AOE2で歴史を自己満語り:9.海賊・蛮族編
AOE2の文明に関する歴史的背景を、高校世界史+α程度の知識で自己満語りをしてみる。対象は本家の45文明+妄想文明3つ。正確性については保障しないが、「こんなのあったなぁ」「へー」などを思っていただけると幸い。
今回は海賊・蛮族編。ヨーロッパを荒らしまわった文明を特集する。
高校世界史の資料集、浜島書店『世界史詳覧』をあわせて見るのがおすすめ。Google Mapを縮小表示で地球儀にして参照するのも良い。
各文明の分布はこんな感じ。

シチリア:水色
ゴート:緑(西)とオレンジ(東)
バイキング
ぶぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ
北欧を拠点にヨーロッパ沿岸を支配した海賊集団です。海賊とはいっても私たちのイメージするような「富!名声!力!」みたいな海賊ではないようです。略奪や侵攻はしましたが、その他にも交易や交流なども行っていたようです。生活のために遠征していた、っていう感じでしょうか。北欧は寒いですし。
バイキングは民族名ではなく当時の北欧海賊の総称になります。民族的にはノルマン人やノース人、デーン人、スヴェア人などがいたようです。(教科書的にはノルマン人で統一表記されています)
バイキングは主に3つのグループがありました。南下して英仏などに侵攻したグループ、西進してアイスランドやグリーンランドや北米などに移住したグループ(ヴィンランド・サガ)、ロシア方面に移住したグループ(ルーシ)です。バルト海や北海などを平らで細長いバイキング船で蹂躙しました。バイキングの戦術は神出鬼没・常識外れで、欧州諸国は中々対応しきれませんでした。
英仏ルート
まずはお隣の英仏へ移動したグループです。当時はアングロ=サクソン七王国(ブリトン)や西フランク王国(フランク)などがありました。バイキングが建国した国は次のようなものがあります。
ノルマンディー公国
9~10世紀初頭、バイキングは現在のフランス北部、ノルマンディー地域を荒らしまわっていました。当時西フランク王国は諸侯を通じて防衛にあたっていましたが、バイキングは強力でした。そのため、西フランク王は「ノルマンディーをバイキングに譲り渡す代わりに、バイキングはこれ以上侵攻をしない」という和議をバイキングと交わしました。こうしてロロを公爵としてノルマンディー公国というバイキングの国ができました。
さらに1066年、ノルマンディー公ウィリアム征服王はイングランドに上陸して後述のデーン朝に続くノルマン朝を建国しました。この事件はノルマン=コンクェスト(ヘースティングズの戦い)と呼ばれています。キャンペーンにもありますね。
そのまたさらに、ロベルトらがスペインを回ってシチリアに到達し、両シチリア王国を建国しています。これがシチリア文明の始まりです。
北海帝国
11世紀初頭、北海周辺の国であるスウェーデン、デンマーク、イングランドがすべてバイキングのスヴェン1世に統治されるという事態が発生しました。この同君連合は歴史用語で北海帝国と言われています。北海帝国内のイングランドはデーン朝と呼ばれています。9世紀末はアルフレッド大王がバイキングを撃退していましたが、11世紀初頭にはクヌートが侵攻を済ませました。
北米ルート
アイスランドには9世紀半ば、グリーンランドや北米(ニューファンドランドと推定される)には10世紀末に到達しました。グリーンランド到達の有名人と言えば赤毛のエイリークですね。犯罪で国外追放されたのを機にアイスランド、グリーンランドへと出航していきました。その息子レイフは北米にも進出し、ヴィンランドと名付けました。この話(ヴィンランドサガ)は現在のデンマークのグリーンランド統治に繋がってたりします。
ロシアルート
こちらにはルーシ族が移住し、9世紀にリューリクがノヴゴロド国を、オレーグがキエフ公国を建国しました。このグループはキエフ=ルーシとしてスラヴと融合していきました。(詳しくは東欧編スラヴを参照)
以上がバイキングの概要です。ボーナスには海軍と歩兵軍の強さがありありと出ています。帝王テク「凶暴化(Bogsveigar)」は「弓を射る者」という意味で、フランク側の史料には「バイキングは弓を雨のように撃ってきた」というような記述が残されているようです。(攻城塔も使ってたようです)
ベルセルクは北欧の凶暴な戦士です。Pixivの説明がいいですね。
シチリア
11世紀にバイキングのロベルトらがスペインを迂回してシチリアに移住することで成立した文明です。当時支配していたイスラム勢力やビザンツ帝国を押しのけて建国した両シチリア王国、後述のアンティオキア公国が主な国です。
オートヴィル家のロベルト・イル・グイスカルドが、弟のルッジェーロ1世や甥のルッジェ―ロ2世と共に両シチリア王国を建国する話。オートヴィル家はバイキングとしてノルマンからシチリアにやってきた。当初は傭兵だったが、だんだん南イタリアやビザンツ帝国領などを征服していくようになり、力をつけていった。その力を見たローマ教皇は、神聖ローマ帝国との戦いに備えてロベルトらに領地を与え、味方につけた。ルッジェーロ2世は両シチリア王国を建国した。
両シチリア王国はシチリア島と南イタリアを支配した王国です。1130-1194年はシチリアの代表家であるオートヴィル家が支配しましたが、神聖ローマ帝国ハインリヒ6世の侵攻により、1266年までホーエンシュタウフェン家が王位を継ぐことになります。実質神聖ローマ帝国領です。
神聖ローマ帝国は叙任権闘争などでローマ教会と仲が悪いため、ローマ教会はフランスのアンジュー伯シャルル(ルイ9世の弟)にシチリア支配を依頼しました。ベネヴェントの戦いではマンフレーディ王を打ち倒し、シチリアのアンジュー家支配をスタートさせました。彼はビザンツ帝国の征服も夢見て(第7,8回十字軍で敗北した兄ルイ9世のリベンジも兼ねて?)、ラテン帝国などの保護や政治工作を行っていました。
しかし重税やビザンツ帝国の反フランク工作などにより、1282年にシチリアの晩祷という事件が発生し、これをきっかけに「シチリア住民&アラゴン王国(スペイン)&ビザンツ帝国 vs フランス王国&アンジュー家」という構図でシチリア晩祷戦争が始まりました。結果、南イタリアはアンジュー家の支配するナポリ王国に、シチリアはアラゴン王国バルセロナ家の支配するシチリア王国に分裂しました。ただナポリ王国はアンジュー家の内紛の末、結局アラゴン王国が征服しました。こうして両シチリア王国はスペイン領へと変貌していきました。
あれ、シチリア文明に関わるオートヴィル家の話、ちょっとしかしてないぞ…まあいいや
AOE2には海からの強襲上陸という特性が色濃く反映されています。輸送船のボーナスやドンジョン・サージェント、建造速度ボーナスに陸軍ボーナス。まさにオートヴィル家の文明と言えるでしょう。
防御塔の英語名Keepはフランス語でDonjonとも呼び、その起源はノルマン人のものと言われています。サージェントもノルマン人の軍政システムで英仏に影響を与えたというのが通説のようです。帝王テクのホーバークは、ノルマン人の使用した全身を覆う鎖かたびらのことです。
城主テクの第一回十字軍はセルジューク朝(トルコ)のエルサレム支配に対して、ウルバヌス2世の要請で欧州各国が行った遠征です。シチリアからはボエモンやタンクレードが同行し、ドリュラエウムの戦いやアンティオキア攻囲戦で活躍しました。この時キリキア=アルメニア王国(アルメニア)の隣に十字軍国家アンティオキア公国を建国しています。
アンティオキア公国(1098-1268)はシリア-トルコ国境の海岸沿いに存在しました。アンティオキア攻囲戦でアンティオキアを陥落させたボエモンは、この土地に国を建国しました。同じ十字軍国家のエデッサやトリポリと協力関係を結びながら、セルジューク朝(トルコ)などの国と一進一退の攻防を繰り広げていました。
ボエモン、タンクレードといった創設者が亡くなると、アンティオキア公国は縮小していきました。エルサレム王が公位を継承したり、その身内が敵であるセルジューク朝系国家のザンギー朝に肩入れしたりと政権が揺らぎました。さらにはビザンツ帝国が攻囲戦を仕掛けてくるなど、情勢はてんやわんやです。
第2回十字軍の後は強盗騎士であるルノー・ド・シャティヨンが政権に入りますが、ビザンツ帝国にわからせられました。さらにはサラディンにまでハッティンの戦いわからせられます。「キャンペーン:サラディン」の2番目ではその様子が描かれていますね。
サラディンをはじめとするイスラム勢力の攻勢からは、第3回十字軍の助けを借りることでなんとか公国を守りました。しかし次に脅威となったのはキリキア・アルメニア王国でした。政略結婚を通じてキリキア王国はアンティオキア公国を乗っ取ることに成功しました。
ただしキリキア王国下アンティオキアも長続きしませんでした。バグダートに侵入してアッバース朝を滅ぼしたモンゴル帝国のフラグ。アンティオキアも彼の軍勢に加勢しましたが、アイン・ジャールートの戦いでエジプトのマムルーク朝(サラセン・トルコ)のバイバルスに敗北します。モンゴルに加勢した罰として、バイバルスはアンティオキアを4日で滅ぼしました。
ゴート
海のバイキングときたら陸のゴートですね。ゲルマン民族の大移動の時にドイツ北東部から南下し、ローマ帝国を滅ぼしてイタリア半島やイベリア半島に王国を築き上げた民族です。
2世紀頃になるとヴァンダル人のエリアであるウクライナ西部に南下しました。彼らとは仲良くしていたようですが、ローマ帝国には何度か侵攻を繰り返していたようです。この南下は南方との商取引の方が北方の農業よりも価値があると見込んだと言われています。
この頃からゴート人の中で行き先が分かれました。地図上のオレンジが東ゴート、緑が西ゴートです。彼らはフン人の襲来により西に移動しました。ローマ帝国の領内にも侵入し、帝国の弱体化が進みました。
西ゴート
西ゴートはまずギリシャにてローマ帝国とゴート戦争 (376年–382年)を繰り広げました。当初ゴート人はローマ帝国から戦力供給の代わりに土地をもらっていました。しかしその土地は狭く、ゴート人は飢えに苦しみました。さらなる土地をローマ帝国に嘆願しましたが、ローマ帝国はその願いを受け入れたものの、見返りに奴隷を要求したり町に入るのを拒んだりしました。これにより多くのゴート人が野垂れ死んだり代表が殺されたりしたため、話し合いが決裂して戦争に発展します。結果はゴートの圧勝です。
皇帝が代わると講和条件である給付金がゴートに支払われず、西ゴートは再度反乱を起こします。この時の王がアラリックです。ローマはゴートに勝てないということがわからせられ「わかった、お前の仲間になろう。金もやるから、な?」とゴートに講和を持ち掛けますが、時すでにおすし。お構いなしにゴートは反乱を止めず、イタリア半島にまで侵入します。ローマ略奪 (410年)と言われる事件です。ここまでの話は「キャンペーン:アラリック」でプレイできます。
アラリックの死後、アタウルフが王となり、イタリアでは長続きしないとみてアルプス越えしてガリア(フランス)に移動しました。皇帝の妹で捕虜であったガッラ・プラキディアとゴート式ではなくローマ式の結婚式をし、ローマを滅ぼしたいわけではないことが示されました。その後西ゴートはスペインに移動し、西ゴート王国を建国しました。
西ゴート王国(415-711)はフランス南部からイベリア半島を支配しました。時に北のフランク王国と、時に東のビザンツ帝国と、時に南のイスラム帝国と争いました。カタラウヌムの戦い(451)では西ローマ帝国やゲルマン諸民族と共に、フンや東ゴートと争いました。アッティラのキャンペーン5番目の緑の勢力ですね。
フランク王国などの強敵が出現してもイベリア半島に逃れて生存していましたが、イスラム帝国の侵攻には負けて滅亡しました。
東ゴート
476年、傭兵隊長のオドアケルは西ローマ帝国でクーデタを起こしました。彼は「帝位は東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)に返還して自身は宰相」という、実質の彼自身の国をつくりました。ただしオドアケルは対外政策では優秀だったものの、東ローマ皇帝ゼノンに反感の姿勢を示しました。そこで皇帝ゼノンは東ゴート及びその王テオドリックにオドアケルの国の討伐を依頼しました。
テオドリックは少数の有志を連れてイタリアに遠征しました。イゾンツォ川、ヴェローナ、ミラノと快進撃を繰り広げていましたが、ラヴェンナ侵攻でオドアケル軍に一時包囲されました。このピンチに西ゴート王国が駆け付け、オドアケル軍は敗北。ここに東ゴート王国が成立します。
東ゴート王国(497-553)はイタリアに加えてスロヴェニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ辺りも領土内でした。オドアケルの国もそうですが、この国はビザンツ皇帝の支配する西ローマ帝国の統治機構内にある守備隊という形態をとっていたので、ローマじゃない国が存在していたわけではありません。ローマ法が存続していて、その下にオドアケルやテオドリックなどが管轄する軍隊がある、みたいな感じです。
テオドリックは近隣諸国と婚姻関係を結んで友好関係を築きました。この動きは東ローマ皇帝に警戒感を抱かせました。東ゴート王国とビザンツ帝国の対立は年々深まり、ゴート戦争(535-554)に繋がりました。ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世はローマ帝国再統一をたくらみ、ベリサリウスに銘じて北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼしました。べリサリウスの軍はそこからイタリアの東ゴート王国に向かいました。ビザンツ軍は次々に勝利を納めイタリアを取り戻しましたが、戦後復興は進まずランゴバルトに明け渡す形となりました。
前述のカタラウヌムの戦いではフンと共に西ローマ帝国や西ゴートと争いました。アッティラのキャンペーン5番目の赤の勢力ですね。現在co-opキャンペーンで東ゴート視点でのプレイが可能です。
歩兵による圧倒的快進撃が魅力のゴート。建物破壊ボーナスはまさに略奪ボーナスですね。ハスカールは北欧やイングランドにいた傭兵のようです。射程防御の高さは創作のようですが、あの弓を無効化する防御力はロマンの塊です。
今回はここまで。次回は英仏編。お楽しみに!
