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お寺の国のクリスチャン(改訂版) ①



古いしがらみの中に生まれたのに、
キリストに出会ってしまい、
お寺と神社を捨ててしまった男。
そして、お寺の国から解放されて久しい、
クリスチャン家庭のお嬢さん。
これは、そんなふたりの、
ロマンチックをどこかに置き忘れてしまった
コートシップ小説です。

四年前、
子どもを寝かしつけたあとの
わずかな時間に、
夢中で書きなぐった作品を、
すこし落ちついてきたいま、
あらためて書き直しました。

作品の舞台である、
松本地域の事情について
教えてくださり、
相談にのってくださった、
あゆみさんと松本支局長さんに、
心から感謝を捧げます。

主に栄光がありますように。






1



 「教会に通う独身男性は、妻を持ちたいと思っているに違いない。これは教会世界に広く認められた真理である。当人の気持ちはどうであれ、周囲は勝手にそう思い込んでいる。それも裕福で、背も高く、見た目も悪くない男なら、四十路にさしかかっていたとしても、りっぱな花婿候補とみなされるのである―――」

 教わった住所にたどり着いてみれば、そこは思いもかけないお屋敷だった。格式たかい門をくぐると、信州の空に、タチアオイの咲きみだれる庭が八枝を迎えた。白い日傘を揺らしながら、八枝は呆気にとられたように、ちいさな洋館の付いた、古い邸宅を眺めた。そんなときだった、ジェーン・オースティンの小説の冒頭が、八枝の脳裏に浮かんできたのは。


 二十四才、院卒、無職。このままでは、家庭教師にでもなるしかない。いいえ、コリンズ氏か、ダーシー氏でも見つけられたなら。大学院で英文学を研究していた八枝は、不透明な未来のせいで、十九世紀の女性文学にわが身を重ねてしまう。いまどきこんなに旧時代的な娘も珍しいけれど、たしかに彼女はそういう育ち方をしたのだった。


 「ああ、いらっしゃい。わざわざ松本くんだりまで、よく来ましたね」


 カラカラと踏石を渡る下駄の音が聞こえ、落ちついた男性の声がした。夢のなかで将来をかけた相手が、もし記憶どおりでなかったら、どうしよう。八枝は一瞬、顔を上げるのをためらった。


 彼の向こうに、開け放たれたひろい玄関と、松の描かれた屏風がみえた。見上げれば、屋敷の主人が立っている。真木さん。東京で見たときと、変わらなかった。かすかに愁いの漂う、無造作な感じの紳士で、ほそく、涼やかな目が、八枝にやわらかく微笑んでいた。


2


 

 「八枝チャン、よく来たネ!」


 真木の背中に隠れるように、座敷にやってきた八枝を迎えたのは、チェンさんの大声だった。


 すぐさま数人に取り囲まれるけれど、日本人はみあたらない。立派なふた間続きのお座敷で、欄間の彫り物も障子の桟も、この家の富と格式を感じさせたけれど、この混沌のなか、踏みにじられているような感じがした。


 中国人のチェンさんは、八枝とも親しい。骨太な身体に、生き延びゆく力の溢れた女性で、何年ものあいだ、東京で八枝と同じ教会に通っていた。親しくなるとチェンさんは、十五年前の中国で、家庭礼拝をしているところを当局に摘発された話をしてくれる。そして牢屋で、パウロとシラスのように歌った話を。鎖が解けて、チェンさんは日本に移住した。いまはここ信州松本で、中華料理店を経営している。


 チェンさんの抱擁をとかれた八枝に、握手を差しのべたのは、この教会のパウロ牧師だった。かすかに赤みがかったブロンドの、大柄なアメリカ人。年の頃は四十になったばかりで、真木と変わらない。このふたりはアメリカの大学の同級生で、二十年来の親友だった。

 

 「よくもまあ、リサール牧師とお父さんが、あなたをここに寄こしてくれたものだね」


 ハハハ、とパウロ牧師は笑った。赤い髭が刺さるように生えた口元を、大仰に揺らしながら。ぼくだったら、手放さないなあ、東京の教会は大損失だ、と言ってまた笑った。


  松本に新しく作った教会に、通訳が出来て、さまざまな仕事を手伝えるひとがぜひ欲しい、と八枝を口説いたのは、このパウロ牧師だった。就職もせず、家事手伝いを名乗っていた八枝は、それに飛び乗ることにした。


 松本は、八枝にとってゆかりの地でもあった。お城の北には、母の実家があって、祖母がよろこんで居候させてくれた。青い山々に閉ざされた松本に、八枝はいろんな希望を背負ってやって来た。


3

 

  

 「さっそくですが、通訳をお願い出来ますか? それとも今日は様子見ですか?」


 そっと真木の声がした。周囲の賑々しさのなかで、それは事務的な響きさえした。八枝の希望がかすかに揺らぐ。でも、わたしは大人だもの、ここにはお仕事に来たんだから。


 やります、と言いかけたのを、八枝は慌てて引っ込めた。


 「ごめんなさい、今日は初めてなので、勘弁してください」

 「そうですか、じゃあぼくがしましょう。でも、あなたみたいに上手くありませんからね、笑うんじゃありませんよ」 

 「ずっとアメリカにいらした方が、上手くないはずなんてありませんわ」


 それに、と八枝は心の中で付け加える。彼みたいに教養のあるひとは、きっと通訳に向いているはず。どうしてわたしなんかにさせようとするのだろう。わざわざ東京から呼び出してまで。そう瞳で問いかけると、真木の目のすこし泳ぐような気がした。


 礼拝がはじまって、三々五々と立ち上がる。パウロ牧師がマイクを持ち、真木がピアノに座った。素朴で、心のこもった賛美だった。日本人もフィリピン人も、アメリカ人も中国人も、みなが一緒に歌えるような、易しい英語の歌だった。


 What a friend we have in Jesus,
  All our sins and grieves to bear.


 はじめて会った日のことだった。東京の教会に、真木がやってきて、それから食事に招待した。八枝の実家のリビングで、真木はピアノを弾いてくれた。それはシューベルトの晩年のソナタで、その曲が弾けるように、ずっとレッスンを受けているのだと彼は言った。「びっくりしたわね」と客が帰ってから、母が言った。「とてもきちんとしているけれど、どこか寂しげなひとだわ」

 

 いまは讃美歌だから、真木のピアノは明るく、確信に満ちている。「いつくしみふかき、友なるイエスは、罪咎愁いを取り去りたもう」。あまりみずからを語らない彼を、八枝は閉じられた巻物のように感じることがあった。音楽は、その唯一の出口なのかもしれない。


 知り合ってから、もう二年になるのに、みずからの希望を架けたひとのことを、八枝はなにも知らなかった。


4


 礼拝が終わり、ざわざわと片付けが始まった。ちゃぶ台を出しながら、八枝が話しているのは、フィリピン人のマリアン。漆黒の髪のうつくしい、ほがらかな女性で、東京のリサール牧師の姪である。近くの大企業でエンジニアをしている、夫のアロンと共に、この辺りに住んでいて、教会に年の近い友だちが出来たことを喜んでいた。


 「ヤエは、ここに住むの?」

 「まさか! おばあちゃんの家が近くにあって、そこに住まわせてもらうの」

 「ふうーん、でもいつかは、ここに住むことになるかもネ」


 そう言ってマリアンは、意味ありげに、大鍋を抱えて座敷に入ってきた真木を見遣った。これだからたまらない、と八枝はちいさく憤慨する。教会なんて、まるでジェーン・オースティンの村社会だ。


 「きょうは八枝チャンの歓迎会だネ」

 ちゃぶ台に並べられた、簡素な昼食を前にして、チェンさんが言った。

 「コーラかなにかで、お祝いしないとネ」

 「コーラなんて有りませんよ、林檎ジュースならあるけど」

 と、真木が言う。


 ばたばたと林檎ジュースが配られて、国際色ゆたかな面々が乾杯した。ふいに、江戸切子のコップを手にしながら、真木がちいさく椿姫を口ずさんだ。隣りの八枝だけがそれに気づいて、「教会で歌うには、あまりに場違いじゃありません?」とツッコむ。ジョークがつたわって嬉しかったらしい真木は、照れた表情をした。


 「では八枝さん、ひとこと」


 パウロ牧師に催された。なんて言ったらいいかしら、と八枝はグラス片手に立ち上がる。まさか真木みたいに、乾杯の歌をうたって、刹那なよろこびを褒めたたえる訳にもいかない。だいたい教会育ちの箱入り娘に、それが何だかわかるわけもないけれど。ぐちゃぐちゃな頭から、八枝は挨拶らしきものを捻りだす。


 「神さまに、ここに連れてきていただきました。わたしも半分、松本の人間なので、平べったい東京に住みながら、青い山々に雪がかぶる景色に焦がれていました。みなさんの家族に加えていただけたみたいで、とても嬉しいです。どうぞよろしくお願いします」


 ぱちぱちと拍手の音がして、八枝は松本の教会の一員になったのだった。



5


 「八枝さん」
 「はい?」


 教会が終わって、玄関で靴を履こうとしていた八枝を、真木が呼び止めた。こっちにいらっしゃい、と誘われた書斎は、玄関脇の洋館部分で、むかしは応接間だったのであろう。背の高い窓から、庭の緑が見える。部屋にはいると、真木は落ち着かなげに椅子にすわり、八枝は壁をうめつくす本棚に見惚れた。


 本棚は、広くさまざまな本が並んでいた。長いあいだ海外にいたひとだから、洋書も多いが、幾度も読み返して古びたのであろう、日本の文学も並ぶ。その背表紙を眺めながら、八枝はほんのり確信を強めた。そして、いまから交わされるだろう会話にも。


 「どうしてここに呼ばれたか、分かりますか?」


 木製の古い回転椅子を小刻みに揺らしながら、真木が言った。その顔をみさだめる。厳しさはなかった。ただ緊張が表れている。


 「叱られるためでしょう?」

 「八枝さんは、こんな短時間に、もう叱られるようなことをしでかしたんですか?」


 とぼけた答えに、真木が笑いながら返す。八枝はその隙を、かすかに張り詰めた声で突いた。


 「叱られるのでないなら、わたしはなんで呼ばれたのでしょう? わざわざ東京から松本まで、通訳ぐらい、真木さんだってお出来になるのに、どうして呼ばれたんでしょう?」


 八枝は立ったまま、いつもあやふやだった真木をみつめた。すこしだけ、泣いてしまいそうな気がした。


 「……東京で初めて会ったときから、八枝さんについて、主に祈っていました。それを知っていて、パウロがあなたを呼んだんです。しかし、ぼくもまさか来てくれるとは思わなかった」

 

 真木は目を伏せながら、言葉をひとつひとつ紡いだ。


 「ぼくはもう四十で、あなたはまだ若い。こんなおじさんが何を、と言われるのが怖かったのです。でもそれだけじゃない」


 真木は座っていられなくなったのか、立ち上がると、レースのかかる窓辺に寄りかかり、庭を眺めながら言葉を拾った。


 「いまぼくが、この田舎で、どんな状況に置かれているか、八枝さんには想像も付きますまい。お寺も、神社も、あなたには過去の遺物でしかないのだから」


 「真木さんは、なにに悩んでらっしゃるんですの?」


 「ぼくはね、江戸時代からずっとここに住んでいる、真木一族の本家のひとり息子なのです。ひとり息子といっても、もう両親はないから、すべてがこの肩にのしかかっている。先祖の年回忌を務めることも、お祭りの役を務めることも、すべてはぼくの責任なのです」


 呆気にとられている八枝を確かめて、真木は、まあ、お座りなさいな、と椅子を勧めた。その目じりに、なにか自虐的なユーモアが漂いはじめる。


 「このお寺の国で、クリスチャンがどんな立場に置かれるかなんて、東京のクリスチャン家庭の、裕福な医者のお嬢さんに分かるはずもない。そんなあなたに、ぼくと結婚してくださいなどと、どんな神経をして言えますか?」


 「お言いになってみたら?」
 「八枝さん!」


 「だって、いま真木さんが仰ったこと、わたしには外国の話のように、遠いことに思えるんですもの。だから、脅かされたって効かないわ。わたしにわかるのは、みこころに叶った苦しみを受けるなら、幸いである、って聖書に書いてあることだけ」


 なんて大胆なことを、と八枝は一瞬じぶんに戻って、顔を赤らめた。ずっと待たされていたのだ、この際ずうずうしく訊いてやろう。


 「それで、いまわたしは、プロポーズされたんですの?」 


 まったく、近ごろの若いお嬢さんと来たら、真木はじじ臭くぼやいた。


 「いいえ、商品を詳しく説明せずに売りつけて、クーリングオフをされたら困りますから。ぼくがあなたに申し込もうとしているのは、コートシップです。つまり、結婚を念頭においてお付き合いしたいと。まったく、四十になってから、こんな台詞を言うとはね」

 

 「遅すぎるくらいですわ。わたしは二年間、真木さんがそう言ってくださるのを待っていたんですもの」

 「ついこないだまで、あなたは学生だったじゃありませんか」

 「英文学で院を出たって、食べてなんかいけませんもの」


 やれやれ、と息を吐いて、真木は八枝の傍にしゃがむと、その目を確かめながら聞いた。


 「では、商品はどうなさいますか。いまなら、やっかいな祭祀権の絡む、築百年の屋敷が付いてきますけれど」

 「神さまがわたしをここに連れてきてくださったんですもの。苦しみも喜びも甘んじて受けるつもりですわ」

 「飛んで火に入る夏の虫、ってね。まあ、燃えさかる火で試されたことはなくとも、あなたなら大丈夫かもしれない」


 では送りましょうか、と真木が扉を開けて、玄関に出ると、そこには退屈したようなパウロ牧師が座りこんでいた。


 「にほんごむずかしくて、なにいってるかわからなかったよ」


 八枝は顔を赤くして、真木は睨んだ。


 「ぼくはただのシャペロンだからね」

 「次からは候文で会話してやりましょう」


 真木が言った。英文学で修士を取ったって、候文で話すことは出来ない、と八枝は思った。

 


5.5



 教会からの帰り道、夢のなかを漂うように、女鳥羽川の橋まで来たところで、八枝はふと気づいてしまった。

 

 「ねえ、わたし、真木さんの下の名前を知らないんです!」

 「知らないんですか?」


 屋敷に舞いもどり、息を切らしながらそう叫ぶ八枝に、真木は切れ長の目を反らして、とぼけた顔をした。


 「名前なんて、大したことないでしょう」


 書斎の大きな机を片付けながら、彼はいかにもわざとらしく言った。机の上には書類が散在していて、あまり整頓されているとは言い難かった。


 「意味がわかりませんわ」

 「だから、そんなに下の名前が必要だと思うのなら、今ここで付けでもしたらいいでしょう。なんでもいいですよ、リチャードでも正成でも」


 彼はやれやれ、といったふうに手を上げて見せた。その目はからかいに満ちている。土壇場まで抵抗するつもりらしい。


 「そんなに酷いお名前なんですか?」


 そう言われると、八枝もなんだかわくわくした。何かしら、DQNネームとかなのかしら。彼の年齢で、この育ちで、それはあり得なかったけれど、想像だけは膨らんでゆく。


 「どんな名前だと思ってるんですか?」

 「なんでしょう......? 悪魔ちゃんとか、風神とか雷神とか?」

 「暴走族の子みたいですね、それは確かに隠したい」

 「お可哀想に。家庭裁判所に行ったら、変更できるんじゃありません?」

 「そうですね、いまからでも行ってこようかなあ」


 そう言って、彼は八枝に背を向けた。逃れたつもりらしい。けれど八枝はしつこい。


 「それ、真木さんの?」


 八枝は机の上に置かれた、黒い皮財布を指差した。はっ、と真木の手が伸びるまえに、八枝はそれを奪って、一歩退いた。


 「盗んではならない、ってお父さんとお母さんから教わらなかった?」

 「身分証明書をご提示いただけないようでしたので」


 八枝はすっかり楽しくなって、うきうきと財布を開いた。まずは札入れを見る。わあ、すごい。万札が三枚は入っている。さすが大人だ。カード類はあまり数がなかったので、お目当てはすぐにみつかった。


 「東京のお父さんに言いつけますよ」

 「さっきわたし、結婚を前提にお付き合いして欲しいって頼まれて、イエスって答えたんですけど、でも真木さんの下の名前がもし雷神だったら、ちょっと考えなおそうかしら、と思って」


 そう言いながら、八枝は運転免許証を見た。


 「真木和泉さん…… まあ、すてきなお名前」

 「それはどうも」

 「でもなにかしら、なんだったっけ...... なんだか似たような名前のひとが、幕末に居ませんでした?」


 真木が八枝を睨む。


 「そう、尊皇攘夷の真木和泉守!」


 閃きがやってきて、八枝は喜色満面になった。真木は黙ってつかつかとやって来ると、その手から免許証を取り上げた。


 「司馬遼太郎ばかり読むのは止めなさい。司馬史観に毒されますよ」

 「読んでるなんて、一言も言ってないじゃないですか」

 「そうじゃなければ、新撰組好きの歴女ですか?」

 「わたし、歴女っていう言い方、だいきらいなんです」

 「じゃあ取り決めをしましょう。ぼくは八枝さんを歴女とは呼ばない。八枝さんはぼくの下の名前を呼ばない」

 「そんなことって可能ですか?」

 「いままで通り、名字で呼んでくださればよろしい」

 「でも」

 「でもいつかはわたしも真木になるのに、ですか? わお、それは熱い告白だ」

 「やっぱりイヤです。わたし、東京に帰ることにします」

 「......はたちそこらのお嬢さんに、大人げないことを言いました。ごめんなさい」


 ふたりは、よくこんな応酬をして遊んだ。刺すような、刺されるような。ずっと海外にいた彼は、機知に富んだ応酬のできる相手を得た、と喜んでいた。彼女も、ずっと大人な彼と対等に渡り合えるのが、なんだかわくわくして好きだった。ずっと後になってから、八枝はそのことを思い出して、寂しい思いをした。


 


つづき↓


パウロ牧師が、八枝を松本の教会に連れてこようと画策して、真木が八枝の父親と話し合いをさせられた話↓


 

 

 



 

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