【創作大賞2024】アンチロマンス 第二話
「葵ちゃん、まって」
背後から聞こえる声を無視して歩いた。高いヒールをアスファルトに鳴らしながら、背後の少女はあたしを追ってくる。閉店のあと、クローズの作業をしていたからあたりはすでに真っ暗。人通りもない。
あたしは止まらなかった。けど走ることもしなかったから、すぐに腕を掴まれてしまう。
「なんで。バイト辞めるってどういうこと」
振り向いたとき目に入ったのはひどい顔でそう言う彼女だった。あたしはにこりと笑う。
「もう三年の秋やろ? 卒研に本腰入れなあかん時期やねん」
「嘘だ。私を避けてるんでしょ」
「そない思うんやったら、黙って辞めさせてくれへん?」
一瞬彼女がひるんだのが目に見えてわかった。それであたしはたたみかける。
「結愛も気まずいやろ」
すると彼女は子どもみたいにぶんぶん首を振った。
「気まずくない。葵ちゃんともう会えなくなるほうがやだ」
その瞳がうっすらとうるみ始める。ああ、まただ。またやってしまった。あたしは苦い思いで彼女の手を振りほどいた。
「結愛。言うたやろ。あたしは結愛のこと」
「そんなのわかんないって私も言ったでしょ!」
あたしの言葉をさえぎって結愛が叫んだ。大通りのど真ん中だ。あんまり大きい声は出さないでほしかったけれど、結愛もそれはわかっているようだった。いいや、きっと結愛のほうがよくわかっていた。抑えた声で続ける。
「いつか、私のこと好きになるかもしれないじゃない」
うるんだ瞳で結愛はあたしを見上げた。高いヒールを履いているのにそれでもまだいくばくかあたしのほうが背が高いのだ。小さい、細い、お人形さんみたいな女の子。腰まで伸ばした黒髪も、ピンクのアイラインがよく似合うアーモンド形の瞳も、かわいいと思う。
でもそれは恋じゃない。
「ならへんよ」
冷たい声が出た。けれど結愛もひるまなかった。「どうして」とあたしに噛みつくようにつっかかる。
「わかんないでしょ。誰だって誰かを好きになるようにできてるんだから。葵ちゃんだって私のこと」
「ならへんの」
結愛の言葉が鋭いナイフみたいにあたしに刺さった。胸が痛かった。痛くて、呼吸が苦しくて、水底にいるみたいに体が重くて。ぜんぶ、面倒になった。声を張り上げるようにして言う。
「あたし、ほかに好きな人できたから」
結愛が目を見開く。その瞳から、ぽろ、と涙がこぼれ落ちた。ああ、あたし、ほんまにあかんやつや。泣かせたくなかったのに。
でもええよね? 最初に刃を振りかざしたんは、そっちやったんやから。
「うそ」
結愛がうわごとのようにぼやいた。あたしは追撃する。
「うそちゃうよ」
「だ、って、まだ私と別れてからひと月も経ってないじゃない」
「うん。でも」
思わずこぼれた笑みは、自嘲だったかもしれない。
「恋に落ちるときに、そんなん関係ある?」
ぶる、と結愛が体を震わせる。顔をうつむけて、しばらく彼女は黙っていた。やがて振り絞るような声が落ちる。
「やっぱり嘘なんでしょ。私のことが面倒になったからそんな嘘つくんでしょ」
「まさか」
「じゃあ証拠見せてよ」
ばっと結愛が顔を上げた。あたしはどきりとして「証拠?」とおうむ返しに言う。
「そう。葵ちゃんの好きな人、今度会わせて」
「いや恋人とかちゃうし、あたしの一方通行やから」
「なんでもいいの。会わせてよ。それが私の納得する女だったら、私」
そこまで言って結愛は一度言葉を喉に詰まらせた。けれど逡巡のあと、彼女は声を絞り出す。
「私、あきらめるから」
そうして結愛はあたしの脇をすり抜けて行った。高いヒールで器用にアスファルトを駆けていく。あたしはとんでもないことになってしもた、といくらか肝を冷やしながら振り返った。そしてはたと立ちどまる。
街灯と月ばかりが明るい、大通りのど真ん中。電柱の陰に隠れるようにして、なんとも言いがたい表情をした男がいた。それは間の悪いことに、あたしのサークルの後輩だった。
「奇遇やね、峰岸くん」
引きつる頬で笑って、あたしはなんとかそれだけ言った。見られた。どこから? 聞きたくもないが、多分決定的な会話は聞かれているはずだ。でなければこんな微妙な顔はしない。
「あー、先輩」
峰岸くんは気まずそうな表情で顔を反らし、それからぼそりと言った。
「大丈夫ですか。今の子、元カノさん? ちょっと粘着質っぽかったですけど」
その物言いにあたしは驚いてしばらく返事ができなかった。「え」と間抜けな声がもれて、それから思いもかけず笑みがとび出る。
「今の見て言うことがそれなん?」
ほかにもっと言うことがあっただろう。先輩、レズなんですね、とか。女の子が好きなんですか? とか。あたしはそういった言葉を予想していた。だけど彼はそこには一言も触れなかった。
変な子やな、と思った。峰岸くんとはそこまで親しいわけではない。あたしの所属している映研はそこそこ人数の多いサークルだ。あたしは三年生、峰岸くんは一年生。ひとつ下ならともかく、ふたつ下の学年の子とはそれほど親密な付き合いはない。彼がどんな人なのかまでは、あたしは興味がなかった。だから彼の言葉は意外だった。
峰岸くんはちょっとだけ笑った。それから言った。
「ほんとはびっくりしました」
前言撤回。彼は、優しい子だ。
私はスマホで時間を確認する。二十三時前。今からすこしお茶しよう、という時間でもなかった。けれどここで峰岸くんを逃すのは惜しいと思った。これは好機だ。
「峰岸くん。明日時間ある? ちょっとお茶せえへん?」
「口止めですか」
「まあそんな感じ?」
峰岸くんは苦笑した。
「一限空きコマです。あと午後も」
「ほな午後に。大学やと知り合いもおるし、そうやなあ」
すこし考えてから、ぴんと人差し指を立てる。
「悪いけど、祇園まで来てくれる?」
祇園というところは基本的に観光客でごった返している。価格帯も高めだ。それゆえ学生はあまり寄り付かない。けれど駅の近く、大通りから一本逸れれば静かにお茶できる喫茶店もあった。
「好きなん頼んでええよ。おごるから」
暖色系の照明が灯る店内はほのかに暗い。一番奥の席を選んで、赤いビロード張りの椅子に腰を下ろす。メニューを手渡しながら言うと、峰岸くんはえっ、と肩をこわばらせた。
「いや、悪いです」
「ええから」
「あの俺、心配しなくても誰にも言いませんよ」
口止め料だと思われていることに気づいてあたしは噴き出す。そんなつもりはないのだけど、彼がそう言うのならそれに乗っからせてもらおうと思った。
「ふふ、実は頼みたいことがって」
「口止め以外にですか」
「そう。まあ、まずはなんか頼んでよ」
メニューを指さして言うと、峰岸くんは控えめに、けれど迷うこともなく「じゃあコーヒーを」と呟く。気が合うな、と思った。あたしも喫茶店に行けばだいたいメニューを見ずにコーヒーを頼むタイプだ。
白いエプロンを身につけた店員を呼び止め、コーヒーをふたつ頼む。それからあたしは改めて峰岸くんに向きなおった。
「昨日は見苦しいところ見せてごめんな。わかっとると思うけど、あれがあたしの前の恋人」
峰岸くんが無言でうなずく。あたしは続けた。
「バイト先で知り合って、付き合い始めたのが三か月前。で、一か月前に別れたんやけど、気まずいからバイトこっそり辞めようとしたら最終日にシフトが被ってしもて。店長に挨拶してるところをばっちり見られて追いかけられたっていうのが顛末」
はあ、と彼がまたうなずいた。微妙な顔だ。二か月で別れたのは我ながら短すぎると思うから、彼の顔もまあわかる。
「で、ここからが本題やねんけど」
あたしは小さなテーブルの上に両肘を置いて身を乗り出す。内緒話をするみたいに顔を寄せて――事実内緒話なのだが――言った。
「峰岸くん、あたしの好きな人になってくれへん?」
「は」
クラシックがかかる店内は静かで、彼の戸惑いの声は存外に響いた。彼の顔が盛大に引きつったのがおもしろくてあたしはつい笑みをこぼす。すると彼も真意に気づいたようで、「あ、ああ」とため息をついた。
「もしかして、元カノさんが言ってた好きな人連れてこいってやつ」
「話がはやくて助かるわあ。さすが峰岸くん」
肯定を返すと、彼は安心したように背もたれに身を預けた。意外と純粋なんだな、と思う。女の子には不自由しなさそうな顔をしているのに。それからさらに気づいたように、彼は体を起こした。
「一応聞きますけど、そもそも好きな人がいるっていうのが」
「嘘やねん」
ぱ、と両手を開いてみせると峰岸くんははは、と苦笑した。あたしはその手を組んで、そこに顎を乗せる。
「ああでも言わへんかったら、あの子あたしを引きずってまうやろ。そんなん不毛やん? さっさとあたしを忘れて新しいひと探したほうがええよ」
そのとき、峰岸くんは眉根を寄せた。なんとなく苦しそうな顔だった。お、もしかしてデリケートなとこやったかな、とあたしは目を細める。ややあって彼は「そうですね」と言った。
「いつか叶うかもしれないと期待し続けるほど苦しいこともありませんから」
妙に声に実感がこもっている。ああ、これは経験者やな、と思った。それくらい、恋愛の機微に疎いあたしでもわかった。
「ともかく、一回あたしと一緒にあの子に会ってもらうだけでええねん。どう?」
雰囲気を変えるようにわざと明るい声で言った。峰岸くんは「どうって」と困惑した表情を見せる。
「俺、男ですよ。元カノさんは女の子が来るって思ってるんじゃないですか」
それは、おそらくそうだろう。結愛はゲイだ。一方で、実のところあたしは結愛に一度もゲイだともバイだとも言ったことはない。だからこそ。
「あたしの好きな人が男の人やったら、あの子もあきらめてくれるんちゃうかな」
あたしの恋愛対象が女だと思うから自分にもまだチャンスがあると考えるのだ。あたしが実はノンケだったとくれば、結愛だってきっとあきらめてくれる。
あたしのことを、忘れてくれる。
はっ、と峰岸くんが息を飲んだ。その顔がすこしこわばる。
「先輩、意外とひどいこと考えますね」
「引いた?」
「いや。もっとひどいやつ知ってるので」
そう言ったときの彼の顔で、触れないほうがいい話題だとわかったからあたしはなにも追及しなかった。ふうん、とだけ言って話題を変える。
「で、どうする。受けてくれる? もちろんお礼はちゃんとするよ」
峰岸くんはしばらく考えるように壁際のステンドグラスや象牙の彫刻なんかを見ていた。あざやかな色彩が光に透けて幻想的に輝くのを、白い裸身が青い照明に照らされて神秘的に浮かび上がるのを、ぼうっと見ていた。店員がテーブルにコーヒーを置いてもなにも言わない。あたしはスプーンに乗った角砂糖にも、ミルクピッチャーにも手を付けずカップを持ち上げた。無言の時間が長いこと続いて、やがて彼が口を開く。
「じゃあ、俺からも頼みたいことがあるんですけど」
続きをうながすと彼の喉がごくりと動いた。あ、厄介ごとかも、と思うのと彼の唇が開かれるのとは同時だった。
「俺と、形だけの恋人になってくれませんか」
今度はあたしが、は、と言う番だった。彼は続ける。
「恋人らしいことは一切しなくていいんです。たまに出掛けて、そうだな、できたら一緒に写真に写ってもらえると助かります。もちろん先輩に好きな人ができるまでの間でいいので」
「なんでそんな」
戸惑いながらたずねる。すると彼は口ごもってから「すみません」と言う。
「やっぱり忘れてください」
「あたしには言われへん話?」
「先輩にはというか、誰にも」
「あたしは誰にも言われへん秘密、峰岸くんに知られてもたのになあ」
嘘だ。あたしの本当の本当の秘密は、まだ峰岸くんにも結愛にも知られていない。だけど彼はあたしがゲイだという秘密を知ってしまったと思っている。あたしの思惑通り、彼はぐっと唇を噛んだ。
「先輩って、やっぱちょっと」
「性格悪い?」
「かわいくはないです」
そうはっきり言ってしまう彼は結構かわいい、と思う。あたしは笑った。すると彼は観念したのか、ゆっくりと話し始めた。
「好きなやつがいて。小学校のころからずっと惚れてるんです。でもそいつが最近、『自分のことが好きな人が嫌いだ』って言って。自分から告白した相手でも、そいつが自分に好意を向けてくるようになった途端振ってしまうんです」
ああ、そういうことか。話が読めた。
「それで、自分の気持ちがばれへんように恋人作ってしまおっていう魂胆?」
「はい。誰でもよかったんですけど、うわべだけだからできたら俺のこと眼中にない人がよくて」
彼が神妙にうなずく。あたしはなるほどねえ、と言いながらコーヒーカップを持ち上げた。
たしかに、恋人を作れば彼の恋心はカモフラージュできるだろう。好きな子に自分の気持ちがばれることはない。嫌われることも、逃げられることもなくなる。友人としてずっとそばにいられる。
それにあたしは男を好きにはならないから、うわべだけの恋人関係に本物の恋が芽生えることもない。
それにしても、「自分のことが好きな人が嫌い」ときたか。
「蛙化現象やね」
「かえ、るか? なんですか」
「蛙に化ける、で蛙化。自分が好意を寄せてた相手でも、好意を返された途端嫌いになってまうっていう心理学用語」
「名前がついてるんですか」
彼が驚いた声を上げる。峰岸くんはいつもクールな印象が強いから、そういう表情は意外だった。
「学術論文もまだ少ない、マイナーな概念やけどね」
「そういえば先輩、心理学専攻でしたっけ」
「うん。たまたま同期が蛙化現象で卒論書こうとしてて、それであたしも初めて知ったんやけど」
「よくあることなんですか?」
どうやったかな。あたしはカップをソーサーに戻しながら思い出す。
「研究によって数値のばらつきが大きいけど、そこまでめずらしい現象でもなかったと思うよ」
「それって原因とかはっきりしてるんですか」
食いつきがすごい。相当悩んでいたのだろう。あたしはちょっと苦笑して答えた。
「たしか同期が今ちょうどアンケート取ってるから、結果横流ししよか。自由記述で原因についての心当たりを書く欄を設けてるって」
「い、いいんですか」
「まあええんちゃう?」
匿名のアンケートだし、どうせ論文にする内容なのだ。何なら彼も共同研究者にでもなってもらえばいい。彼は頭が切れるとサークル内でも評判だから何かの役には立つだろう。
「既存研究もたしかうちの大学の図書館にあるから、一回読んでみたら?」
「そうします」
「あとは……リスロマンティックの研究なんかが参考になるかもしれへんけど。あ、いや、自分から告白するような子やったらリスロマンティックは違うかな」
「リスロマンティック? それはなんですか」
たずねられて、しまった余計なことを言ったと気づいた。リスロマンティックの話なんてしなければよかった。けれどこんなところではぐらかすのも怪しいし、あたしは仕方なく口を開く。
「好きな相手から同じ感情を返してもらわんくてもいいって思うセクシュアリティのこと」
言いながらコーヒーに視線を落とす。彼の顔を見られなかった。どういう意味ですかとか、なんですかそれとか、そんなことを言われたくないな、と後ろ向きな感情が頭をもたげてくる。
けれど聞こえてきたのは予想しない言葉だった。
「そんなセクシュアリティがあるんですか。要するに両思いにならなくていいってことですよね?」
顔を上げると、真剣な顔で考え事をする彼がいた。あたしは毒気を抜かれて二、三度まばたきする。
「そう、やけど」
「蛙化は現象だから、原因が取り除かれれば治ることもあるのかもしれないけど……リスロマンティックはセクシュアリティだから、治ったりするものじゃない、というかそもそも治す対象じゃないんですよね」
「そ、う」
セクシュアリティというのは性的指向および恋愛的指向のことだ。異性を好きになるのはヘテロロマンティックおよびヘテロセクシュアル。同性を好きになるのはホモロマンティックおよびホモセクシュアル。他者に性愛感情を抱かないのがアセクシュアル。そして好きな相手から恋愛感情を返されることを望まないのがリスロマンティック。まだまだあってこれはほんの一部にすぎない。セクシュアリティはそのひとのアイデンティティであって、現象や病気とは異なる。
ゲイ――つまりホモセクシュアルに対する偏見はすこしずつ減ってきている。だけどアセクシュアルやリスロマンティックはまだまだ世に知られていないセクシュアリティで、出会い頭に否定する人も多い。ゲイには理解を示していた教授が、アセクシュアルの話になるとてんで意味がわからないというような反応を見せたこともある。
人はみんな誰かを好きになって、その人から愛を返されて、そしていつかは肌を重ね、結婚するようにできている。それはあまりにも強固な神話だった。
「峰岸くん、頭やわらかいね」
あたしは目を伏せてコーヒーカップのふちを指でなぞった。
「急にリスロマンティックとか聞いて理解できひんとか、わけわからんとか思わへん?」
峰岸くんは「ああ、まあ」と呟いた。それからすぐにきっぱりとした言葉。
「理解はできません」
やっぱり。あたしはちいさく笑った。期待なんてするべきじゃない。理解なんてできるわけないのだから。誰からも理解なんてされないのだから。
わずかな動揺を隠すようにカップを手に取った。それをかたむけたとき、彼が「でも」と言った。なんでもないことを言うような口ぶりだった。
「理解できるっていうのがそんなに大事なことだとも思いません。理解できなくても知ることはできるじゃないですか」
あたしは驚いて、ちらと視線を上げて彼を見た。彼はテーブルの木目を目で追いながら続ける。
「俺、わからないんです。好きなやつのことが。あいつのこと理解できない。でも現に、あいつみたいな人間がいるってことを知ってる。あいつがなにをこわがってるのか、知ろうとすることはできる」
すこしずつ照れくさくなってきたのか、しりすぼみに声は消えていく。だから、その、と彼が意味をなさない言葉をこねはじめたところであたしは「へえ?」と口角をつりあげた。
「べた惚れやね」
「でなきゃ偽装恋愛とかしないでしょ」
「たしかにい」
頬杖をついて笑う。彼は居心地悪そうにしていたけれど、もう照れてはいなかった。肝が据わっているな、と思う。その子を愛することにかけて。
「わかった。ええよ」
目が合う。あたしはうなずいた。
「峰岸くんの恋人になったげる」
「いいんですか。自分で言っててかなりめんどくさい頼みだなという自覚はあるんですけど」
彼の言う通り重めの依頼だとは思う。「一回だけ好きな人の振りをする」の見返りが「無期限で恋人の振りをしてほしい」というのはあまりつり合いがとれていない。けれど彼の真剣さには思うところがあったし、結構彼のことが気に入ってしまったし、それにあたしにとってもメリットはあった。
それを言うことはしないけれど。
「ほなこれからのデート代は全部峰岸くんのおごりな。それでチャラ」
「先輩ってほんとかわいくないですね」
「葵」
人差し指を突きたててすかさず訂正すると、彼が首をかしげる。
「恋人なんやろ? 葵って呼んで。峰岸くん下の名前は?」
「和斗です。峰岸和斗」
「そう。よろしくな、和くん」
彼はむずがゆそうに顔をしかめたけれど、すぐあきらめたようにため息をついた。「よろしく、葵さん」と言う声は存外にはっきりしていて、ああやっぱり肝が据わっとるわ、と思うのだった。
あたしと結愛は同じバイト先で出会ったけれど、通っている大学は違う。あたしは国立で結愛は私立。そのちょうど中間くらいに出町柳があるから、そのあたりはどこで知り合いと出くわすかわからない。実際あたしと結愛のバイト先は出町柳にあって、峰岸くんに――和くんに修羅場を見られたのもそこでのことだった。
あたしに「好きな人」を連れてくるよう結愛が指定したのは四条河原町だった。駅前のチェーンのコーヒーショップ。知り合いに出くわす可能性もあったけれど、適度なざわめきがあってみんな他人に関知しない。それに「好きな人」を引き合わせるだけなら、聞かれてまずいような会話にもならないだろう。
二階にいる、という短いメッセージを受け取って、あたしたちは注文もせずに二階に上がった。結愛は壁際のソファに座ってスマホを落ち着きなく触っていた。
「結愛」
呼びかけはわずかにかすれた。それであたしは自分が緊張していることに気づいた。気づけばなんだか止められなくて、ぎゅうと拳を握りしめる。
結愛は弾かれたように顔を上げた。その目があたしの隣の人を捉えて大きく見開かれる。「なんで」と小さな声がもれた。
あたしはそれを無視した。
「ごめんな、待った?」
「あ、いや」
すい、と結愛が視線を下げる。なにかの間違いだと言い聞かせるように。あたしはそれも、無視した。
「これがあたしの彼氏。峰岸和斗くん」
顔を伏せたまま結愛がぶるりと体を震わせる。「え?」と呟く唇もまた震えていた。
「どういうこと? 彼氏って、なんで」
なんで男なの? そういう意味の問いかけだったかもしれない。だけど結愛はそう口にはしなかったから、あたしはやはり、結愛の真意は無視した。
「あはは、ごめん。急展開があって付き合うことになって。びっくりした?」
結愛は顔を上げなかった。そのまま鞄をひっつかむと、あたしたちの隣をすり抜けて去っていってしまった。
その頬に、涙がすべり落ちるのが見えた。
そのとき、自分のやったことはとんでもない間違いだったんじゃないかという直感があたしの中を駆け抜けた。鋭い針みたいに心臓を刺す直感だった。
彼女に対して誠実でいるために彼女に対して嘘をついた。彼女に幸せになってほしくて彼女を傷つけた。結局あたしのやったことは、彼女を口実にしてあたしが楽になりたいだけのただの自己満足だったんじゃないか。
そう理解して、また水底にいるように体が重くなった。
「せんぱ、葵さん」
和くんの声が聞こえて顔を上げる。彼はあたしの表情を見て眉根を寄せた。それから窓際のカウンターを指さす。
「座っててください。俺、なんか買ってくるので」
ありがとう、と言ったとき、あたしはちゃんと笑えていただろうか。
窓からは四条河原町の交差点が一望できる。観光客も市民も学生も、皆ないまぜになって人ごみに溺れるのが河原町だ。年齢も国籍も、なにもかも違う人々の群れ。それを窓際に座って俯瞰で眺めている、はずなのに、本当に溺れているのはあたしなんじゃないかという気がした。群れからはぐれて、一人きりで深海に沈んでいるような感覚。呼吸がしづらかった。みじめだと、思った。
すっと目の前にトレイを差し出される。コーヒーがふたつ。右横を見上げると、和くんが「どうぞ」と言った。
「ありがとう」
「コーヒーでよかったですか」
「うん、これがいい」
今度はちゃんと笑えたはずだ。和くんはあたしの隣に腰を下ろして、自分の分のコーヒーをトレイから下ろした。
「付き合わせてもてごめんな。あんまり見たいもんでもなかったやろ」
「まあ最初から穏やかに終わるとも思ってなかったんで」
「そらそうか」
あたしよりこの子のほうが起こりうることを冷静に見据えていたのかもしれない。そう考えるとなおのこと自分がひどい人間だと思えて、あたしはついため息をついた。
「これは絶交かなあ」
「ぜっ」
和くんはぎょっとした顔であたしを見る。あたしはへら、と笑ってみたけれど、逆効果みたいだった。うろんげな目があたしを捉える。
「絶交したいからこんな作戦に出たんじゃなかったんですか」
「あはは、しばらくは疎遠になるやろなとは思ってたけど、ほとぼり冷めたころにぬるっと友だちに戻れたらええなとも思ってた」
結愛のことは気に入っていた。それは決して恋ではなかったけれど、友情と呼ぶに足るものだったと思う。だから本当は、こんな形で縁を切りたくなどなかったのだ。彼女があたしのことをあきらめてくれさえすれば、きっといい友だちに戻れると思っていた。
だけど結愛の涙を見て、それがもろい幻想なのだと思い知らされた。あたしは恋、というものを見くびっていたのだ。
「葵さんって、ちょっと難解ですね」
むずかしそうに和くんが呟く。
「あたしからしたらみんなのほうが難解やねんけどなあ」
あたしはただあたしの普通を生きているだけだ。単純で明快でこれ以上ないくらいわかりやすい生き方、のはずなのに、いつもそれがみんなに理解されない。
和くんは首をかしげる。
「葵さんから振ったんですよね。あの子のことが嫌いになったんじゃないんですか」
「ううん。嫌いになんてならへんよ。でも」
白いカップを持ち上げる。ふう、と熱いコーヒーに息を吹きかけた。
「最初から好きでもなかってん」
コーヒーを口の中に含むと、まだ熱かったそれが舌先をしびれさせた。すぐにざらりとした痛みがやってくる。
「好きじゃなかったけど、告白されたから付き合い始めたってことですか」
「最初は断ったよ? でも二回も三回も告白されたから、これは折れるしかないなと思って」
カップをソーサーに戻す。温かいそれを両手に収めながらあたしは話を続けた。
「同じ気持ちは返されへんと思う、ってちゃんと言った。あの子はそれでもいいって。だから付き合い始めたんやけど、だんだんあの子の思いに応えられへんことが申し訳なくなって。ずっと騙してるような罪悪感があって」
あたしの隣で結愛が幸せそうに笑うたびに、自分が嘘をついているような錯覚に襲われた。あたしは結愛を騙しているんじゃないかという疑念が晴れなかった。彼女に対して誠実でありたかった。ありのままのあたしと友だちになってほしかった。
だから結愛に、一方的に別れを突きつけた。
和くんはしばらく考えるように視線を伏せていた。それから「ひとつ聞いてもいいですか」と顔を上げる。あたしは「どうぞ?」とうながした。彼は小声で言う。
「もしかして葵さんは、レズビアンじゃないんですか」
鋭いな、と思った。いや、あたしももうバレていいかと投げやりな気持ちで話していたから、気づかれるのは当然だったかも。あたしは笑う。
「うん。あたしはゲイでもバイでもないよ」
私は女の子を好きにはならない。女の子に、恋をしない。
「それでなんで元カノさんは葵さんがレズビアンだと勘違いしてたんですか」
「んん。たぶんあたしが『恋愛経験はないけど付き合うなら女の子のほうがええかも』とか適当なこと言ったから?」
「て、適当すぎる」
だってあの頃は結愛がゲイだなんて知らなかったのだ。それに嘘は言っていない。女の子のほうが丸っこくてふわふわしてかわいいし、話だって合うし。付き合うなら男の子より女の子のほうがいい、と今でも思っている。
けれど和くんには理解できなかったようだった。困惑ばかりの表情でなんとか言葉をひねり出そうとしている。
「付き合うなら女の子のほうがいい、けど、レズビアンじゃないんですよね? バイでも」
「うん」
言ってしまおかな。もうどうでもええかも。半分はそんな投げやりな気持ちで、もう半分は、この子なら理解してくれるかもしれない――いや、否定しないでいてくれるかもしれない、という胸のうずくような期待で、あたしは口を開いた。
「でもヘテロでもない」
和くんは戸惑いを顔に浮かべてあたしを見た。あたしはごくりと唾を飲む。ああ、やっぱり期待してるんだと思うと自分がおかしかった。
「あたし、恋愛感情がないねん」
何でもないことのように言えただろうか。わからない。心臓の音が大きくて、自分の声がうまく聞こえなかったから。
和くんは眉根を寄せた。それから困惑はそのまま、すぐに「なるほど」と言った。その一言だけだったけれど、それが必要で、あたしはくしゃりと笑ってしまった。
やっぱり彼は否定しなかった。それだけで十分だった。
「アロマンティックっていうやつ。男も女もそれ以外も好きにならへんの。やから結愛に対してどう接したらええんかわからんかった。結愛がほんまは期待しとんの知っとったから。あたしがいつか自分のこと好きになるって、結愛は信じとった」
その期待に応えられないことが苦しかった。
結愛には幸せになってほしいのに、あたしじゃ結愛を幸せにはしてあげられない。あたしの隣で、あたしからの愛を信じて笑う結愛のことをかわいそうだと思った。彼女をかわいそうだと思う分だけ、誰かから責められているような気がした。それが苦しくて、みじめになって、あたしは。
「やから、こうするしかなかってん」
いつか傷つけないために、今傷つけることを選んだ。誠実でいるために嘘をつくことを選んだ。
いいやもうわかっている。そんなのは口実だ。あたしはただ、自分が傷つきたくなかっただけなのだ。恋愛感情がない自分は出来損ないで、恋愛できない自分は人生を損していて、結愛に応えてあげられない自分は冷たい人間。そんな叱責から楽になりたい一心で嘘をついた。彼女を傷つけた。最低だ。
「葵さん」
名前を呼ばれて顔を上げる。彼と目が合った。
「泣かないんですか。さっきからずっとひどい顔してるのに」
何かと思えば、そんなこと。あたしは笑った。あいかわらずひどい笑顔である自覚はあった。
「涙出えへんの。アロマンティックは冷たい人間ってほんまなんかな? あの子を泣かせといてけろっとしとるとか」
「そうじゃなくて」
ほんのわずかにあきれたような色をにじませて彼が言う。
「あんたもつらかったんだろ。恋愛感情がないのにそれを求められるって、きつかったんじゃないですか」
――誰だって誰かを好きになるようにできてるんだから。
脳内で結愛の声がした。あたしを否定する声。
そうだ、つらかった。求められるたびに自分が透明になっていく気がした。でもそんなの今更だ。初めてカミングアウトした友人たちも、ゲイには理解を示した教授も、お母さんも。みんな一様に口をそろえて言うのだ。「まだ運命の人に出会ってないだけだよ」と。
もう否定されるのには飽きた。どうせ誰にも理解されないのだから、わかってほしいなんて期待して傷つくほうが馬鹿なのだ。だからつらかったけれど、苦しかったけれど、そんなことで今更涙なんて出ない。
だけど。
「なに笑ってるんですか」
和くんが眉間にしわを寄せて言う。そう言われてやっと自分がにやついていることに気づいた。あたしはちいさく笑い声をもらす。
「あのとき、和くんが通りがかってくれてよかったなあと思って」
やっぱり涙なんて出っこない。だって今のあたしには、この子がいるのだから。
「そういえば」
トレイを返却台に返しながら和くんが言う。
「ほんとにいいんですか、俺と付き合うの。恋人とかもうこりごりじゃないですか?」
「んー、まあ和くんは絶対あたしのこと好きにならんっぽいし? あとあたしにもメリットはあるからなあ」
階段を下りながら言うと、うしろの和くんが「メリット?」と問いかけてくる。
「アロマンティックって理解されにくいからさ。ちゃんとカミングアウトしたのに、いまだに顔合わせるたびに『彼氏できた?』ってうるさい友だちとかもおって」
むしろカミングアウトしたから余計心配されている節がある。大丈夫やで、いつかちゃんと好きな人ができるからな、と熱弁されるのにももう疲れた。親だってそうだ。年頃の娘にいつまでも彼氏ができないことを気に病んでいる。
「ああ、それで」
「うん。彼氏おったら、そういうめんどくさいのからも解放されるし」
親も安心させてあげられる。
店の外に出ると秋風が心地よく吹き抜けていく。京都は夏は暑く冬は寒い土地だから、今くらいの気温は貴重だった。
「というわけであらためてよろしく、和くん」
ぱ、と振り返って言うと彼は「こちらこそ」と笑った。悪くない笑顔だと思った。
「このあとどうします。帰りますか」
「せっかくやし付き合ってよ。烏丸四条に小さい映画館あるん知ってる? シネコンとかではやってへん映画もやっててさ」
「ああ、俺行ったことあります」
さすが映研。あたしは「よし」とうなずく。
「ほな行こ。チケット代も和くん持ちな」
「なんでですか」
「デート代全部和くんのおごりって約束したやん」
「葵さんにも付き合うメリットあるなら約束は反故でしょ」
踵を返して歩き出す。すると和くんはすぐにあたしと肩を並べた。あたしたちはふたりで、ゆっくりと、年齢も国籍も何もかも異なる人々の群れの中を泳いでいった。
