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【創作大賞2024】アンチロマンス 第七話


 あおいから話があるとメッセージが入ったのは正午を過ぎたころ。俺は嫌な予感がして『なに』と返す。「話がある」なんてものものしい言い方をされたのは今回が初めてだった。親から同棲を反対されたとか、挨拶に来いと言われたとか? もんもんと考えてみたけれど葵は俺の問いには答えず、『今日の仕事終わり会いに行ってもいい?』と送ってきた。修士修了と就職を控えた今の時期、することと言えば資格の勉強しかない。断る理由もなく、俺は『いいけど』と返信したのだった。

 十九時前、葵は小さな箱を手にやって来た。にこにこと貼り付けたような笑みが不気味だった。

「ケーキ買ってきた」

 それもまた不気味だ。この五年間、葵が俺にケーキを買ってきたことがあっただろうか。

「なに企んでんの」
「ひどいなあ。こないだ豆餅買ってきてもらったからお返しやん」

 たしかに数日前、豆餅を食べたことがないと言った葵のために用意しておいたことはある。けれどあのときはちゃんと葵から餅代を払ってもらった。俺たちはずっとそうしてきた。映画も食事も、自分の分は自分で出す。俺たちの間に「おごってもらう」という行為が発生したのは葵と初めて祇園の喫茶店でコーヒーを飲んだときだけだ。

 あのとき葵は、俺に「頼みごとがある」と言ってきた。そして俺たちは付き合うことになったのだ。

 不審に思いながら葵を部屋に上げる。葵が手を洗っている間に彼女が持ち込んだ箱を開けると、そこにはこんがりと焼かれたタルトがふたつ入っていた。

「おいしそうやろ? 平安神宮の近くのタルトタタン。いっつも行列らしいねんけど閉店間際やったからかな、するっと買えた」
「あー、なんか昔陽香はるかが有名なタルトタタン食べたって自慢してきたことある。これかな」

 プレーンヨーグルトをかけて食べるのだと言っていた。俺はそれほど甘いものが好きというわけでもないが、陽香は甘党だ。俺が葵と映画館に通っていた間、陽香は大学の友人と京都中のカフェを巡っていたらしい。

 ともあれ先に晩飯だ。葵が来るというからふたり分の用意はしている。

「先に晩飯食うだろ」
「ああ、うん、そうやね」

 タルトタタンの箱を閉め、冷蔵庫にしまう。それからコンロに火をつけて、クリームシチューを温め始めた。

 食卓の用意をしている間も、食事中も、葵は「話」とやらを切り出そうとしなかった。ロールパンとシチューの皿を空にしてしまって、ふたりで洗い物をして、冷蔵庫からタルトタタンを取り出してもまだ、話し出さない。

「りんごのタルトやから紅茶が合うかな? あ、ここ紅茶ないんか」

 キッチンでふたり分のマグカップを出しながら葵が言った。俺は居室のローテーブルの前に座ったまま答える。

「ない。インスタントのコーヒーしかない」
「ほなそれでええや」

 葵は俺と目を合わせようとしなかった。インスタントの粉末をマグカップに入れて、電気ケトルのお湯が沸くのを待つ間にお皿とフォークを取り出して。しびれを切らしたのは俺だった。

「あのさあ、話ってなに」

 タルトタタンをお皿の上に移そうとしていた葵の手が止まった。一瞬だった。すぐにまたその手が動き出す。

「タルト食べたあとやったらあかん? せっかくのおいしいタルトがまずくなるやん」
「まずくなるような話なのかよ。その情報だけでもう味わかんなくなるんだけど」
「どうやろね。これを朗報にするのも悲報にするのもかずくん次第やと思うなあ」

 なぞかけのようなことを言って葵ははぐらかそうとした。それでごまかされる気など毛頭なかったから、俺は間髪入れずに言う。

「悲報になる可能性があるなら先に話してくれ。なんか頼み事? べつにタルトなんかなくても俺言うこと聞くから」

 葵はタルトをお皿の上に移し終えて、手持ち無沙汰に窓の外を見ていた。それからくるりと体の向きを変え、正座して俺に向きなおる。その顔が思いがけず真剣で俺は身じろいだ。けど話せと言ったのは俺で、今更逃げることなどできなかった。

 ぱちんと音がして、せわしなく沸騰していた電気ケトルのお湯が静かになった。それを合図にしたように葵が口を開く。

「別れよ」

 俺はなにも言えずに息を吸って吐いた。葵もなにも言わなかった。にこりともせず俺を見ていた。だから俺はたっぷり数秒かけて次の言葉を選んだ。

「なんか理由があるんだな」

 青天の霹靂だった。だけど葵が気分のむらやその場の思い付きでそんなことを言うはずがなかったから、必ずなにか理由があるのだと思った。

 俺の言葉に葵はようやく表情をやわらげた。

「一昨日な。結愛ゆめに会うてん。覚えてる? あたしの昔の恋人」
「覚えてる。なんで急に」
「結愛、最近陽香ちゃんと友だちになったんやって」

 予想だにしなかった事態にまぶたが痙攣した。葵はそんな俺をすこしだけおかしそうに見て続けた。

「陽香ちゃん荒れてるらしいよ。結婚するって息巻いて、結婚相談所いくつか調べてるって」
「はあ? なんでそうなるんだよ」

 大声が出て、いよいよ葵はおかしそうに目尻を下げる。「ほんまになあ」と俺に同意を示してから、一呼吸。

「置いていかれたくないんやって」

 葵の言葉に俺は顔をしかめる。そんなことはたしか陽香の口からも聞いた。置いていかないでよ。そう言ってあいつは泣いたのだった。

「置いていかれたくないって、なんでそれが結婚につながるわけ」
「和くんと同じでおりたいから」

 葵が言った。俺を見て葵は言葉を続ける。

「同じものを見てたいから。やから和くんに好きな人がおるって聞いて自分も恋をしようとしたんやって」

 なんだ、それ。

 俺は戸惑いにくらむ頭でいつかのことを思いだす。陽香に好きな人がいると打ち明けたのは高二の初夏。それじゃあ陽香は俺のあの告白を聞いて、俺に置いていかれないためにほかの男に告白したのか。

 なんだよそれ。それじゃあ俺があのとき好きな人がいるなんて打ち明けなければ――いや。

 さっとひとつの可能性が脳裏によぎって、俺は額を押さえた。「待て」と誰に言うでもない声がもれる。葵が「うん」とうなずいた。けれどそれは「待て」に対する応答ではなかった。葵は、待ってくれなかった。

「つまりな。和くんとあたしが付き合ってる限りは、陽香ちゃんは恋をあきらめへん。和くんがしとるみたいに、自分も恋人とまっとうに恋愛したい。せなあかん。それが陽香ちゃんの考えとること」

 自嘲がこぼれた。俺はこの五年間ずっと、自分の首を締めてたっていうのか。

 陽香にこの気持ちがばれないように葵と付き合い始めた。陽香にばれれば逃げられてしまうから。だけど陽香はそんな俺を見ていっそう恋愛に闘志を燃やすようになった。恋愛しなければならないと、自分を追いつめた。

 じゃあ、俺が「恋愛」をやめれば。

 顔を上げる。葵が微笑んでいた。俺が「あ」と言葉にならない声を発するのと、葵が話し始めるのは同時だった。

「わかるやろ。あたしと和くんさえ別れたら、陽香ちゃんは恋愛への執着を捨てるかもしれへんってこと」

 それは可能性の話だった。人の心など意図して操れるようなものではなく、陽香がいつどこで誰に恋をするかなんてわからない。けれどもしかしたら、躍起になったように恋人を探すのはもうやめるかもしれない。たしかに話を聞く限りではありえない話ではなかった。

 けれどそれは、俺と葵の婚約を白紙に戻すということだ。

「葵はそれでいいの。そんな簡単に別れるって」
「簡単ちゃうよ」

 葵の声が1Kに響いた。口を閉ざした俺の前で葵は続ける。

「この人と一緒に生きていこうって、一回は決めた人と別れる決心がそんな簡単なもんのはずないやろ」

 葵はまっすぐ俺を見ていた。俺にプロポーズしたときよりも真剣な顔で。俺は目を反らせなくて、ただ彼女を見つめ返した。

「でも結愛が」

 そこで葵が目元をゆるめた。

「前は自分のことで精いっぱいやった結愛が、陽香ちゃんのためにあたしに会いに来た。こじれてるんをなんとかしてあげたいんやって。やからあたしも応えなあかんやろ? 結愛をそこまでさせた陽香ちゃんの優しさにも、結愛の勇気にも」

 正座を崩して葵が膝を抱えた。にこ、と俺の顔を覗きこんで言う。

「あとまあ、ついでに和くんにも幸せになってほしいし?」
「ついでね」
「あはは。だって幸せっていうんやったら、あたしも和くんを幸せにしてあげられる自信あるもん」

 そうだ。「好きな人と結ばれるだけが幸せじゃない」と言ったのは俺のほうだ。

 葵の隣で生きたって俺はきっと幸せになれただろう。もしかしたらそっちのほうがいいのかもしれない。葵と別れたところで結局陽香が俺のものになるわけじゃない。あいつは自分に好意を寄せる人間から逃げ続ける。それなら全部聞かなかったことにして、このまま葵と生きていくほうが賢明な選択なのかもしれなかった。

 だけど、陽香が「こじれている」と言うのなら、その原因が俺にもあるのなら。一度くらいちゃんと向き合ってみたかった。

「幸せ、ね。陽香がむやみやたらと恋人探しをしなくなるってだけの話で、俺と陽香の仲が進展するわけじゃねえけど」
「それはそれやん。くっつかんくても一番近くにおれるだけでええって言ったんは和くんやし」
「たしかにそうだ」

 は、と笑いがこぼれた。だけどやっぱり上手くは笑えなくて、俺は正座して葵に向きなおる。

「葵。ごめん」

 俺の事情で五年も恋人の振りをさせておいて、実のところそれは事態を悪化させていただけだという。そしてそれがわかった途端今度は婚約を解消させようとしている。我ながら勝手すぎると思う。けれど一番ひどいのは、俺の勝手を受け入れてくれるだろう葵に甘えていることだ、とも。

 葵はやはり、あっけらかんと言った。

「なんで和くんが謝るん。振ったんはあたしやん」

 それも、その通りで。葵は俺を振った。これから訪れるはずだった未来の代わりに、タルトタタンひとつをたずさえて。それが葵のプライドで、俺たちの関係なのだった。俺は「うん」と答えた。葵が笑う。

「そんな顔せんといて。縁が切れるわけちゃうし。また映画に付きおうて」
「うん」
「007シリーズが続く限りは誘いつづけるから」
「じゃあ次期ボンドには頑張ってもらわないと」

 俺と葵の友情がかかっているのだ。できるだけ長く続けてもらわないと困る。

 葵がちいさく笑って、「タルトタタン食べよ」と立ち上がる。すこしぬるくなったお湯でコーヒーを淹れて、俺たちはやっとタルトタタンにありついた。とろとろに柔らかくなったりんごのフィリングは甘かったけれどしつこくはなく、優しい味がした。

 葵の隣で生きるはずだったこれからの味だと思った。これを食べきればひとつの未来が終わる。ロリポップキャンディを舐め終われば、恋が終わるのと同じように。

「また新居探し振り出しなんだけど」
「あたしもこれでまた実家出る機会逃してもうた」

 俺が大仰にため息をつくと、うーん、と葵も瞳を閉じて肩を落とす。

「結婚するからってもう親に言ってもたんよなあ」
「どうすんだよ。気まずすぎるだろ」
「でもせっかくやし、もっかいカミングアウトしてみよかな。前は本気にしてもらえへんかったけど」

 ふ、と葵がたのしそうに唇をゆるめた。

「今度はわかってもらえるまで説明してみよ」
「おお、それでもわかってもらえなかったらそん時こそ家出ちまえ」
「それもええかも」

 この五年で葵も変わった。俺と出会ったころの葵はもっと否定されることを恐れていた。今はすこし、息がしやすそうだ。結局俺の事情で葵を振り回した五年だったわけだけれど、それも無駄じゃなかったのだろう。きっと意味があった。

 だからなにも悲観しない。したくない。

 タルトタタンの最後のひとかけを飲み込んだら、時間だった。立ち上がり、コートを着て、俺たちは部屋を出た。

 暗い空に星は見えなかったけれど、まだ家々に明かりが灯っていてそれが俺たちの足元を照らしていた。百万遍の下宿から出町柳の駅までは十分程度だ。俺たちはその十分を惜しみながら歩いた。寂しくはなかったけれど、やはり惜しかった。ひとつの未来を失ったことが。

「陽香になんて説明しようかな」
「それはまあ、包み隠さず」
「包み隠さず言ったら俺が陽香のこと好きなのもばれるだろ」

 賀茂大橋に灯った明かりが正面に見えた。何度もここを葵と渡った。出町桝形商店街で映画を見た帰り道、重い足取りの日もあれば晴れやかな気分の日もあった。

「この際ばれてしもてもええと思うけど」
「縁切られたらどうすんだよ」
「あたしと結愛は一回縁切れたけどこの度また友だちに戻ることになったで」

 それは朗報だ。葵がひそかに五年前のことを引きずり続けていたのは、そばで見ていたらなんとなくわかったから。あのときのわだかまりを清算できたのなら、俺も嬉しいと思う。

「やからさ。時間が経ってみたら、全部『むかしむかし』って笑って話せる日が来るんちゃう? 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン――』」
「京都。って?」
「まあセルジオ・レオーネの『アメリカ』のほうは悲恋で終わったけど」
「縁起でもないたとえ持ち出してくんな」

 駅の地下通路に続く階段の前で葵が俺に向きなおる。に、と笑って彼女は拳を突き出した。

「ほな。うまくやって、ハニー」
「努力はする。ダーリン」

 俺も手を突き出して、こつんと拳をぶつけた。そして葵は踵を返し、地下へと姿を消していった。

 俺はひとつ深呼吸する。もうすこし外の空気を吸っていたい気分で、そのまま賀茂大橋のほうへと歩を進めた。

 欄干に身を預け、鴨川の流れに耳を澄ませる。静かだった。取り留めもない思い出や考えが、水泡のように浮かんでは消えた。

 川というのは彼の岸と此の岸を隔てるもので、その上を渡るというのはなにかしらの意味をもつことだといつか葵が言っていた。川を渡る前とあとでは、なにかが変わっているのだと。それはほんの些細な変化かもしれないけれど、俺たちはそんな変化を繰り返して絶えず移ろい続けるのだと。

 陽香への恋が叶いっこないと悟ったのも、この川の上だった。

 葵は「うまくやれ」と言った。うまく、というのが具体的に何を指すのか、俺にはまだわからない。俺たちはどうなるのが正解なんだろう。どこへ辿り着くべきなのだろう。

 わからない、けれど、それもいいと思った。なんとなく、そんなに悪い未来にもならない気がしたのだ。

 冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと気持ちがよかった。同時に首元に触れる風が身に染みてぶるりと震える。そろそろ戻ろう。そう思って体を返したときだった。

和斗かずと?」

 聞き慣れた声がして振り返る。そこには目を丸くしてこちらを見つめる、陽香の姿があった。

「なにしてんの」

 陽香に聞かれてしまったと冷や汗が流れる。なんと説明すればいいのかわからない。だから質問に答える代わりに問いを返した。

「おまえこそなんでいるんだよ」
「わたしは、仕事で烏丸のほうに用事があって」
「烏丸じゃん。なんで出町柳にいんの」

 陽香は陽香で、俺に聞かれてばつが悪そうに目を反らした。烏丸から陽香の最寄りまでは阪急電車で一本だ。それなのに今ここにいるということは、きっと地下鉄で今出川まで移動して徒歩十五分ほどの道を歩いてきたということだろう。散歩にしては遠回りすぎる。

 陽香はほんの数秒そうして黙っていたけれど、すぐにあきらめて俺に向きなおった。

「和斗に会いに来た。こないだちゃんとお祝いできなかったから。ほらこれ、結婚祝い」

 そう言って、右手に持った百貨店の紙袋を俺に突きつけてくる。こないだ、とはマンションの階段で陽香が号泣したあの日のことだろう。陽香なりに反省はしているらしい。

 差し出された紙袋に俺は面食らって、けれどすぐに申し訳なさと居心地の悪さでいっぱいになる。よりによって今か。

「悪い。別れたんだよな」
「え?」
「だから、別れた。今さっき。葵に振られて」

 陽香は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺は見ていたけれど、二、三度目をしばたたかせてから小さく叫んだ。

「えっ? なんで?」
「なんでって」

 どう説明したものか。葵には包み隠さずと言われたけれど、それが得策だとも思えなかった。ただ俺と葵の間に恋愛感情がなかったことだけははっきりとさせておかなければ、葵と別れた意味がない。

 俺は迷った末、短く言った。

「もともと形だけの恋人だったんだよ」

 陽香は怪訝な顔で「へ?」と声をこぼした。意味がわからないと言いたげな声だった。

「だから、名前だけの恋人で、お互いに恋愛感情はなかったし恋人っぽいこともほとんどしてない。実質ただの友だち」

 陽香はまだ困惑した顔で俺を見ていた。俺はこれ以上どう説明していいのか迷って口を閉ざす。すると川の流れる音だけが俺たちの間を通り過ぎていった。しばらくそんな沈黙が続いた。

「なんで?」

 口を開いたのは陽香だった。顔を伏せていてその表情は読めない。

「なんでそんなことしたの?」

 当然、まあ、そうなるよな。

 俺は頭を掻いた。今はとにかくごまかすしかない。簡単なのは葵に頼まれて――と嘘をつくことだけれど、そこまで真実を捻じ曲げてしまうとどこかで齟齬が発生しかねない。なにより葵の名誉を傷つけるようなことは友人としてしたくなかった。とくれば、好きでもないやつから告白されるのが面倒で虫よけに、とか? いやこれは鼻につきすぎる。だったらいっそ、いつまでも恋人ができないから自分の見栄のために葵に泣きついた、とか。駄目だこれは逆に虚しすぎる。

 もんもんと考えているうちに、陽香はもう一度「なんで」と問いを繰り返した。俺は結局いい案が思い浮かばず思考を放棄する。

「それは、まあ。なんだっていいだろ」

 言った途端、きっと陽香が顔を上げて俺をにらんだ。

「よくない。だいたい、わたしには教えてくれたっていいじゃない。形だけの付き合いなんだって。わたしにまで嘘つくことなかったじゃない」

 一日中歩き続けて疲れ果てた子どものような声で陽香が言った。俺はそうか、そうなるんだということを今更ながらに理解して舌打ちをしたい気分になる。

 陽香は俺がうまく恋をしていると思い込んで恋に執念を燃やすようになったのだ。この五年間、当たっては砕け、当たっては砕けを繰り返したのは俺に「置いていかれない」ためだった。その俺が実は恋などしていませんでしたと来れば、「振り回された」と思うのは陽香からすれば当然の感情だった。

 それはもちろん陽香からすれば、の話であって、俺からすれば八つ当たり以外の何者でもない。陽香だって一晩おけば冷静になるはずだ。けれど今、こいつは混乱しているのだ。自分で自分の感情のコントロールができていない。もともとこいつは、俺の前では幼くなる女だった。

 教えるわけないだろ、俺はおまえを騙すために葵と付き合い始めたんだから。と、もちろんそんなことが言えるわけない。俺は仕方なく、「なんでおまえに教えなきゃならないんだ」と意地を張るようなことを言わなくてはならなかった。悪手だ、と自分でもわかった。

 陽香はむすりと一度唇を引き結んで、それから「だって」と言った。

「わたしのものだって言ったじゃない」

 ああ、言った、言ったとも。けれどここでその台詞を引き合いに出してくるこの女のずるさに、傲慢さに、俺もわずかに嫌気がさした。

「そうだよ」

 どことなく喧嘩腰の陽香に触発されて俺も低い声が出た。溜まっていたうっぷんが声になって喉から滑り出る。

「けどおまえは俺のにはならないだろ」

 俺の言葉に陽香は虚をつかれたような顔をした。「どういうこと」と何も知らない様子でたずねてくるのを憎いと思った。ごぼりと、胸の奥のほうから沸き上がってくる熱いかたまりをうまくやり過ごせなくて、俺はそれを吐きだした。

「もし俺が好きだって言ったら逃げるくせに」

 言ってしまった。

 後悔はもちろんあった。これで俺の八年の我慢も五年の努力も水の泡だ。だけれど同時に、すがすがしいようにも思えた。言葉にしてしまえばこんなに簡単なものなのかと、肩の荷が下りたような気さえした。

 陽香はわかりやすく動揺していた。びくりと肩を揺らし、それから視線を左右へ彷徨わせる。それを地面へと伏せてから、かすれる声で言った。

「わたしと和斗はそんなんじゃないでしょ」

 懇願するような響きだった。

 俺はその額を見ながら考える。ここで「もちろん」と言えば。「もちろんそうだ、俺とおまえはそんなんじゃない」と言ってしまえば。きっと今までの関係を壊さずに済むのだろう。俺の感情は封印して、今まで通り友人として死ぬまで隣に居られる。

 けれど脳裏に、葵の姿がよぎった。もう一回親にカミングアウトしてみよかな、と憑き物の落ちたような顔で笑う葵の姿が。そしてにわかにうらやましくなった。自分に嘘をつかず、他人にありのままを開示することを選んだその生き方が。

 俺だって正直に生きてみたいという切望と、俺の感情を散々踏みにじってきた陽香に思い知らせてやりたいというちいさな復讐心と。それらがないまぜになって俺の喉までせり上げた。最後の一押しとばかりに俺の背中を押したのは、もしかしたら葵の手だったかもしれない。

 ――ワンス・アポン・ア・タイム・イン、

「好きだよ」

 陽香は顔を伏せたままなにも言わなかった。俺もなにも考えられなかった。川の音さえ遠のいて、時間が止まったような錯覚があった。

 びゅう、と風が吹いてようやく、ここが二月の京都であることを思いだした。

「おまえは自分のことが好きな奴からずっと逃げてきただろ。だから俺がおまえのこと好きだってばれないように、葵に頼み込んで恋人の振りしてもらってたんだよ」

 ふいに思い出してそう付け加えると、陽香はちいさな声で「ばかじゃないの」と言った。そう、馬鹿だ。大馬鹿だ。けれど陽香にだけは言われたくなくて思わず歯を出して笑ってしまった。

「まあ今の告白で全部台無しだけど。どうすんの。逃げんの」

 ぶる、と陽香が体を震わせた。その唇がなにかを言う前に俺は続ける。

「逃げてもいいけど、バス停までは大人しく俺に送られてくんない。心配するから」

 行こう、と陽香をうながせば、陽香はわずかな逡巡ののち素直に俺のあとをついてきた。賀茂大橋を渡って出町柳駅前のバス停へと歩く間、陽香はなにも言わなかった。バスを待つ間も。

「あのさ。べつにおまえとどうこうなりたいわけじゃないよ。おまえの気持ちはわかってるし」

 バスがやってきたとき、俺はそれだけ言った。陽香はびくりと体を揺らして俺を見て、それからふいと反らす。

「ごめん」

 それは俺の気持ちに答えられないことに対する謝罪なのか、それともこれから逃げることへの謝罪なのか、その両方か。たずねる間もなく陽香はバスに消えていく。たずねたってどうせ答えは返ってこないのだろうけど。

 遠ざかっていくバスを眺めながら、俺は馬鹿だなあと呟いた。なにに対しての言葉なのかは、自分でもよくわからなかった。


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