義務と理想
介護職に就いて3年──高瀬潤は、誰よりも“やさしい”ヘルパーだった。
支援を必要とする人々と、ただ誠実に向き合いたい。その一心で、この仕事を“選んだ”はずだった。
だが現場は、理想を裏切る。
制度の穴、記録の優先、時間に追われるケア。
「やりたかったのは、こんなことじゃない」と思いながら、彼は日々をこなしていた。
ある日、彼の担当になったシングルマザー・D。
派手な見た目、冷めた態度、そして“ケアされる側”とは思えない言葉の鋭さ。
「あなたの“やさしさ”って、誰のためのもの?」
彼女との出会いが、潤の中に隠されていたものを揺さぶっていく。
支えるとはなにか?
ケアするとは、誰のためか?
“理想”の裏にあるのは、“自己満足”だったのかもしれない。
“義務”だと割り切れば、“心”はいらないのかもしれない。
やがて二人のあいだに交わされる、言葉にならない感情と、社会への違和感。
──そして潤は、初めて“ヘルパーである自分”を、問い直すことになる。
これは、「善意」の正体と、「支援される側」に貼られたレッテルをめぐる物語。
やさしさの奥にある、**“支援する者の孤独”と“理解されない者の怒り”**が交差する、静かで深い対話。
#創作大賞2025
第1章:理想という名の継承
「お世話になります、三浦さん。今日からAさんの午後の枠、交互に入ることになりました、高瀬です」
挨拶はした。言葉も選んだ。けれど、目の前の彼女──三浦麻理は、会釈ひとつでそれを流した。
何かを評価するでも、拒絶するでもない。ただ、必要最低限の反応。
その塩対応に潤は少し面食らった。
まだ自分が1年目だった頃、こうした空気を「怖い」と思ったことがある。
でも今は違う。どちらかと言えば、「気持ち悪さ」に近い。
理解できる部分があるからこそ、どうにも拭えない感覚だった。
彼女がシングルマザーであることは知っている。生活のために、早朝から深夜まで現場を回っていることも。
「大変だよね、ママってだけで割り切らなきゃいけない仕事、いっぱいあるよね」
そう言っていた母の姿と、彼女の後ろ姿が重なって見える瞬間がある。
でも、母は笑っていた。
麻理は笑わない。ただ、こなす。まるで感情を切り離すように。
それが、潤にとっては“支援”という言葉から最も遠いように思えた。
「Aさん、今日の昼食はしっかり食べたって聞いてます。少し体調いいんですかね」
潤がそう言っても、麻理は視線を逸らしたまま、記録表に無言で数字を記す。
「状態が良かろうが悪かろうが、こっちのすることは変わんないでしょ」
乾いた声だった。
その言葉に、潤は喉の奥に何か引っかかったような違和感を覚えた。
「じゃあ何のために、ケアするんだよ」
言いかけて、やめた。そういう言葉が、彼女を苛立たせることは分かっていた。
でも──言いたかった。
支援とは、誰かを信じることだと思っていた。
Aのように、言葉少なく、自分の意志を伝えるのが難しい人と向き合うたび、
「それでもあなたを見てるよ」と伝えることが、自分の仕事だと思っていた。
それは、母の姿をなぞるような信念でもあった。
でも三浦麻理は、それを切り捨てるように働いている。
彼女にとってこの仕事は、きっと「義務」だ。
潤が抱いてきた「理想」とは、別の文脈にある。
彼女は、母親と似ているはずなのに、どうしてこんなに、遠く感じるんだろう。
小さな声で「よろしくお願いします」とだけ言って、潤は記録表をめくった。
麻理は返事をしなかった。
──その日の帰り道、潤は母の声がふと蘇るのを感じた。
「お母さんは、好きでこの仕事してるよ。だけどね、好きだけじゃやってけないのも知ってるの」
彼女もまた、現実と理想のはざまで揺れていたのだろうか。
潤はその境界線を、まだ明確に描くことができなかった。
第2章:夢を殺した現実
若い頃は、笑ってるだけで褒められた。
スカウトされて、小さな雑誌に写真が載ったこともある。
「芸能界ってそういうものだよ」って、同級生に言ってた自分が滑稽に思えるくらいには、今の生活は泥臭い。
目の前のBは、今日も無言だった。
食器を下げるとき、わざと大きな音を立てた気がした。
何か言いたいのかもしれない。でも、麻理はもう慣れている。
“言葉にならない怒り”は、支援現場ではありふれている。
「ほんとはもっと違う人生だったんだよ、あたし」
──なんて言って、誰が得するっていうんだろう。
Bの下着を替えながら、ふと目が合った。
その目は、憎しみも、諦めも、虚無も含んでいた。
「こんな女に見られたくなかった」そんな声が、聞こえたような気がした。
麻理は表情を変えずに言った。
「お湯、もう少し温かいのがよかった?」
返事はない。
帰りの廊下で、ふとすれ違ったのが、あの若いヘルパー──高瀬潤だった。
無駄に背筋が伸びていて、どこか浮いていた。ああいうタイプは、最初はウケがいい。
でも、自分の“善意”が通じないとわかると、傷つくのも早い。
「今日、Aさんのとこで何かあった?」
何気なく聞いてきた潤に、麻理は少しだけ苛立っていた。
「特にないけど。体調はいつも通り。機嫌は……まあ、あんなもんじゃない?」
それだけ言って、報告書のファイルをかばんに突っ込んだ。
潤が言葉を探している気配が背中から伝わってくる。
「……ありがとうございます。参考になりました」
その丁寧さが、麻理にはどうにも馴染まなかった。
かつての自分も、あんなふうだったのかもしれない。
現場に入ったばかりの頃。誰からも見られていない気がして、誰にも必要とされていないようで、
それでも“誰かのためになれたら”と、必死に意味を探していた。
「ありがとう」のひと言で救われることも、確かにあった。
自分の存在が、少しでも誰かの役に立った気がして。そうやって、自分の人生にも意味があるんだって、信じようとしていた。
けれど──「ありがとう」をもらえない日が、何年も続くと、人は壊れてくる。
仕事が丁寧でも、上司には気づかれず。笑顔で接しても、利用者からは怒鳴られる。
家では、子どもが熱を出しても「シフトを守って」と言われる。“意味”は、努力で手に入るものじゃなかった。
今では、感情を切り離すのが当たり前になった。割り切って、回して、最低限を守る。
そうじゃなきゃ、潰れる。
だから──潤のような若者が、あの目で「信じてる」なんて言うと、どこかで胸の奥がざわつく。
「あんたも、いつか壊されるよ」そう思っても、口には出さない。
第3章:交差する傷と距離
「そんな言い方、しなくてもいいじゃないですか」
思わず出た言葉だった。
カンファレンス室の空気が、わずかに張りつめた。
麻理は、書類をめくる手を止めなかった。
会議用に揃えられたペットボトルの水が、卓上で小さく揺れている。
「私は間違ったこと言ってないよ。Aさんの表情を見れば、あの介入はストレスになってるってわかる」
「でも、あれは“自分で選ぶ”って感覚を取り戻してもらうための──」
「理想論じゃ現場は動かないの」
言葉を切るように、麻理が言った。
その声音に、潤は喉の奥が焼けるような悔しさを感じた。
潤の視線が、自分を刺すように向いていた。
その真っ直ぐさが、かつての自分に似ていて、むしろ腹立たしい。
自分が「支援者になりたかった理由」なんて、もう思い出せないくらい、麻理は擦り切れていた。
「言っとくけど、私だって好きでこんな冷たい言い方してるんじゃないよ」
「だったら、どうしてそんなふうに……」
潤が言いかけて、口を噤む。
その顔が、言葉にできない違和感を抱えているように見えて──麻理は、静かに吐き出した。
「子どもが熱出しても、見てくれる人がいなかった。仕事、何度も休んで切られかけた。
それでも、目の前の利用者に“心を寄せろ”って言われ続けた。
……理想って、誰が語る資格あるの?」
潤は言葉を失っていた。
そのとき、潤は初めて、麻理の“背景”を聞いた。
どこかでわかっていた。でも、聞いてしまうと、それは現実になる。
母親も、たしかに苦労していた。
けれど、潤にとっての“ケアする人”は、強くて、優しくて、どこか美しい存在だった。
麻理は、違う。
「……でも、それでも、“寄り添おう”とすることは、大事なんじゃないですか?」
そう言った潤の声には、わずかに震えがあった。
麻理は、その言葉に対して、即座に返さなかった。
ただ、少しだけ、潤を見つめて言った。
「あなたの言う“寄り添い”って、自己満足に見えるときがあるよ。
相手の“ありがとう”がなかったら、あなた、潰れない?」
その言葉に、潤の表情がわずかに強張った。
それを見て、麻理は思った。
やっぱり、まだこの子は支援者として“誰かに認められたい”だけなんじゃないか。
でも、その姿は、どこかで自分のかつての影をも映していた。
ふたりの間には、まだ理解はない。
けれど、確かに何かが、交差した。
──言葉にならない痛みだけが、部屋の空気に残っていた。
第4章:言えなかったありがとう
「……じゃあ、今日はこのへんで失礼しますね」
いつも通りの挨拶だった。だがAは、ベッドの上で微動だにしなかった。
腕の筋力は少しずつ落ちてきている。視線だけが、天井の染みをじっと見つめていた。
潤は、靴を履く手を止めた。このまま帰ったら、たぶん何も残らない気がした。
「……今日は、どうでしたか?」
問いかけに、返事はない。Aが言葉で応じることは、ほとんどない。
顔の向きや手の動き、まばたきのリズム。そのどれかで、“わかる”こともあった。
けれど今日は、それすらもなかった。
ポケットにしまったままの絵葉書が、潤の中でずっと引っかかっていた。
先週、Aが昔通っていた場所の風景写真を見て、微かに口角を上げた気がしたから。
次の支援日に合わせて、ネットで似たような景色の絵葉書を買っていた。
それを渡すタイミングを探していた。
だけど、今日も渡せなかった。
玄関前で、潤は立ち止まった。靴のかかとを踏んだまま、壁に手をつく。
「……あなたのこと、ちゃんと見てるつもりなんです。
ちゃんと、寄り添ってるつもりで……でも、違うんでしょうか」
小さくつぶやいた。返事はない。もちろん、Aには聞こえていない。ただ、自分に向かって言っていた。
“ありがとう”って、言ってほしかった。
そう気づいた瞬間、心の奥がきゅっと縮こまった。
支援は見返りを求めてするものじゃない。感謝されるためにやってるわけじゃない。
そう信じてきた。けれど、それでも、「伝わっていてほしい」という気持ちが確かにあった。
それを「ありがとう」という言葉で確かめたかったのだ。
でも、Aが何も言わなかったとき、自分が“がっかりしている”ことに気づいてしまった。
それが、とても浅ましく思えた。
廊下を歩きながら、麻理の言葉が頭をよぎる。
「相手の“ありがとう”がなかったら、あなた、潰れない?」
あのときは否定した。けれど、今なら少しだけわかる気がした。
帰りのバスの窓から、夕焼けが見えた。街はいつも通りで、誰も自分を知らない。
支援して、言葉をかけて、記録を書いて、それでも残らないことがある。
それが、当たり前なのだ。
「ありがとう」がなくても、残る支援はあるのか。
その問いが、胸の奥で何度もこだました。
潤はその問いに、まだ答えられなかった。
第5章:自分を選べなかった日々
たまに、夢を見る。
フラッシュが焚かれる。白い布の上。高いヒール。
誰かに囲まれて、誰かに見られて、笑ってる。
自分が“価値ある存在”でいられる、そんな夢だ。
目が覚めると、現実はいつも布団の中。
朝のアラームが鳴る前に、子どもの小さな寝息が聞こえる。
「もう少しだけ、寝かせて」
そう言っても、生活は待ってくれない。
朝食を作り、制服にアイロンをかけ、パートに向かう。
その隙間で、ケアの現場に足を運ぶ。
今日の担当は、B。
Bは、今日は機嫌が悪かった。そもそも、機嫌がいい日なんて滅多にない。
「この服、なんか違うだろ」「冷えてんだよ、わかんねぇのか」
麻理は、声のトーンを一定に保って対応する。
「そうですね、じゃあ次回はもう少し暖かいやつにしましょうね」
反論はしない。説明もしない。
どうせ相手は、聞く気がないのだから。
でも、昔は違った。
最初の頃は、全部ちゃんと説明しようとしてた。
「どうして今それは難しいのか」「なぜこういう支援方法を取っているのか」
わかってもらおうと、必死だった。
わかってもらえれば、自分の存在にも意味があると思ってた。
でも、わかってもらえなかった。
それに気づくまでに、何年もかかった。
帰り道、コンビニのガラスに映った自分が、やけに“擦り切れた顔”をしていて驚いた。
高校の卒業アルバムには、「夢はモデル」って書いてあった。
あの頃は、誰かに見られる自分を“自分”だと思っていた。
でも、今は見られていない。誰にも期待されていない。
それが、楽なようで、息苦しい。
潤のことを思い出す。
あの目のまっすぐさは、いまでも自分のどこかを刺してくる。
「誰かのために」と言える人間は、まだ“自分を選べた人”なんだろう。
麻理には、それがなかった。
夢を選べなかった。
仕事も選べなかった。
自分のために生きる、という選択肢もなかった。
それでも、生きている。
子どもがいて、日々をこなして、支援現場に立っている。
でもそれは、「立ちたいから」ではなく、「倒れるわけにいかないから」だった。
家に帰ると、洗濯物がまだ濡れたまま部屋に吊るしてあった。
子どもはもう寝ていて、夕飯の皿も片付けてある。
静かな夜。
だけど、耳の奥がずっと響いているような感じがする。
誰かの声じゃない。
自分の、奥底にしまっていた問いの音。
“本当に、これでよかったの?”
その問いに、麻理は答えない。
答えられない。
ただ、明日のシフト表を見て、予定を頭に入れる。
そして、また朝が来るのを待つ。
第6章:義務の先にあるもの
退職届を出すと、上司は特に驚きもせず、淡々と「次の支援者は手配する」と言った。
潤は、Aの部屋の前で最後のケア記録をまとめた。
結局、例の絵葉書は渡せなかった。
それでも、何かを伝えたかったという気持ちが、まだ胸のどこかに残っていた。
「……ありがとうって、結局、誰のための言葉だったんでしょうね」
誰にでもなくつぶやくと、Aがわずかに目線を動かした気がした。
それは肯定でも否定でもなく、ただそこにある“問いの存在”のようだった。
午後の休憩室。潤が退職するという話は、すでに施設内で回っていた。
「まあ、続かないだろうとは思ってたけど……」
別の職員がそんなふうに言った。
麻理は何も言わなかった。
帰り道、潤がエレベーター前で立っていた。
「あ、三浦さん……すみません、最後に一言だけ」
麻理は腕を組んだまま、彼を見た。
「支援って……たぶん、誰かを救うってことじゃないんですよね。
それより、誰かと同じ問いの中に立ち続けることなのかもしれないって、今は思ってます」
その言葉に、麻理は少しだけ目を細めた。
「……ふうん、あんた、そんなこと考えるようになったんだ」
「はい。……まだ、全然答えは出てないんですけど」
潤が小さく笑った。
麻理は何も返さなかった。
けれど、エレベーターのドアが閉まる直前、思わず口が動いた。
「……あたし、あなたのこと、ずっと嫌いだったよ」
潤は目を見開いた。
でも、驚いた顔のまま、すぐにうなずいた。
「……知ってました。でも、それでも、尊敬してました」
ドアが閉まる。
静けさの中で、麻理は初めて、心のどこかに小さな空洞が空いた気がした。
施設の外に出ると、まだ夕焼けの残る空が広がっていた。
次の仕事は、まだ決まっていない。
福祉の道を続けるか、それすらもまだ決めていない。
でも、“正しさ”のためじゃなくて、自分自身の問いのために生きてみたいと思った。
それは、誰かに認められるための支援でも、感謝を得るための奉仕でもなく──
義務の先にようやく見えた、ささやかな「選択」の始まりだった。
物語のすべてが解決したわけじゃない。
誰も救われていないし、答えも出ていない。
けれど、確かに何かが残った。
麻理の沈黙と、潤の問いと、支援という名の曖昧な連帯と。
そしてそれが、「わかりあえなかったふたり」にとっての、最も静かで確かな交差だったのかもしれない。
──完──
