なぜ読書感想文が嫌いだったのか──構成者から見た教育OSの罠
読書感想文が苦手だった。
本を読んで、感じたことを書く──
ただそれだけのことなのに、
いつも違和感だけが残った。
いま、改めてその理由を辿ってみたくなった。
正直、
読書感想文って、昔から嫌いだった。
というか、
本を読む行為そのものが億劫だった。
読んでも正直、何が言いたいのかよくわからなかった。
それなのに、「感想を書け」と言われる。
苦痛でしかなかった。
そもそも、
なぜ「本を読めること」が前提になっているんだろう。
なぜ「感動すること」が当たり前のように求められるんだろう。
考えてみたら、
読書感想文の本質って、
中身を理解することじゃない気がする。
たぶん、
**「何がわからなかったか」**をちゃんと見つけて、
そこから、
**「なぜわからないんだろう?」**って問いを立てること。
そっちのほうが、
本来の“読書”なんじゃないかと思う。
でも、教育は違った。
本を読まされる。
感想を書かされる。
「読んで理解し、感動しなさい」という空気だけが流れている。
わからなかったら?
──それは、お前の努力不足だ、と切り捨てられる。
そんなもの、
やる気が出るわけがない。
ふと、思った。
これって、
そもそも読書感想文という形式自体が、
思考を止める構造になっているんじゃないか?
わからないことをそのまま出して、
「なぜわからなかったか」を考える。
そんな場にはなっていなかった。
最初から、
「読めたこと」「感動できたこと」が正解とされる。
つまり──
“教育された正解”に適応できたかどうかを測るだけの仕組みだった。
読めなかった子。
わからなかった子。
感想が出てこなかった子。
それらはすべて、
“できない子”として扱われる。
でも、実際は違った。
読めなかったのは、
世界に対する正直な接続不全だった。
わからなかったのは、
自分の中に、まだ構造化できない問いが眠っていたからだ。
それを無理に「わかったフリ」させるのが、
読書感想文という教育OSだったんだ。
今ならわかる。
読めなかった自分は、間違っていなかった。
感じられなかった自分も、劣っていなかった。
ただ、
世界の接続の仕方が、周囲と違っていただけだった。
読書感想文が嫌いだったのは、
単なる反抗心なんかじゃない。
「正解ありき」の接続構造に、無意識で抗っていたから。
もし、あのとき、
「読めなかった理由を一緒に考えよう」って言ってくれる大人がいたら──
きっと俺は、
もっと早く、自分の思考を信じられたと思う。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
もし君も、
読書感想文が苦手だった記憶があるなら──
それは、
君の中に、まだ言葉にならない問いが生きていた証拠かもしれない。
