【創作大賞2024】終末、きみの名を 第三話
ぼくは不出来な人造人間だった。
人造人間。ホムンクルスって呼ぶやつもいる。でも魔術界は正式には錬金術を魔術だと認めてないから、あくまで俗称だ。
「ミラ」っていうのがぼくにつけられた名前。組織によるけど、ぼくを作った魔術学院では人造人間に星の名前をつけるんだ。くじら座のミラだよ。知ってる? 晩秋に見える赤い星なんだって。だからおまえがぼくに「赤が似合う」って言ったとき、ちょっとどきっとした。
人造人間ってさ、やっかいなことにこころがあるんだ。なんでそんなものつけたんだろうね? 戦うだけならこころなんていらなかったのに。でもどうも自律思考を備える段階でこころって自動的に生まれてしまうものらしいんだ。こころは脳だからさ。迷惑な話だよね。
それで、ミラに生まれたこころは、戦うことをおそれた。ばかだろ。戦うために生まれた人造人間なのに、戦うことが怖かったんだ。まだミラが生まれたばっかりのころの話だ。二十年くらい前。
おそれるだけならよかった。だけどぼくは逃げようとした。上はもちろん脱走を許すはずなくて、捕まるのはすぐだった。脱走しようとした人造人間はどうなると思う? 「初期化」っていってさ。記憶を一回、全部消されちゃうんだ。発展途上の技術だから消される記憶にはいくらかムラもあるみたいだけど、少なくともそれまでの「自分」に関することは全部忘れちゃう。覚えた感情もね。
わかる? ぼくは不良品だったんだよ。
だけど僕のその処遇に異を唱えた魔術師がいて。それが夢井明日香。ややこしい名前だけど男だよ。まだ二十歳そこらの魔術師だった。魔術師っていうのはさ。魔法使いの中でも魔法の研究を職業にしてる人たちのことを言うんだけど。明日香先生は特別だったんだ。誰より才能があった。だから上の連中も先生には一目置いてて。
先生は、白い部屋でベッドに体を縫い付けられてたぼくのとこにきて言った。
「君はどうしたい?」
ぼくは質問の意味がわからなかったから黙ってた。そしたら先生はこう続けた。
「記憶をなくして、新しい自分として生まれ変わりたい?」
ぼくは答えた。
「戦いたくない」
記憶を消されたら、また戦いに駆り出されるんだろ。そんなの嫌だった。だからぼくは素直にそう答えた。そしたら先生は笑ったんだ。
「いいよ。僕が君を引き取ろう」
先生はぼくの拘束具を外した。それで僕を立たせながら言った。
「君はもう戦わなくていいんだ」
先生はちょっと変わってたんだ。人造人間にも権利があるって考えてた。人造人間だけを戦わせるのは人道にもとるって思ってたのさ。変だよね。人造人間は人のために作られた道具なのに。
でも先生はぼくを、人として扱おうとした。
「君のことはなんと呼べばいいかな」
白い研究室を出ながら先生が言った。僕はついて歩きながら答えた。
「ぼくは初期化されるはずだった。初期化されれば名前も変わる。だから今のぼくは名無しみたいなもんだ」
「では新しい名前がほしい?」
「どうでもいい。名前なんてどうでもいいよ。名前なんて戦闘を滞りなく遂行するための記号でしかないんだ。もし」
そこで僕は言葉に詰まったけど、結局続けた。
「もしほんとうに夢井教授が言うようにぼくが戦わなくてよくなったんなら、名前なんて必要ないだろ」
ぼくは正直、先生の「戦わなくていい」なんて言葉を信じてなかった。このまま焼却炉にでも連れていかれて焼かれるんじゃないかとか考えてた。どのみち、だ。戦わないにしろ焼かれるにしろ、名前なんてもうぼくには必要なくなったんだと思ってた。
だけど先生はぼくを振り向いて言った。
「それじゃあ、僕が君を呼べない。僕はね、君のことを君だけの名前で呼びたいんだよ。名前はたしかに記号だが、その人がその人自身であると証明するための最初の記号だ」
先生はたしか、ぼくに言い聞かせるように笑ってたと思う。
「名前がなければ僕らは、自分が誰なのか見失ってしまうんだ」
そのときはまだぼくには先生の言葉の意味がよくわからなかった。ただ拒絶する理由もとくにはなかったから、答えたんだ。
「じゃあ、ミラって呼んで」
名前にこだわりなんてなかったから今までの名前でよかった。先生はうなずいた。
「僕のことは明日香でいい。可愛い名前だろ、気に入ってるんだ。よろしく、ミラ」
その日からぼくは先生の家で生活を始めた。すべての戦闘義務を解除されて、だ。それもかなり上と揉めたらしいっていうのはずいぶんあとになってから知ったことだよ。先生はそんなの、お首にも出さなかったから。
先生は魔法の腕は天才的なのに、生活能力はてんでないんだ。ところがぼくも、戦闘のためだけに作り出された人造人間だろ。だから最初のほうは散々さ。ごはんは毎日インスタントだし、部屋の掃除も片付けもしないから虫がわくし、洗濯物はくさいし。でも戦闘義務を解除されたぼくにはやることがなかった。だから自然と家事はぼくの仕事になった。
変な気分だったよ。朝日と一緒に起きて、洗濯物を回して、その間に朝ごはんを作る。味噌汁とか、卵焼きとか。それで洗濯が終わったらそれを干して、そうしてる間に先生が起きてくるんだ。先生はぼくに毎日「おはよう」って言った。ぼくも「おはよう」って返した。それも変な気分だった。
先生は僕が作った朝ごはんを食べて、「おいしい」って笑うんだ。沸騰したお味噌汁とか焦げた卵焼きだよ? ああ、今思い出したら顔から火が出そう。でも先生は絶対全部残さず食べて、ぼくに「ありがとう」って言ってくれた。「ありがとう、ごちそうさま」って。
ぼくはそれがうれしかった。うれしいって思ってる自分に気づいた。わかるかな。喉の奥がむずがゆくなる感じ。でもそれが嫌じゃないんだ。
1ヶ月もしたらやることがないのに飽きて、ぼくは先生に魔法を教えてもらうことにした。先生は学院に出勤してしまうから、ぼくは日中先生が出してくれる課題に手をつけるんだ。人造人間は基本的な魔法は生まれたときから習得してるから、先生に教わるのは高度な魔力操作とか、戦闘には役に立たない理論とか。でもそれは楽しかった。戦うための魔法じゃないってだけで、ずいぶんと気が楽だった。
夕方になったらまた洗濯物を取り入れて、晩ごはんの支度をして、先生が帰ってくるのを待つんだ。先生がぼくに「ただいま」って言うから、「おかえりなさい」って言うのもくせになった。ぼくが「おかえりなさい」って言ったら、先生は笑った。
晩ごはんを食べたら課題の確認をした。うまくできなくても先生がぼくを怒ったことは一回もなかった。できなくてもいいって言われるのは、最初は嘘くさかった。だってぼくは不良品として初期化されかけた人造人間だよ? うまくできない道具になんの意味があるのかわからなかった。
一度それを言ったことがあった。
「先生の言うとおりにできない。なぜぼくを罰さないの」
先生は不思議そうな顔をしていた。
「ミラの魔法が上達しなかったとして、それで何の問題があるんだ」
「でも、ぼくは先生の道具なのに」
先生はぼくに目線を合わせた。ぼくは人造人間だから生まれたときから今と変わんないサイズだけど、先生はかなり長身だったから先生のほうが高かった。
「道具じゃない。ミラ。大切なのは魔法が上手いかどうかじゃないよ。ミラがミラとして生きてくことだ」
ぼくには先生の言葉の意味がよくわからなかった。ぼくがぼくとして、っていうのもよくわかんなかったし、生きる、っていうのもしっくりこなかった。ぼくは戦うために作られた人造人間だ。戦い以外に、ぼくになにをしろって言うのかわからなかった。
ぼくが返事もしないうなずきもしないのを見て、先生は次の日仕事を休んだ。それでぼくを外に連れ出したんだ。
最初に行ったのが博物館。でもそれはぼくにはぴんとこなくて、三十分で出た。そのあと美術館にも行った。それは博物館よりはおもしろかったかな? 絵のことも彫刻のこともまったくわからなかったけど、印象派の風景画は嫌いじゃなかった。でもやっぱりすぐに興味がなくなって、そこも一時間足らずで出た。動物園にも行った。でもぼくは檻の中にいる動物を見るのは好きじゃなかった。
「ぼくらみたいだ」
たしかサルを見ながらだったと思う。檻の中できゃいきゃい鳴きながら跳んだり走ったりしてるサルを見てるとそう思わずにはいられなかった。人間に管理されて死ぬまで檻の中で生きてくんだ。なんか虚しくなったな。
そしたら先生は悲しそうな顔で、「すまない」って言った。それでぼくらはすぐに園を出た。今思えばパンダくらい見とけばよかったって思うよ。せっかくの上野動物園だったのに。
そのあと、百貨店で買い物した。でもレディースの服もメンズの服も、ぼくにはそんなにいいと思えなかった。ああ、人造人間って性別がないんだ。だって子どもを産む必要がないからさ。生殖器官がないんだよ。だからぼくらは男でもないし女でもない。化粧品も香水もアクセサリーも、ぼくにはしっくりこなかった。
カラオケにでも行こうか? って聞かれたけど、ぼくは流行歌のひとつも知らなかったから断った。そしたら先生はぼくをCDショップに連れってって、視聴機でいくつか音楽を聞かせてくれた。それも、どれもあんまりしっくりこないんだ。そのとき流れてたのはラブソングばっかりでさ。人造人間に恋が理解できると思う? はは、無理だよ。だからよくわかんなかった。ラブソングだけじゃなくてさ、人間の感情を歌った歌自体があんまり理解できなかったんだ。それを先生に言ったら、ちょっと考えて、歌詞のない曲のCDを何枚かレジに持っていった。ジャズとかインストゥルメンタルとか。そのとき買ってもらったインストゥルメンタルは今でもまだ聴く。いや。違うな。ぼくがあそこを逃げ出した五年前までは、だ。今はもう、身一つで旅してるから。ああ、久しぶりに聴きたくなっちゃった。
カフェやレストランにでも入れたらよかったんだけど、人造人間には消化器官がないんだ。魔力を主なエネルギー源としてるからさ。だからぼくらはひたすらいろんなとこを歩いた。アメ横を歩いてたときに、スカジャンが目に入ったんだ。それは黒地に鷹が刺繍されたやつだったんだけど。変な服だな、って思った。それでちょっと足を止めたら、「ほしいのか?」って。ぼくが違うって言ったら、「じゃあ僕が着てみようかな」って言って、先生がそれを羽織った。似合ってたんだ。今なら「かっこいい」って言えたと思う。でもそのときはそういう感覚もよくわかんなかったから、なんとなく気持ちのうわずるみたいなその感じをうまく言えなかった。それで黙って先生を見てたぼくのことどう勘違いしたのか、先生が「ミラも着てみなよ」って。
羽織ったら、あったかかったんだ。先生の体温だった。それがなんだか、くすぐったくて、胸がきゅっとなって。ぼくはちょっと笑ったみたいだった。それを見て先生が、「買おう」って。
それから映画を見た。コメディ映画。もう内容はほとんど覚えてないけど、ちょっとおもしろかったんだ。人間ってこういうのも作るんだなって思った。
映画が終わったらもう日が暮れてた。僕は夜が好きじゃなかった。一回夜の戦闘で怪我をしたことがあったから。それに暗くて静かだといろんな怖いことを思いだすだろ。いつも夜は電気をつけて寝るんだけど、そのときは外だったから。家への道を歩いてるときに、先生がぼくの顔色が悪いのに気付いたんだ。先生が言った。
「どこか調子が悪いのか。一日歩いて疲れた?」
「ううん。怖いんだ。暗いのが」
先生はちょっと困ったみたいだった。そのときは魔術具なんて持ってなかったし、持ってたとしても住宅街で使うのはリスキーだろ。それでしばらく悩んでから、こう言ったんだ。
「ミラ。手を握ってもいいかな。君が怖くないように」
そうやって聞かれたのが、ぼくにはすこし不思議だった。道具をどう扱おうが先生の勝手なのに。
「かまわない。でもどうしてそんなこと聞くの」
先生はぼくの手を握りながら答えた。
「君が嫌がることはしたくないんだ」
先生の手はあったかかった。ぼくはなんだか無性に泣きたくなって、でも人造人間は泣けないから、「嫌じゃないよ」って答えることしかできなかった。
ぼくがぼくとして生きるっていうのはやっぱりよくわかんなかったけど、インストゥルメンタルとかスカジャンとかコメディ映画とか。その日からぼくにも、すこしは好きなものができた。
それから相変わらずぼくは洗濯してご飯を作って、掃除して魔法の練習やら勉強をして、またご飯を作って。でもときどき夜は先生と一緒に映画を見るようになった。アクション映画はこわいのを思い出して苦手だったし、ラブストーリーはやっぱりよくわかんなかったからコメディが一番好きだったけど、ミステリーとかSFも嫌いじゃなかった。
料理はちょっとずつ上達したよ。でも一回調子に乗って魔法で料理しようとしたら、これが難しくてさ。吹きこぼれで部屋はスープまみれになるし、ハンバーグの形はぐしゃぐしゃだしデミグラスソースは焦げちゃうし。先生は楽しそうに笑いながらぼくと一緒にスープまみれの床を拭いて、焦げ付いたフライパンを洗ってくれた。ぼろぼろのハンバーグにはケチャップかけて食べたんだ。先生はやっぱり「おいしいよ」って言ってくれた。
魔法ももちろんうまくなった。先生の研究の手伝いのために学院に出入りすることもあったくらい。学院に行くのは、以前のことを思い出して嫌だったけど、でも先生と一緒にいたら怖くなかった。
先生と生活を始めて一年くらい経ったころだったと思う。ひどい雷雨の夜だったんだ。寝ようとしたら停電して、ぼくはびっくりして声も出せずにベッドの中で丸くなった。すぐに先生が明かりを持って来てくれたけど、ぼくはがたがた震えてた。先生がぼくの隣に座って言ったんだ。「手を握っていいか」って。
「どうしていちいち聞くの」
先生は困ったような顔をした。
「ミラは僕が憎くないのか。僕は人間だ。君を管理して戦わせようとした側の、人間なんだよ」
人間が憎くないかって言われたら、よくわからない。憎いって気持ちもぼくにはまだあんまり備わってなかったんだ。でも正直好きじゃなかった。それも本当だ。
けど先生のことは、嫌いじゃなかった。だから僕は答えた。
「憎くないよ」
ぼくから手を伸ばしたら、先生はぼくの手をすぐに握ってくれた。
「嫌じゃないか」
「嫌じゃない」
先生はそこで顔をうつむけた。
「ミラ。君にずっと黙ってたことがあるんだ。僕は君の監視を任されてるんだよ。君が逃げたり、魔術学院に歯向かわないように君を懐柔するのが僕の仕事だった。それが君の初期化をやめさせる条件だったんだ」
ぼくはあんまり驚かなかった。監視くらいついていてしかるべきだと思ったし。それに先生の今までの優しさが全部嘘だったとしてもべつによかったんだ。嘘だとしても、先生がぼくの名前を呼んでくれたのは嘘じゃないだろ。ぼくを人として扱おうとしてくれたのは、本当だろ。
「べつにいいよ」
ぼくがそう言ったら。先生は驚いたみたいに顔を上げた。ぼくは先生の手を両手で強く握って言った。
「先生。ぼく、先生に触れられるの、嫌じゃない」
先生の手がぴくって震えた。なんだか悲しそうな目だった。ぼくはなんで先生がそんな顔するのかわかんなくて続けた。
「明日香先生にならなにされてもいいよ」
監視でも懐柔でも、たとえ洗脳だとしてもかまわなかったんだ。先生にされるのなら受け入れられた。この人にならぼくのぜんぶを明け渡してもいいって思えた。
先生はやっぱり悲しそうな顔をしてたけど、ゆっくりぼくを抱きしめてくれた。子どもをあやすみたいにして頭をなでてくれて、だんだん雷の音は聞こえなくなった。あったかくて安心したけど、胸の奥が締め付けられて、ぎゅうってなった。それがなんなのか、そのときはまだよくわかんなかったけど。
その次の日、先生がぼくにペンダントをくれたんだ。そう、これ。魔力を光に変換する魔術具だ。お守りだよ、って言って。ぼくは嬉しくてそれを毎日つけた。
でも、それからさらに一年くらい経ったころに。夕方だった。天使がいつもよりたくさん湧いた日があったんだ。上は、人手が足りないからぼくを出せって要求してきた。ぼくに戦えって。それはできないって言ったのは先生だった。ミラは戦闘義務を解除されてる。ミラを戦わせる義理はないって。
でも先生は、それで終わるような人じゃなかった。言ったんだ。代わりに僕が戦うって。
たしかに、天使がたくさん出たってことはそれだけ人が死ぬかもしれないってことだ。人造人間たちだって危ない。先生はそのどっちも看過できなかった。だからといってぼくを戦わせる気はなかった。だから自分が戦うって言って、出て行っちゃった。
ぼくは気が気じゃなかった。暗くなった窓の外を眺めてずっと待った。先生はたしかに天才的な魔術師だけど、戦闘訓練は基礎的な範囲しか受けてないんだ。戦うのは人造人間の役目だから。
日付が変わったころ、先生は帰ってきた。左腕に赤い傷を作ってね。
血は止まってたし、深い傷じゃなかった。でもぼくには耐えられなかった。胸が太い杭に貫かれたみたいだった。気が動転してうろたえるぼくの頭を、先生がなでてくれた。「大丈夫だから」って。
先生の腕に治癒魔法をかけながらぼくは考えた。たくさん考えたよ。迷いもあった。けど一度決めたら、気が変わらないうちに言ってしまおうと思って、傷が治るのと同時に先生に向き直ったんだ。治したばっかりの先生の左手を握りしめて。
「明日香先生。ぼく、戦うよ」
こんなことが、今後も起こるかもしれない。ぼくが戦場から逃げることで先生が傷つくなんて、そんなの耐えられなかった。それならぼくが戦おうと思った。
先生は驚いた顔をして「駄目だ」って言った。
「ミラは戦わなくていい。戦わないでくれ。ミラはただ、僕のそばにいてくれたらそれでいいんだ」
祈るみたいにして頭を垂れて、先生はぼくの手を両手で握り返した。ぼくは答えた。
「そばにいるよ。これからもずっとそばにいる。ただ呼ばれたらちょっと戦いに行くだけだ。ぱぱっと片付けてすぐ帰ってくるからさ」
先生は頭を伏せたままいやいやするみたいに首を振った。
「駄目だ」
それを見てると、ぼくの胸はまたぎゅうっとなった。そこでようやく、ぼくもその痛いのがなんなのかわかった。わかって、先生を抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから、ぼくに先生を守らせて」
先生を守るためなら、なんだってできると思った。世界の果てまで行ってこいと言われたら行くし、神さまを殺せと言われたら殺す。
その日からぼくは、また戦闘義務を課されることになった。
先生との生活は続けた。ときどき先生の研究を手伝うのも。ただちょっと訓練の時間と戦う時間が加わっただけだ。天使との戦闘はこわかったし、拳銃を握るのは嫌だったけど、先生を守るためだと思えばがんばれた。仲間もいたしね。それに家や学院に帰れば、絶対先生が出迎えてくれたから。
先生にお守りのペンダントを渡したのもそのころ。ものすごい効き目はないけど、天使の三体や四体ならこれで跳ね返せるからって。先生は喜んでくれた。絶対手放さないって言って、毎日身につけてくれた。
先生が笑ってくれるからぼくは戦えたんだ。戦うのはいつまで経ってもこわかったけど、でも先生がいたから。先生のためなら。
ぼくの戦う理由だった。ぼくの世界の全部だった。ぼくの、存在する意味だったんだ。
宇宙で一番大切な人だった。それなのに。
──
そこまで話して、きみは静かになった。僕はなんと言っていいかわからなかった。違う、なにも言わないのが正解だと、わかっていた。
きみの傷は言葉やなんかじゃ癒えない。時が癒してくれるのを待つしかない。
かわいそうだ、と思った。だけど同時に、うらやましいような気がした。そこまで一途に思える人がいること。大切、という感情が何なのか知っていること。
僕はもう、ぜんぶ忘れてしまったから。
僕はずっとさみしいのだ。目覚めてからずっと、胸の真ん中にぽっかり穴が空いている。その穴がなんなのかわからない。きみの手を握っても、刹那に花火を揺らしてみても、どうしても埋まらない。
僕も、僕の「大切」がほしい。
すっと視線をそらす。そしたら壁際になにかが光っているのが見えた。ガラスの破片かと思ったけれど、よく見ると光り方が違う。僕は立ち上がってそれに近づいた。拾い上げてよく見てみれば、それは黄色い石のペンダントだった。
ミラが持っているのと同じものだ。
どうしてここに、これが? いや。魔術具なのだから同じものがふたつあってもおかしくはない。ない、けれど。不思議に思いながら僕はなんとなくそれをポケットにねじ込んだ。
そういえば不可解な点はもうひとつある。ミラは先生と一緒に生活していたのだと言った。ならばなぜ、ミラは先生を探して旅を始めたのだろう?
どこかのタイミングで先生と引き離されたのだろうか。先生が遠くに行ってしまったのか、ミラが別の組織に引き取られたのか。けれどそれならばなぜ「たくさんの場所を」探す必要がある? ミラが別の組織に引き取られたというなら、先生の住居は変わっていないのだからまっすぐここへ来ればよかった。先生が遠くに行ってしまったにしろ、ミラはこの場所が先生の家だと知っていたのだからやはりまっすぐここへ来ればよかったのだ。五年もかけてあちこちを渡り歩く必要などなかった。
一体なにがあったのだろう。聞いてもいいだろうか。ミラのほうを振り向こうとして、僕の視界に映るものがあった。
夕焼けを背に、黒く光る銃口。
銃口は、割れたガラス戸の向こうから真っすぐミラを狙っていた。考えるよりも先に体が動く。ガラス戸とミラの間に割り込んで銃口からミラを隠した。すぐにぱん、と音がして、僕の体は言いようのない衝撃に襲われる。
どさりと床に倒れ込めば、撃たれたみぞおちが痛んでもう指先ひとつ動かせなかった。遠のきそうになる意識を必死につなぎとめる。
「ヴェガ」
きみがなにかを叫んで僕のほうへ駆け寄ろうとするのが見えた。けれどその前に「動くな」という短い声。銃を構えながらベランダにふわりと降り立ったのは、予想通りカストルだった。カストルは部屋の中へ入りこむと僕を見て片眉を上げた。
「意識があるのか。ちょうど気絶するくらいの出力で撃つっていうのも難しいもんだな」
「ミラが特別うまいだけ」
続くその声で、ポルックスもやって来たのがわかった。首を動かせなくて見えないけれど、きっと扉のほうから入ってきたのだろう。つまり挟み撃ちされたわけだ。
「帰るぞ、ミラ」
「いやだ」
「駄々をこねるな。だいたいお前、もう限界だろ」
ミラが唇を噛みしめるのが見えた。どういう意味かたずねたかったけれど、声が出ない。カストルは続ける。
「もう中はぼろぼろなんじゃないのか。今ならまだ間に合う。はやく学院で処置を受ければ」
「いやだ」
ミラはそう繰り返した。紫のペンダントを握りしめて言う。叫ぶみたいなささやきだった。
「帰れば、初期化されるじゃないか」
そう、か。きみが帰りたがらない理由が、これでようやく僕にもわかった。
ミラは「学院」を脱走してきた。脱走者は不良品の烙印を押され、初期化される。ミラが言っていたことだ。そしてそれを阻止してくれる夢井先生はもういない。帰れば、ミラは確実に初期化される。つまり、夢井先生のことを忘れてしまう。
きみはそれが嫌なのだ。
「もう先生はどこにもいない。どこにも、だ。それなのにぼくが先生のことを忘れてしまったら、先生は本当に世界のすべてから消えてしまう」
泣いているみたいな声だった。人造人間なのに、そんな声できみは言うのだ。
「忘れたくない。先生のこと忘れるくらいなら、ぼくはこのまま先生の記憶と一緒にここで消えたい」
カストルは眉間にしわを寄せてミラを見ていた。しばらくして口を開く。
「お前、最初からそのつもりで脱走したのか」
怒っているような、でも悲しむような声だった。カストルが続ける。
「夢井教授がどこかで生きてようが、お前はその教授とは一緒に生きられなかっただろ。脱走した時点でお前には初期化か、死ぬかの選択肢しかなかったんだ」
ミラが顔を上げる。苦しそうな顔だった。
「わからない。でもたぶんそうだ。だって先生のいない世界で生きてくなんて僕には耐えられなかったから。それならたとえ死ぬことになるとしても、先生がどこかで生きてるって希望を持ちたかった」
ふたりの会話はぼくには半分くらいしか理解できなかった。「その」教授。一緒に生きられない。どういう意味だろう。だけれど、きみがとてつもない覚悟で学院を飛び出したのはわかって、いっそうきみが、眩しくてうらやましくて。
動かない腕に、指先に、力を込める。必死で手を動かして、ベルトから銃を引き抜いて、僕はそれをすばやくカストルに向けた。
「動くな」
肘を床について上体を支えながら言う。カストルは驚いた顔で僕を見た。
「指一本でも動かせば撃ちます」
「お前」
カストルは忌々しげに顔をゆがめた。僕に向かって叫ぶ。
「聞いてただろ。ミラはこのまま死ぬつもりだぞ。それでもいいのか」
「よくはないです」
僕だってミラに死んでほしくなかった。生きていてほしいと、そう思う。だけど。
「だけど、眩しいと思ったから」
重い体に鞭を打って上体を起こした。震える腕に力を込めて狙いを定める。
「夢井先生を一途に思うミラを、眩しいと思うんです。だからそれを曇らせたくない」
明日香先生、と呼ぶきみの声の切なさが、熱が、僕の胸を揺らしてまだ響いていた。きみのこころを、僕は眩しいと思う。きれいだと思う。その美しさを穢したくなかった。その思いを貫いてほしかった。
きっと探せばあるはずだ。きみが夢井先生を忘れずにすむ方法が。もっと遠くに逃げるとか、別の場所で処置とやらを受けるとか。わからないけどきっとなにかある。だから今はともかく、ミラをここから逃がすことだけを考えたかった。
カストルは目を見開いた。それから苦々しげにつぶやく。
「そうか。お前はやっぱり、ヴェガなんだな」
言葉の意味はわからなかったから、僕は無言で銃を構える手に力を込めた。徐々に腕の感覚は戻りつつある。これなら撃てる。
「逃げて、ミラ」
そう言うと、ミラはびっくりした目で僕を見た。カストルが叫ぶ。
「ポルックス。ミラを拘束しろ」
「動くなって言っただろ」
僕も叫び返した。
「ふたりともだ。どちらかひとりでも動けば、カストルを撃ちます。僕には魔力操作なんてできない。ミラが込めた魔力を全力で撃ち出すだけです」
もっとも、背後のポルックスが動いたところで僕には見えなかった。ただミラが拘束されれば見える。そうなれば、その時点でトリガーを引くだけだ。
カストルとポルックスはミラを殺せない。せいぜい手足をもぐ程度だと言っていた。けれど僕は、カストルを殺せる。だから同じように銃を向け合っている状況でも、実質的に場を掌握しているのは僕のほうだ。
ミラは言っていた。カストルが手負いの妹を放っておくはずはないと。それならきっと、その逆も然りだと思ったのだ。ポルックスもまた、兄を危険にさらして動くはずがない。
そして僕のこの読みは当たっていた。背後からは衣擦れの音すら聞こえない。ポルックスは動かなかったのだ。
「ミラ、はやく逃げて」
「でも」
「僕なら大丈夫です」
たとえカストルたちに拘束されたところでなにをされるというわけでもあるまい。上手く言えないけれど、そんな予感があった。
ミラは唇を噛んでしばらく僕を見ていたけれど、逡巡はそれほど長くはなかった。床を蹴って立ち上がると、そのままの勢いでカストルの隣を抜けてベランダから外へ飛び降りた。
しばらくそのまま、沈黙があった。
「追わなくていいのか」
そう言ったのはカストルだった。僕は銃を構えたまま答える。
「聞きたいことがあるんです」
カストルがちいさく笑う。
「わざと残ったのか」
「わざとと言うほどでもありません。ただ、今の僕は記憶がない。知りたいことがいくつもある」
カストルがため息をついた。それから「いいさ」と答える。
「もうじき夜だ。どうせあいつは遠くまではいけない。探しながらなら、答えてやる」
