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無名

比べられて、決められて、導かれて。
少年は、ただ静かに「正しい子」として育てられていく。

でも本当は、絵を描くのが好きだった。
自分の内側とつながる、たったひとつの手段だった。

気づかれないまま削られていく心と、
声にできないまま手放していく“好き”。

この物語は、名前のつかない抑圧の記録。
#創作大賞2025


第1章:比較される子ども

うちは、静かな住宅街にある小さな家に住んでいる。

小さいころから、近所の友だちと比べられることが多かった。
「〇〇くんはもう九九を覚えたんだって」「あの子は英語教室に通ってるよ」
そんな言葉が、家の中ではふつうだった。

お母さんの言い方は、いつも“責めてる”わけじゃなかった。
ただ、口調の奥に、なにか焦ったような、余裕のない響きが混じっていた。

まわりはもっと大きな家ばかりで、外車が何台も止まっている。
でも、お母さんもお父さんも、もともとはそんな場所にいた人じゃない。

お父さんは、たまたま景気のいい業界に入れた。
お母さんも、転職で収入が安定した。

それで、無理してここに家を買った。
「この子のため」と何度も聞かされた。

でも、ぼくにはよくわからなかった。
“この子のため”が、“ぼくのため”じゃない気がしていた。

お母さんはいつも、よくしてくれてる。
でも、どこかでずっと試されているような気がする。

褒められたくてがんばるけど、
がんばったぶん、次はもっと頑張らないといけなくなる。

だから、なんとなく、疲れる。
ぼくは、いつも“自分”じゃなくて“正解”を演じているような気がしていた。

だから、たぶん──がんばってるんだと思う。
お母さんなりに。そして、ぼくも。


第2章:音のない時間

お母さんの声が、教室の中に響いていた。
けれど、ぼくの耳には、うまく入ってこなかった。

「この子、勉強は好きなんですよ。でも、集中力が続かなくて……」

ぼくは黙って、鉛筆を指でくるくると回していた。
机の端っこで、ただ、それだけをしていた。

お母さんは、先生にいろんな紙を見せていた。
ぼくのノートのコピー。模試の成績表。赤い丸と、青いバツ。

「将来の選択肢が広がるように、今のうちに基礎をしっかりって……」

その言葉も、何度も聞いた。
聞いたことがあるのに、なぜか今日だけは、ぼくの胸の奥にひっかかっていた。

先生は、ぼくの方を見ていた。
目が合うと、なんだか息がつまる気がして、視線をそらした。
けど、見られてるのはわかってた。
そして、また鉛筆をくるくると回した。

そのとき、机の端に貼られていた小さなポスターが目に入った。
学校で配られた展覧会の案内だった。
「子どもたちの描いた未来のまち」というテーマの、地域の子ども絵画展。

ぼくはそれを、じっと見つめてしまった。
何も描いていない白い建物の写真の下に、「自由な発想で描いてね」と書いてあった。

ぼくの頭の中に、一瞬だけ色と形がよぎった気がした。
けど、それを描いてもいいのかどうか、わからなかった。


第3章:見えない目標

「目標は、お子さん自身のものですか?」

先生の声が、ぼくの耳に、まっすぐ届いた。

お母さんが黙った。
少しだけ、空気が止まった。

「……いえ、私が与えたものです。でも、自分で決めるにはまだ早いと思って……」

その声は、小さくなっていった。

ぼくは、鉛筆の回転を止めた。
止めたまま、先生を見た。

その目が、まっすぐだった。
怖くなかった。なんだか、見つけられたような気がした。

でも、どこかで、ざらっとした感覚があった。

“目標はまだ早い”って、お母さんは言ったけど、
じゃあ、ぼくが何か言ったとして、聞いてくれるのかな?

前に「宇宙のことをもっと知りたい」って言ったら、
「そういうのは中学生になってからでもできるよ」って笑われた。

「絵本を書きたい」って言ったら、「それは趣味でやればいいよ」って。

たぶん、お母さんはぼくを笑ってるわけじゃない。
でも、ぼくの“やりたい”は、いつもどこかへ追いやられていった。

だから、もう言わなくなった。
言っても無駄ってわかると、だんだん声は出なくなる。

そして今、目の前にあるのは、“やらされてる未来”だった。

勉強すれば選べる未来があるって言うけど、
その“未来”すら、もう誰かに決められてる気がして。

それがなんだか、苦しかった。


第4章:思い出のクレヨン

昔、絵を描くのが好きだった。

動物。街。空想の国。

描いてると、時間がすぐに過ぎた。
音も言葉も気にならなくて、自分の世界にふわっと包まれていく感じがした。

学校でうまく言えなかったことも、
お母さんに伝えられなかった気持ちも、
線と色にしていると、ちょっとだけ軽くなる気がした。

その時間だけは、何にも縛られずにいられた。
誰かに評価されるわけでも、比べられるわけでもなくて、
ただ、ぼくがぼくでいられる場所だった。

「上手だね」と言われると、なんだかくすぐったくて、でもうれしかった。

でも、いつからか、描かなくなった。

「そんなことしてる時間あるの?」「宿題は?」

言われるたびに、クレヨンが机の奥に押し込まれていった。

いつのまにか、絵のことを考える時間すら、なくなっていた。


第5章:声にできないこと

先生は、ぼくの方を見ていた。
目が合うと、なんだか息がつまる気がして、視線をそらした。
けど、見られてるのはわかってた。
そして、また鉛筆をくるくると回した。

「真面目な子ですね」と先生が言ったあと、お母さんが少し笑って、でもすぐに言った。
「でも、自分から動かないんです。反応も薄いって、よく言われて……」

ぼくは、少しだけ顔をうつむけた。

真面目。静か。反応が薄い。
それは、そうしなきゃいけないって思ってるから、そうしてるだけだ。

反抗すると怒られる。
無視すると嫌われる。
でも、何も言わなければ、誰も近づいてこない。

だから、ぼくは黙っている。
自分を守るために。


第6章:最適化された子

「やっぱり、このままじゃ心配です」

相談室からの帰り道、お母さんはふとつぶやいた。

「……もっと自由にさせてあげたい気持ちもあるの。でも、まわりを見てると、やっぱり不安で……。後で後悔するくらいなら、今できることは全部やっておきたいの」

お母さんの声は、少しだけ揺れていた。けれど、ぼくの手を握る力は変わらなかった。

「ちゃんと“得意なこと”も伸ばしてあげたいの。だから、アドバイザーのところ、行ってみようか」

ぼくは、うなずいた。なんとなく、それが正解の気がしたから。

そのあと、いくつかの体験教室に行った。プログラミング。作文。図形パズル。どれも“いい子”にしていれば褒められた。

家に帰ると、お母さんは資料をまとめていた。「この講座は月に2回、先生の評判もよさそう。次はこっちも試してみようね」

ぼくは、またうなずいた。

気がつけば、描くことのことは、思い出さなくなっていた。

新しいノートの表紙には、「未来を選ぶ力を育てる」と書いてあった。

今日もテストで満点を取った。先生に褒められた。お母さんがうれしそうにうなずいた。

でも、そのとき、自分の中で何が動いたのか──もう、よくわからなかった。


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