【創作大賞2024】アンチロマンス 第三話
あたしたち、ずいぶん遠くまで来てもたね。
葵ちゃんはベッドの上で重たいカーテンを見つめながら言った。朝だというのに薄暗い部屋には光が差さない。一条だって差さない。昨晩は彼女が光だったのに。まぶしさに私は手をかざした。この光が隣にある幸せに口元を覆った。それなのに今は、彼女は暗闇に沈むばかりだ。
私はベッドから身を起こして、葵ちゃんのむきだしの肩に触れようとした。けれど葵ちゃんはふいと体をそらして私の手を避けた。焦燥が胸につのる。
「遠くまで来たことが不満なの」
葵ちゃんは私を見た。私は続ける。
「私は葵ちゃんとならどこへだって行ける。どこへだって行きたい」
葵ちゃんはにこりとも笑わなかった。薄暗がりの中に沈む暗い瞳で私を静かに見ていた。白い胸が、ゆっくりと息を吸ってなだらかに膨らんだ。
「あたしは行けへん。ここで行き止まり。もうこの先はないの」
あ、と思った。目が覚めてすぐ、葵ちゃんを見たときから感じていた嫌な予感が確信を持って胸に迫る。
「私が、葵ちゃんの羽をむしったって言いたいの」
葵ちゃんは昨日、私の背中をなでて「羽が生えとる」と言った。「恋の翼や」と。「なあに、それ」と私は返した。「シェイクスピア」そうして彼女はどこか上の空でこうも言った。「恋する人にはみんな羽が生えてるんや」
どこへでも飛んでゆけるはずだった葵ちゃんの羽。それを私がむしり取ってしまったとでも言うのか。けれど葵ちゃんは首を振る。
「最初から羽なんてなかってん。あたしにはね」
でも結愛にはある。葵ちゃんはそう言って私の胸の真ん中を指さした。
「結愛はあたしを連れてここまで飛んできた。空の上はきもちよかったよ。キスするんも、抱きしめ合うんも、その先も。きらいちゃうかった。でもそれだけ。あたしがほしかったのはこれじゃない」
「じゃあ何がほしいの」
私は葵ちゃんの指先を捕まえた。今度は葵ちゃんは素直に捕まえさせてくれた。
「なんでもあげる。葵ちゃんのほしいものならなんでも」
捕まえた指先を手繰り寄せて、私は葵ちゃんの唇にキスをした。葵ちゃんは抵抗しない。けれど触れれば触れただけ、心が離れていくのを感じていた。ここにいるのに、同じ体温を分け合っているのに、こんなにも遠い。
「結愛には無理」
「そんなのわからないでしょ」
「無理やねん。あたしらは違いすぎるから」
「違いがなんだって言うの。そんなもの恋をしたら関係ない」
私はいらだって葵ちゃんの肩を掴もうとした。けれど今度は葵ちゃんは抵抗した。
「あたしは恋はせえへんの」
私の手が止まる。葵ちゃんはまっすぐ私を見た。
「これまでもそうやったし、これからもそう。あたしの人生に恋は必要ない」
振られたんだ、とわかった。わかったけど認めたくなかったから、急速に冷えていく胸の内には気づかないふりをして私は叫んだ。
「そんなのわからない。いつか恋をするかもしれない。私を好きになるかもしれない」
「ならへんよ。ならへんの。あたしはそういうふうにはできてない」
「決めつけてるだけじゃない」
「決めつけてるんは結愛のほうや」
葵ちゃんは冷たい目をしていた。私は言葉を飲み込む。何も言えなかった。
「ひとは必ず恋をするもんやって、恋は誰にでも訪れる感情なんやって、結愛は決めつけてる」
葵ちゃんの言葉が、私にはどうしても理解できなかった。誰だっていつかは恋をする。今していなくたって、そのうち必ず好きな人ができる。そんな当たり前のことを、どうして葵ちゃんが否定するのかわからなかった。葵ちゃんはまだ恋を知らないだけだ。葵ちゃんだって、いつか必ず恋をする。そうでなければおかしい。
なのに葵ちゃんは、反論を許さない瞳で私を見ていた。
「結愛にはわからんやろうけど」
そんな言葉で私を拒絶して、葵ちゃんは議論を終わらせてしまうつもりらしかった。ベッドから立ち上がり、服を着始める。私は拳を握りしめた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。何が駄目だったんだろう。なにも考えられない頭で必死に考えようとして、私は葵ちゃんの背中を見つめた。
正直に言って私の一目惚れ。もう完全にドタイプド真ん中だった。
重たげな奥二重のまぶたも、垂れ目がちな瞳も、光に透けるふんわりしたボブも女性らしい曲線的なからだも。バイトの初日、葵ちゃんに「初めまして。わからんことがあったらなんでも聞いてな」と微笑みかけられたときから、私は彼女に恋をしていた。
ゲイやレズビアンといったクィアにとって、パートナーを見つけるハードルはヘテロの人たちよりも高い。ヘテロの人たちが考えもしないであろう、「あの人は私と同じセクシュアリティなんだろうか?」という問題に私たちクィアは頭を悩ませることになる。
私のこれまでの恋は散々だった。初めて恋をしたのは中学生のとき。一つ年上の先輩に勇気を出して告白したら、「ごめん、そういうふうには見られない」と言われて玉砕。二人目には「たぶん気の迷いだよ」。三人目には「今まで私のことずっとエロい目で見てたの?」で、やっとのことで手に入れたと思った四人目は実はすでに彼氏がいた。彼女はただ「女の子と一回してみたかったから」という理由で私の告白を受けたのだと言い、そしてその言葉の通り「一回」を終えたらあえなく私は捨てられた。彼氏がいるのになんで私と浮気したの、と聞けば、彼女はこう言った。「だって女の子はノーカンでしょ?」
愛した人から愛されたい。私の望みはそれだけだった。それだけがいつも叶わなかった。
散々なことばかりだったけれど、ビアンである、ということに対して自己嫌悪したことはない。私は私の性を、セクシュアリティを、一度も恨まなかった。
代わりに私は世界を恨んだ。私をいびつなものだとのたまう世界を、私をつまはじきにする世界を、私を苦しめる世界を恨んで、呪って、憎んで。そんなどすぐろい感情でがんじがらめになっていた私の前に、葵ちゃんは現れた。
「おもしろかったね」
ストロベリーアイスを口に運びながら言う。
出会ってからすぐ、私は葵ちゃんに猛アタックを始めた。連絡先を交換して、ごはんに誘って、彼女が映画が好きだと言うから一緒に映画を見に行った。それは河原町三条の映画館でありきたりな恋愛映画を見て、近くのカフェで大きなパフェに取り組んでいるときのことだった。
「結愛はああいうの好きなん?」
チョコミントのパフェを崩しながら葵ちゃんが言う。私は驚いて「えっ」と言ってしまった。
アイドルが主演を務める青春恋愛もの。評判も良かったし、実際おもしろかったと思う。実のところ私はこの監督の作品が結構好きで、前作も気に入っていた。だけど葵ちゃんの言葉からはなんとなく不満が透けて見えた。
「葵ちゃん、おもしろくなかった?」
おそるおそるたずねると葵ちゃんは苦く笑った。「あー」と呟く声。
「おもしろかったよ。原作は読んでないけど、うまくまとめられとったと思う。主演の子も好演やったし」
葵ちゃんはそう言ってチョコミントアイスに視線を落とした。それをスプーンでていねいにすくいながら続ける。
「でもなんていうんかな。漫画も小説も映画も、男の子と女の子が恋に落ちる話ばっかやなあと思って」
どきりとした。その物言いが、なんだかクィアのそれに思えたのだ。
「恋愛ものきらいなの?」
動揺を悟られないよう、つとめて平静に問いかける。甘ったるいはずのストロベリーパフェの味がわからなくなった。
「きらいちゃうよ。きらいちゃうけど、今はちょっとなあ」
「なにかあったの」
「ゼミの男子に告られて」
今度は別の意味での動揺が私をおそう。「うそっ」と声が出た。
「ど、うしたの、それ」
「断ったよ」
あっけらかんと葵ちゃんは言う。私は心の中で安堵のため息をついて、それから「ええ、なんで?」と聞いた。あくまで女子のなんてことない恋バナに聞こえるように、軽い調子で。
「べつに好きちゃうかったし。あたし、ちょっと男の子って苦手やねんよな」
また心臓が大きく音を立てる。私はアイスが溶けるのも忘れて、スプーンを口に運ぶ葵ちゃんの顔を見つめた。
「今まで付き合った人となんかあったとか?」
「ううん。あたし恋愛経験ないから。ただ男の子ってときどきこわくない? 今回告ってきた子もそんな感じで。それで今は恋愛ものはしんどく感じたんかも」
葵ちゃん、付き合ったことないんだ。美人なのに。優しいのに。きっとモテただろうに。それなのに誰とも付き合ったことがないというのは、葵ちゃんにその気がなかったからだ。
私はスプーンを握りしめた。
「じゃあ、女の子は」
何を言ってるんだろうと自分でも思った。だけど可能性がわずかでもあるならそれに縋りたかった。チャンスを逃したくなかった。
「女の子? べつに女の子は苦手ちゃうよ。そうやなあ、もし付き合うんやったら女の子のほうがええかも」
そう言って葵ちゃんは笑った。
私は喉まで出かかった言葉を押しこめて水のグラスを手に取った。「じゃあ、私は?」そう言いそうになるのを必死で耐えて、水ごと言葉を押し流す。
河原町三条の珈琲屋といえば京都の学生たちの間ではおなじみで、ショーケースにずらりと並んだパフェのサンプルを見たことがないものはいない。河原町のあたりで遊んでいて甘いものでも食べたいとなれば、必ず候補には上がるお店だ。そんな誰がいるかわからない場所でカミングアウトなんてすべきじゃなかった。
落ち着け、落ち着いて、私。
そう言い聞かせて生クリームをすくう。やっと味のわかるようになったストロベリーパフェは、甘い、舌のとろけそうになるほど甘ったるい味がした。
パフェグラスを空にして店を出ると鼓膜に雨音が突き刺さった。私はげっと顔をしかめる。
「どうしよ、傘持ってない」
六月も末、梅雨真っ只中だというのに油断していた。ここから三条駅まではどうしたって雨に濡れる。すると隣の葵ちゃんが「あたし持っとるよ」と鞄から折り畳み傘を取り出した。
「一緒に入ろ」
「いいの」
「あかんとか言うわけないやん」
にこりと笑いかけられて、どきどきと心臓がうるさかった。私は顔を伏せて「ありがとう」とだけ言った。
たたん、たんと雨粒が傘の上で踊る。初夏の、蒸し暑い空気が服の下に入り込んできてべとべとした。でも汗をかいているのは、それだけが理由じゃなかったと思う。
「パフェ、大きかったからお腹いっぱいになっちゃった」
「結愛のやつ甘そうやったな」
「おいしかったよ」
ストロベリー生チョコマシュマロパフェだったか、ストロベリーマシュマロ生チョコパフェだったか、とにかくそんな名前の。私は甘いのが好きだから、大きかったけれど重いとは思わなかった。
「あたしたぶん胃もたれしてまうわ。チョコミントくらいがちょうどええ」
「私チョコミント駄目なんだよね。不味くない?」
ミントがそもそもあまり好きじゃない。どう考えたって歯磨き粉だとしか思えないのだ。どうしてあんなものを食べるのか不思議でならない。すると葵ちゃんは「残念やわあ」とため息をつく。
「結愛とはわかりあえへんみたいやね」
「うそっ私もチョコミントだいすきですっ」
「ほんま? ほな今度一緒に西陣のチョコミント専門店行かへん?」
私はうっと言葉を詰まらせる。「葵ちゃんとお出かけ」と「チョコミント回避」がぐらぐらと天秤の上で揺れた。突然黙り込んだ私に、葵ちゃんは声を立てて笑う。
「冗談やって。ええよ、別の子誘って行くから」
それも嫌だ、と思ったけれど言えなかった。私はこっそり唇を噛む。
私が水たまりを踏んでしまったのは、三条大橋にさしかかったところだった。ぱしゃ、と跳ねた雨水が私たちの靴下を濡らす。「ごめん」ととっさに謝ると、葵ちゃんは「ええよ」と答えた。
「こういうの、いっつもあれ思い出す。『雨に唄えば』」
知ってる? と問われて私はこくこくうなずく。それは幼いころ劇場で見てから、私の一番好きなミュージカルのひとつだった。
「私、あれ好き」
「あたしも。とにかく明るい映画が見たいときは見返す」
そう言って葵ちゃんは『雨に唄えば』を口ずさんだ。雨音をオーケストラにして、涼やかな彼女の声が私の耳元に届いた。
好きだな、と思った。
「ええよな、この歌」
彼女の声が三条の空に吸い込まれて消えていく。今だ、と思った。人通りはあるけれど、雨音がうるさくて誰も私たちの会話なんて聞いていない。雨のカーテンに阻まれて、今、私たちは世界で二人きりだった。だから今しかないと思った。
「でも『時計じかけの』」
「葵ちゃん」
声が被る。彼女がなにを言おうとしたのか気にならないわけではなかったけれど、そんなことより今ははやくこの気持ちを聞いてほしかった。
葵ちゃんは立ちどまって「なに?」と私を見た。私はごくりと唾を飲む。
「好き」
言ってしまった、と思った。驚いた顔の葵ちゃんを見ていられなくて顔を伏せる。たたん、たんと傘をたたく雨粒の音だけがうるさかった。
どれくらいそうしていたかわからない。私にとってはずいぶん長く感じられたけど、そうじゃなかったのかもしれない。葵ちゃんからの返事が聞こえたのは、足の先から侵食する冷たさが心臓のあたりに達したころだった。
「ごめん」
顔を上げられなかった。
ぎゅっと葵ちゃんの腕に回した手を握りしめる。葵ちゃんはぴくりとわずかに震えたけれど、「ごめん」以外の言葉は言おうとしなかった。
「女は無理?」
うつむいたままたずねる。すると今度はすぐに返事があった。
「ちゃうよ。性別は関係ない」
「だったら」
顔を上げると、悲しそうに顔をゆがめる葵ちゃんと目が合った。そんな顔をするな。そんな顔をするんだったら。
「付き合ってよ。好きじゃなくていいの。今は私のこと好きじゃなくていいから、私の恋人になって」
葵ちゃんは困惑を瞳に映して私を見ていたけれど、やがてふいと視線を背けた。
「あたし、結愛の気持ちに応えられへんから」
それだけ言って葵ちゃんは歩き出した。「行こ。濡れてまう」とうながされて、私も引きずられるようにして歩き出す。
応えられないってどうして? そんなのわかんないでしょ。
葵ちゃんは恋愛経験がないと言った。まだ誰も好きになったことがないのだ。だったら女を好きになる可能性だってあるはずだ。ううん、その可能性のほうがきっと大きい。言ったじゃない、女の子と付き合うほうがいいって。ならその相手は私だっていいでしょう。
付き合っているうちに相手のこと好きになるなんて、よくある話じゃない。
三条の駅に着くまで、私は葵ちゃんの腕を放さなかった。彼女はなにも言わなかった。言ってくれなかった。
その次の日はひどく落ち込んで、私はベッドから起き上がれなかった。大学もサボった。でもいつまでもそうしているわけにはいかなくて、その翌日のバイトは出勤した。そしたら間の悪いことに葵ちゃんとシフトが被っていて、私たちはロッカー室で顔を合わせるなりぴたりと固まってしまった。
やだな。もう帰ろうかな。そう思った矢先、葵ちゃんが口を開いた。
「こないだは風邪ひかへんかった?」
いつもと同じ調子でそう言って、葵ちゃんはエプロンをつけ始めた。私はめんくらって答える。
「え、うん、大丈夫」
「よかった。あ、こないだ見た映画の監督の過去作品、結愛が好きやって言ってたやつ。見たよ」
私はその場から動けなかった。トートバッグを肩からかけたまま、ぎくしゃくと「どうだった」と聞いた。
「おもしろかった。こないだ見たやつより好きやったかも」
にこにこと言って、葵ちゃんはロッカー室を出て行こうとする。彼女がドアノブに手をかけたところで、私はとっさに「あのさ」と口を開いた。彼女が振り向く。ああ、どうしよう。手のひらには汗がにじんだけれど、こうなったらもう止まれなかった。
「ほかにもおすすめの作品、あるの。今度一緒に見ない」
一度走り出したら、あとは行きつく場所までわき目もふらず走るだけだ。たとえそこが崖っぷちの行き止まりなのだとしても。
葵ちゃんはぱっと笑った。
「うん。ええよ」
そんなわけで、二度目の告白は今出川のカラオケで行われた。私はレンタルしてきたDVDをデッキに入れることもなく、部屋のソファに座った途端「この前の話なんだけど」と葵ちゃんに向きなおったのである。
「うん?」
「だから、告白」
葵ちゃんは私の隣ではて、と首をかしげていたが、私が「告白」と言うと顔をしかめた。
「まだその話続いとったん」
「ひどくない? 好きだって言ったじゃん。そんな相手とふたりきりになるんだから覚悟しといてよ」
「すっぱりあきらめてくれたんかなあと思ってたんやけど」
はあ、とため息をついて、葵ちゃんはまっすぐ私を見た。
「あたしには応えられヘんよ、結愛。悪いけどあきらめて」
きっぱりした物言いだった。だけど今度は私もひるまなかった。
「やだ。私と付き合って、葵ちゃん」
ずいと体を乗り出して言う。
「今すぐ私のこと好きになってとか言わないから。私にもチャンスをちょうだい。好きにさせてみせるから」
葵ちゃんの手に自分の手を重ねて言う。葵ちゃんの手はつめたかった。
「それは無理や」
「わかんないでしょ」
「あたし」
そこで葵ちゃんは一度言葉を切った。言うべきことを探すように視線をさまよわせてから、下を向いて言う。
「あたし、恋はせえへんから」
言うに事欠いてそんなこと。そんなの言い訳にもならない。それは「恋をしたことがない」だけの話だ。
「だったら私が教えてあげる」
ぱっと手を振り払われる。それでも私はへこたれずに葵ちゃんの両肩を掴んだ。
「何年かかってもいいの。一年でも二年でも、十年でも。私待つから。だから」
「五十年でも?」
「待つよ」
迷わず答えると、葵ちゃんは顔を伏せたままちいさく笑い声をもらした。それが何の笑みなのか私にはわからなかったけれど、あんまりいい笑顔じゃないということだけはわかった。
「すごいね、結愛は。あたしは五十年も誰かを待たれへん」
「それは、好きだから」
葵ちゃんはゆっくりと頭を上げた。そして私を見た。
「あたしは好きじゃない」
葵ちゃんの手が私の手に触れた。そしてそっと引きはがされる。
「好きにならへん。結愛のこと。やからこの話はこれで終わりにして」
葵ちゃんはそれだけ言うと立ち上がった。お財布の中から千円札を何枚か取り出して机に置くと、彼女は呆然とする私を置いて去って行ってしまった。
そのあとはさすがの葵ちゃんも学んだのか、もうバイト先で私と顔を合わせても話しかけてくれなくなった。彼女にふい、と顔を反らされるたびに告白なんてしなきゃよかったと後悔が脳裏に渦巻いた。
それでもバイトをやめられなかったのは、結局彼女のそばにいたかったからだ。
葵ちゃんの細い指が好きだった。オーダーを取るときのおっとりした声が好きだった。テーブルを拭くときの伏せた瞳だとか、耳からはらりと落ちた髪の毛だとか、そういう些細なことに胸がしめつけられて切なくて。
「結愛、髪に糸くずついてる」
そう言って葵ちゃんが私の髪に触れたとき、ばちりと電流が走った気がした。意識する前に体が動いて、気づいたときには私は葵ちゃんの手を掴んでいた。
バイト先のキッチンだったのに。今までそんなこと一度もなかったのに。
「葵ちゃん、今日バイト何時まで」
葵ちゃんは困ったような顔をしていた。それでも手を振り払うこともせず「もうすぐ上がる」と素直に答えてくれたから、まだ、まだ勝機はあると思った。
「私七時までなんだけど、待っててほしい。話がしたい」
しばらく沈黙。けれどふいに入店のベルの音が鳴って、葵ちゃんは「わかった」とうなずいたのだった。
七時過ぎにお店を出たら目の前に葵ちゃんがいた。正直本当にいると思っていなかったから、私はびっくりして思いきり肩を跳ねさせてしまう。
「幽霊におうたような顔せんといて」
葵ちゃんが笑う。私は「ごめん」と目を伏せた。
「帰っちゃってるかなと思った」
「本持ってきてなかったら帰っとった。続き気になるから手短にお願いできる?」
そういうところ、いじわるだなあと思うのだけれど、でもやっぱり帰らず待っていてくれたのだから優しいに違いなかった。
出町柳は賀茂川と高野川が合流する地点だ。ふたつの川に挟まれた三角の島のように見える地帯は三角州とかデルタとか呼ばれていて、河川敷からデルタに渡る飛び石の上には地元の子どもたちが列を成していた。学生ももちろん多い。期末試験も終わり、七月末のデルタは結構な盛況だ。日没直後、まだ夕日の残滓が散らばる空を背に、花火を手にした学生たちが踊るみたいに火花を散らす。揺れる水面にうたかたの光が弾ける。
河川敷に下りながら私は話し始めた。
「あのさ、葵ちゃん。やっぱり私あきらめらんないの」
葵ちゃんは何も言わなかった。私はその仄暗く沈む横顔を見ながら続ける。
「私のこと好きにならなくてもいいよ。だからそばにいさせて」
詭弁だ。本当は期待している。葵ちゃんがいつか私のことを好きになる日を待っている。だけどそれを言うと彼女は逃げてしまうから、私は本心を覆い隠して聞き分けの良い女の振りをした。
「私の恋人になって」
葵ちゃんに向きなおって言うと、彼女は凪いだ感情のない瞳で私を見た。冷たい目だったけれどなんだかぞくりとした。
「あたし、同じ気持ちは返されへんよ」
葵ちゃんが以前も言った言葉を繰り返す。私はうなずいた。
「いいよ。私ね、好きな人とちゃんと恋人になったことないの。一回付き合ったことはあるけど、その人は遊びだったから。だから私、一回でいいから幸せになりたいの」
手をつないで歩いて、やさしく名前を呼び合って、きつく抱きしめられてみたかった。眠れない夜には電話して、スピーカー越しに聞こえる寝息と一緒に眠りたかった。朝目が覚めて、私はあの子の恋人なんだということを思い返してそっと笑みをこぼしてみたかった。幸せになりたかった。
「私を葵ちゃんの恋人にして」
葵ちゃんはにこりともしなかった。じっと、考えるように私を見ていた。デルタで巻き上がった笑い声が水面を渡って木々を震わせるのも、飛び石を渡る子どもたちの小さな歓声が空に跳ね上がるのも、何も知らないかのような顔で私を見ていた。
す、とそのまなざしが伏せられる。
「悲しいね」
え? と聞き返す前に、葵ちゃんはくるりと踵を返した。あっけにとられる私の前で彼女は駆けだして、とん、とんと飛び石を渡ってゆく。私はあわててその背中を追いかけた。薄暗がりの中、デルタの喧騒の中へ飛び込んでいく背中を。
川を渡ったら、もう戻れないのを心のどこかで知っていた。でもそんなの今更でしょう。一度走り出したら、あとは行きつく場所まで走るだけなのだから。
「葵ちゃん」
デルタの真ん中で彼女に手を伸ばす。その腕を掴んだ。
「逃げないでよ」
「逃げるよ。これからもずっと逃げるの」
葵ちゃんはこちらを見ない。あたしに背を向けたまま彼女は続ける。
「結愛はずっとあたしの背中を追う羽目になる。あたしをあきらめへんっていうのは、そういうこと。それがわかってる?」
「わかってる」
私は言葉の意味も深く考えず叫んだ。たとえ追い続けることになるのだとしても、いつか振り向かせてみせる。そんな覚悟があったから。
葵ちゃんは静かに空を仰いだ。それから観念したように言う。
「わかった」
彼女がやっとこちらを見る。
「結愛を、あたしの恋人にしたげる」
ぶる、と電流が走ったみたいに体全体が震えた。喜びで体が震えるなんて知らなかった。目頭が熱くなって、視界がぼやけて、それで私は彼女を見失いたくなくて、耳目も気にせず彼女の胸に飛び込んだのだった。
「何がだめだったの」
暗がりの中、ベッドの上からただ葵ちゃんの背中を見つめた。彼女は振り返らなかった。
「寝なければうまくいった?」
シャツのボタンをとめる葵ちゃんに問いかける。ああ、結局彼女の言った通りだった。最後まで私は葵ちゃんの背中を追いかけている。
「どうやろうね。でもそうかもしれへん」
くるりと振り返って葵ちゃんは私を見た。
「毎回、毎回。肌を重ねてもただ罪悪感がつのるだけやった。結愛に同じ気持ちを返せへんのが苦しくて」
ぼろりと、私の目から涙がこぼれた。一度こぼれ出したら止まらなかった。あなたはそれを見て、けれど慰めることも触れることもしなかった。
「同じじゃなくていいよ。同じ気持ちなんて期待しない。だから私のそばにいてよ」
私は涙に声を詰まらせながら言う。告白したときと同じ言葉。何度も繰り返した言葉。けれど葵ちゃんは、もうこの言葉で折れてはくれなかった。
「あたしがつらいの。罪悪感を抱いたまま結愛のそばにおりたくない。結愛に対して、誠実でおりたい」
「誠実なんていらない」
優しさがほしい。嘘でいい。いつか嘘じゃなくなる日が来るって、信じてるから。
けれど葵ちゃんは首を横に振った。それだけだった。それがすべてだった。
「終わりにしよう」
そう言って、葵ちゃんは残りの服を着てしまう。そうして鞄をつかんだ。鞄の中に彼女の荷物がちゃんとまとめられているのを見て、ああ、そうかと私は悟った。昨日の夜から、もうこうするつもりだったんだ。これが最後のつもりで。
私はタオルケットを引き寄せて、顔をうずめて泣いた。むきだしの背中が冷たかった。
ただ幸せになりたかった。愛した人から愛されたかった。それだけがいつも叶わない。いつもだ。やっと幸せになれると思ったのに。
「ごめん」
声がして、すぐにドアの開閉音がした。重々しいその音が響いたあとは、私の泣き声が狭い部屋にこだまするばかりだった。
