王テクリカーブボウはアーチェリーにも採用されているコンパクトで効率の良い弓のことで、弓騎兵に最適だったようです。
今回はここまで。高校世界史であまり習わない範囲だから骨が折れた。=_=
次回はドイツ近辺編。お楽しみに!
