判断材料がないなら「×」を付けるのは合理的だと思う
最近、「全員に×を付けるのはおかしい」「よく分からないなら信任すべきだ」という意見をよく見かける。
でも個人的には、判断材料が提示されていない状態で信任するほうが、よほど不自然だと思っている。
信任とは、好意でも応援でもない。
「この人に判断や権限を委ねてもいい」と判断する行為だ。
判断材料がない状態とは何か
・何をしてきたのか
・何を基準に判断すべきなのか
・何に責任を持つ立場なのか
こうした情報がほとんど出てこないまま、「信任か不信任か」を選べと言われる。
この状態で○を付けるのは、「よく分からないけど任せます」と言っているのと同じだ。
それは善意かもしれないが、判断としてはかなり雑だと思う。
よく分からないなら×は自然
判断材料がない。
だから判断できない。
だから委任しない。
この流れはごく普通だ。
「判断材料がないから×」というのは、拒絶でも攻撃でもなく、判断の保留に近い。
それを「冷たい」「無関心」「文句だけ」と捉えるのは、判断の責任を受け手に丸投げしているように見える。
信任してほしいなら、情報を出すべき
信任されたいなら、判断材料を出すべきだと思う。
出さない理由は大きく分けて二つしかない。
そもそも選ばれる気がない
選ぶ側を軽視している
どちらにしても、「判断せよ、でも材料は出さない」という態度は不誠実だ。
○も×も感情ではなく判断
○を付ける人が善で、×を付ける人が悪、という話ではない。
大事なのは、その人なりに判断しているかどうかだ。
判断材料がないなら×。
材料があって納得できれば○。
それだけの話だと思う。
おわりに
よく分からないものに○を付ける文化のほうが、
長期的にはずっと危うい。
信任とは、空気を読む行為ではなく、情報をもとに判断する行為であるはずだ。
だから今日も、判断材料が見えなければ、普通に×を付ける。
それだけのことだ。
