「看板」って、本当にそこまで必要だっただろうか
少し前の話になるが、ロードバイクショップに通っていた頃、店に掲げられている情報は、驚くほど少なかった。
「ロードバイク扱ってます」
それだけで十分だった。
中に入れば、店員さんがいた。
こちらの用途やレベルを伝えれば、カタログを広げながら一緒に考えてくれる。
「こういう乗り方なら、このフレームが合いますね」
「このパーツは取り寄せになりますが、組みますよ」
「ここで買ってなくても、メンテはできます」
そんなやり取りが、ごく自然に成立していた。
つまり、店員そのものがキュレーターだった。
何を選ぶべきか、どう組むべきか、どう使うべきか。
情報は看板に書かれているのではなく、対話の中にあった。
だから、分からないままでも入れた。
むしろ、「分からないから入る場所」だった。
今はどうだろう。
何をやっている店なのか、
どこまで対応しているのか、
料金はいくらなのか。
すべてが事前に提示されていることが求められる。
看板、メニュー、一覧、説明。
「分からない状態で入ること」が前提になっていない。
もちろん、それが悪いわけではない。
効率はいいし、無駄も減る。
店側も説明の手間を減らせるし、
客側も安心して選べる。
ただ、その代わりに消えたものがある。
それが、対話の中で決まっていく体験だ。
昔は、店が選んでくれていたわけではない。
一緒に選んでいた。
知識は店員が持っていても、判断は対話の中で組み立てられていた。
だから、自分の中にも残る。
単に「おすすめされたから」ではなく、「納得して選んだ」という感覚があった。
今は、選ぶ前に情報を揃え、入る前に判断を済ませる。
その結果、
店は“確認の場”になり、対話は減っていく。
看板は分かりやすさを作る。
でもそれは同時に、「ここにはこういうものがあります」という枠を先に決めてしまう装置でもある。
対話は、その枠を越える余地がある。
全部を昔に戻す必要はない。
ただ、
「分からないから入る」
「話しながら決める」
そんな体験が減っていることは、少しもったいない気がする。
看板に書かれていないことが、一番価値があることもあるのだから。
