【創作大賞2024】アンチロマンス 最終話
クリームソースがたっぷりかかったオムライスをスプーンで切り分けて口に運ぶ。まだ熱いそれが口内で溶けるみたいにほどけた。スパイスがよく効いている。
チェリーレッドとターコイズブルーのコントラストが目に楽しい店内はランチタイムににぎわっている。休日の昼下がりだ。梅雨の真っただ中でも出町桝形商店街には多くの人がやってくる。
目の前では、和くんがハンバーグを頬張っていた。その表情からして「いつも通り」なのはわかったけれど、あたしはあえて聞いた。
「最近は陽香ちゃんから連絡あった?」
和くんはハンバーグを嚥下してから「ない」と短く答えた。それもまた、いつも通りだった。
「もう何カ月になるんやっけ」
「二月の末からだから、四カ月? まあ一般的な社会人なら仲いい友だちでも四カ月連絡取らないとかよくあることだろ」
「でも今まで四カ月連絡取らんかったことあった?」
また和くんは「ない」と答えた。あたしは苦笑する。強がる必要などないのに。
「インスタとTwitterもたぶんブロックされてる。あと俺陽香の家知らないから会いにもいけないし」
「知らんの。意外」
「会うときだいたい河原町か梅田だからな」
なるほど。手詰まりというわけだ。
和くんから「告白した」と連絡があったときは結構わくわくしたものだけれど、その結果が想定通りの「逃げ」であるとわかって今のところ打つ手はない。和くん本人は「十五年耐えたんだから五年くらいは余裕で待てるわ」と長期戦の構えだ。しかし実際に結愛と友だちに戻れるまで五年かかったあたしからすると五年は正直かなり長いぞと思う。
一方あたしと和くんはと言えば、結局付き合っていたころとほとんど変わらない関係性を維持している。一か月か二か月に一回映画を見に行って、ときどき和くんの家で学生時代の延長戦みたいな話をして、変わったことと言えばほとんど写真を撮らなくなったことくらい。呼び方も、一度は「峰岸くん」に戻してみたけど「ぞわぞわするからやめて」と言われて「和くん」のままだ。もともと付き合っていたころからその実態は「めっちゃええ友だち」でしかなかったのだから、別れてなにも変わらないのは当たり前と言えば当たり前だった。
「最終手段は?」
「小中高と同じ学校だったし共通の友人なんていくらでもいるから。いざとなればそいつらの力を借りたら会えるとは思ってるよ」
「ほな今すぐ行動に移せばええのに」
和くんは分厚い手ごねハンバーグを右の頬で噛み砕きながら微妙な顔をした。それを飲み込んでから言う。
「それでまた逃げられたんじゃ意味ないだろ。あいつが自分から俺んとこ来るのを待つほうがいいかなって」
「何年かかるかわからんやん」
「いいよそれでも。そもそも付き合いたいわけじゃないし。告白したことも忘れたころにふらっとあいつが俺の隣に戻ってきたらそれでいい」
付け合わせの焼き玉ねぎをスプーンで切り分けていた和くんは、そこで顔を上げた。
「ていうか、葵が言ったんだろ。時間が経ったら全部丸く収まるんじゃないかって」
そう。そうなのだ。だからあたしにも一抹の責任があるのではないかと思ってしまうのだ。
「だってまさかほんまに告白すると思わへんかってんもん」
「俺だって言う気なかったよ。ただちょっとあいつがあんまりにも俺の気持ちに無頓着だからむかついたのと、あとは言ったほうがすっきりするなって気づいたから」
「まあすっきりしたなっていうのは見てたら思うわ」
付き合っていた五年間、陽香ちゃんの話をするときの和くんはいつもどこか苦しそうだった。楽しい思い出を話してくれたときも、腹が立ったエピソードを教えてくれたときも、どこかに苦悩の影があった。けれど陽香ちゃんに逃げられた直後の和くんは、あたしの想像よりずっと落ち着いていて、晴れやかな顔をしていた。
だからそのときはあたしも背中を押してよかったのかも、と思った。そのときは、だ。
四カ月たって、今の和くんはすこしさみしそうだ。元気がないというか、物足りなさが顔に出ているというか。一緒に映画を見ても反応がいまいちだったり、近況を聞いても話が盛り上がらなかったり。それはもちろん働き始めで心身ともに疲れているというのもあるだろうけど、一番の原因はやっぱり陽香ちゃんだと思うのだ。
そしてたちが悪いのが、和くん自身そのさみしさに気づいているのに気づかない振りをしているということ。
御託を並べず陽香ちゃんに会いに行けばいい。陽香ちゃんが逃げた原因はわかっているのだから、話し合いである程度溝は埋められるはずだ。それなのにそうしないということは、もしかしたら和くんも恐れているのかもしれない。話し合いの結果、決定的な失恋が訪れるのを。
陽香ちゃんが逃げずに和くんに向きあうということは、陽香ちゃんが和くんの告白に返事をするということでもあるから。
それがきっと怖いことなのだろう、というのは、いかなあたしでも察せられる。けれどどうしても、今のまま時の流れに身を任せるのが最善策だとも思えないのだった。
「葵には感謝してるよ。おまえのおかげで告白できたから」
和くんはそう言って十五穀米のごはんを口の中に放り込んだ。あたしは「複雑」と笑った。ごはんを飲み込んでから和くんが言う。
「今日映画何時からだっけ」
「十四時」
「何見るんだっけ?」
やっぱり、これは早いところなんとかしたほうがいいと思うのだ。
『ねえほんと、峰岸和斗いい加減にして』
これが「早いところなんとかしたほうがいい」と思う理由のふたつ目。
電話の向こうでぷりぷり怒った声を立てる結愛に、あたしは「あたしに言われても」とあいまいに返すことしかできない。自室のエアコンをつけて床に腰を下ろすと、すぐに結愛から返事が返ってくる。
『でも告っといて四カ月放置ってふざけてるでしょ。陽香、電話するたびにめそめそ泣きそうな顔してるんだけど』
この四カ月、結愛はあたしに陽香ちゃんの現状を逐一報告してくれていた。結愛いわく、陽香ちゃんのほうは見るに堪えない状況らしい。ひどく落ち込んでいる。仕事のミスも多いとか。「早くなんとかしないと」と思うのは、つまりそういうことだ。
「陽香ちゃん、和くんのことなんて言っとる?」
『裏切られたような気がするって』
今まで自分と純粋な友情でつながっていると思っていた友人が、実は自分に恋情を向けていたのだ。裏切られたと思う気持ちはよくわかる。
『あとこわいって言ってた。好かれてるってことはいつか嫌われるってことでしょとか、なんでわたしなんか好きなのかわかんないとか』
「なるほどなあ」
あたしは本棚のほうに目を向ける。膝立ちになって、大学時代使っていた臨床心理学のテキストに手を伸ばした。
結愛から聞く限り、和くんと立てた予想はそう外れていないはずだ。要するに自尊感情の低さに由来する認知のゆがみ。「こんな自分を愛するなんて相手は本当のわたしを見ていないのだ」という思考の癖だ。それが原因で「いつか嫌われる」という予期不安が呼び起こされ、最終的には「相手を振る、逃げる」という回避行動を取ってしまう。心理学的に考えれば、それほど難解な問題でもない。限局性の社交不安障害にすこし似ている。
認知のゆがみなのだから、おそらくは認知行動療法である程度は改善されるだろう。となるとカウンセリングでも受けてもらうのが確実だ。時間もお金もかかるが、このままなにもしないよりはましだと思えた。
ただ。現時点で問題になっているのは峰岸和斗という幼馴染との不和、それだけだ。ならばそこをひとつときほぐしてやれば。認知行動療法によらずとも、状況が一気に好転する可能性もなくはない。
テキストをぱらぱらとめくりながら考える。問題は、そんな大役があたしにこなせるかというところなのだけど。
人の色恋沙汰には関わりたくない、というのが正直なところだ。なにせあたしには恋愛感情が理解できない。友人から恋愛相談を受けた時だって「ほな別れてしもたらええんちゃう?」一択だ。和くんに「ばれてしもてもええんちゃう?」と言ったのだって、そろそろ彼の秘めた恋がまだるっこくなってきたからというのもある。「(どうでも)ええんちゃう?」というやつだ。
しかし、あたしがそう言ってしまったゆえにこんな事態になっているというのも事実で。
ううん、と悩みつつテキストに目をすべらせていると、結愛が『なあに』と聞いてくる。
「いやあ? カウンセリングの真似事でもやってみようかなあとか」
『ほんと? 葵ちゃんが陽香の相談に乗ってくれるってこと?』
急に結愛の声が喜色を帯びる。そんなふうに喜ばれるのが意外で、あたしは首をかしげた。
「結愛、めっちゃ陽香ちゃんに肩入れするやん」
好き、というわけではないらしい。最近新しい恋人ができたの、と嬉しそうに報告されたのはふた月前。つまり結愛が陽香ちゃんに抱いているのは友情だ。勘違いされやすいが、もちろんゲイであっても同性間の友情というのは成立する。だから結愛が陽香ちゃんに対して友情を抱いているのが不思議なわけではない。
ただ、かつての結愛はこんなふうに他人のために必死になるような子ではなかった。
過去の悲惨な恋愛体験のせいか、自分は世界に虐げられているという意識が強く、自分を守ることで精いっぱいになっている女の子だった。けれど今の結愛は陽香ちゃんのために憤ったり喜んだり、なんとか解決の糸口を探そうとしたり。
同じセクシュアリティの女の子と何人か交際を重ねたことで精神的に余裕が生まれたのはあるだろう。両思いというやつを経験して、幸せになって、結愛も変わった。
それにしても、結愛と陽香ちゃんがここまで仲良くなるというのはやっぱり意外な気もするけれど。
電話の向こうから、「だって」とわずかにためらいがちな声が聞こえた。それから照れたような声色で結愛は続ける。
「陽香のおかげで葵ちゃんと友だちに戻れたんだもん」
あたしは一瞬驚いて言葉を喉に詰めた。言葉の意味を咀嚼すれば、ゆるゆると口角が上がっていく。
なかなかかわいいことを言ってくれる。
これはやっぱり、一肌ぬがんとあかんかな? かわいい和くんと、かわいい結愛のためにも。
*
結愛ちゃんから「近々会わない?」と連絡が来るのは、もう珍しいことでもなくなってきていた。まだ出会って四カ月とちょっとだけれど、すでに四、五回は顔を合わせている。わたしとしても和斗のことを相談できるのはもう結愛ちゃんしかいないし、ありがたい申し出ではあった。
例によってとりあえず河原町駅で集合し、近辺のお店でお茶をする予定だった。ところが例によって、と思っていたのはわたしだけのようで、なんと結愛ちゃんのうしろにはもうひとつの人影があったのである。すらりとした長身の女性。なんとなく見覚えがあってわたしは目を細める。そしてすぐに気づいた。
「えっ、葵さん、なんで」
それは誰あろう、和斗の元パートナーだったのだ。
結愛ちゃんが葵さんと仲直りできた、と恥ずかしそうに報告してきたのは、もちろん覚えている。けれどまさかその人が自分の目の前に現れるとはつゆとも思わず、わたしは驚いて一歩うしろに下がってしまった。
「初めまして、陽香ちゃん。急にごめんな?」
葵さんはゆったりと微笑んで小首をかしげた。わたしはわけがわからず結愛ちゃんに助けを求める。結愛ちゃんはにっこりと笑った。
「葵ちゃんが陽香に会いたいって言うから。でもそれを素直に陽香に伝えたら、陽香は来てくれないかもしれないって思ったから黙ってたの」
どうだろう。そうかも。葵さんはなんといっても和斗の元パートナーだ。和斗につながる道をできるだけ遮断したいわたしにとって、あまりうれしい話し相手じゃなかった。でもだからって、こんなだまし討ちみたいな。
「心配せんでも、峰岸くんから頼まれて来たわけちゃうよ。あと今日話すことを峰岸くんに告げ口する気もないし」
わたしの不安を察知して葵さんはそう言った。それでわたしも一応は安心したけれど、やっぱり油断はできなくてなんとなく警戒態勢を取ってしまう。その雰囲気もばれているのか、葵さんはわたしを見てくすくすと笑った。
「とりあえず移動しよ。どこ行くんか決めとる?」
「高瀬川の近くの純喫茶行こうって話してたんだよね」
結愛ちゃんから話しかけられわたしは慌ててうなずく。
「う、ん。レアチーズケーキが有名なとこ。ちょっと並ぶかもなんですけど」
私は在学中に一度行ったことがあったけれど、雰囲気のいいお店なので気に入っていた。結愛ちゃんは行ったことがないというので誘ったのだ。葵さんの反応が心配だったけれど、彼女はにこにことうなずいた。
「ええやん。ほな行こ」
お目当ての喫茶店は駅から数分の場所にあった。白い外壁に、ガス灯を思わせるランプが目を引く。休日だからやはりすこし並んだけれど、五分ほど待てば中に入ることができた。七月の蒸し暑い京都で何十分も並ぶのは苦痛だから助かった。
歩いている間も並んでいる間も葵さんは結愛ちゃんの他愛ない話に相づちを打つばかりで、なにか決定的な話を始めようとはしなかった。つまり、和斗に関わるような話を、だ。それがなおのことわたしの緊張を増幅させて、どことなく背筋がこわばった。
赤いビロードのやわらかな椅子に座り、メニューを開く。レアチーズケーキが有名なお店だけれど、それ以外のプリンやタルトもおいしそうでしばらく迷う。けれどやっぱりここへ来たらレアチーズケーキが食べたくなるのだ。よしっと顔を上げると、向かいに座った二人も決まったようだった。
紺のクラシカルなワンピースを着た店員さんを呼んで注文を終えても、葵さんは自分からは話しだそうとしなかった。その代わりに結愛ちゃんが「最近どう、葵ちゃんは」とたずねる。
「もうすぐ引っ越す予定」
「実家出るの?」
「一回くらい一人暮らしも悪くないかな、思て。あとカミングアウトしたよ、親に」
わたしはこの会話を聞いていいのかわからず、けれどあからさまに耳をふさいだりするわけにもいかず、貝型のランプや、古典主義めいた柱なんかを眺めていた。
「どんな感じだった」
「最初はぜんぜん受け入れてくれへんかったけど、論文とか本とか見せて納得させた。お母さんはちょっと泣いとったな」
「泣かれたの。嫌じゃなかった?」
「嫌やけど、まあ娘が結婚もせん子どもも産まへんって思ったら泣きたくなる親の気持ちもわからんくないよ。あの人らはまだ結婚がすべてって価値観の中で育った人らやから」
壁にはいくつもの西洋絵画がかかっている。暗いトーンで書かれた教会の絵が、誰の絵だったか考えているうちにテーブルにはチーズケーキと紅茶が運ばれてきた。葵さんが人当たりのいい笑顔で「ありがとうございます」と言うのを視界の端で捉える。
「おいしそう。ふたりのレアチーズケーキもおいしそうやね」
「うん。葵ちゃんはタルトにしたんだね」
「レモンタルト」
わたしはそこでようやく、「タルトもおいしそうですね」と言った。葵さんはにこりと笑ってくれた。
フォークを握って、雪のように白いチーズケーキを切り分ける。口に含むと、濃厚で風味豊かなな味わいが口いっぱいに広がった。ブルーベリーソースの酸味がちょうどいい。
舌鼓を打ちながらしばらく食べ進んで、突然。結愛ちゃんが「陽香はどうなの、最近」と言った。葵さんばかり警戒していたわたしはびっくりして「えっ」とすっとんきょうな声を上げてしまう。クラシックが流れ、白い百合が活けられた、広々とした空間にわたしの声が響いた。
「さ、最近? あ、こないだ提出した書類に八個くらいミスあって、上司から突っ返されたときはちょっとだけ泣いた」
「また? まえ電話したときは間違えて必要書類二倍の枚数印刷してシュレッダー祭りだったって言ってなかったっけ」
「そう。あと一週間以内に顧客に郵送しなきゃいけない書類の住所ミスって返送されてきたときはあせったな」
最近いやにミスが多い。まだ大事には至っていないけれど、そろそろなにかやらかしそうで恐々としている。
原因は、わかっている。けれどどうしていいのかはわからない。
はあ、とわたしがため息をつくと、結愛ちゃんはフォークを置いて言った。
「ねえ、やっぱ峰岸和斗と一回話し合いなよ」
びくりと体が揺れた。おそるおそる向かいに座った葵さんの顔を見ると、彼女は考えの読めない笑みでわたしの視線に応えた。壁にかかったモナ・リザや真珠の耳飾りの少女に、すこし似ている。
「やだよ。こわい」
わたしはぼそぼそとそれだけ答えた。今度は結愛ちゃんがため息をつく番だった。
「わっかんないなあ。なんで好きって言われたらこわくなるの?」
それはわたしにもうまく説明できない。できないし、なにより初対面の人がいる場所で自分の心の内をつまびらかになどしたくなかった。だから「さあ」と言おうとした。けれどそれより先に口を開いたのは、葵さんだった。
「性的な関係を強要される気がして嫌やから?」
わたしはびっくりして葵さんの顔を見る。一体この人はわたしの事情をどこまで知っているのだろう。なんだか、なにもかも見透かされているような気がして背筋が震える。
「違う、と思います」
おそるおそる答える。葵さんは笑みを崩さない。
「ほな、相手の気持ちに応えられへんのが申し訳ないから?」
どうだろう。今回に限って言えば、それがまったくないとは言い切れない。わたしは和斗のことが恋愛的な意味で好きではないから。けれど今までの例と照らし合わせて考えると、それが本質だとも思えない。わたしは自分から好きになって告白した人に対しても「こわい」という感情を覚えてしまう。ならば、「相手の気持ちに応えられない」というのはおかしい。
「それも違うと思います」
ひとつ答えるごとに、自分の服を剥がれているような、手足にピンを刺されて標本のように丁寧にはりつけにされているようなそんな気がした。心臓がむきだしになる。
「相手に拘束されてコントロールされるような気がした」
「ちが、う、と思います」
「相手のことを信用できひん」
「それも、違うと」
そこまで答えたとき、葵さんが笑みを深めた。なにかを確信した顔だった。むきだしにされた心臓がどきりと高鳴った。
「ほな、こんな自分を好きやなんて相手はほんまの自分を見てへんのやと思うから?」
その言葉が、ずぶりと心臓に突き刺さってわたしはしばらく呼吸を忘れた。ひくりと喉が震えて、忘れていたことに気づいた。
考えたこともなかった。けれど言われてみればその言葉がいやにしっくりきて、わたしはさっと視線を伏せる。だって、気づいてしまえばなんて卑屈なんだろうと思ったから。
わたしのような人間が愛されるはずがない。わたしのことを好きだという人はみんな、虚像を見ているに違いない。本当のわたしを知れば失望するに決まっている。わたしはいつも、無意識にそんなことを考えていたんだ。わたしはぎゅうと手のひらを握りしめる。
「葵さんは、どうしてわたしのことがわかるんですか」
葵さんはタルトを切り分ける手を止めてわたしを見た。
「同期にその現象の研究をしとる子がおってん」
「その現象?」
「好意を向けられた途端に相手のことが嫌いになる現象。珍しくないねんよ。よくある。陽香ちゃんみたいに何年間も百発百中で苦しめられるケースは珍しいかもやけど」
その言い方からして、わたしが十人の人と付き合ってきたことも、すべて三か月以内にわたしから振っていることも知っているのだろう。かっと頬が熱くなった。和斗め。ぜんぶ話しやがって。
「でもさ。峰岸和斗とは二十年来の付き合いなんでしょ。それでもこわいの? 相手が本当の自分を見てないって思う?」
心底不思議でたまらないというように結愛ちゃんが身を乗り出した。わたしはすこしのけぞる。
「意識してそう思ってるわけじゃないからわかんないけど。でもおかしいでしょ。わたしなんかのこと好きって。絶対わたしのこと美化してるでしょ」
「『なんか』とか言うな。陽香かわいいから。いい子だし優しいし」
「そんなこと言われても」
自分が特別劣った人間だと、普段から思っているわけじゃない。ただ意識して考えてみれば、自分に劣等感を植えつけた原因がなんであるのかは案外はっきりとわかった。
「わたし、なにしても和斗より下手くそだし」
勉強も運動も家事も。わたしが和斗よりうまくやれたためしはない。それがたぶんわたしの心の奥底に劣等感として巣くっていて、誰かから愛をささやかれるたびに顔を出すのだ。
わたしの言葉に、葵さんはびっくりした顔でまばたきした。結愛ちゃんは憚らず「は?」と言った。
「なにそれ。葵ちゃんどう思う?」
「重症やなあ」
「ばかだよね」
こそこそと葵さんと結愛ちゃんが会話を交わしているが、もちろんぜんぶ聞こえている。わたしは居心地悪くその場でみじろいだ。
「だって。和斗は毎日自炊してるけどわたしはからきしだし。和斗の部屋はきれいだけどわたしは片付け苦手だし。わたしはいっつも感情的になってすぐ泣くし怒るけど和斗はそういうのも、ないし。学歴だって」
「陽香ちゃん」
ことりと、葵さんがフォークをお皿に置いた。わたしは真剣な声色に伏せていた顔を上げる。
「峰岸くんはさ。陽香ちゃんにどんな役割を期待してると思う」
質問の意図がうまく呑み込めない。ただ葵さんが今日ここに来たのはこの話をするためだったんじゃないかというのはなんとなくわかったから、わたしもフォークを置いた。
「期待してる役割、ですか」
「そう。たとえば、仕事が終わったら手料理と一緒に向かえてくれる奥さん、とか」
やっと葵さんの言わんとしていることがわかる。それと同時に、首を横に振った。
「それは、違う、と思います」
第一、わたしとどうこうなりたいわけじゃないと言っていたし。第二に、和斗はそのあたりの感覚がわりと現代的だ。男は仕事、女は家庭、みたいな価値観は持ち合わせていない。あと料理も和斗のほうが手際がいい。
「ほな、いつも気立てが良くて優しくて従順な恋人?」
「それも、違う気がします」
和斗はそういう旧来の女性らしさにあまり興味がない。そのあたりのあいつの感覚は、わたしは割と信用している。
「じゃあ、何もかも完璧なお人形さん」
「それも」
違う、と言おうとして、やっとわかった。葵さんが本当の意味でなにを言おうとしているのか。
そうだ。わたしは、和斗から――違う、これまでのすべての恋人から、「何もかも完璧なお人形」の役割を期待されていると思い込んでやしなかったか。
いつも気立てが良くて、優しくて、従順で、恋人が疲れているときは癒し、仕事が終われば手料理で迎え、怒ることも激しく泣くこともない、お人形のような女。そのような女でなければ愛されないと信じていたんじゃないのか。だから「本当の自分」を知られることを異様なまでに恐れた。
これまでの恋人たちがどうだったかはわからない。もしかしたらわたしに本気でそんな役割を期待していた男も、いたのかもしれない。いいやきっといたんじゃないかと思う。けれど和斗は?
わたしの知っている峰岸和斗は、女にそんな偶像を押し付ける男だっただろうか。
「わかる? 峰岸くんが実際に陽香ちゃんに期待しとる役割と、陽香ちゃんが想定する役割がずれとるの」
わかる。わたしが和斗から逃げてしまうのは、それが原因だということも。でもわからない。
「だったら和斗は、わたしになにを期待してるんですか」
すぐ感情的になって泣き出す人間に。困ったことがあれば真夜中に電話する自己中心的な人間に。怒れば枕を投げて、音を立てて鼻を噛む、卵焼きが壊滅的に下手な人間に。卑屈になって逃げだす、こんな人間に、いったい和斗はなにを思って「好き」なんて言ったの。
「そんなの、峰岸和斗本人に聞けばいいじゃない」
あっさりと結愛ちゃんが言った。視線を移すと、彼女はあきれたように笑っていた。
「話し合って、言葉を尽くして、喧嘩しなきゃわかんないでしょ」
結愛ちゃんはそこで葵さんのほうを見た。「ねえ、葵ちゃん」と言う声に、葵さんはすこしだけ息を詰めた。ように見えた。それからすぐに、「そうやね」と笑顔の肯定。
「ちゃんと話し合えば、意外とあっさり解決するかもね」
わたしはごく、と唾を飲んだ。こわい、と心のどこかで声が聞こえる。わたしは自分に好意を寄せる人間がこわい。嫌われたくないから。だから今までたくさんの人から逃げてきた。何度も、何度も。今まではそれでよかった。数か月もしたら忘れて、次の人を探すことができた。
だけど和斗はだめだ。和斗だけは、このままさようならなんてできない。
「わたし」
行かなきゃ、と思った。和斗のところに。和斗がわたしになにを求めているのか。わたしが和斗に、なにを求めているのか。言葉を尽くして話し合って、はっきりさせないとだめだ。そう思うとじっとしていられなかった。
「うん」
葵さんが笑った。今度のはモナ・リザよりもずっと単純で、わかりやすい笑顔だった。
「行って。ここはあたしが持つし。和くん今日なんもないって言っとったから」
わたしはうなずく。鞄を握って立ち上がると、結愛ちゃんが「頑張って」と手を振ってくれた。
「陽香ちゃん。恋ってさ、そんなたいしたもんちゃうから。気負わずにね」
葵さんの言葉の意味を、わたしがちゃんと理解できたのかはわからない。けれど気負わずに、という励ましにうなずいてわたしは席を離れた。
たいしたものじゃない。和斗がずっと隠しつづけていたその感情が本当にたいしたものじゃないのかどうか、わたしには判断ができない。和斗がわたしと「どうこうなりたいわけじゃない」と言ったのが本当かどうかも、わからない。わたしと和斗がどうなるのが正解かどうかも。だってあいつはわたしのことが好きだと言ったけれど、わたしはやっぱりどうしても、あいつへの感情が恋だとは思えないのだ。
恋愛感情がなくたってパートナーにはなれるのかもしれない。和斗と葵さんがそうだったように。けれど一方だけが恋愛感情を抱いてるようじゃ、パートナーとしてはうまくいかない気もした。いいやそもそも、何年も──具体的に何年かはわからない──ひとりを思い続けていた和斗のその感情は、本当に恋なのだろうか。もう恋とは呼べないんじゃないのか。
話し合って、もとの関係性に戻れるのかな。なにかが決定的に変わってしまうかも。わからない。わからない、けれど、それでもいい。
どんな関係性だっていいのだ。大切なのはただ、わたしがあいつの隣にいるという、それだけなのだから。
*
『河原町にいるんだけど、今から会えない?』
画面にそんなメッセージが浮かび上がって、家で動画を見ていた俺は危うくスマホを取り落としそうになる。実に四カ月半ぶりの連絡だった。
本気で五年待つつもりだったわけではないが、一年くらいはかかるかもなと思っていた。そういうわけで実を言うとまだ心の準備ができていない。何の準備か? もちろん振られる準備だ。
けれど、これを逃せば次は今度こそ五年後になるかもしれない。
『今すぐ行く』
そう返信して、それからすこし考えて付け加える。
『四条大橋のあたりで待ってて』
すぐに既読がついて、『わかった』の返信。俺はあわててクローゼットから服を引っぱり出した。今から振られるのだと思うと、どんな服を着ていいか皆目見当がつかない。
長かったな、俺の恋、だいたい十五年くらい。振られたら墓でも掘ってやろうかな。恋心の墓だ。むかし飼ってたハムスターと同じくらいのサイズの墓だったらすぐ掘れそうだ。はは、そう考えるとちいさいな、俺の恋。
振られるというのに、なんだか浮足立っていた。どんな形だっていいのだ。ものわかりのいい恋人は求めていない。ただ、陽香が陽香のままで俺の隣に立っていてくれたらそれでいい。
服を着替えて、申し訳程度に髪を整える。靴を履いて外に飛び出すと、からりと晴れた空が広がっていた。眩しさに目を細めて、俺は四条大橋へと急いだ。
終
