教科書は疑うのに、判決は信じる――「自分で考える」とは何なのか

人は権威に反発する。
学校で習った歴史について、
「教科書に書いてあるから正しいとは限らない」
と言う。
外国から歴史認識を批判されれば、
「それは相手国の立場から見た歴史だろう」
と反論する。
政府が何かを発表すれば、
「政府発表をそのまま信じるのか」
と言う人もいる。
メディアが報道すれば、
「誰がその情報を流しているのか考えた方がいい」
と言う。
ここまでは、よくある話である。
ところが不思議なことに、「裁判」という言葉が出てきた瞬間、急に態度が変わることがある。
「裁判で負けた」
すると、
「やっぱり問題があったんだ」
「違法だったということだ」
「これでようやくホワイトになる」
という話になる。
さっきまで、
「誰が言っているのかを考えろ」
と言っていた人が、裁判所の判断になると突然それを「正しさ」として受け入れる。
これは少し不思議である。


裁判所は「真理」を決めているわけではない

もちろん、裁判所の判断は重要である。
法治国家で生活する以上、判決には従わなければならない。
しかし、
判決に従うことと、判決を普遍的な正しさだと考えることは別である。
裁判所が判断しているのは、基本的には、
ある国の、
ある時代の、
ある法律を、
ある具体的な事件に適用した結果である。
法律が変われば、昨日まで違法だったものが合法になることもある。
国が変われば、同じ行為が合法にも違法にもなる。
それなら、
合法=正しい
違法=間違っている

という式は成立しない。
「現在の法律では認められていない」
と、
「その行為は本質的に間違っている」
は別の話である。

歴史認識なら、みんな簡単に理解できる

たとえば、ある国が別の国に対して、
「あなたたちが学校で教えている歴史は歴史改竄だ」
と批判したとする。
それを聞いて、
「そうなのか。我々が今まで学んできた歴史はグレーだったのか。これからホワイトな歴史に直していこう」
とは、普通はならない。
まず、
「なぜ相手国はそう主張しているのか」
と考える。
相手国にも政治的な立場がある。
利害関係もある。
どの史料を採用するかによって解釈も変わる。
だから、
「誰かが間違っていると主張した」ことと、「本当に間違っていた」ことを分けて考える。
ところが著作権のような話になると、この区別が突然消えることがある。
権利を持っている企業が、
「我々の権利を侵害している」
と訴える。
すると、
「やっぱりグレーだったんだ」
となる。
しかし、ここでも最初に問うべきことは同じではないだろうか。

その権利は、本当にそこまで及ぶのか。

権利者が権利を主張したことは、その権利の範囲を証明したことにはならない。
だから争いになる。
「権利者」という言葉には、すでに結論が入っている
これは言葉としても面白い。
「権利者が訴えた」
と言われると、
権利者

権利を持っている

権利を侵害された

被害者
という物語が自然に出来上がる。
しかし実際の争点が、
「その権利が、その行為にまで及ぶのか」
なのであれば、「権利者だから正しい」と考えた瞬間に結論を先取りしている。
もちろん、逆に「既得権益だから間違っている」と決めつけるのも同じである。
企業には企業の主張がある。
利用者には利用者の主張がある。
裁判所には現在の法律に基づく判断がある。
そして、
どのような制度が社会にとって望ましいか
という議論は、さらに別にある。
これらを全部まとめて、
「白か黒か」
にすると、考える必要がなくなる。

Sunoの話を見ていて感じた違和感

最近、音楽生成AIのSunoを巡る議論を見ていて、このことを考えた。
著作権を巡る争いや、音楽産業との契約、それに伴うサービス内容の変更について、
「今までグレーなものを使わせてもらっていた」
「Sunoが著作権問題を解消してホワイトに近づこうとしている」
「AI音楽が世の中に出ていくために必要な痛みだ」
といった意見を見かけた。
私はここにかなり違和感を覚えた。
Sunoのユーザーは、Sunoに料金を支払ってサービスを利用している。
少なくとも利用者とSunoの関係は、
「創作を許可していただいている」
ではなく、
サービス提供者と契約者
である。
サービス内容が変われば、
「以前より良くなった」
と思う人もいれば、
「以前より悪くなった」
と思う人もいる。
悪くなったと思えば文句を言ってもいいし、解約してもいい。
普通の商取引である。
そこへ突然、
「今までグレーなものを使わせてもらっていたのだからありがたいと思うべきだ」
という道徳が入ってくる。
なぜ料金を払って契約している利用者が、創作させてもらっていることに感謝しなければならないのだろう。

「無断学習」という言葉だけで結論を出していないか

AIでは「無断学習」という言葉がよく使われる。
この言葉も非常に強い。
「無断」という言葉には、
本来は許可が必要だった
というニュアンスが最初から含まれている。
しかし本来の論点は、
そもそも、その学習に許可が必要なのか
である。
許可が必要なら、許可なく行えば問題になる。
許可が必要ない行為なら、「無断」であること自体に意味はない。
街を歩くのに、沿道の建物所有者から許可を取っていないからといって、
「無断歩行」
とは言わない。
つまり「無断学習」という言葉を使った時点で、
「学習には権利者の許可が必要である」
という結論を半分受け入れてしまっている。
その状態で、
「権利者と契約したからホワイトになった」
と言えば、当然そうなる。
最初からそういう前提を置いているからである。

その論理を最後まで進めるとどうなるのか

しかし、この考え方をAIだけに適用して終わらせることは難しい。
文化は過去の文化から作られている。
音楽家は過去の音楽を聴く。
画家は過去の絵を見る。
作家は過去の文章を読む。
そこから影響を受け、新しい作品を作る。
その作品を次の世代が見て、また別の作品を作る。
文化とは巨大な連鎖である。
そこで、
「既存作品から学んだものには、元作品の権利が連鎖する」
という考え方を強くしていけば、いつか「起源はどこなのか」という問題にぶつかる。
AIが100万曲から学習した。
そこから曲を生成した。
その曲を人間が加工した。
その曲を別のAIが学習した。
そこから生成された曲を、さらに人間が加工した。
さて、誰に許可を取れば完全に「ホワイト」になるのだろう。
100万曲の権利者だろうか。
途中のAI生成物の作者だろうか。
加工した人間だろうか。
その曲が影響を受けたさらに過去の音楽まで遡るのだろうか。
この論理を無限に遡ることはできない。
だから文化には、どこかで権利の連鎖を切る仕組みが必要になる。

「公認」と「合法」が混ざっている

ここで、もう一つ気になることがある。
人はしばしば、
公認されていること
と、
合法であること
を混同する。
大手企業と契約した。
業界団体が認めた。
公式サービスになった。
すると、
「ホワイトになった」
と感じる。
しかし、
公認されていないことと、違法であることは同じではない。
逆に、公認されているから倫理的に正しいとも限らない。
既存の強い権利者から承認を得ることを「ホワイト」と呼び始めると、最終的には、
現在もっとも大きな権利を所有している者が、文化の正当性を決める
という構造になってしまう。
それは本当にクリエイターを守る世界なのだろうか。
巨大なカタログを所有している企業を、さらに強くする世界なのかもしれない。

もしかすると、権威に従っているのではない

ここまで考えて、少し見方が変わった。
「権威に従う人」と、
「権威に反抗する人」がいるのではないのかもしれない。
もっと単純に、
自分で判断するのが難しいから、判断を誰かに委託している
だけなのかもしれない。
学校を信用する人は、学校に判断を委託する。
学校を信用しない人は、別の評論家に判断を委託する。
政府を信用しない人は、SNSのインフルエンサーに判断を委託する。
企業を信用しない人が、裁判所の判断には全面的に従うこともある。
一見すると反権威でも、
参照する権威を変更しただけ
ということがある。
教科書を捨ててYouTubeを見ただけなら、自分で考える量は増えていない。


反抗することは、自分で考えることではない

ここは重要だと思う。
自分で考えることは、
権威と反対のことを言うことではない。
裁判所と同じ結論になってもいい。
政府と同じでもいい。
教科書と同じでもいい。
企業と同じでもいい。
逆の結論になってもいい。
重要なのは、
なぜ自分はそう考えるのか
を説明できることである。
「裁判所がそう言ったから」
ではなく、
「この法律の目的と、この行為の性質を考えると、私はこの判断が妥当だと思う」
なら、それは自分の考えである。
逆に、
「政府は信用できないから反対」
だけなら、反抗していても自分で考えているとは限らない。

「正しい誰か」を探すのをやめられるか

人はもしかすると、権威が好きなのではない。
正解を持っている誰かがいてほしい
のかもしれない。
学校。
政府。
専門家。
裁判所。
企業。
インフルエンサー。
AI。
どこかに、
「ここに聞けば正しい答えが返ってくる」
という存在を置きたくなる。
そうすれば、自分で考えて間違える責任を負わなくて済む。
しかし、新しい技術、新しい文化、新しい制度が生まれるときには、そもそも正解を持っている人が存在しないことがある。
生成AIはまさにそういう領域なのだと思う。
法律もまだ動いている。
技術も変わっている。
社会の価値観も定まっていない。
既存の権利概念がどこまで適用されるべきなのかも議論されている。
そんな場所で、
「誰が正しいの?」
と聞き続けても、永久に答えは出ない。
必要なのは、
誰を信じるかではなく、自分は何を根拠にどう考えるか
なのだと思う。
権威への服従と権威への反抗は、正反対に見える。
しかし、自分の判断を誰かに預けているという一点では、意外とよく似ている。
従順も反抗も、思考を外注すれば同じになる。
そしてたぶん、一番難しいのは権威に逆らうことではない。
権威と同じ結論になっても、逆の結論になっても、「これは自分で考えた結果だ」と言える状態を作ることなのだ。

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