虚栄
「笑って、ね? ほら、いつもの笑顔」
SNSで3万人のフォロワーを持つ若い母親と、脚本家の父親。
小さな息子は、カメラを向けられるたびに目をそらすようになった。
「この子の可能性を広げたい」
「映えることで、未来をつくってあげたい」
それは愛だった。でも、愛だけではなかった。
映ること、生きること、努力と犠牲。
そのすべてが“正しいこと”に見える世界で、
小さな手がそっとレンズを遮る──
「子どもが戦いたがっているかどうか、立ち止まって確認してくださいね」
虚栄と呼ぶには、あまりにまっすぐだった。
だからこそ、誰かが「オフにしていいよ」と言わなきゃいけなかった。
#創作大賞2025
第1章:夜、スマホの光の中で
リビングの明かりはとっくに落ちていた。
けれど、彼女のスマホの画面だけが、部屋の一角を淡く照らしていた。
「この光、目に悪いよ」
そう声をかけると、「ちょっとだけ」と彼女は笑った。
でも、その“ちょっと”は、だいたいいつも一時間以上だ。
スマホの中には、今日撮った写真や動画がずらりと並んでいた。
息子がつかまり立ちをした瞬間、ミルクをこぼした瞬間、わざとじゃないのに怒られて泣いた瞬間──。
「こっちのほうが“エモい”かも」
彼女は画面を見ながらそうつぶやく。
俺は、その横顔を見つめていた。
まだ20代半ば。若い頃からInstagramをやっていたらしく、フォロワーは3万人を超えているという。
企業から子ども服の案件が来るようになったのも、ここ半年のことだった。
「すごいね」って俺が言うと、
「ありがとう。でも……たまに、わかんなくなる」と彼女はこぼした。
そのとき、彼女の指はずっと画面をスクロールしていた。まるで止まるのが怖いかのように。
俺は脚本家をやっている。
テレビじゃない、小劇場の脚本だ。収入は……まあ、聞かないでほしい。
彼女が俺を選んだのは、たぶん“表現する人”だからだったんだと思う。
でも、表現と演出は違う。
彼女のしていることは、どちらかというと“演出”に近い。
そしてその演出の中心に、俺たちの子どもがいる。
「笑ってくれないの」
そうつぶやいた彼女の声が、やけに遠く聞こえた。
第2章:笑って、という命令
「こっち向いて〜、にこってして?」
彼女の声は、優しいけれどどこか急いていた。
手には最新のスマホ。ピントが合うまで数秒かけて、シャッター音が連続で鳴る。
俺はその様子を、ソファから黙って見ていた。
息子は1歳になったばかり。
最近は、カメラを向けると目を逸らすようになった。口を真一文字に結んで、まるで“笑わされる”のを警戒しているように見えた。
「ねえ、どうして笑わなくなったんだろ」
撮影のあと、彼女はぽつりとそう言った。
「……嫌なのかもね」
俺がそう返すと、彼女は一瞬だけ睨むような目をした。
「そんなことないよ。前はあんなに楽しそうだったんだもん」
言いながら、スマホをスワイプして、過去の写真を何枚も見せてきた。
確かにそこには、笑っている息子がいた。けれど、それが本当に“楽しかった”瞬間なのかは、俺にはもう分からなかった。
「ちゃんと撮らなきゃ、企業に出す写真がなくなっちゃう」
彼女の言葉には、焦りと責任感が滲んでいた。
俺はそれを否定できなかった。
だって、俺だって知ってる。作品を作る側の苦しさも、表現で生きていこうとすることの難しさも。
だけど──
「笑って、って言われて笑うのは、演技だよ」
俺がそう言った瞬間、彼女は黙った。
空気が、少しだけ張り詰めた。
脚本家という職業は、時に“感情の嘘”を引き出す仕事だ。
でも、俺はそれが子ども相手になるのが、どうしても怖かった。
“この子の表情が、商品になる”
──その事実に、俺たちの誰かが抗わなきゃいけない気がしていた。
第3章:努力と犠牲
彼女がこの世界に希望を持っていることは、分かっていた。
努力すれば報われる。諦めなければ夢は叶う。
──その言葉を、誰よりも信じているのが彼女だった。
「この子が小さいうちから頑張れば、芸能界でも絶対に通用すると思うの」
息子が眠ったあと、彼女はそう言って、スマホをテーブルに置いた。
「今から準備すれば、選択肢が増える。そうすれば、あの子が将来困らないでしょ?」
そう言いながら、彼女は空っぽのマグカップを両手で包んでいた。
俺は少しだけ黙ってから、口を開いた。
「でもさ、“努力する自由”ってさ、“しない自由”がなきゃ成立しないと思うんだよ」
彼女はゆっくりと俺の方を見た。
その目には、怒りでも悲しみでもない、“理解されないことへの諦め”がうっすらと滲んでいた。
「好きなことだけじゃ、生きていけないじゃない」
その言葉に、俺は言い返す気力をなくした。
それは、彼女自身の人生が証明してきた事実なのだ。
写真に映っていたのは、笑顔だけじゃない。
失敗も、炎上も、努力が無駄になった瞬間も、全部、彼女は知っていた。
だからこそ「無駄なことはさせたくない」──そう思ってしまうのも、無理はなかった。
けれど、俺は脚本家として、何度も“無駄”に救われてきた。
選ばれなかったセリフや、捨てられたアイデアたちが、ある日ふと意味を持って、物語を救ってくれることがある。
だから俺は、無駄を嫌わない。むしろ、無駄の中にしか“生”がない気さえする。
「俺たちはこの子に、“選べる未来”を渡したいだけじゃないのかな」
そう言った俺に、彼女は答えなかった。
だけど、スマホをそっと裏返してテーブルに置いた。
その動作だけが、小さな迷いを語っていた。
第4章:演技という名の現実
ある日、仕事の打ち合わせでテレビ局に行った。
企画は「家族の感動ドキュメンタリー」だった。
ディレクターは言った。
「やっぱさ、“奇跡の1枚”って必要なんだよ。泣いて、笑って、ハグして……視聴者が泣けるようなやつ」
「でもそれ、リアルじゃなくてもいいんですよ。“リアルに見えれば”」
そう言って、彼は笑った。
俺はその笑顔に、どう返していいか分からなかった。
──それが今の“現実”なのだ。
リアルを求めながら、リアルではないものに心を動かされる世界。
俺たちは、“演技という名の現実”の中で、生きている。
帰り道、保育園の前で子どもたちの声が聞こえた。
誰に見られるでもなく、叫び、走り、転んで泣く。
そこに演出はなかった。ただの、未編集の命の音だった。
家に帰ると、彼女はまたスマホで動画をチェックしていた。
「もうちょっとテンポあったほうがいいかな」
「ナレーション、つけてみようかな」
小さくつぶやきながら、1歳の息子の映像を、何度も再生していた。
「台本、あるの?」と俺が聞くと、
彼女はくすっと笑って「ないよ」と言った。
でもそのとき、俺にははっきりと見えた。
無意識のうちに、“映るための演出”が組み込まれていることを。
子どもは今、演じている。
何を? 誰のために?
彼が演じているのは、“親を喜ばせる役”かもしれない。
“いい子”の演技、“反抗しない”演技、そして、“笑う”演技。
そうして、まだ言葉を持たない彼は、演じることで世界と折り合いをつけているのかもしれない。
でも、それはいつまで続くだろうか。
演技が習慣になったとき、
その子は“自分が何者か”を、どこで知るんだろう。
第5章:目をそらす子ども
「笑って、ね? ほら、いつもの笑顔」
彼女の声は、やさしい。でも、少しだけ張りつめていた。
スマホのレンズが、息子の正面に構えられる。
その瞬間だった。
息子はそっと、顔を横に向けた。
光の方向を避けるように、まぶしそうに目を細めて。
「まぶしいのかな?」
彼女はそう言いながら、明るさを調整しようとスマホをいじった。
でも、そのあともう一度カメラを向けると──今度は、彼は手を伸ばして、レンズの前に自分の手のひらをかざした。
俺の胸に、なにかがずしんと落ちた。
それは、泣き声でも叫びでもなかった。
ただ小さな手が、静かに「やめて」と言っているようだった。
「……ねえ、これ、無理させてるのかな」
彼女がぽつりとつぶやく。
その声には、珍しく、自信のなさが混じっていた。
俺はそれを否定もしなかったし、肯定もしなかった。
ただ、息子の手のひらとその向こうにあるレンズを見つめていた。
“意思”って、きっと大人の言葉だけじゃない。
むしろ、言葉にされない動作の中にこそ、本音は宿る。
俺たちはいつから、“子どもの沈黙”を「従順」だと勘違いしてきたんだろう。
目をそらすこと、声を出さないこと、笑わないこと。
それはきっと、「言葉よりも強い拒否」なのかもしれない。
“嫌だ”って言えない代わりに、彼はまぶしい光に目を細める。
“やめて”って言えない代わりに、手のひらで世界を遮る。
俺たちに、聞き取る準備はできていたか?
第6章:オフにしていいよ
夜、寝かしつけのあとのリビング。
彼女はひとり、動画編集アプリを開いていた。
「ここのテンポ、やっぱり詰めたほうがいいかな……」
ブツブツとつぶやきながら、指先は忙しなく動いていた。
目の下には、うっすらクマ。
でも、それすら彼女は“やりたいことをやっている人の証”みたいに抱えていた。
俺は黙って、キッチンで湯を沸かしていた。
その音だけが、部屋を埋める。
寝室から、かすかな物音がした。
静かにドアを開けると、息子がベッドの中でもぞもぞと動いていた。
起きたわけじゃない。たぶん、夢の中で光を嫌がるように、顔をしかめていた。
──もういいだろう、と思った。
俺はリビングに戻って、彼女の横にそっと座った。
「ねえ」
「今日は、もうオフにしない?」
彼女は手を止めた。
スマホを持ったまま、俺の方を見る。
「なにが?」と聞き返す声には、警戒と疲労が混じっていた。
「全部。編集も、撮影も、光も」
俺は言った。
「この子が笑わない日があってもいい。まぶしいって手で隠す日があってもいい。だって、今はそのほうが“生きてる”じゃん」
彼女はスマホを見たまま、何も言わなかった。
でも、画面の明かりがゆっくりと暗くなり、やがて完全に消えた。
沈黙が、しばらく続いた。
「……なんかさ」
彼女が言った。
「“止めてもらえて、ホッとしてる自分”がいるの、ずるいよね」
その声は、泣きそうだった。
俺はただ、肩をそっと抱いた。
まるで、あの子がやっていたみたいに、何かを遮るように。
まぶしい世界から、一瞬でも目を守るみたいに。
終章:沈黙が語るもの
翌朝、息子は機嫌が良かった。
でも、スマホを向けると、やっぱり顔を逸らした。
俺は、もうそれでいいと思った。
「見られる」ために生きる必要なんて、どこにもない。
「見つけてもらう」ことより、
「ここにいる」と自分で感じられることのほうが、きっとずっと大切だ。
あの子の世界に、“オフ”が許される日が、ちゃんとあってよかった。
それを守れる誰かが、そばにいてよかった。
※実験的に私の作品が本当に世の中に評価されるものなのかを確認したいため、脚本を書いてフリー素材として以下リンクに保存しましたので、ご興味のある方はご利用ください。
