お寺の国のクリスチャン 改訂版 ③ 完
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恋人らしくない恋人たちのこの先を追うまえに、まずはコートシップの説明から始めよう。ジェーン・オースティンの時代ならいざ知らず、現代ではほとんど使われない言葉だ。
コートシップとデートは異なる。コートシップとは、一組の男女が、神の導きのもと、家族や共同体に支えられながら、結婚を真剣に見据えてする交際である。
その目的は、みこころに適った結婚相手を見定めることであり、肉体的な接触は慎む。つまり、デートのように、快楽の追求が目的ではない。
たとえば、真木と八枝の場合で考えてみよう。
真木がその若い恋人に、指一本触れないのは、ひとり娘を溺愛するその父への配慮もあるだろう。しかしそれ以上に、彼女の未来の夫を尊重してのことでもある。まだ婚約していない段階で、自分のものではないひとの清さを傷つけることがないようにしているのだ。
そしてまた、通常のコートシップでは、二人きりで出掛けることはない。シャペロンというお目付役が行動を共にする。それは友だちや兄弟かもしれないし、両親かもしれない。
とはいえ、ケースバイケースで、このふたりの場合、真木がもう十分に大人なので、二人で出掛けても、危険はないだろうと判断が下った。それを決めたのは、パウロ牧師と八枝の父のふたりである。
もしシャペロンがいるとしたら、きっとパウロが連れ出されただろうから、彼としても面倒なことを回避できたことになる。四十になってから、同い年の親友のシャペロンをするなんて、いくら牧師のパウロにも、ぞっとしないだろうから―――
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コートシップ時代を思いだして、八枝は笑ってしまう。あれは、まるでホームスクーリングの延長だったもの。ふたりが訪れたのは、碌山美術館に、民芸館に、四賀の化石館に、窪田空穂記念館に、時計博物館に、はかり資料館。地元に住んでいると、なかなか観光をしないものだから、わたしとのコートシップは、体の良い口実に使われたようなもの。
ロマンチックだったわねえ、と八枝は皮肉めいた口ぶりで。あの日は、まずあがたの森に行ったのね。旧制高校博物館をみて、北杜夫の答案用紙に大笑いして。それから野球少年たちの声を聞きながら、薄川を上流に向かって歩いた。両岸をふちどる桜の並木が、赤橙に色づき、山はあざやかな黄と紅に染まって。信州の秋のうつくしさと言ったら。
真木は片手に、コンビニの白いビニール袋を提げていた。そう、あれはまだ買い物袋が無料だった頃。じみなセーターにジーンズで、さすがに足元はサンダルじゃなかったけれど、あれはデートの格好じゃないわ。近所のコンビニに行くついでって感じ。プロポーズしようってひとの格好じゃなかったもの。まったくもって油断してしまったのね。それさえも彼の狙いだったかもしれないけど。
「昨日、ようやく飯森教授のご本を読み終えましたよ」
閑散とした川原をぶらぶら歩きながら、真木は言った。飯森教授は、わたしの叔父で、信大で日本史を教えている。それは信州の国衆についての分厚い本で、叔父には内緒だけど、わたしも半分くらい読み飛ばしてしまった。
「あとがきにありましたけど、八枝さんのご先祖は、武田に仕えた国衆だったんですって?」
「そうらしいですねえ」
「槍弾正って呼ばれていたそうじゃありませんか。いかにも強そうだ。それなのに八枝さんには、戦闘能力がなさそうですね」
「この平成のご御代に、戦闘能力なんて求められていませんもの」
いつもの軽口だった。けれど真木の脳裏には、その会話の終着点がはっきり描かれていたのだ。
「まったく、あなたの方が、よっぽど歴史があるじゃありませんか。ただの庄屋あがりのうちなんかよりずっと」
「血をひいているだけの人間と、本家のご当主というのでは、責任もなにも違うでしょう? 現にわたしは、先祖に縛りつけられるような重さを感じたことなんかないし、うちはもう何代もクリスチャンですから、過去は乾ききっていて、ただの興味深い遺産でしかないように思っていますわ」
「つまり、八枝さんの家系は、もう解放されて久しいわけですね」
「そうですね、だからどこかに、いま真木さんが悩んでらっしゃるのと同じ悩みをしたひとがいて、わたしはその上に感謝もせずに立っていたんですわ」
「だからあなたはクリスチャンなのに、なんの陰も感じずに、寺だの神社だのに歴史的な興味を持てるんだ」
皮肉られてるのかしら、と思って、わたしはそっと真木を窺った。
「ずっとアメリカにいたぼくが言うのも変ですが、八枝さんみたいな人は、お寺の国のクリスチャンにおける新人類なのですね」
「だれもかれもが真木さんのように、頑丈な檻みたいな家制度に生まれるわけじゃありませんよ」
「それは、あなたが東京の人だから言えるんですよ。田舎では多かれ少なかれ、みんな何かを背負っている」
それはそうかもしれない、とわたしも思った。
後ろには、かすかに雲のかかったアルプスの山々。そしてだんだん近づいてくる美ヶ原は、金襴緞子をまとって。頬に冷たい川風を感じながら、わたしたちは歩きゆく。
「それにしても、八枝さんと結婚すると、ぼくはようやく親戚を喜ばせることが出来るわけですね」
落ち着いた表情で、軽い皮肉のように、真木が言った。突然、結婚という言葉が出たので、びっくりしてしまう。人気のない、ひらけた河川敷で、真木が跪いていた。
「八枝さん、ぼくと結婚していただけませんか?」
「話の流れが突然すぎませんか!?」
「いえ、川の流れみたいなものですよ」
真木は、にやっと笑った。
「もう一度やりましょうか?」
誰もいなかった川原に、遠くのほうから、犬の散歩をする人影が近づいてくる。
「いいえ! まるでプロポーズされてるみたいに見えて恥ずかしいから、早く立ってください!」
「プロポーズされてるんじゃないですか」
「はわわ」
「早く答えた方がいいですよ。犬の散歩をしてたらプロポーズの現場に出会ったのよ、なんて楽しい話題を提供することになりますからね」
「真木さん、人をからかいすぎです。Noっていいたくなりますよ」
「つまり、Yesだと」
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散歩から帰ったふたりを迎えたのは、わざとらしく庭を掃いているパウロ牧師で、やあやあ、と手を挙げながら、上手くいきましたか、と英語で問うた。
「上手くいったかと思います」
そう英語で返す真木に、パウロが笑いながら言う。
「まあ、真木のことだから、ぼくがエリーにプロポーズしたときみたいには、格好良く決められなかったでしょうよ」
パウロ牧師の妻について、八枝はほとんど知らなかった。病死したらしいとかすかに聞いているだけで。
教会での付き合いは、ふしぎだ。お互いに宿る聖霊がふれあうように、共に礼拝し、ひとつの教会に集って、仲良く接していても、相手がどんな仕事をしていて、どんな家のひとで、どんな生活を送っているのか、まるで知らないこともある。
「いや、お前はあのとき、跪いたまま泥にはまって、起き上がろうとして転んだんじゃないか」
真木が言う。彼がシャペロンをしていたのかしら、八枝は黙ったまま、かれらの若き日を想像した。
三人で家に上がり、茶の間でくつろいでいると、パウロが言った。
「でも、婚約したのなら、間を開けずにさっさと結婚してしまうことだね。その方がいいよ」
「まだわたしの家族が……」
そう言いかける八枝に、かぶせるように真木が言う。
「東京のお父さんには、昨日電話で許可をいただきましたよ」
「あんな流れだったのに、実は用意周到だったんですか?」
「どんな流れ? どんな流れ?」
一部始終を聞きだしたパウロは、腹をかかえて笑いだした。
「さすがは真木先生だね! 長い間ずっと周りが結婚していくのを、じっと観察していただけあるね!」
「失敬な……」
「ともあれ、ぼくもエリーも、真木がすてきな女の子に出会ったときいて、ずっと八枝さんに会いたいと興味津々だったんですよ。まだ二十代だというのには驚いたけどね。ほんとうに待ったかいがあったね!」
おずおずと、八枝が口を挟む。
「あの、エリーさんは……」
答える真木は凍っていた。
「エリーは、本当はパウロと一緒に日本に来るはずだったんです。だから彼らのために、うちの家作を一部屋あけて用意していたんだけど、日本に来るまえに……」
ふとパウロが顔をあげ、真木のことばを奪うように引き継いだ。
「ぼくたち夫婦はね、長い間子どもを授かれなかったんです。ぼくは、大学のときに真木に出会ってからずっと、何だか日本への重荷を感じていて、ずっと日本に行きたいと思っていました。でも肝心の真木が、いつまでもアメリカにいるものだから、なかなか機会がなかった。それで真木がやっと日本に帰って、しかもひとりきりで鬱になって、これはもうぼくたちが助けに行くしかない、とふたりで決めたときに、エリーの妊娠がわかったんです」
すらすらと話していたパウロは、そこで逡巡した。
「正直にいうとね、ぼくはまだ乗り越えられていないんです。人間の生死は主の御手にあって、すべて定められたこととはわかっているんですけどね。あまりにも突然だったから、エリーは日本にはいないけれど、アメリカにさえ帰ればそこにいるんじゃないかという気がするんですよ」
「子宮外妊娠だったから、急だったんです」
真木が補足した。八枝はただ口を閉ざして身ぶるいした。
「ともあれ、真木の結婚式なんていったら、エリーはきっとものすごく興奮したと思いますよ。エリーは真木が大好きでしたし、結婚式の準備ときたら、エリーでしたからね」
パウロは、まるでエリーが生きているかのような明るい口ぶりに返った。
「年貢の納め時、ってこういうときに使うコトバですか? このまえ日本語学校で習ったんだけど」
「びみょうに違うと思います。真木さんがものすごく女遊びをしてらしたなら、また話は別ですけれど」
「言いたきゃ言えばいいですよ。でも、ぼくは無実ですからね」
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小さな教会は、大騒ぎになった。そして蜜蜂のようにぶんぶんと、三ヶ月後の結婚式に向けて働きはじめた。中華料理店を営むチェンさんがケータリングを請け負い、マリアンと八枝は毎日のようにあつまって、式の準備にいそしんだ。決して大げさなことはしたくない、という真木の言葉にしたがって、真木家の座敷で行う、簡素な教会式になるはずだった。
八枝の祖母の喜びようといったらなかった。すっかり真木を気に入ったおばあさまは、思い通りの豪華な式を挙げさせられないことさえ、赦さざるをえなかった。それに、八枝がプロポーズされる前から、孫娘が真木の本家に嫁ぐことを言いふらしていたらしい。
自由な精神の持ち主で、カトリックを破門されたものの、それでもおばあさまは顔が広く、ある程度の権勢家であった。そのことはほんの少しだけ、真木の名誉回復に役立ったらしい。外を歩いているときに、会釈を返して貰えるようになった。
そんなある日、八枝のもとに、大きな箱を抱えたパウロがやってきた。
「ドレスが見つからないって聞いたんだけど」
「そうなんです! お店にあるのは露出の多いのばかりで、つつしみ深くて趣味のよいドレスを、あと二ヶ月半で見つけるなんて、まるで不可能に近いわ」
「……これは、エリーのドレスだったんだけど」
箱のなかには、繊細なヴィンテージのウェディングドレスがあった。それは1960年代の総レースで、なだらかな首もとに、サッシュのリボンが腰たかく結ばれている、控えめで品の良いデザインだった。サイズも小柄な八枝にぴったりで、ナフタリンの匂いがする以外は、いますぐにでも着られそうな状態にあった。
「……これをお借りしてもよいのですか?」
いままでに見たなかで、いちばんうつくしいドレスだと思った。古い物語にでてくる婚礼衣装みたい。八枝はちょっと泣きそうになった。
「エリーにとって、真木は大好きなお兄ちゃんみたいな存在でしたからね。エリーがここにいたら、八枝ちゃん、これを着て! って必ず言っただろうと思います」
それでドレスは決まった。八枝とマリアンに任せていては、どんな結婚式になるかわからぬと心配したおばあさまが、ウェディングプランナーの松原さんを雇ってくれて、そこから加速度的に物事が進んだ。松原さんは、お座敷の畳の上で、ウェディングドレスを着て、牧師に神前式をしてもらい、中華料理を食べるんだ、という計画に頭を抱えながらも、なんとかそれを形にしてくれた。
その頃、真木はなにをしていたのだろう。八枝には記憶がない。結婚式を成功させるのは、女の仕事である。彼はただ、自分の屋敷を明け渡し、式の日に新郎の位置にいればいいのである。
「八枝さんは、マリアンと結婚するつもりですか、それともぼくとですか?」
わが物顔で屋敷の一室を占領して、作戦会議をしていた女たちに、ある日、真木が言った。
「オトコの嫉妬、みっともない、みっともない」
マリアンが冷やかす。
「ずっと人が結婚していくのを眺めていたけれど、さて自分の番になると、式を挙げるのが、こんなに面倒なこととは思わなかった。さっさとグレトナ・グリーンにでも行けば済むものを」
「ここは日本ですから、スコットランドに行く方が面倒くさいと思いますよ」
そんな二人に、マリアンが白い目で言う。
「あなたたちお似合いね。なにを言ってるのかわからないワ」
(注: グレトナ・グリーンはスコットランドにある駆け落ち婚の名所。ジェーン・オースティンの小説に登場する)
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式の前日のことだった。東京のひとびとが手伝いにきてくれたおかげで、ほんのすこしだけ暇になった八枝は、こっそり書斎に忍び込んだ。毛織のソファに腰かけて、本を読んでいるところに、真木がやってきた。
「久しぶりですね」
「毎日会っていません?」
「あなたはいつもあれやこれやで忙しそうで、ぼくに割く時間なんてなさそうですから」
拗ねた四十男を無視して、八枝は堰を切ったように語りだした。
「でもね、ひとつだけ分かったんです! パウロさんが、婚約したらさっさと結婚しろって仰ったでしょ。あれは男だから言える台詞だったんですよ! きっとエリーさんが魔法使いみたいな凄腕で、なんの苦労もなしに結婚式を作り上げられちゃったんですよ!」
「それは確かにそうでしたね。エリーがいれば、あなたもここまで苦労しなかったかもしれませんね」
「だいたい三ヶ月しかないなんて、無茶ぶりだわ。なんでそんなこと決めちゃったんだろう……」
「まあ、いいじゃないですか。三ヶ月もあと一日を切っているんだから」
「わたし、これが終わったら、燃え尽き症候群になるかもしれない」
「ぼくは燃え殻と結婚するんですか?」
軽口をたたきながら、真木は八枝の手にしている本を覗いた。
「こんなときに細雪ですか、縁起が悪い。あした下痢になっても知りませんよ」
「……下痢になっても、わたしと結婚してくれますか?」
急にしおらしく、真木の袖を掴んでみた。効果はてきめんである。真木はすぐに機嫌のなおった声になった。
「ぼくは十五のときに、骨折で入院したことがあるんです。そのときから体に何か骨が足りないような感覚がしていたのですが、このあいだやっとその訳がわかりました。神さまがぼくの骨の欠片で小さな女の子の赤ちゃんを造ったのです」
「八枝さんは、趣味も教養も、ぼくとよく合っていて、二十年間ひとがどんどん先を越して結婚していくのを、黙って眺めていたかいがありましたよ。八枝さんが成長するのを待つために、ぼくは長々とアメリカに流されていたんですね」
「ほんとうに、十五のときに入院したんですか?」
八枝は疑わしい、というふうに問うた。
「入院したのは事実ですけど、本当は盲腸でした」
真木は、ばれたか、という顔をした。
「あともうひとつ。真木さんは、素直に愛しているとか、綺麗だねとか言えないんですか?」
「そういうことは、お願いだから日本語で言わせないでください。英語なら言えますけど、日本語は言えません」
この小説は、高慢と偏見のパロディから始めたのであるから、ジェーン・オースティンの作品に倣って、真木と八枝が結婚したところで終えるべきだろう。賢明で人生経験の豊かな読者の方ならば、本当の苦労はここから始まることをご存知だろう。でもそれは、オースティンのような、明朗とした小説には向いていないのである。
真木と八枝のふたりも、このあとお互いを殺してやりたい、と思ったことも、このひとが愛しくてたまらない、と思ったこともあった。けれど、何より彼らを助ける錨となったのは、神が選んでくれた相手と結婚した、という確信だった。
間違った相手と結婚したのではないか、という疑いほど辛いものはない。その点、このふたりは、自分たちが主のみこころの上に立っている自信があった。相手のなかにキリストを見いだす、いくつもの瞬間があった。それゆえ、すべてが過ぎ去ったのち、共にいられた時間は短くも、あのひとと結婚できてほんとうによかった、と八枝は心から思えたのだった。
the end
