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お寺の国のクリスチャン 改訂版 ②


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6



 坂の頂上で、八枝は待ちかまえた。遠くに城下町がかすみ、空のかなたに夏雲が湧き、どこかの庭のヒマワリが揺れる。真木は歩いてやって来た。手みやげに、藤むらのれえずんくっきいを下げて。灰色の麻のスーツに、うっすら汗が染みている、蝉しぐれの昼下がりだった。


 祖母は、真木を知っていた。その亡くなったお母さまというひとも。お茶の稽古で一緒になったことがあるという。あのひとの息子さんねえ、と祖母は興が乗らないように呟いた。あまり良い噂を聞かないわ。祖母は貴婦人のような、飾り立てた手を、こめかみに当てた。 


 「高校の頃以来ですよ、この坂を登ったのは」 


 挨拶を終えると、真木はそう言って、窓のそとに遠くみえる、坂の途中の深志高校を指さした。それに、八枝の叔父が反応した。ふたりは先輩後輩に当たるらしい。ひとしきり高校の話に花が咲いてから、祖母が核心を突いた。


 「なにか、ご親戚と揉めてらっしゃるんですって?」


 はっとする間もなく、真木に痛みが走った。涼しげな目を閉じて、彼はしずかに息を吸った。ちいさな青い筋が、その額に立つ。八枝はちいさく手をのばしかけた。


 「そうなんです。本家の跡取りなのに、クリスチャンになって、お参りすることも拝むことも出来なくなってしまって」


 やさしく身を交わしながら、真木がそう答え、八枝は宙に浮いた手をしまった。その一連の動作に気付きもしなかったように、祖母は彼に釘付けになっていた。


 真木が帰ってから、祖母は立場を一転させて、彼を褒めそやした。


 「こんな田舎に暮らしていると、世間体がまるで神のようになってしまうものだけれど、結局はイエスさまの言う通り、人間はふたつの主人には仕えられないのよ。でもそれを実行できるひとは滅多に見ない。彼はすごいひとだわ」

 

 すこしずつ、八枝はじぶんが選んでしまった男の背負う重荷に、気づきはじめていた。



7



 「きょうはおミサではなく、やあちゃんの教会に行かせて貰おうかしら」 


 いまにもひと雨降りだしそうな、もの憂い日曜の朝、赤い傘を手にして、祖母は言った。濃茶のシフォンのブラウスに、きれいなウールのジャケットを着て、胸元には珊瑚のブローチ。七十五になる祖母は、行動力の塊で、女傑と貴婦人を混ぜあわせたようなひとである。


 この家の日曜日は、八枝は、無国籍なプロテスタントの礼拝に、祖母は、格式高いカトリックのミサに、無神論者の叔父は、家に留まってくつろぐのが恒例になっていたのに。


 「さ、行くわよ」


 祖母は、タクシーに乗りこんだ。タクシーに乗せてもらえるのはありがたいけれど、おばあちゃんはあの教会をみて何て言うかしら。八枝はその背中を追いながら、不安に思った。


 「有賀さんが、あなたの真木さんの噂をしていたわ」


 車は、夜の雨で湿った坂道を、城下町の方へ下りゆく。白いレースのかかった後部座席に鎮座して、祖母はまっすぐを見つめながら言った。有賀さんは、近所に住む祖母の友だちである。バイト先を探していた八枝に、親戚の経営する蔵造りのカフェを紹介してくれたひとでもあった。


 「あなたには、言わないことにする。でも、覚悟しないといけないわね。いつまでも逃げてはいられないから」


 八枝は窓の外を眺めた。車はちょうど松本城を右に見ながら走っていた。うす暗い神社の外に生えた欅の巨木の、しめ縄に垂れた白い紙の揺れているのが、みずからを責め立てているような気がした。泣くんじゃないの、と凛とした祖母の声がする。


 「真木さんは、すべてを覚悟で戦ってらっしゃるのよ。あなたはひとに憎まれたことがないから、いまは動揺しているかもしれないけれど、それを彼に見せてはだめ。重荷になってしまうわ。あなたは、人から悪く言われる彼を、誇りに思うくらいの気持ちでいなさい。あのひとと一緒にいれば、あなただってすぐに悟りが開けるわよ」


 そう言って祖母は、モーゼの杖みたいに、赤い傘を握りなおした。タクシーは女鳥羽川を越えて、真木家の屋敷のもうすぐそこに来ていた。



8



 礼拝が始まった。賛美があり、献金があって、証しの時間になった。どなたか、証しや歌のある方はいらっしゃいますか。真木がちいさく手を挙げて、八枝は息を呑んだ。


 座布団から立ち上がり、真木は前に進んでいった。パウロがその肩を叩き、そっとマイクを譲った。一瞬だけ、目が合った気がした。畳敷きの礼拝堂は、いつになく張りつめて、しんとしている。彼はなにを語るのだろう。八枝は祈るようにみあげた。


 「ぼくは古い家に生まれて、立派な跡取りになるよう育てられました。母は善いひとでしたが、しきたりとしがらみの世界に生きて、死んでいったようなひとでした」


 「重圧から逃れるように、ぼくはアメリカに渡りました。そしてすぐキリストに出会いました。はじめて生きる道が目の前に開けたような気がし、聖書のすべて、神のすべてを、乾いたスポンジのように吸い込んで、聖霊のバプテスマを受けました」


 「大学を卒業すると、松本に帰ってこい、と家族は言いました。でも、むりやり仕事を見つけて、ぼくはアメリカに留まりました。良い教会があり、牧師や友達に恵まれていて、離れたくなかったのもありますが、ぼくはこの古い家に戻って、イエスに従う人生を生きる自信がなかったのです」


 「クリスチャンとしてのぼくは、アメリカで暮らしている間、成熟してゆきました。それでも、どこか自分が逃げているような、いるべき所にいないような感覚がしていました。アメリカで、ぼくは人生の傍観者でした。そこはぼくが呼ばれた場所ではなかったのです」


 「それでも日本に帰って、本家の跡取りになる勇気はありませんでした。自分が位牌を守れないどころか、仏壇を家に置いておけさえしないだろうこと、お祭りの役を務めたり、冠婚葬祭で世話役をしたりするのは、無理だとわかっていたからです。ぼくのなかに聖霊が住んでいる限り、ただとにかく無理だったのです。そしていちどイエスの霊を宿したら、それは決してぼくを去ることはないのです」


 「二年前、母が亡くなり、ついに恐れていたものと向き合わざるをえなくなりました。ぼくが帰ったとき、母はもう骨になっていました。分家の叔父が喪主をして、葬儀を済ませてくれていました。それは遠くにいる息子は間に合わないだろう、と案じた母の計らいだったのです。けれど、親の葬儀も出してやらなかった本家の馬鹿息子と、ぼくは陰口を叩かれました」


 「立ち向かわねばならないものは、内にも外にも存在しました。まずは仏壇と神棚を、業者に処分してもらうことから始めました。親戚の理解など得られるはずもない。それからお寺に行って、檀家を辞める相談をしました。本家がそんなみっともないことをするなど、前代未聞であると罵られました。馬鹿馬鹿しいような高額を支払って、ようやく寺から自由になることができました」


  「その頃にはもう、親戚はぼくを死んだ人間扱いし、噂は恐ろしいことになっていました。それでもまだ勇気を振り絞って、氏子総代に会いに行かねばなりませんでした。神社の祭りで、本家の果たさねばならぬ役目が定められていたのです。けれど、ぼくには無理なことでした。親戚に絶縁され、近所からは村八分にされて、鬱になって、家に閉じこもりました。ぼくは社会的に殺されたも同然で、ひとりきりで、助けてくれる教会も牧師も友達もありませんでした。ぼく以外誰もいない閉じきった屋敷に、訪ねてきてくれたのは、イエスキリストでした」


 「主は、ぼくの心に触れて、鬱を癒し、語りかけてくださいました。イエスが十字架にかかったように、神はぼくを、人々の目の前で、十字架に架けたのだと。これはすべて神の計画されていた通りで、ぼくはこのために用意されていたのだと」


 「それから、道が開けていきました。パウロが日本に宣教に来るというので、この屋敷を教会として開放してしまおうと決めました。ゴミ出しでさえままならぬような、針のむしろに生きているけれど、主はぼくを、恐れの霊から解放し、人の目を怖がる思いに打ち勝つ力をくださいました」 


 「キリストが十字架につけられて、人々に辱しめられた、その苦しみを、ぼくはその何万分の一であれ、体験させていただいているのです。それはだんだん、誇らしいことに思えてきました」



9



 真木の証しが終わると、パウロはしずかに歌いはじめた。それは低くて、よく通る声だった。


Holy Spirit, thou art welcome in this place
Holy Spirit, thou art welcome in this place
Omnipotent Father of Mercy and Grace
Thou art welcome in this place


 その歌に応えるように、祈りと賛美の雰囲気が、古い屋敷を満たした。いつのまにか泣いていた真木の肩を、パウロがやさしく抱きとめた。 


聖霊さま、ここにいらしてください
聖霊さま、ここにいらしてください
恵みと慈しみのあまねくお父さま
どうぞ、ここにいらしてください


 教会のほかのひとたちも、それぞれの祈りに身を浸していた。誰かがだれかに手を置いて祈り、聖霊が降りてきた音がしていた。この神の臨在のなかで、八枝は跪いたまま、主と対話していた。


 ―――わたしは、試されたことがないみたい。信仰はあります。でも、こんなふうに燃えさかる炉で試されたことは、まだない。


 『わたしの十字架を背負って、わたしに付いてきなさい』


 八枝は、ほんの少し目をあけて、真木の姿を探した。座敷の端で、彼はうずくまり、他の兄弟たちに肩を抱かれて、祈られていた。


 ―――わたしなんかに、耐えられるでしょうか、あのひとの背負う軛が。


 『水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。火の中を歩いても、炎はあなたに燃えつかない』


 一瞬、恐怖が勝った。畑のなかの案山子のように、田舎の社会で孤立し、嘲笑を浴びるなんて。それから、次に襲ってきた感情はなんだろう。彼を一人にしてはおけない。いますぐにでも駆け寄って、その荷を半分背負ってあげたい。それは愛かもしれなかった。


 ―――わたしを殺してください。わたしの見栄を、わたしの自我を。わたしを殺して、砕いて、あなたの霊で満たしてください。恐れることなく、苦しみと十字架の道を行くことが出来るように……


 主は喜んで、その祈りを受け入れてくださった。聖霊に洗われたような気持ちで、八枝はようやく祈りの姿勢を解いた。


 「やあちゃん」


 八枝の傍に、祖母が立っていた。祖母のことなど、すっかり忘れていた八枝は驚いた。今日はじめてこの教会に来た、カトリックの祖母のことを。


 「こういうふうに、イエスさまに従うためにはどうしたらいいのかしら?」


 祖母の顔は、完全に聖霊にゆだねられた集会をみた感動にみちていた。


 「イエス・キリストの御名によって洗礼を受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます、って聖書に書いてあるわ」


 八枝はなにも考えず、ただ舌先に浮かんだ言葉を口にした。


 「ではそうしていただくわ」


 祖母が言い、八枝は耳を疑った。その会話に耳をそばだてていたらしい真木が、こちらをじっと見つめていた。



10



 感動の冷めやらぬまま、座敷が片付けられ、ちゃぶ台が運び込まれた。きょうの昼食はカレーで、この日もコーラはなく、林檎ジュースしかなかった。マリアンが作ったというカレーは、ルーでまとめてはあるものの、日本のカレーにはほど遠くて、フィリピン料理の一種みたいだった。


 祖母はミッション学校仕込みの流暢な英語で、その向かいに座した牧師と立派に渡りあっていた。会話の落ちつく頃合いをみはからって、真木が傍に席を取ると、祖母に話しかけた。


 「おばあ様は、洗礼を受けられるのですか?」

 「授けてくださるのですか?」


 祖母はからかうように、真木を見つめた。


 「いいえ、ぼくではなくて、パウロが……」


 「新教の方たちは、カトリックみたいな滴礼ではなくて、全身を水に浸すんでしょう? わたくし、もう年ですから、冷たい水は無理ですよ。お風呂なんかでも良いの?」


  「ええ、風呂ならうちにもありますから、大丈夫ですけれど、でもそうじゃなくって。おばあ様、ここで洗礼を受ければ、カトリックを破門されることになってしまいますよ?」


 「あなたに言われたって、説得力がありませんよ。どうせおミサをさぼってきたのですもの、いっそ破門されてしまおうじゃありませんか。わたくしがイエスさまに従う邪魔はしないでくださいな」


 祖母は茶目っ気にあふれていて、魅力たっぷりだった。真木は呆気にとられたように呟いた。


 「そういうところ、おばあ様と八枝さんはそっくりですね」


 江戸時代から続く真木家の屋敷は、いまやご先祖たちが思い描きもしなかったひとびとと、そのひとりの神とに満ちていた。




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