音楽のマス化によるコミュニケーションツール化と、音楽カテゴリの不健全化、そして実験音楽の在り方について
近年、音楽が「共通の話題になるもの」として聴かれる場面が増えたように感じる。
だが、この感性は本当に音楽本来の姿なのだろうか。
少なくとも歴史的に見れば、音楽は必ずしも「会話のため」に存在していたわけではない。
身体を動かすため、儀式のため、環境の一部として、あるいは極めて個人的な体験として存在してきた。
ではなぜ今、音楽がこれほどまでに「コミュニケーションの媒介」として使われるのか。
村社会の消失と、音楽への代替
一つの見方として、村社会が消えたことによる噂話・井戸端会議の代替という側面がある。
かつては、
近所の噂
世間話
井戸端会議
といったものが、感情の共鳴や関係維持の役割を果たしていた。
それが都市化・匿名化によって失われ、その代替として「音楽」「コンテンツ」「共通の話題」が引き受けるようになった。
この構造自体は、決して異常ではない。
感情の共鳴は人間にとって必要なものであり、音楽がそれを担うこと自体は健全でもある。
どこから不健全になるのか
問題は、音楽が共鳴装置を超えてしまった時に起きる。
音楽が所属証明になる
好き嫌いが人格評価になる
売れていることが正しさになる
ここで音楽は、感情を共有するためのものから判断を肩代わりする装置へと変質する。
これは噂話が暴走する時の構造とよく似ている。
噂話には「逃げ道」があった
重要なのは、噂話が社会を支配しそうになるたびに、歴史的には別のレーンが用意されてきたことだ。
過去:アカデミア(論文・学会)
現在:OSS(設計・レビュー・Issue)
感情の共鳴とは切り離された場所で、判断・検証・更新を引き受けるインフラが存在していた。
だが、音楽にはこれがほぼ存在しない。
音楽に「議論の避難先」がない問題
音楽は、
非言語的
感情に直結
身体感覚に近い
という特性を持つため、そもそも議論に向いていない。
その結果、
批評が感想になる
評価が好き嫌いになる
否定が人格攻撃に直結する
音楽が共鳴(噂話)と判断(議論)の両方を無理に引き受けさせられている状態が生まれる。
これは構造的に不健全だ。
実験音楽は「代替」になれているのか
一見、実験音楽はこの問題への逃げ場に見える。
だが実際には、
思想
哲学
政治
科学的枠組み
といった外部の正当化に強く依存している。
「これは音楽ではなく研究だ」
「これは表現ではなく実験だ」
そう言わなければ、存在を許されない場面が多い。
OSSやアカデミアのように、
失敗しても残れる
成果がなくても参加できる
人格と成果が分離される
といった制度的な人権は、実験音楽にはほとんど与えられていない。
結果として、文化ではなく「個人の変わり者枠」に回収されやすい。
問題は音楽ではなく「引き受けさせすぎ」
ここまで整理すると、問題は明確になる。
音楽が悪いわけではない。
コミュニケーションに使われること自体も悪くない。
だが、
共鳴
所属
判断
正しさ
社会的合意
これらすべてを音楽という一つの表現形式に押し込めていることが問題なのだ。
音楽は本来、
感じるためのもの
身体に触れるもの
共鳴するためのもの
であって、議論や判断を代替する装置ではない。
音楽を守るために必要なのは「別のレーン」
必要なのは、音楽の代替ではない。
音楽が引き受けなくていいものを、別の場所で引き受ける構造だ。
感じる場所としての音楽
判断を引き受ける別のインフラ
この分離がない限り、音楽は噂話と商品と正義の全てを背負わされ続ける。
それは音楽にとっても、聴く側にとっても、決して健全ではない。
もしこの文章が何かを解決しないとしても、少なくとも「音楽に何をさせすぎているのか」を一度立ち止まって考えるきっかけにはなるはずだ。
音楽を守るとは、音楽を神聖化することではなく、音楽を適切な位置に戻すことなのだと思う。
