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巨鷲の迷宮山本五十六、天才と愚将の境界線再改稿・推測フィクション版史実の骨格と、史料の沈黙から立ち上げた「あり得た山本五十六」

巨鷲の迷宮
山本五十六、天才と愚将の境界線
再改稿・推測フィクション版
史実の骨格と、史料の沈黙から立ち上げた「あり得た山本五十六」


目次
プロローグ 言わなかった一言
第一章 長岡の雪、江田島の潮
間章一 家へ帰らない男
第二章 ハーバードの冬
第三章 二つのアメリカ
間章二 モナコという逃げ道
第四章 南雲忠一を選んだ理由
* サイドストーリー 人事という名の海戦
第五章 条約の海、切られた友
間章三 二・二六の雪
第六章 三国同盟の暗い廊下
第七章 荻外荘――国家を救ったかもしれない嘘
間章四 石油の時計
第八章 源田実――優秀すぎる参謀
第九章 単冠湾の沈黙
第十章 真珠湾――成功の中の敗北
第十一章 百日の帝国
間章五 珊瑚海――見えない艦隊
第十二章 将棋盤の向こうのミッドウェー
* 男たちの五分間――源田、南雲、山口
間章六 地下室の地図
間章七 「大和」の距離
第十三章 敗北を隠す海軍
間章八 弾薬より先に、米が尽きる
第十四章 ガダルカナルの飢え
間章九 参謀長・宇垣纏の沈黙
第十五章 い号作戦――最後の大勝利という幻
間章十 手紙の中の父
第十六章 海軍甲事件
間章十一 敵が見た山本
補章 山本に、戦争を止める権限はあったか
間章十二 死後に作られた二人の山本
終章 天才が愚将になる瞬間
* 二つの三十年――山本五十六から見える現代日本の病
* 海図を失った会社――失われた三十年の司令長官たち
エピローグ お前の隣に、堀悌吉はいる


作品について

本作は史実を骨格とし、その骨と骨のあいだへ「あり得た内面」を差し込んだ歴史小説である。
年月日、官職、作戦の推移、書簡に残る言葉は可能な限り史料に拠った。ただし、山本五十六、近衛文麿、南雲忠一、源田実、河合千代子らの会話、沈黙、視線、胸中は作者の推測である。
歴史小説において危険なのは、創作を史実の顔で語ることである。そこで本作では、史料が割れる場面、後世の回想にしかない逸話、作者が意図的に置いた仮説を、巻末の「史実と推測の境界」に明記した。
本作の中心に置いた問いは一つである。
昭和十五年九月、近衛文麿から対米戦の見通しを問われたとき、山本五十六はなぜ、
「海軍は遠洋で長く戦えない。米国とは戦争をしてはならない」
と、国家の退路を断つほど明確には言わなかったのか。
真珠湾は、その沈黙から始まったのではないか。

プロローグ 言わなかった一言

近衛文麿は、庭を見ていた。
昭和十五年九月、荻窪の空には、まだ夏の湿気が残っていた。荻外荘の客間には、古い木と畳の匂いがあり、庭の竹が風にこすれるたび、誰かが廊下の向こうで衣擦れをさせたような音がした。
近衛は長い指で煙草を挟み、火をつけないまま訊いた。
「山本さん。もし、アメリカと戦うことになったら、海軍はやれるのかね」
その問いは軽かった。
軽い問いほど、重い答えを要求することがある。
山本五十六は、膝の上に左手を置いていた。日本海海戦で人差し指と中指を失った手である。残った三本の指は、軍衣の膝をつまんでいた。
彼の頭には、一枚の海図が浮かんでいた。
小笠原、マリアナ、マーシャル。日本海軍が長年考えてきたのは、太平洋を西へ進んでくる米艦隊を、潜水艦と基地航空隊で削り、最後に日本近海へ引きつけて主力艦隊で討つという戦いであった。邀撃漸減。言葉は勇ましいが、要するに、遠くへ行かない戦争である。
米国の工業力を相手に、日本の艦隊が太平洋の中央へ出て、基地を取り、補給線を守り、損耗を埋めながら何年も戦うことはできない。
山本はそれを知っていた。
ならば、答えは一つしかなかったはずである。
「海軍は、近海でしか戦えません」
そう言えばよかった。
「南方へ資源を取りに行き、その航路を守り、フィリピンを攻め、ハワイの艦隊を押さえ、豪州との連絡を断つ――そのすべてを同時に行う力はありません。アメリカと戦えば、勝敗以前に、海軍は距離に負けます」
そう言えば、近衛は青ざめたかもしれない。
陸軍は海軍を臆病者と罵っただろう。新聞は国賊と書いたかもしれない。海軍省では、これまで国家予算を費やしてきた艦隊は何のためだったのか、と問われる。
しかし、国家の運命を変える言葉とは、たいてい、言った人間の職を奪う言葉である。
山本は、それを言わなかった。
「是非やれと言われれば、初め半年か一年の間は、随分暴れてご覧に入れます」
近衛の目が、わずかに明るくなった。
「しかしながら、二年、三年となれば、全く確信は持てません」
後半は警告だった。
前半は誘惑だった。
近衛のような政治家は、言葉の意味より、言葉の逃げ道を聴く。
半年は暴れられる。
ならば、その半年のあいだに外交が動くかもしれない。ドイツが英国を屈服させるかもしれない。アメリカが戦意を失うかもしれない。誰かが奇跡を起こすかもしれない。
政治家にとって「絶対にできない」は決断を迫る言葉である。
「しばらくならできる」は、決断を先送りできる言葉であった。
山本は続けた。
「三国条約ができたのは致し方ありません。しかし、こうなった以上、日米戦争を避けるよう、極力ご努力を願いたい」
近衛は頷いた。
山本も頭を下げた。
このとき、二人はそれぞれ、責任を相手の側へ置いた。
山本は、戦争を止めるのは政治家の仕事だと思った。
近衛は、戦争になれば山本が何とかすると思った。
国家が滅びるとき、責任は一人の手から落ちるのではない。卓上を転がる碁石のように、誰も拾わないまま、次の人間の前へ移っていく。
近衛は煙草に火をつけた。
山本は庭を見た。
竹の向こうに、彼には海が見えていたのではないか。
真珠湾の朝。赤城の飛行甲板。燃えるアリゾナ。戻ってこない米空母。ミッドウェーの青い海。将棋盤の上で、逃げ場を失っていく王将。
もちろん、そのような未来が見えたはずはない。
だが、人は未来を知らないから誤るのではない。
知っている範囲の未来に、自分の願望を継ぎ足すから誤るのである。
山本は、アメリカと長く戦えば負けると知っていた。
その正しい認識から、最初の一撃で戦争を短く終わらせる、という危険な答えを導いた。
これが山本五十六という男の迷宮である。
愚かな者が、愚かな戦争を始めたのではない。
賢い者が、自分だけは破局の形を整えられると思った。
荻外荘を出るとき、山本は玄関で軍帽をかぶった。
近衛は見送りに立たなかったということにしておこう。史料は、そんな細部を伝えていない。
ただ、山本が敷居を越えた瞬間、胸の中で別の自分が言ったかもしれない。
――五十六、お前はいま、戦争に反対したのではない。
――戦争が始まったとき、自分が主役になる余地を残したのだ。
山本は振り返らなかった。
その背中から、真珠湾までの距離は、すでに縮まり始めていた。

第一章 長岡の雪、江田島の潮

山本五十六は、明治十七年四月四日、新潟県長岡に生まれた。生家は高野家。父・貞吉が数え年五十六のときの子であったため、「五十六」と名づけられたとされる。
長岡は、明治国家の中心から見れば、勝者の町ではなかった。
戊辰戦争で長岡藩は新政府軍と戦い、町は焼けた。河井継之助の名は誇りと悲劇の両方を背負い、敗れた側の記憶は、雪の下の土のように残った。五十六の家にも、敗者として生きる者の硬さがあった。
幼い五十六は、身体が特別に大きいわけでも、学校で常に一番というわけでもなかった。むしろ負けず嫌いが先に立ち、勝負事になると顔つきが変わった。将棋でも、碁でも、札でも、相手が油断する瞬間を待った。正面から力比べをするより、相手の思い込みを利用することに喜びを覚えた。
明治三十四年、海軍兵学校に入校する。
江田島の朝は早い。起床の号令、冷たい洗面水、磨かれた靴、乱れのない寝具。生徒たちは同じ時刻に起き、同じ方向を向き、同じ歩幅で進んだ。そこでは、個性よりも規律が先に求められた。
高野五十六は、その規律に適応した。
ただし、規律を信仰したわけではない。彼は、規則が人間を動かす仕組みを観察していた。上級生の機嫌、教官の癖、試験で問われる範囲、訓練で評価される動き。海軍兵学校という小さな社会のなかで、何が本音で、何が建前かを見抜こうとした。
同期には堀悌吉がいた。
堀は頭脳明晰で、しかも他人を見下さなかった。議論をすると、山本が直感で飛び越えた部分を、堀が一段ずつ言葉に戻した。
「お前は答えを先に言う」
「答えが見えているのに、遠回りする必要があるか」
「他人には、その遠回りが必要なんだ」
堀はそう言って笑った。
海軍兵学校第三十二期は、日露戦争のさなかに卒業した。卒業者は百九十二名。山本は十一番だった。首席の堀には及ばない。それでも、二百人近い同期の先頭集団にいたのである。教室で眠そうに窓を眺める落第生ではない。学科も実務もそつなくこなしながら、試験の点数だけでは測れない勝負勘を持つ、将来を嘱望された青年士官だった。
卒業後、山本は装甲巡洋艦「日進」に乗り組んだ。
明治三十八年五月二十七日、日本海海戦。
海は煙で狭くなった。砲声が胸骨を叩き、甲板には焼けた金属と火薬の臭いが漂った。「日進」は連合艦隊の第一戦隊に属し、ロシア・バルチック艦隊と砲火を交えた。
若い候補生だった山本は、砲弾の炸裂で負傷した。
左手の人差し指と中指を失い、大腿にも傷を負った。戦後、その手は彼の象徴になった。英雄の傷として語られたが、本人にとっては、もっと現実的なものだった。寒い日に疼き、ボタンを留めるときに不便で、字を書くにも工夫が要った。
病床で、彼は戦勝の歓声を聞いた。
日本中が勝利に沸いていた。東郷平八郎は国民的英雄になり、日本海海戦は「完勝」の神話へ変わっていった。
だが、山本が見た甲板は、神話とは違った。
肉片を洗い流す海水。顔を失った兵。勝った側にも死者がいるという、当たり前の事実。敵の艦が燃える光景に歓声を上げた直後、隣の男が倒れる不条理。
戦争は、勝てば美しくなるのではない。
勝者が美しく書き直すだけだ。
山本はそのことを、二十一歳で知った。
のちに彼は、戦争を嫌った平和主義者だったと語られる。だが、彼は戦争そのものを拒絶した人ではない。戦場を知り、戦争の効用と限界を理解した職業軍人だった。必要と判断すれば、ためらわず武力を使う。問題は、何を「必要」と判断するかである。
この違いは大きい。
山本は、戦争を知らない理想家ではなかった。
同時に、戦争を知っているから必ず正しい判断をする人間でもなかった。
日本海海戦の勝利は、海軍に一つの成功体験を刻んだ。
艦隊を集中し、決戦で敵主力を撃滅する。一度の会戦で戦争の帰趨を決める。日露戦争の記憶は、その後の海軍戦略を長く支配した。
山本はやがて航空機に可能性を見いだす。
しかし、彼もまた「一度の決戦で敵を屈服させる」という発想から完全に自由にはなれなかった。
新しい翼を見ながら、古い勝利の形を夢見た。
その矛盾が、三十六年後の真珠湾へつながっていく。

間章一 家へ帰らない男

英雄の伝記は、玄関の内側を書くのが苦手である。
軍服を着た男は、国家に忠実で、家庭では寡黙な父であり、妻はその背中を黙って支える。後世は、そういう形に人物を整えたがる。
山本五十六の家庭は、そんなに整っていなかった。
大正七年、礼子と結婚した。子も生まれた。父として子どもに細やかな手紙を書き、菓子を送り、健康を気遣った。それは本当である。
その一方で、彼には家へ帰ることを避ける夜があった。
昭和八年の夏、新橋の花柳界で、河合千代子という女性と知り合った。芸名を梅龍といった。
「囲った」という言葉を使えば、話は簡単になる。
権力のある海軍高官が、若い芸妓に家を持たせ、家庭の外へもう一つの生活を作った。世間は、それで納得する。
しかし男女の関係は、後世の整理ほど単純ではない。
千代子は、山本が国家の英雄になる前から、制服の内側にある子どもっぽさを知った。賭け事に勝つと無邪気に笑い、甘い物を前にすると顔を崩し、仕事の愚痴を直接は言わず、別の話へ遠回りして、最後にぽつりと本音を落とす男であった。
ある夜、新橋の座敷で、千代子が訊いた。
「お宅へお帰りにならなくて、よろしいんですか」
山本は盃を置いた。
「帰る家ならある」
「では、お帰りになれば」
「帰る家があることと、帰りたいことは、同じではない」
これは創作の会話である。
だが、彼が千代子へ送った手紙を読むと、その程度の甘えを見せた男であったことは分かる。
真珠湾攻撃の直後、全国から祝賀の手紙が山のように届いたときでさえ、彼は千代子の手紙だけを待つと書いた。
世界の新聞が自分の名を載せ、天皇から勅語を受け、海軍の全将兵が長官の次の命令を待っている。その男が、長官室で恋人の写真を待っていた。
私は、この落差を「人間味」という便利な言葉で救いたくない。
山本は妻を裏切った。
千代子にも、完全な未来を与えなかった。
国には戦争回避を願いながら、戦争の作戦を作った。
彼は人生の大切な局面で、二つの場所に片足ずつ置く癖があった。
家庭と恋人。
反戦と軍務。
近海決戦と遠洋奇襲。
慎重な国力判断と、一撃で歴史を変えるという大胆さ。
どちらかを切れば、自分が壊れる。
そこで両方を保とうとする。
だが、二つの岸へ足を置いた男は、川幅が広がったとき、最も残酷な形で裂かれる。
昭和十七年五月、千代子は病を押して山本に会いに来た。
その後の手紙で山本は、国家への最後の奉公を終えたら、万事を放り出し、二人だけになりたいという趣旨を書いた。
それは愛の言葉である。
同時に、逃亡の言葉でもある。
国家の命運を背負った男が、心の奥では、国家も家族も制服も捨てたがっている。
山本の賭博好きはよく知られている。
だが彼が本当に賭けたかったものは、金ではなかったのかもしれない。
別の人生である。
もし海軍を辞めたら。
もし戦争が起きなければ。
もし千代子と知らない町で暮らせたら。
現実の山本は、どの「もし」も選ばなかった。
選ばなかった人生ほど、人は美しく夢見る。
千代子の部屋を出る夜、彼は帽子を深くかぶった。
車が動き出すと、銀座の灯が窓を流れた。
家へ帰るのか、艦へ戻るのか。
運転手は訊かなかった。
山本も、行き先をすぐには告げなかった。

第二章 ハーバードの冬p

大正八年、山本はアメリカへ渡った。
第一次世界大戦が終わり、世界の重心がヨーロッパからアメリカへ移りつつある時代だった。ニューヨーク港には船がひしめき、鉄道は大陸を横断し、電灯の明かりが夜を押し返していた。
山本はハーバード大学で英語を学び、アメリカの歴史、行政、社会組織を研究した。
後世の伝記では、彼が流暢な英語を操り、大学のエリートたちを相手に自在に議論したように描かれることがある。しかし、本人が海軍次官へ提出した報告によれば、当初の英語力は、簡単な用件を処理できる程度で、新聞や雑誌を読むにも辞書が必要だった。
その不器用さが、山本らしかった。
彼は、分からないことを分かったふりで済ませるのを嫌った。辞書を引き、書き込み、同じ文を何度も読んだ。講義だけでは足りず、街へ出て、人々の会話を聞いた。商店で値段を尋ね、食堂で注文し、駅員に乗り換えを聞いた。
寄宿先では、夜になるとカードの卓が囲まれた。
山本はポーカーを好んだ。カードの強弱より、相手の癖を見る。大きく賭ける者ほど、強いとは限らない。沈黙が長い者は迷っているのか、迷っているふりをしているのか。山本は、人間が合理的に行動するのではなく、自分が合理的だと思いたいように行動することを、卓上で学んだ。
勝った夜もあった。
負けた夜もあった。
後年、山本はポーカーで学生たちの金を巻き上げ、その金でアメリカを横断したという痛快な逸話まで語られるようになる。たしかに彼は札勝負を好み、相手の顔色を読むことに長けていた。だが、彼の旅は放浪ではない。海軍士官として費用と任務を与えられ、石油、航空、産業、社会制度を自分の目で確かめる調査行だった。伝説の勝負師より、報告書を抱えて油田と工場を歩く軍人のほうが、のちの山本を正確に説明している。
山本の米国滞在で重要なのは、賭博の武勇伝ではない。
彼が、石油と航空に異常なほど強い関心を示したことである。
机には、油田、製油所、輸送網に関する資料が積み上がった。眠気を追うために水嚢を頭に載せて勉強したという逸話も残る。カリフォルニアやテキサスの石油産地、製油施設を視察し、メキシコの油田にも足を運んだとされる。
テキサスの空は、日本の空より大きく見えた。
乾いた風のなかで、油井の櫓が上下する。地中から汲み上げられた原油が、貯蔵タンクへ送られ、鉄道やパイプラインで運ばれていく。そこには、兵士の精神力も、剣道の気合もなかった。ただ、地質、資本、機械、輸送、契約、労働者の時間が、冷徹に組み合わされていた。
山本はノートを閉じ、手袋を外した。
欠けた左手を見た。
日本海海戦で、日本は人間の勇気によって勝った――国民はそう信じていた。
もちろん勇気は必要だった。だが、勇気だけで艦は動かない。石炭が要り、鋼が要り、火薬が要り、修理工場が要る。次の戦争が石油と航空機の戦争になるなら、日本の勇気は、燃料が尽きた瞬間に地上へ落ちる。
アメリカの工場で、山本は量産という思想を見た。
一人の名工が一つの部品を作るのではなく、同じ寸法の部品が、別の工場でも同じように作られる。壊れれば交換する。失えば補充する。人間の技能を尊びながらも、技能に依存しすぎない仕組みがある。
日本海軍は、選び抜いた搭乗員を長い年月をかけて育てようとしていた。
それは精鋭を生んだ。
同時に、失ったときに埋められない穴を生んだ。
山本がそこまで明確に将来を見通していたかは分からない。後世の人間は、結果を知っているため、過去の人物にも同じ地図が見えていたと思いがちだ。しかし彼が少なくとも、アメリカの工業力と資源の厚みを、数字ではなく身体で理解したことは確かである。
その理解は、彼を対米戦争反対へ向かわせた。
だが同時に、もし戦うなら通常の方法では勝てないという確信を与えた。
通常の方法で勝てない。
ならば、常識を破るしかない。
この思考は、革新を生む。
そして、賭博も生む。

第三章 二つのアメリカ

山本は一度だけアメリカを見たのではない。
大正十四年末、駐米日本大使館付海軍武官を命じられ、再び渡米した。最初の滞在が学生としての観察だったとすれば、二度目は、海軍を代表する情報収集者としての勤務だった。
ワシントンでは、表向きの礼儀と、水面下の駆け引きが同時に進んでいた。
各国の武官は晩餐会で笑い、葉巻をくゆらせながら、相手国の艦艇建造計画、航空技術、予算、世論を探った。誰もが友好的で、誰もが警戒していた。
山本はアメリカ人を一括りにしなかった。
親切な者もいれば、傲慢な者もいる。日本への好奇心を持つ者もいれば、東洋人を見下す者もいる。だが、国民性について彼が強く感じたのは、競争を恐れないことだった。
アメリカ人は、勝負を好む。
負ければ怒る。
怒れば、次は勝つために金と時間をつぎ込む。
ここが、日本の一部指導者が見誤った点だった。
彼らは、アメリカは個人主義で、犠牲を嫌い、長い戦争には耐えられないと考えた。最初に大打撃を与えれば、世論が厭戦に傾き、妥協するのではないか。山本自身も、のちの作戦構想において、アメリカ国民の戦意を短期に揺さぶることを期待する。
だが、彼は同じ滞在中に、逆のアメリカも見ていた。
競争に負けたままではいられない国。
攻撃されたとき、党派を超えて結集する国。
巨大な市場と工業力を、戦争目的へ切り替えられる国。
二つのアメリカが、彼の中に同居した。
一つは、損得に敏感で、長期戦を嫌う現実主義のアメリカ。
もう一つは、侮辱されれば、損得を超えて報復へ向かうアメリカ。
真珠湾攻撃を考えたとき、山本は前者に賭けた。
真珠湾を攻撃されたアメリカは、後者になった。
駐米武官時代、山本は航空の将来にも目を向けた。大西洋横断飛行、計器飛行、航空機の航続距離、エンジンの性能。空は、冒険家だけの舞台から、組織的な軍事力の領域へ変わろうとしていた。
ただし、「山本だけが戦艦の時代の終わりを見抜き、海軍全体を航空主兵へ変えた」という物語は単純すぎる。
日本海軍航空の発展は、航空本部、航空技術廠、航空隊、メーカー、設計者、搭乗員、予算担当者など、多くの制度と人間の積み重ねで進んだ。山本は重要な推進者の一人だったが、唯一の革命家ではない。また、後年の作戦を見ると、彼自身も戦艦による艦隊決戦思想を完全には捨てていなかった。
人は、新しい道具を持ったからといって、新しい考え方を持つとは限らない。
航空機という新しい槍を手にしても、戦いの目的は古いままということがある。
山本の先見性は本物だった。
しかし、先見性には範囲がある。
技術の変化を見抜く力と、戦争全体を終わらせる政治的構想力は別の能力である。
彼は飛行機が何を壊せるかを理解した。
飛行機で壊したあと、敵がどう変わるかを読み切れなかった。
帰国の船上で、山本は太平洋を眺めた。
海は穏やかだった。
この海を越えて、いつか日本とアメリカが撃ち合う。そう考えれば、戦争は狂気に見えた。
だが海軍という組織は、アメリカを仮想敵として予算を求め、訓練し、艦を造ってきた。
戦えない相手を、戦う相手として想定する。
その矛盾は、平時には隠れている。
危機が来ると、突然、国家を締めつける。
山本は、その仕組みの外にいたのではない。
仕組みの中心へ向かって昇進していた。

間章二 モナコという逃げ道

山本の賭博にまつわる逸話は、どれも話ができすぎている。
モナコのカジノで勝ちすぎて出入り禁止になった。
部下が失った軍艦購入費を一晩で取り返した。
二、三年遊ばせれば戦艦一隻分を稼いでみせると言った。
伝説とは、人物の性格が一行で分かるように加工された記憶である。
史料としては慎重に扱わなければならない。しかし小説家にとっては、伝説がなぜその人物に貼りついたかの方が面白い。
山本なら、言いそうなのである。
昭和十三年のある夜、海軍省近くの料理屋で、部下が退役後の暮らしを訊いたことにしよう。
「長岡へお戻りになりますか」
「雪下ろしをして暮らすのも悪くない」
「閣下が雪下ろしですか」
「では、モナコへ行く」
「モナコですか」
「客ではつまらん。ディーラーになる」
部下が笑うと、山本は真顔で続けた。
「軍人より公平だ。勝った者には払い、負けた者から取る。負けた客に、精神力が足りないなどとは言わん」
この会話は創作である。
なお、モナコはフランスではない。フランス南岸に接する小さな公国である。だが、当時の日本人が「フランスの方のカジノ」と大雑把に呼んでも不思議はない。
山本が賭け事を好んだ理由を、単なる遊蕩で片づけるのは惜しい。
賭場では、階級章が役に立たない。
海軍では、卒業席次、兵科、年次、閥、人脈が一生ついて回る。正しい意見でも、言った者の期が若ければ退けられる。無能でも、順番が来れば長官になる。
ところがカードの卓では、手札と読みだけがものを言う。
相手が華族でも富豪でも、ブラフを見抜けば勝てる。
山本は、制度の外で自分の能力が純粋に測られる場所を好んだのではないか。
しかし賭場には、海軍と違うもう一つの性質がある。
負けた者は、席を立てる。
国家戦争では、それができない。
真珠湾攻撃を構想した山本は、最初の一局だけを考えた。
そこで大勝ちし、相手が席を立つことを期待した。
だがアメリカは客ではなかった。
賭場そのものを買い取れる胴元であった。
山本が本当にモナコでディーラーになりたかったかどうかは分からない。
ただ、制服を脱いで、勝ち負けの責任がその卓の上だけで完結する世界に逃げたかったことは、あり得る。
近衛の前で「半年は暴れる」と言った男は、同じ心のどこかで、半年後には別の人生へ逃げる扉を探していた。
人間は、逃げ道を夢見ながら、退路のない作戦を作ることがある。

第四章 南雲忠一を選んだ理由

昭和十六年四月、第一航空艦隊が編成された。
六隻の主力空母を一つの指揮系統にまとめ、集中して運用する。それは後に世界を震撼させる機動部隊の器であった。
その司令長官に南雲忠一が就いた。
南雲は水雷畑の人である。
航空の専門家ではない。しかも艦隊派に近く、軍縮条約派の山本、米内光政、井上成美らとは政治的にも肌合いが違った。山本と南雲が互いに好意を持っていた、と考える材料は乏しい。
では、なぜ山本は、嫌いな男を航空艦隊の長にしたのか。
まず事実を整理しておく必要がある。
連合艦隊司令長官は、人事を一人で自由に決められる独裁者ではない。海軍大臣、人事当局、兵学校卒業期による序列、親補職の慣行がある。南雲は海兵三十六期で、同世代の中将として順番が来ていた。航空畑の小沢治三郎は一期若く、山口多聞や大西瀧治郎はさらに下である。
つまり南雲人事は、山本の個人的な好き嫌いだけで決まったものではない。
しかし、山本がそれを受け入れたことは事実である。
ここからは、作者の推測になる。
山本は、南雲だからよい、と考えたのではないか。
新しい兵器を古い組織に呑み込ませるには、その兵器の信者だけを前面に立ててはいけない。航空屋ばかりで固めれば、砲術、水雷、戦艦の側は「航空閥の冒険」と反発する。
古い海軍の代表のような南雲が長官席に座れば、空母集中運用は海軍全体の正統な作戦に見える。
しかも、航空の実務は参謀に任せればよい。
草鹿龍之介を参謀長に置き、源田実を航空参謀に据える。
長官は組織の判を押し、専門家が中身を動かす。
山本はそう考えたのではないか。
もしそうなら、これは巧妙な組織設計である。
同時に、危険な責任設計でもある。
南雲は、自分が完全には理解していない航空作戦の最終責任を負う。
源田は、大きな権限を持ちながら、最終決裁者ではない。
山本は遠くから基本方針を示し、現場判断は南雲に委ねる。
成功すれば、山本の構想となる。
失敗すれば、南雲の決断となる。
もちろん山本が、そこまで冷酷に責任逃れを計算した証拠はない。
むしろ彼は、失敗した南雲を「悪者にしたくない」と庇ったとも伝えられる。
だが、人間の意図と制度の結果は別である。
善意で組んだ曖昧な指揮系統ほど、失敗したとき責任の場所が消える。
南雲が第一航空艦隊へ着任した日、山本は彼を見て、何を思っただろう。
この男は、自分を好いていない。
自分も、この男の古い海軍気質が好きではない。
しかし、だからこそ、使える。
南雲もまた、山本を見ていた。
この男は、海軍の定石を壊す。
自分を、その壊した定石の先頭へ立たせるつもりだ。
「航空のことは、専門家に十分相談してくれ」
山本がそう言ったことにしよう。
南雲は短く答える。
「長官。最後に決めるのは、誰ですか」
山本は一瞬、黙った。
「現場では、君だ」
「では、作戦を選ぶのは」
「私だ」
南雲は敬礼した。
この二つの答えの間に、真珠湾の第三次攻撃問題と、ミッドウェーの兵装転換問題が、すでに潜んでいた。

* サイドストーリー 人事という名の海戦――令和の会議室から昭和十六年の艦橋へ

* * *
大きな組織は、最も優秀な人間を頂点へ上げるとは限らない。
むしろ、飛び抜けた人間を頂点へ置くことを恐れる。飛び抜けた者は、前例を壊す。自分の言葉を持つ。会議で全員が頷いているときに、数字が違うと言う。そういう人間は、専門担当の平取締役までは上がっても、社長候補の最後の三人には残りにくい。
頂点へ上がるのは、第一候補ではないことがある。第一候補は敵が多すぎる。第二候補は色が濃すぎる。そこで、三番手が選ばれる。誰の本命でもない代わりに、誰にとっても致命的には不都合でない人間である。突出した能力より、反対者を作らない輪郭の薄さが評価される。
現代の大企業では、コンプライアンス、ガバナンス、ダイバーシティという米国由来の言葉が、会社という団体の新しい大祝詞になった。唱える内容は正しい。必要でもある。だが、正しい言葉ほど、唱えたという事実だけで組織を清めた気分にさせる。
不祥事が起きれば、規程を増やす。研修を増やす。承認印を増やす。会議の出席者を増やす。すると、一つの決定に関わる人間は増えるが、決定した人間はいなくなる。全員が確認し、誰も決めていない。責任は薄い膜になって組織全体へ広がり、ついには誰の指にも付かなくなる。
企画そのものは、たいてい若い者が作る。数字を集め、現場へ頭を下げ、徹夜で説明資料を整える。ところが役員会へ上がる頃には、表紙から原案者の名が消え、担当役員の「強いリーダーシップによる改革」と呼ばれる。上司は部下の着想を自分の実績として上納し、代わりに次の人事で恩を返す。功績と昇進を交換する、目に見えない手形である。
帝国海軍も、現代企業ほど洗練された片仮名を持たなかっただけで、根は似ていた。兵学校の卒業期、席次、兵科、派閥、海軍省と軍令部、艦隊勤務と中央勤務。人間は能力だけで配置されず、組織の均衡を崩さない場所へ嵌め込まれた。
ここから先は、史料の空白へ置く仮説である。
山本五十六が海軍次官から連合艦隊司令長官へ移された人事は、米内光政が右翼の暗殺から山本を守るためだった、という美談で説明されることが多い。それは、おそらく一面の真実である。だが人事には、いつも二つの効能がある。人を危険から守ることと、その人を中央の会議室から消すことである。
連合艦隊司令長官は、軍人としては華やかな職だった。位階が下がったわけではない。だが、政策を決める東京の廊下からは遠ざかる。会社で言えば、本社の副社長候補を、誰もが羨む巨大プロジェクトの責任者や有力子会社の会長へ送るようなものだ。肩書は立派になる。新聞にも出る。けれど、次の社長を決める会議には座れない。
軍令部に、山本を追放する秘密会議があったという証拠はない。山本を海の上へ出した人事を、軍令部の策略と断定することもできない。だが、組織の人事は、誰か一人が策略を立てなくても、組織にとって都合のよい結果へ流れる。三国同盟に反対し、陸軍と衝突し、英米との国力差を口にする次官は、中央に置けば厄介だった。一方、艦隊の長にすれば、海軍の勇壮な看板になる。
日本海海戦以来、海軍は東郷平八郎に代わる顔を欲しがっていた。陸軍が政治の前面へ出る時代に、海軍にも国民が名を覚える巨人が要る。山本を中央の政策決定者として押し上げる強固な派閥は弱くなっていたが、海軍の宣伝用の象徴としては、彼ほど都合のよい人物はいなかった。米国を知り、負傷した左手を持ち、航空の未来を語り、しかも冗談がうまい。俗な言い方をすれば、海軍は山本を「宣伝パンダ」にできた。
そして山本自身も、その華やかな艦隊勤務を拒まなかった。
ここに、人事の恐ろしさがある。左遷される者が、その左遷を栄転だと思えるように設計されている。本人の自尊心を満たしながら、発言権だけを奪う。山本は海へ出て、政治を止める位置を失い、戦争が始まったときに最も目立つ位置を得た。
南雲忠一の人事も同じ構造に見える。
南雲が軍令部から密命を受けた「スパイ」だったという証拠はない。だが組織は、密命なしにスパイを作る。南雲は、兵学校の先任序列、艦隊派の常識、水雷屋の用心深さ、中央の前例を、その身体の中に持っていた。彼が毎夜、軍令部へ秘密報告を送らなくても、山本の革命的な航空運用を、古い海軍の目で見て、古い海軍の耳で聞き、古い海軍の言葉で裁く。
それだけで、十分に監視役になる。
山本は南雲を嫌っていたかもしれない。南雲も山本を信用していなかったかもしれない。だが、だからこそ中央は安心できた。山本の発想だけで艦隊が暴走することはない。南雲という重い錨が付いている。反対に山本は、その錨を海軍全体の承認印として利用できると思った。
新しい空母機動部隊の表には南雲を置き、中身は源田実に動かさせる。これは現代企業にもある人事である。保守的な役員をプロジェクトオーナーに据え、その下へ若い実務家を置く。役員は失敗の責任を負うことになっているが、技術を理解しない。実務家は技術を理解するが、最終決裁権を持たない。さらに、その上から社長が「大方針」だけを指示する。
成功すれば、社長の先見性になる。
実行した役員には勲章が付く。
若い実務家には、次の人事が約束される。
失敗すれば、現場判断の問題になる。
源田実は、まだ三十代の中佐だった。航空戦術については並外れていたが、組織の中では上を目指す年齢でもあった。彼が裏切者だったという話ではない。優秀で野心のある参謀ほど、自分の案を実現できる権力者を探す。正式な上司は南雲である。作戦の父は山本である。参謀長は草鹿である。そして、航空の未来を最もよく理解しているのは自分だという自負がある。
源田は、いったい誰へ進言していたのか。
南雲へか。
山本へか。
それとも、まだ存在しない戦後の航空海軍における、自分自身の地位へか。
参謀の野心は、必ずしも金や階級だけを欲しがるものではない。自分の思想が組織の思想になることを欲しがる。その願望は、しばしば純粋な使命感と区別できない。
一方、山口多聞は、正しい才能を間違った箱へ入れられた人物だった。航空戦に通じ、決断が速く、ミッドウェーでは敵空母発見後の即時攻撃を強く求めた。だが彼は、第一航空艦隊全体を動かす長官ではなく、第二航空戦隊司令官にすぎなかった。海兵四十期という若さは、能力を上回る壁になった。
もちろん、山口を南雲の席へ置けば必ず勝てた、とは言えない。山口の攻撃性は、別の局面では艦隊を危険へ突っ込ませたかもしれない。人事とは、優秀な順に椅子へ座らせる作業ではない。任務の性質と、その人間の長所と欠点を一致させる作業である。
だが帝国海軍は、任務より序列を先に置いた。
航空戦の最終判断をする席には航空の専門家でない南雲が座り、航空を最もよく知る源田は責任のない参謀席に座り、最も即断的な山口は意見具申しかできない下位指揮官に置かれ、作戦を発案した山本は何百海里も後方の「大和」にいた。
これは戦術配置ではない。人事配置である。
ミッドウェーで日本海軍が失ったのは、空母四隻だけではなかった。意思決定の時間を失った。誰が決めるのかを確認している間に、敵の急降下爆撃機が上空へ来た。
山本が構想した。
軍令部が認可した。
源田らが具体化した。
南雲が実行した。
山口が異議を唱えた。
だが、敗北したとき、誰の失敗であるかは一文で書けなかった。
現代の大企業でも、大型案件が失敗すると同じ文法が現れる。経営会議は方向性を承認しただけ。担当役員は現場の専門判断を尊重しただけ。企画部は選択肢を示しただけ。現場は決められた計画を実行しただけ。監査部は手続が守られていることを確認しただけ。
全員が自分の仕事をした。
だから、会社は失敗した。
ミッドウェーの敗北は、暗号解読だけでも、索敵の遅れだけでも、兵装転換だけでもない。最も重要な位置へ、最も適した人間を置かず、適した人間へ責任を与えず、責任を負う人間へ知識を与えなかった人事の敗北である。
爆弾が赤城の飛行甲板を貫くより前に、海軍は人事発令の紙の上で、すでに一度負けていた。
* * *

第五章 条約の海、切られた友ーー

昭和五年、ロンドン海軍軍縮会議。
日本国内では、軍艦の保有比率をめぐって激しい議論が起きた。軍令部の一部は、英米に対して劣る比率を受け入れることを「国防の危機」と考えた。政府側は、国家財政と国際協調を重視し、条約締結を進めた。
海軍は、条約派と艦隊派へ分かれていく。
ただし、全員がきれいに二つへ分かれたわけではない。軍縮に賛成しても国防を軽視したわけではなく、反対しても戦争を望んだとは限らない。人事、派閥、世代、予算、対米認識が複雑に絡んだ。
堀悌吉は、条約を支持する側にいた。
国力を超えた建艦競争は日本を疲弊させ、英米との対立を深める。数字の比率だけでなく、戦争を避ける外交的環境を含めて国防を考えるべきだ。堀の主張は、軍人として異質だったのではない。軍事を国家全体の一部として考えれば、自然な結論だった。
だが組織が熱を帯びると、全体を見る者は「覚悟が足りない」と見なされる。
昭和九年前後、いわゆる大角人事によって、条約派・協調派の将官たちが海軍を去った。堀も予備役へ追われた。
山本は怒った。
怒りを表に出すこともあったが、組織の決定を覆すことはできなかった。堀の現役復帰を望み、働きかけたものの、実現しなかった。
ある夜、二人は向かい合って酒を飲んだ。
これは史料に残る会話ではない。だが、残された手紙の温度から、二人の間にあったものを想像することは許されるだろう。
「お前まで辞めることはない」
堀が言った。
「俺が残って、何ができる」
「残った者にしか、できないことがある」
「お前を切る海軍にか」
「海軍を嫌いになっても、日本まで嫌いになるな」
山本は盃を置いた。
「日本を守るために、海軍が日本を危うくしている」
「なら、それを止めろ」
「一人で止められるか」
「一人で止められないから、言わなくていいということにはならない」
堀は静かだった。
静かな言葉ほど、山本には痛かった。
組織は、異論を唱える者を切ると、短期的にはまとまる。
会議は早く終わり、命令は通りやすくなる。指揮官は、自分が支持されていると感じる。
だが、反対者を失った組織は、間違いを修正する能力を失う。
山本にとって堀は、単なる親友ではなかった。自分の直感を言葉で検査し、危うい飛躍を止める存在だった。
後年、山本が連合艦隊の頂点に立ったとき、周囲には有能な参謀がいた。
宇垣纏、黒島亀人、渡辺安次。彼らは勤勉で、職務に忠実だった。しかし、長官の構想そのものを根本から否定し、退けさせる力を持つ者は少なかった。
山本の権威が高まるほど、反論は難しくなった。
真珠湾が成功すると、それはさらに強まった。
名将とは、正しい答えを出す人間ではない。
自分が間違っている可能性を組織のなかに残せる人間である。
山本は、部下の意見を聞くこともあった。
人をかわいがり、手紙を書き、若者を励ました。
だが、自分が確信した大構想については、退路を断つほど強引だった。
堀を失ったことは、山本個人の悲劇だった。
同時に、日本海軍が自ら警報装置を外した出来事でもあった。

間章三 二・二六の雪

昭和十一年二月二十六日、東京に雪が降った。
陸軍の青年将校たちは部隊を率い、首相官邸、警視庁、陸軍省周辺を占拠した。高橋是清、斎藤実らが殺害され、永田町と霞が関は銃声と混乱に包まれた。
海軍省にも緊張が走った。
陸軍内部の反乱であっても、国家の中枢が武力で揺さぶられた以上、海軍は無関係ではいられない。艦隊を東京湾へ入れる案、警備、陸軍との衝突回避。命令一つを誤れば、首都で陸海軍が撃ち合う恐れがあった。
山本はまだ次官ではなかったが、事件が残した意味を強く受け止めた。
軍人が「国を憂う」という確信を持ち、正規の政治手続きを飛び越える。
自分たちだけが天皇の真意を理解していると信じ、反対者を排除する。
目的が純粋であるほど、手段の残酷さを正当化する。
これは一部青年将校だけの問題ではなかった。
社会全体に、議会政治への失望、政党への不信、財閥や官僚への反感が積もっていた。新聞も世論も、軍人の「純情」を持ち上げることがあった。
山本は、軍が政治を直接動かす危険を知った。
同時に、海軍もまた統帥権を盾に、政府から独立した判断領域を広く持っていた。
陸軍の政治介入を批判しながら、海軍の組織利益を守る。
ここにも、制度の二重性がある。
二・二六事件後、軍部の政治的影響力は弱まるどころか、形を変えて強まった。現役武官制の復活によって、陸海軍が大臣を出さなければ内閣が成立しない状況が生まれる。軍は銃を撃たなくても、閣僚を出さないことで政治を止められる。
山本が海軍次官となったのは、その年の末だった。
彼は官僚として有能だった。
資料を読み、決裁し、人事を調整し、海軍大臣を支えた。だが次官の仕事は、正しさを叫ぶことではない。異なる部局、軍令部、陸軍、政府の間で、実行可能な線を作ることである。
調整は、妥協を必要とする。
妥協は、少しずつ立場を曖昧にする。
山本は三国同盟へ反対した。
しかし海軍という組織全体を、対米協調へ統一できたわけではない。海軍内部にも強硬派はおり、対米戦を当然の前提とする教育と作戦計画が長く続いていた。
会議では、誰も「戦争をしたい」とは言わない。
「国威を守る」「自存自衛」「最悪の場合に備える」「交渉力を高める」。穏当な言葉が並ぶ。
だが、最悪に備える準備が進むほど、準備した力を使う誘惑が強まる。
艦を造り、兵を訓練し、作戦計画を完成させる。そこまで進んでから「戦わない」と決めるには、戦う以上の政治的勇気が必要になる。
二・二六の雪は、数日で溶けた。
しかし、軍が政治を圧迫する空気は残った。
山本は、その空気に抗った。
同時に、その空気を生む制度の一員であり続けた。

第六章 三国同盟の暗い廊下

昭和十一年、山本は海軍次官に就任した。
海軍大臣・米内光政、軍務局長・井上成美とともに、海軍省の中枢で軍政を担った。三人は、日独伊三国同盟に反対した。
反対の理由は、ドイツへの感情的嫌悪ではない。
同盟を結べば、日本が英米との対立へ引き込まれる。欧州の戦争と中国大陸での戦争が連結し、日本は資源と海上交通路を持つ英米を同時に敵へ回す危険がある。
後世の物語なら、次官室の机にヒトラーの『我が闘争』を置き、山本に赤鉛筆を握らせたくなるだろう。余白へ「この男はロシアの泥に沈む」と書かせれば、先見の明は一枚の絵になる。
しかし、山本が見ていたのは一冊の本の行間ではなかった。
各国の武官報告、海軍省の資料、造船能力、石油、通商路、外交電報。机の上に積まれた断片をつなげれば、ドイツの勝利へ日本の命運を預ける危うさは、予言ではなく計算として浮かび上がった。
次官室の机に、欧州地図が広げられていた。
ドイツは強い。陸軍は精強で、工業力も高い。だが日本から遠く、海上交通路を守ってくれるわけではない。ドイツが英仏を破ったとしても、アメリカの工場が消えるわけではない。
「同盟を結べば、アメリカは日本をドイツの側と見る」
井上成美が言った。
「結ばなくても、もう疑っている」
山本は答えた。
「疑いと、敵と認定することは違う」
米内が煙草を灰皿へ置いた。
「陸軍は、ドイツが勝つと言う」
「勝つかもしれません」
山本は言った。
「だが、ドイツが勝てば日本が勝つという話にはならない」
廊下の外では、同盟推進を求める声が強まっていた。
新聞はドイツ軍の電撃戦を華々しく伝え、国民の一部は、世界秩序が塗り替わる瞬間に日本も乗るべきだと考えた。
山本には脅迫状が届いた。
「国賊」「英米の手先」「殺す」。右翼団体や強硬派の怒りが彼へ向けられ、身辺警護が必要になった。
彼は家族への手紙に、死を覚悟するような言葉を残した。
それは勇敢だった。
だが、個人の勇気と政治的成功は別である。
山本、米内、井上の反対は、三国同盟を一時的に遠ざけた。
しかし政権が替わり、国際情勢が変わると、昭和十五年九月、日本は日独伊三国同盟を締結する。
そのころ山本は、海軍省を離れ、連合艦隊司令長官となっていた。
人事には、彼を中央から遠ざけ、暗殺の危険から守る意図もあったと語られる。だが結果として、政治へ直接働きかける立場から、戦争を実行する側へ移った。
反対者が、実行責任者になる。
この転換こそ、山本五十六の悲劇の核心である。
そして、「悲劇」という言葉だけでは免責できない、責任の始まりでもある。

第七章 荻外荘――国家を救ったかもしれない嘘

昭和十五年九月の近衛・山本会談は、この物語の中心である。
近衛の戦後のp手記によれば、山本は対米戦について、「半年か一年は随分暴れてみせるが、二年三年となれば確信は持てない」と述べた。
逐語的な会議録ではない。後世の回想である。けれども、山本が長期戦に自信を持たず、戦争回避を求めたという骨格は、他の書簡や言動とも矛盾しない。
問題は、山本が何を言ったかより、何を言わなかったかである。
彼は、こう言うことができた。
「総理。海軍は駄目です」
軍人が政治家へこの言葉を吐くには、敗北を認める以上の勇気が要る。
「艦はあります。砲もあります。搭乗員も優秀です。しかし、国力差を埋める海軍ではありません。日本近海へ来る敵艦隊を待ち受け、一度の決戦に賭けることしか考えてきませんでした。南方へ出て資源を取り、その輸送路を守り、フィリピンとハワイを押さえ、何年も補充し続ける海軍ではありません」
もし山本がそこまで言えば、近衛はどうしたか。
内閣は倒れたかもしれない。
三国同盟は止まらなかったかもしれない。
陸軍は、海軍が対米戦を拒否したと攻撃しただろう。
山本は長官を罷免され、予備役に追われた可能性もある。
しかし、国家は少なくとも「海軍は半年やれる」という幻想を失った。
ここで、読者の多くは思うだろう。
従来の軍令部案、すなわち日本近海へ米艦隊を引き寄せ、潜水艦と航空機で漸減し、主力艦隊で決戦する構想を守っていれば、真珠湾のように米国民を一つに結束させず、日本の全面降伏を避けられたのではないか、と。
この仮説には、かなりの魅力がある。
真珠湾を攻撃しなければ、「卑劣な奇襲」という米国の強烈な統合神話は生まれない。
主力空母六隻を温存し、基地航空隊、潜水艦、島嶼防備と組み合わせ、日本に近い海域で戦えば、補給距離は短くなる。米軍は長い海を越え、要塞化された島々へ一つずつ近づかなければならない。
日本海軍が攻勢で搭乗員を浪費せず、防空と通商破壊に徹すれば、戦争の時間表は変わった可能性がある。
米国の「無条件降伏」方針が公式に掲げられるのは、開戦後の一九四三年である。
したがって昭和十五年の時点で、日本の全面降伏が歴史の必然として決まっていたわけではない。
しかし、ここには大きな条件がある。
近海決戦を選ぶだけでは足りない。
アメリカとの戦争そのものを避けなければならない。
日本が中国大陸から退かず、南部仏印へ進駐し、蘭印の石油を武力で取りに行くなら、フィリピンの米軍基地と米海軍は南方航路の側面に残る。日本はそれを無視できない。アメリカも、日本が東南アジアを制圧するのを黙って見ている保証はない。
つまり「真珠湾を攻撃しない」と「米国と戦わない」は同じではない。
軍令部の邀撃漸減作戦にも欠陥があった。
敵が、日本の望む時期と航路で西進してくれることを前提にしている。米海軍が決戦を避け、潜水艦で通商を絞め、航空基地を一つずつ奪い、圧倒的な生産力が整うまで待てば、日本は石油と船腹を先に失う。
山本は、そこを見抜いていた。
彼が従来構想を捨て、ハワイまで出て敵を殴ろうとしたのは、単なる賭博癖ではない。待っていれば、敵は日本に都合のよい決戦をしてくれない。ならばこちらから出て、決戦を強要するしかない。
その判断は、作戦思想として筋が通っている。
国家戦略としては、出口がなかった。
ここで山本は、二つの正しくない選択肢の間に立った。
一つは、近海で待つこと。
それは敗北を遅らせるかもしれないが、資源封鎖を解けない。
もう一つは、真珠湾を叩くこと。
それは初期の自由を得るが、アメリカの総力を確実に呼び起こす。
本当に必要だった第三の選択は、軍事作戦ではなかった。
中国からの段階的撤兵、南進の停止、三国同盟からの距離、国内政治の転換。海軍の外にしか答えはなかった。
だが山本は軍人であった。
軍人は、軍事で解けない問題を前にすると、より巧妙な軍事案を作る。
近衛に対し「海軍は駄目です」と言えば、軍事の問題を政治へ返すことができた。
しかし彼は、「半年は暴れる」と答えた。
なぜか。
海軍という組織を守るため。
軍人として最悪の場合に備えるため。
抑止力を失わないため。
近衛の覚悟を試すため。
どれも理由になり得る。
私は、もう一つ加えたい。
山本は、自分の能力を捨てきれなかった。
この国で、アメリカを最も知っているのは自分だ。
航空機の時代を最も理解しているのも自分だ。
普通に戦えば負ける。だが、自分が常識を破れば、一度だけ歴史を曲げられるかもしれない。
有能な人間が最も危険になるのは、自分の能力が最後の安全装置だと信じたときである。
近衛が求めたのは、海軍の冷たい計算だった。
山本が与えたのは、警告と自負が半分ずつ混ざった答えだった。
その答えは、近衛を止めなかった。
むしろ近衛に、まだ半年ある、と思わせた。
荻外荘の会談で、日本を救えた可能性があるとすれば、それは山本が真実を語ることではなかったかもしれない。
彼は、真実より強い言葉を使う必要があった。
「一日も戦えません」
軍事的には誇張である。
政治的には、国家を救ったかもしれない嘘である。
だが山本は、賭場ではブラフを好みながら、近衛の前では最も必要なブラフを使わなかった。

間章四 石油の時計

昭和十六年の夏、日本の時計は石油で動いていた。
七月、日本軍は南部仏印へ進駐した。
アメリカは日本資産を凍結し、石油輸出を事実上停止した。イギリス、オランダも歩調を合わせた。
海軍にとって、石油は抽象的な経済問題ではない。
戦艦も空母も、燃料がなければ巨大な鉄の箱になる。航空機は飛べず、訓練もできない。備蓄を使えば使うほど、残された時間は減る。
海軍省と軍令部では、数字が並べられた。
何か月持つのか。
訓練をどこまで削るか。
南方の油田を占領したとして、いつから日本へ運べるのか。
油田施設が破壊された場合、復旧にどれほどかかるか。っっp
石油禁輸は、日本をただちに開戦させた一発の引き金ではない。
しかし、政策選択へ期限を設定した。
中国から撤兵し、アメリカとの妥協を図る。
南方進出を続け、資源地帯を武力で確保する。
どちらも大きな代償を伴う。
陸軍にとって、中国からの大幅撤退は、長年の犠牲を無意味にするように見えた。
政府にとって、国内世論と軍を説得する力は弱かった。
海軍にとって、対米戦は勝算が乏しいが、石油が尽きれば戦わずして行動能力を失う。
追い詰められた国家は、「今ならまだ戦える」と考える。
時間がたてば弱くなるなら、早く決断した方がよい。
これは、軍事的には理解できる。
だが、その論理は「勝てるから戦う」ではなく、「後ではもっと勝てないから今戦う」である。
山本は、石油の数字を見た。
かつてテキサスで、地面から湧き出す原油を見た男である。
日本が南方油田を奪っても、アメリカの石油生産力と輸送力には及ばない。しかも、油田を占領するにはアメリカ、イギリス、オランダとの戦争を覚悟しなければならない。
「石油を取りに行くために、石油を最も多く持つ国と戦う」
山本が誰かへこの通り言った記録はない。
だが、彼の前にあった矛盾は、その一文に尽きる。
九月、御前会議は、対米英蘭戦争を辞さない方針を定めつつ、外交交渉を続けることにした。
外交と作戦準備が並行して進んだ。
並行という言葉は、中立に見える。
しかし軍事準備には時間が要る。艦隊の集結、訓練、補給、秘密保持。準備を進めれば、途中で止める費用が高くなる。
十月、近衛内閣は総辞職し、東條英機内閣が成立した。
東條は開戦だけを望む単純な好戦家ではなかった。天皇から外交の再検討を求められ、政策を洗い直した。それでも、陸海軍の要求、交渉期限、国内政治を組み替え、妥協へ到達することはできなかった。
十一月、最後の対米提案が検討された。
アメリカから示されたハル・ノートを、日本側は従来の立場を根本から否定するものと受け止めた。
ただし、ハル・ノートが日本へ「開戦を命じた」わけではない。
選んだのは日本政府である。
厳しい要求を受けたことと、戦争以外の選択肢が物理的に消えたことは同じではない。
十二月一日、御前会議で開戦が正式に決まった。
その決定に山本は出席していない。
連合艦隊司令長官は、国家の開戦決定者ではない。
だが、政治指導者たちの目の前には、山本が作った真珠湾作戦があった。
もし海軍が「開戦初日に太平洋艦隊へ大打撃を与えられる」と示していなければ、開戦判断は同じだっただろうか。
答えは分からない。
南方作戦だけでも戦争は始まり得た。
しかし真珠湾作戦が、開戦に軍事的な展望を与えたことは否定できない。
山本は戦争に反対した。
同時に、開戦を選ぶ者が頼れる最良の作戦を完成させた。
これは裏切りではない。
職業軍人としての忠実さである。
そして、忠実さが国家を救うとは限らない。
十一月のある夜、山本は家族へ手紙を書いた。
未来を直接書くことはできない。作戦機密がある。死を覚悟していても、父として不安を全部見せることはできない。
文章の途中で筆が止まった。
机上の時計が音を刻んでいた。
日本に残された時間も、同じように減っていた。
だが時計は、誰に向かっても「戦え」とは言わない。
時刻を見て、決断したのは人間だった。

第八章 源田実――優秀すぎる参謀

昭和十六年二月、山本は大西瀧治郎を通じ、源田実にハワイ攻撃の研究を命じた。
源田は、頭の回転が速かった。
航空戦術を身体で理解し、複数の空母を集中し、戦闘機、雷撃機、急降下爆撃機、水平爆撃機を一つの時間表へ組み込む能力を持っていた。真珠湾の浅い海で魚雷を使う。六隻の空母を北方航路から接近させる。奇襲のために無線を封じ、帰還と再攻撃まで計算する。
山本が「ハワイをやりたい」と言ったとき、普通の参謀は、できない理由を並べる。
源田は、できる条件を並べた。
これが優秀な参謀である。
同時に、最高指揮官にとって最も危険な参謀でもある。
源田の才能は、問いを疑うことより、与えられた問いを鮮やかに解くことにあった。
「真珠湾を攻撃できるか」
できる。
「敵空母を誘い出し撃滅できるか」
できる。
「航空兵力を集中すれば、戦艦を無力化できるか」
できる。
しかし国家が必要としていた問いは、別であった。
「真珠湾を攻撃した後、どう戦争を終えるのか」
これは航空参謀一人の責任ではない。
むしろ、その問いを源田へ与えなかった山本と、海軍中央と、政府の責任である。
源田を「天才」と呼ぶのも、「無謀な航空屋」と切り捨てるのも簡単である。
実像はもっと厄介だ。
彼は実務上、きわめて優秀だった。
優秀であるがゆえに、山本の危険な願望を、実行可能な作戦へ変えてしまった。
不可能な構想は、組織を動かさない。
優秀な参謀が細部を埋めると、構想は現実の顔を持ち始める。
燃料計算がつく。搭乗員が訓練する。魚雷が改造される。航路が引かれる。命令書ができる。
細部が正確になるほど、根本の問いが見えなくなる。
源田は南雲の幕僚となった。
南雲は航空の専門家ではない。草鹿参謀長は源田を信任する。第一航空艦隊は、陰で「源田艦隊」と呼ばれた。
この呼び名には、賞賛と皮肉が半分ずつある。
ある作戦会議で、南雲が源田へ訊いたことにしよう。
「君の案なら、成功するのか」
「成功させます」
「私は、確率を訊いている」
「長官。成功しない可能性を数え始めれば、出撃はできません」
南雲は黙った。
山本なら、その答えを好んだだろう。
だが、最高指揮官が参謀に求めるべきなのは、勇気だけではない。自分が最も聞きたくない失敗の形である。
真珠湾で、源田の設計は機能した。
戦術的には、世界史に残る成功だった。
その成功は、源田自身の判断にも影を落とした。
ミッドウェー前、日本側は米空母の損害を実際以上に大きく見積もっていた。源田や淵田美津雄も、米空母の多くが沈没または行動不能になったという認識に傾いていたとされる。
自分が作った刃が、あまりに鮮やかに切れた。
すると人は、次も同じように切れると思う。
源田は愚かだったのではない。
成功によって、自分のモデルを疑う必要を失った。
山本と源田の関係を、私はこう見る。
山本は、盤面全体を一気に変える手を好んだ。
源田は、その手を実際に指せる形へする能力があった。
二人の間に欠けていたのは、
「その手を指さず、負けを小さくする方が国家にはよい」
と言う人間である。
堀悌吉は、もう海軍の外にいた。
井上成美は別の持ち場にいた。
南雲は反対しても、航空の論理で押し返された。
優秀な参謀は、指揮官の翼になる。
翼は高く飛ばせる。
だが、行き先を決めることはできない。

第九章 単冠湾の沈黙

昭和十六年十一月、千島列島の単冠湾。
濃い霧と寒気のなかに、空母六隻を中心とする機動部隊が集結した。
「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」。
それまで世界のどの海軍も、これほど大規模な空母航空兵力を一つの攻撃へ集中したことはなかった。
艦上では、搭乗員たちが最後の訓練と確認を行った。
魚雷の安定板、爆弾の信管、燃料、航法、目標識別。彼らの多くは、作戦の全貌を直前まで知らされていなかった。
十一月二十六日、機動部隊は単冠湾を出撃した。
北太平洋は荒れていた。波が艦首を叩き、甲板へ凍るような飛沫が降った。無線は封止され、艦隊は沈黙したまま東へ進んだ。
山本は機動部隊に同行していない。
彼は瀬戸内海方面の旗艦「長門」にいて、作戦全般を指揮した。真珠湾攻撃の現場指揮は南雲忠一に委ねられた。
ここにも、山本の作戦指揮の特徴が表れる。
大胆な構想を自ら押し通しながら、実施段階では現場指揮官へ大きな判断を委ねる。これは任務型指揮にも見えるが、作戦目的と優先順位が十分共有されていなければ、現場は最も保守的な選択をする。
十二月一日、日本の御前会議は対米英蘭開戦を決定した。
十二月二日、機動部隊へ「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が届く。
攻撃日は、日本時間十二月八日。
外交交渉は続いていた。
日本政府は開戦通告をワシントンで手交する予定だったが、文書作成と伝達の遅れによって、攻撃開始前に間に合わなかった。
後世、「だまし討ち」という言葉が真珠湾につきまとう。
軍事的な奇襲は、山本の作戦意図そのものだった。一方、外交上の通告遅延を山本個人が企図したわけではない。だが、アメリカ国民にとって、その区別は意味を持たなかった。
日曜日の朝、宣戦の知らせなしに基地が攻撃された。
その記憶は、戦争目的を一つにした。
山本が最も避けるべきだった「怒りによるアメリカの統一」が、彼の作戦成功によって完成した。
機動部隊の艦上で、搭乗員たちは夜明けを待った。
彼らは国家戦略の矛盾を知らない。
与えられた任務を果たすため、何度も地図を確認し、家族の写真をしまい、飛行服の襟を立てた。
戦争では、最上層の曖昧さが、最前線の明確な命令へ変換される。
政治家が「やむを得ない」と言い、軍令部が「勝算あり」と書き、司令長官が作戦を立てる。その最後にいる若者には、「飛べ」という一語だけが届く。
十二月七日、ハワイ時間午前。
機動部隊から攻撃隊が発進した。
エンジン音が海面を震わせた。
機体は隊形を組み、オアフ島へ向かった。
その瞬間、日本海軍は歴史上最も洗練された航空攻撃を開始した。
同時に、日本国家は最も勝ち目の薄い長期戦へ入った。

第十章 真珠湾――成功の中の敗北ー

オアフ島上空は、朝の光に満ちていた。
米軍基地では日曜日の時間が流れ、戦艦群は真珠湾に停泊していた。
第一次攻撃隊は雷撃、水平爆撃、急降下爆撃、戦闘機による攻撃を開始した。第二次攻撃隊が続いた。戦艦「アリゾナ」は大爆発を起こし、「オクラホマ」は転覆した。飛行場では、多数の航空機が地上で破壊された。
日本側は大戦果を得た。
しかし、米空母は港にいなかった。
戦艦中心の海軍観からすれば、太平洋艦隊主力を撃滅した大勝利だった。
空母中心の戦争が始まるという観点から見れば、最重要目標を逃した攻撃だった。
ここでしばしば語られるのが、「南雲は第三次攻撃を行い、燃料タンクと修理施設を破壊すべきだった」という批判である。
たしかに、真珠湾の燃料貯蔵施設、乾ドック、修理工場は、米太平洋艦隊の継戦能力を支える重要施設だった。山本がアメリカの石油と工業力を知っていたことを考えれば、港湾インフラの破壊を明確な優先目標にしなかった点は、批判されるべきである。
だが、「第三次攻撃隊が発進寸前だったのに、臆病な南雲が止めた」という単純な物語は、慎重に扱わなければならない。
実際には、第三次攻撃の具体的な発進準備が整っていたわけではない。再攻撃には、帰還機の収容、燃料補給、再武装、損傷機の処理が必要だった。米空母の所在は不明で、反撃の危険がある。日本側の損害も第二波で増え、帰途の燃料と日没も考慮しなければならなかった。
南雲の判断には、合理的な理由があった。
同時に、その合理性は、作戦全体の限界を示している。
機動部隊の保全を優先すれば、港湾機能を徹底破壊できない。
港湾を徹底破壊しようとすれば、空母を危険にさらす。
つまり、日本には一度の奇襲で、米太平洋艦隊と基地機能と空母をすべて壊すだけの余裕がなかった。
真珠湾攻撃の問題は、「あと一波あれば勝てた」というところにない。
たとえ燃料タンクを焼き、ドックを壊しても、アメリカ本土の工業力は残る。戦争を数か月遅らせる効果はあり得たが、それだけでアメリカを講和へ追い込めるわけではない。
山本の失敗は、燃料タンクを見落としたことだけではない。
戦術的成功を、戦争終結へ接続する道筋を持たなかったことである。
攻撃後、南雲機動部隊は帰投した。
日本国内では、戦果が大々的に報じられた。人々は提灯を掲げ、新聞の号外を奪い合った。山本五十六の名は、軍神のように語られ始めた。
長官室で戦果報告を受けた山本は、喜びを表した。
同時に、米空母を撃ち漏らしたことを気にした。
「これで半年は持つ」
彼が実際にそう呟いたかは分からない。
だが、成功の意味を最も冷静に理解していたのは、山本だったはずだ。
問題は、冷静に理解していることと、冷静な次の手を選べることが同じではない点にある。
真珠湾の成功は、彼の権威を巨大にした。
軍令部が反対しても、山本案は成功した。
常識を破った長官が正しかった。
組織は、成功から学ぶことが難しい。
失敗なら原因を探す。
成功すると、すべての判断が正しかったと思い込む。
真珠湾は、日本海軍に最も危険な教訓を与えた。
危険な作戦ほど、大胆にやれば成功する。
山本の直感は、反対者より正しい。
奇襲で敵の心理を折ることができる。
これらは、真珠湾という一回の結果からは正しく見えた。
そして、ミッドウェーで破滅的に否定される。

第十一章 百日の帝国

開戦後、日本軍は猛烈な速度で進んだ。
マレー半島、香港、フィリピン、蘭領東インド、シンガポール。欧米列強が長年築いた拠点が、次々と陥落した。
マレー沖では、英国戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が、日本海軍の陸上攻撃機によって沈められた。航空機が行動中の主力艦を撃沈した事実は、海戦の時代が変わったことを示した。
日本国内は熱狂した。
新聞の地図では、日の丸が南へ広がった。
敗北を知らない軍隊、神がかった作戦、無敵の零戦。緒戦の成功は、国力差という現実を覆い隠した。
だが、占領地域が広がるほど、守る海も広がった。
輸送船が要り、護衛艦が要り、飛行場が要り、守備隊が要る。南方から石油を取っても、それを日本へ運ばなければ意味がない。油田を確保する作戦と、輸送路を維持する戦略は別である。
日本海軍は、艦隊決戦の訓練には熱心だった。
商船護衛、対潜水艦戦、船団輸送は、相対的に軽視されていた。
戦争は、敵艦を沈めた数だけで決まらない。
自国の船が、必要な物資を必要な場所へ運び続けられるかで決まる。
山本は、緒戦の成功を早期講和へ結びつける決定打を求めた。
米太平洋艦隊の空母を捕捉し、撃滅する。敵の戦意をさらに打ち砕く。
連合艦隊司令部では、次期作戦をめぐって複数案が出た。
ハワイ攻略、セイロン方面、オーストラリア遮断、ミッドウェー攻略。軍令部と連合艦隊の考えは一致しなかった。
山本は短期決戦を急いだ。
時間がアメリカの味方であることを知っていたからだ。
だが、時間を恐れるあまり、準備の足りない決戦を急ぐことになる。
昭和十七年四月十八日、米陸軍のB25爆撃機が空母「ホーネット」から発進し、日本本土を空襲した。ドゥーリットル空襲である。
被害は軍事的には限定的だった。
しかし、東京を含む本土が爆撃された心理的衝撃は大きかった。陸海軍首脳は、太平洋正面の防衛を急ぐ必要を感じた。
山本にとっても、空襲は個人的な打撃だった。
真珠湾で米太平洋艦隊を叩いたはずなのに、敵空母は日本近海まで進出した。空母を誘い出し、撃滅しなければならない。
ミッドウェー島を攻略すれば、米海軍は出てくる。
出てきたところを、空母機動部隊と主力艦隊で包囲し、壊滅させる。
発想は、山本らしかった。
敵の心理を読み、相手が守らざるを得ない場所を餌にする。
しかし、作戦は次第に膨らんだ。
ミッドウェー攻略、敵空母撃滅、アリューシャン方面の作戦、上陸部隊の掩護、主力艦隊の待機。目的が重なり、部隊は広大な海域へ分散した。
真珠湾では、兵力を一点に集中した。
ミッドウェーでは、兵力を複数の任務へ分けた。
同じ指揮官の作戦とは思えないほど、形が違った。
なぜか。
真珠湾は、成功条件が明確だった。
見つからずに近づき、停泊艦隊を攻撃し、帰る。
ミッドウェーは、敵がどう動くかに依存した。
島を攻撃すれば空母が出る。出た空母は、こちらの想定した方向と時刻に現れる。日本側は先に発見し、攻撃できる。複数の前提が、一つでも外れれば作戦全体が崩れる。
山本はアメリカを知っていた。
だがこのとき、彼は自分が知っているアメリカを、作戦上都合のよいアメリカへ置き換えていた。

間章五 珊瑚海――見えない艦隊

ミッドウェーの一か月前、日本海軍は新しい形の海戦を経験していた。
昭和十七年五月、珊瑚海。
日本軍はポートモレスビー攻略を進め、その掩護に空母部隊を投入した。連合軍も空母を出した。
両艦隊は、互いの姿を直接見ることなく戦った。
偵察機が敵を探し、無線で位置を伝え、空母から攻撃隊が飛ぶ。砲術長が敵艦の煙突を数える時代から、索敵報告と航空図が海戦を決める時代へ移った。
日本側は軽空母「祥鳳」を失い、空母「翔鶴」が損傷した。「瑞鶴」は艦そのものに大きな損傷を受けなかったが、航空隊に損害が出た。米側は空母「レキシントン」を失い、「ヨークタウン」が損傷した。
戦術的な損害だけを比べれば、日本側は勝利を主張できた。
しかし、ポートモレスビー攻略は海上から実施できず、作戦目的は達成されなかった。
ここに、戦果と目的の違いがある。
敵艦を沈めても、自分の目的を果たせなければ、作戦上の勝利とは言い切れない。
逆に艦を失っても、敵の進攻を止めれば、戦略的な成果を得ることがある。
日本海軍は、敵へ与えた損害を重く見る文化を持っていた。
どの艦を沈めたか、何機を撃墜したか。数字が明確で、武勲として評価しやすい。
だが戦争の目的は、敵の物を壊すことではない。
自国の政治目的を達成することである。
珊瑚海海戦の結果、「翔鶴」と「瑞鶴」はミッドウェー作戦へ参加できなかった。
「翔鶴」は修理が必要で、「瑞鶴」は航空隊の補充と再編を要した。
後世から見れば、この二隻がミッドウェーに加わっていれば結果が変わったのではないか、と考えたくなる。
だが歴史は、将棋の駒を自由に戻せる盤ではない。
搭乗員の損失、整備、訓練、部隊編成には時間がかかる。空母の船体だけあっても、航空隊がそろわなければ戦力にならない。
山本の作戦構想は、空母を決戦兵器とした。
しかし日本海軍の人事・教育・補充制度は、空母航空隊を大量消耗品として運用できる形になっていなかった。
ここでも、先端兵器と組織制度のずれが現れる。
珊瑚海で、日本側は索敵の難しさも経験した。
誤認、天候、距離、通信。偵察機が一文字を誤れば、攻撃隊は何もない海へ飛ぶ。敵艦種の判定を誤れば、最重要目標を逃す。
ミッドウェー作戦を急ぐなら、珊瑚海の教訓を詳細に整理しなければならなかった。
だが時間は短かった。
「敵は弱っている」
「米空母は残り少ない」
「今こそ決戦の機会だ」
損害の大きかった米側も、「ヨークタウン」を驚くべき速度で応急修理し、ミッドウェーへ送り出した。
日本側の想定では、「ヨークタウン」は珊瑚海の損傷でしばらく戦列へ戻れないと見られていた。
アメリカの修理能力と組織の弾力性は、山本が恐れていた国力そのものだった。
知識は、具体的な作戦判断へ翻訳されなければ役に立たない。
アメリカの工業力を知っている。
修理能力が高いことも理解している。
それでも、目の前の作戦では「敵空母は少ない」と仮定する。
人間は、一般論では慎重でも、具体的な計画では楽観する。
計画を進めるために必要な前提を選ぶからである。
珊瑚海は、ミッドウェーの予告編だった。
空母同士が見えないまま戦い、情報の一瞬の差が勝敗を分ける。搭乗員の損失が、次の海戦へ影響する。敵の修理能力が予測を裏切る。
警告は、十分に鳴っていた。
だが真珠湾の成功の残響が、大きすぎた。

第十二章 将棋盤の向こうのミッドウェー

昭和十七年六月四日、日本時間では六月五日。
太平洋の中央で、四隻の日本空母が燃え始めた。
ミッドウェー海戦を描くとき、作家は一つの誘惑に負けやすい。
戦艦「大和」の作戦室で、山本五十六が将棋を指していた、という場面である。
将棋盤。
渡辺安次参謀。
暗号長が駆け込み、「赤城、被爆大、総員退去」と告げる。
山本は駒から手を離さず、「ほう、またやられたか」と言う。
これほど象徴的な場面はない。
前線で若者が焼け死ぬ一方、最高指揮官は巨大戦艦の奥で盤上を見ている。愚将論を書くなら、一枚の絵で済む。
しかし史料は、そこまで都合よくない。
従兵長の回想には、将棋を指している最中に悲報が来たとある。
一方、対局相手とされた渡辺参謀の回想をたどると、決定的な報告時には当直や作戦処理にあたり、将棋を続けていたという構図と食い違う。
山本は将棋好きで、作戦中に待ち時間があれば盤を囲んだ可能性はある。
だが「空母が燃えている報告を聞きながら、平然と指し続けた」と事実認定するには、証言が割れている。
そこで小説では、史実の隙間へ入ることにする。
作戦室の机に、将棋盤が置かれていた。
対局は、すでに中断していた。
山本の右手には、銀将が一枚あった。
そこへ報告が来る。
「赤城、被爆。火災」
山本は銀将を盤へ戻さなかった。
「加賀も被爆」
参謀たちが海図へ集まる。宇垣纏は艦橋へ上がる。通信員は次の電報を待つ。
山本だけが、しばらく駒を持っていた。
彼が将棋を続けたのではない。
現実の手が、もう自分のところに残っていないことを、駒の重さで知ったのである。
ミッドウェーの日本艦隊は、あまりに広く分散していた。
南雲の機動部隊は前方へ出て、ミッドウェー島を攻撃しながら米空母に備える。攻略部隊、主力部隊、アリューシャン方面部隊が離れて動く。「大和」の主力部隊は、航空戦へ即座に介入できない距離にいた。
山本は全軍を指揮していた。
しかし、戦闘が始まった瞬間、彼の巨大戦艦は何もできなかった。
この距離こそ、将棋の逸話より重要である。
盤上の将棋なら、王将はすべての駒の位置を知る。
現実の海戦では、敵空母の位置は分からず、自軍の索敵機は遅れ、通信には時間差があり、前線の南雲は、島への再攻撃と敵艦隊攻撃と帰還機収容を同時に処理しなければならない。
米海軍は日本の暗号を完全に読んでいたわけではない。
断片をつなぎ、通信量を分析し、「AF」がミッドウェーであることを確かめ、待ち伏せした。
日本側は逆だった。
情報がない部分を、自信で埋めた。
米空母は多くが沈んでいる。
敵は奇襲を予期していない。
ミッドウェーを攻撃すれば、残存艦隊が出てくる。
南雲の四空母なら、島と艦隊の両方を処理できる。
どの前提にも、根拠はあった。
すべてを重ねると、願望になった。
源田実は、米空母戦力を楽観的に見積もっていた。
南雲は、山本から与えられた複数任務の間で引き裂かれた。
山本は、敵を誘い出す大構想を描きながら、最も大切な航空兵力を自分の手から数百海里前へ置いた。

* 男たちの五分間――源田、南雲、山口

後世は、この朝に「運命の五分間」という名を与えた。
あと五分あれば、日本機は飛び立っていた。あと五分早ければ、米空母を先に叩けた。そういう物語である。敗北を一個の時計へ閉じ込めれば、海軍という巨大な組織を裁かずに済む。時計には階級も、嫉妬も、出世欲もないからだ。
しかし戦闘詳報が示す朝は、もっと粘ついている。南雲司令部は、ミッドウェーから戻る第一次攻撃隊を収容し、防空戦闘機を上げ下ろしし、敵機の波状攻撃を避けながら、待機機の兵装を艦船用から陸上用へ、さらに艦船用へ戻そうとしていた。飛行甲板は、一本の滑走路であると同時に、帰還機の玄関であり、発進機の出口でもあった。五分だけを切り取ることはできない。
だが、時間を失わせた人間がいなかったわけではない。
第二航空戦隊司令官・山口多聞から、短い信号が届いた。
「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」
魚雷への再転換を待つな。陸用爆弾のままでよい。いま上げられる艦爆を上げ、敵空母の飛行甲板を先に潰せ。山口の言葉は、戦術として乱暴だった。護衛戦闘機は十分でなく、帰還中の第一次攻撃隊を海へ捨てる危険もある。それでも空母戦の本質だけは外していなかった。完全な攻撃隊を一時間後に出すより、不完全な攻撃隊をいま出す。空母は、先に一発を当てた側が相手の次の一発を消せる兵器だった。
赤城艦橋で、南雲は信号文を二度読んだことにしよう。
山口は、正しいことを言うときほど、相手を追い詰める男だった。正しさを相談として差し出さず、決断の遅れを告発する形で差し出す。南雲は、そういう山口を好かなかった。
嫌いだから退けたのではない。
嫌いであることを、合理的な理由の陰へ隠すことができたのである。
攻撃隊は統一された兵装で出すべきだ。雷撃なら命中率が高い。護衛戦闘機なしでは損害が大きい。帰還機の燃料は尽きかけている。どれも間違いではない。間違いでない理由を幾つも重ねると、人間は、自分の感情が決断へ混じっていることを忘れられる。
源田実は、そのすぐ近くにいた。
ここからは、史料の沈黙に置く推測である。
源田には三人の上官がいた。命令系統の上官である南雲。航空海軍の扉を開いた巨大な後援者である山本。そして、まだ階級章を持たない未来の源田実である。
山口案を採れば、敵空母を止められるかもしれない。だが成功したとき、その勝利は誰のものになるか。即時発進を迫った山口多聞の名が残る。南雲は、山口に救われた長官になる。源田が設計してきた、統一された大攻撃隊による集中攻撃という思想は、臆病な準備として退けられる。
反対に、兵装を整え、戦闘機を付け、全空母の攻撃隊を一つにして放てば、それは源田の航空戦になる。成功すれば、山本の先見性と南雲の統率と源田の設計が、きれいに一本の戦果へ収まる。
源田は山口を憎んでいた、と書けば安っぽい。才能のある男同士は、もっと複雑に相手を見る。山口の即断を認めるほど、自分が積み上げてきた理論の遅さが見える。山口を危険な猪武者と評するほど、自分が安全な艦橋から戦術を組み立てていることも見えてしまう。尊敬と反発は、同じ場所から生える。
「現装備のままでは、打撃が足りません」
源田がそう進言したことにしよう。あるいは、何も言わず、南雲が自分の結論へ着くのを待ったことにしよう。参謀の権力は、命令することだけにない。長官が欲しがっている理屈を、必要な瞬間に差し出すことにもある。
南雲は山口の意見を採らなかった。
それは航空戦術上の判断だった。帰還機を見捨てないという指揮官の責任でもあった。そして同時に、年下で、航空を知り、自信に満ちた山口へ、艦隊全体の決断を奪われたくないという、男の小さな抵抗でもあったかもしれない。
この瞬間、三人は同じ敵を見ていなかった。
山口は、水平線の向こうの米空母を見ていた。
南雲は、帰ってくる百機と、自分が負うべき全艦隊の責任を見ていた。
源田は、今日の敵空母と同時に、明日の海軍航空隊を見ていた。
誰も卑怯ではない。誰も完全には間違っていない。だからこそ、組織は止まる。
いわゆる五分間を生んだのは、一人の命令ではなかった。知識を持つ源田に決裁権がなく、決裁権を持つ南雲に航空戦の身体感覚がなく、身体感覚を持つ山口が命令系統の外側に置かれていた人事である。そこへ、序列、面子、功名、将来への野心が、目に見えない油のように流れ込んだ。
爆弾が落ちたのは、その後だった。
日本海軍は五分足りなかったのではない。正しい意見を、正しい時刻に、誰の面子も潰さず決定へ変える仕組みを持っていなかった。
午前、米急降下爆撃機が現れた。
「赤城」「加賀」「蒼龍」が相次いで致命傷を受ける。
「飛龍」は山口多聞の指揮で反撃し、「ヨークタウン」を攻撃したが、やがて発見され、炎上した。
四空母喪失の報告がそろったとき、作戦室の空気は、音を失った。
山本は夜戦を考えた。
戦艦を進め、敵を捉える。日露戦争以来、海軍が信じてきた最後の形へ持ち込む。
しかし、敵空母の位置は不明で、制空権はなく、距離があり、燃料と時間がない。
航空機で始まった敗北を、戦艦で取り返そうとする。
山本は航空時代の先覚者であった。
その山本の最後の反射が、古い艦隊決戦だったことは皮肉である。
「作戦を中止する」
この命令を出すまでに、どれほど時間がかかったか。
時計で測ることはできる。
しかし敗北を認める時間は、人間によって違う。
山本は、銀将を盤へ置いた。
「参謀」
「はい」
「この局は、どこで負けたと思う」
渡辺が答える。
「いまではありません」
「では、いつだ」
「勝ったと思った時です」
これも創作である。
だが、ミッドウェーの本質はそこにある。
敗北は六月五日の急降下爆撃で突然生まれたのではない。
真珠湾の成功を、山本個人の直感の勝利としたとき。
敵空母を沈めたという誤認を、都合よく受け入れたとき。
複雑すぎる作戦を、優秀な現場なら処理できると考えたとき。
南雲と源田の責任範囲を曖昧なままにしたとき。
大和を後方に置き、最高指揮官が最初の航空戦へ介入できない配置を選んだとき。
盤上では、詰みの数手前でも投了できる。
国家戦争では、指揮官は、まだ手があると言い続ける。
ミッドウェー後、山本は南雲を切らなかった。
連合艦隊幕僚の一部には更迭論があったが、山本は、南雲だけを悪者にすることを避けたとされる。
人情としては美しい。
組織論としては危うい。
南雲一人を処罰しても、山本の作戦構想、源田らの敵情判断、軍令部との調整、暗号保全、索敵制度は改善しない。
だから必要だったのは処刑ではなく、公開された総括であった。
しかし敗北は秘匿された。
海軍の内部でさえ、全貌を知らない者が多かった。
失敗を恥とする組織は、失敗を隠す。
失敗を隠す組織は、原因を個人の胸中へ閉じ込める。
山本は責任を感じた。
だが責任を制度へ変えなかった。
将棋盤の上には、駒が残った。
海の上には、空母が残らなかった。

間章六 地下室の地図

ハワイ、真珠湾。
地下の通信情報室では、紙が机を埋めていた。
暗号文は、読める文章として届くわけではない。
数字の列、反復、呼出符号、送信時刻、電波の強さ。内容が読めなくても、誰が誰へ、どれほど頻繁に通信したかは分かることがある。
米海軍の暗号解読班は、日本海軍の通信を追っていた。
中心人物の一人、ジョゼフ・ロシュフォールは、派手な軍人ではなかった。地下室で長時間働き、断片をつなぎ、仮説を修正した。
日本側の作戦名や地名符号をすべて読めたわけではない。
それでも、「AF」をめぐる通信の増加、部隊の移動、日付の断片から、大規模作戦が近いことを察知した。
情報分析には、想像力が要る。
だが想像力だけでは、願望になる。
ロシュフォールたちは、自分たちの仮説を試した。
ミッドウェーから、真水製造装置が故障したという偽の平文通信を送らせる。
その後、日本側暗号通信に「AFは真水不足」と現れれば、AFがミッドウェーである可能性は高まる。
罠は成功した。
米太平洋艦隊司令長官ニミッツは、情報を完全ではないまま使った。
確実な情報がそろうまで待てば、敵は来てしまう。
不確実な情報で艦隊を出せば、別の海域を空ける危険がある。
指揮とは、不確実性のなかで責任を引き受けることである。
ニミッツは空母をミッドウェー北東へ配置した。
山本は、米空母を誘い出すつもりだった。
実際には、米空母が先に待っていた。
この逆転は、暗号技術だけで生まれたのではない。
情報担当者の見立てを、作戦指揮官が信頼したから生まれた。
組織では、正しい情報が上層部に嫌われることがある。
作戦計画を否定する情報、上司の想定と違う分析、都合の悪い損害見積もり。
米海軍内部にも対立はあった。
ワシントンの情報機関とハワイの分析班で見解が食い違い、ロシュフォールの評価をめぐる問題も起きた。それでもミッドウェー直前、ニミッツは現地分析を採用した。
日本側では、暗号が安全だという前提が長く残った。
暗号表は更新されても、運用上の癖、通信量、定型表現、配送の遅れが弱点を作る。
技術に絶対安全はない。
安全だと信じた瞬間、手順が緩み、疑う者が減る。
山本の視察予定が二年後に傍受・解読されたことも、同じ問題の延長にある。
詳細な時刻表を暗号で送れば安全だという前提。
相手が読める可能性を、組織が十分に想像しなかった。
地下室の戦争には、砲煙がない。
英雄的な突撃もない。
あるのは、疲労した目、鉛筆、カード、通信記録、仮説である。
だがミッドウェーでは、地下室の静かな仕事が、空母四隻の運命を決めた。
日本海軍は、武勇を尊んだ。
アメリカ海軍は、情報を戦力へ変えた。
もちろん日本にも優れた情報将校はいた。
真珠湾攻撃では綿密な情報収集が成功を支えた。
問題は、情報能力がなかったことではない。
自分が攻めるときには情報を重視し、敵が自分を読んでいる可能性を軽視したことである。
人は、自分の罠の巧妙さには感心する。
自分が罠にかかっている可能性には、なかなか気づかない。

間章七 「大和」の距離

戦艦「大和」は、世界最大級の主砲を備えていた。
その威容は、日本海軍が長年追い求めた艦隊決戦思想の結晶だった。
ミッドウェー作戦で、山本は「大和」に座乗した。
巨大な主力部隊は、南雲機動部隊の後方を進んだ。敵艦隊が現れれば、航空攻撃で弱らせたのち、戦艦部隊が決戦を行う構想が残っていた。
しかし、航空戦の速度は、戦艦の距離感を無意味にした。
空母が発見され、攻撃隊が飛び、数時間で戦局が決まる。数百海里後方の戦艦は、どれほど強力な主砲を持っていても届かない。
山本は航空の重要性を理解していた。
それでも自らは、空母ではなく「大和」にいた。
安全な後方に逃げた、と単純に批判することはできない。
連合艦隊司令長官は作戦全体を指揮する必要があり、通信設備と司令部機能を備えた旗艦にいる合理性があった。空母へ座乗すれば、航空部隊の現場指揮と全体指揮が混線し、攻撃を受けた際に司令部全体を失う危険もある。
問題は、山本の臆病さではない。
作戦構造のなかで、最高指揮官と主攻撃部隊が遠く離れ、情報伝達が遅れたことである。
現場の南雲は、限られた情報と時間で判断する。
後方の山本は、作戦全体を知っているが、現場へ即時介入できない。
権限と情報が、別々の場所にあった。
現代の組織でも同じことが起きる。
本社は全体計画を知るが、現場の変化を知らない。現場は顧客や障害を知るが、計画を変える権限がない。
危機の最中、本社から届く指示は遅く、抽象的になる。
現場は、自分の責任で判断しなければならない。
成功すれば本社の作戦、失敗すれば現場の判断とされる。
ミッドウェー後、南雲の判断だけを責める議論が長く続いた。
だが、南雲をそこへ置き、その任務を与え、その兵力配分を決めたのは、より上位の指揮体系である。
山本は「大和」の艦橋で、海図を見つめた。
空母四隻が燃えている海は、紙の上では数本の線と記号にすぎない。
距離は、最高指揮官を冷静にする。
同時に、現実から遠ざける。
山本が見ていたのは、作戦図だった。
南雲が見ていたのは、帰還機、燃える甲板、敵機、残り時間だった。
どちらも真実である。
だが、二つの真実がつながらなければ、組織は動かない。
「大和」の主砲は、その日、一発も敵空母へ届かなかった。
巨大な戦艦は、海軍の力を象徴した。
同時に、時代との距離を象徴した。

第十三章 敗北を隠す海軍p

ミッドウェーから戻った艦隊を、歓呼の群衆は迎えなかった。
負傷者は人目を避けて運ばれ、空母を失った事実は秘匿された。大本営発表は、実際の損害を小さく見せた。
機密保持には軍事的理由がある。
敵に損害を知られれば、次の作戦へ利用される。だが、秘密は敵だけでなく、味方の思考も遮断する。
陸軍は海軍の実情を十分に知らない。
国民は勝っていると思う。
現場の部隊も、他部隊の失敗から学べない。
山本は、自らの作戦が失敗したことを認めた。
しかし、それを海軍組織の構造改革へつなげられなかった。
空母機動部隊の索敵体制をどう改善するか。
通信情報を現場へどう届けるか。
搭乗員を大量に育成する制度をどう作るか。
艦隊防空をどう統合するか。
失敗を公正に検証し、指揮官人事へ反映するか。
課題は明らかだった。
だが戦争は待たない。
日本海軍は、損失を埋めるより先に、次の戦場へ引きずり込まれた。
昭和十七年八月七日、米海兵隊がガダルカナル島へ上陸した。
日本側が建設中だった飛行場を奪い、やがてヘンダーソン飛行場として運用を始める。
当初、日本側は米軍の規模と決意を過小評価した。
少数の兵力で奪回できると考え、一木支隊の先遣隊を投入した。部隊は壊滅した。
それでも戦力は逐次投入された。
兵力を小分けに送り、到着した順に攻撃する。敵の規模を過小評価し、失敗すると次の部隊を足す。補給能力を超えて兵を増やす。
これは陸軍だけの失敗ではない。
海軍はガダルカナル周辺の制海・制空権をめぐり、艦艇と航空機を投入した。夜間、駆逐艦で兵員や物資を運ぶ「鼠輸送」は、速力を生かした苦肉の策だったが、重火器や十分な食料を運べない。
島では兵士が飢えた。
海では輸送船が沈んだ。
空では熟練搭乗員が失われた。
山本はトラック島を主な拠点として、南東方面の作戦を指揮した。
山本が毎朝ラバウルの滑走路に立ち、出撃する若者を見送ったわけではない。彼の主な指揮拠点は、はるか後方のトラック島だった。ラバウルへ足を運ぶのは、昭和十八年四月、最期となる前線視察の時期である。
彼は遠い司令部で、損害数字を受け取った。
数字は整然としていた。
未帰還何機、戦死何名、使用可能機何機。
だが数字の向こうには、朝食を食べたまま帰らなかった若者がいる。母親へ送るはずだった手紙が、私物袋に残っている。
最高指揮官は、個々の死をすべて背負うことはできない。
背負えば判断できなくなる。
だから数字に置き換える。
しかし数字に慣れすぎれば、損失を「まだ耐えられる」と考える。
山本は早期決戦を求め続けた。
もう一度、敵空母を大きく叩けば、戦局が変わる。
もう一度、決定的勝利を得れば、講和の可能性が開く。
その「もう一度」が、熟練者を使い切っていった。

間章八 弾薬より先に、米が尽きる

ガダルカナルをめぐる戦いは、しばしば勇敢な夜戦と航空戦の物語として語られる。
しかし、島で兵士を殺した最大の敵の一つは、空腹だった。
日本側は、ガダルカナルへ十分な物資を送れなかった。
米軍航空機が昼間の海を支配し、低速の輸送船は攻撃を受けやすい。そこで高速の駆逐艦を使い、夜間に兵員と物資を運んだ。
駆逐艦は本来、敵艦隊への雷撃や艦隊護衛を担う戦闘艦である。
貨物船ではない。
積める量は限られ、岸壁設備のない海岸で短時間に揚陸しなければならない。ドラム缶に物資を詰めて海へ流し、陸側で回収する方法も取られたが、波や敵の攻撃で失われた。
弾薬が届いても、米が届かない。
兵が増えても、食料が増えない。
作戦会議の地図では、一個連隊は一つの記号で表される。
だが一個連隊は、毎日食べる。水を飲み、病気になり、靴が破れ、薬を使う。
兵站は、戦闘の後方にあるのではない。
兵站そのものが戦闘である。
日本軍の指揮官たちは、補給を軽視したかったわけではない。
送る船がなく、制空権がなく、時間がなく、それでも島を奪回せよと命じられた。
不可能な命令を受けた現場は、精神力で不足を埋めようとする。
食料が少なければ節約し、弾薬が少なければ接近し、薬がなければ耐える。
精神力は、短期間なら能力を引き上げる。
長期間使えば、人間を壊す。
連合艦隊は、水上部隊による飛行場砲撃を行い、米軍へ打撃を与えた。戦艦「金剛」「榛名」の砲撃はヘンダーソン飛行場を一時的に混乱させた。
だが飛行場は復旧した。
米軍は工兵力と資材を投入し、滑走路を直し、航空機を戻した。
日本側は、破壊を戦果として数えた。
米側は、復旧までの時間を短くする能力を持っていた。
ここでも、山本がアメリカで見た「失敗を吸収する余白」が現れた。
敵を一度壊す。
敵は直す。
また壊す。
その間に日本側の艦艇と搭乗員が減る。
山本は、破壊の規模を増やせば敵が耐えられなくなると考えた。
しかしアメリカは、破壊されることを前提に補修、補充、交代の仕組みを作っていた。
日本は、壊されない精鋭を作ろうとした。
アメリカは、壊されても戻る組織を作った。
どちらが美しいかという問題ではない。
総力戦では、後者が強い。
ガダルカナルの敗北は、兵士の勇気が足りなかったからではない。
勇気を食料へ変える仕組みがなかったからである。
ある夜、島の兵士が椰子の根元に座り、空の飯盒を開いた。
何も入っていない。
遠くで艦砲射撃の光が見えた。
海軍の大砲は、敵飛行場へ届く。
だが彼の口へ入る米は届かない。
国家の戦略は、その空の飯盒の前で評価されなければならない。

第十四章 ガダルカナルの飢え

ガダルカナル島の雨は、兵士の身体から体温を奪った。
食料は届かず、薬も足りない。マラリア、赤痢、栄養失調。戦闘で死ぬ者だけでなく、立てなくなり、置き去りにされる者が増えた。
日本軍は勇敢だった。
勇敢であることと、作戦が正しいことは別である。
現場の勇気は、上層部の誤りを一時的に隠す。
命令が無理でも、兵士は工夫し、耐え、時には奇跡的な成果を上げる。すると上層部は、「やればできる」と誤解する。
ガダルカナルでは、海軍も大きな損害を払った。
第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦。日本側は米空母へ損害を与え、夜戦で戦果を挙げた。だが、艦艇、航空機、搭乗員を失い、補充力の差は開いていった。
アメリカは損傷艦を修理し、新造艦を送り、搭乗員を循環させた。
日本は、一人の熟練者へ多くを依存した。
前線では、「アメリカは週に一隻、空母を造ってくる」とさえ囁かれた。
もちろん、暦どおりに毎週一隻の正規空母が進水したわけではない。だが、兵たちの目にはそう見えた。正規空母、軽空母、護衛空母、航空機、輸送船が、途切れず海へ送り出される。日本が一隻を失うあいだに、敵は損傷艦を直し、新しい艦と搭乗員を加えて戻ってきた。誇張の中に、埋めようのない構造差があった。
山本は、その差を開戦前から知っていた。
知っていたのに、なぜ撤退を早く決断できなかったのか。
連合艦隊司令長官に、陸海軍全体の戦争方針を単独で決める権限はない。ガダルカナル撤退には、大本営陸軍部、海軍部、現地軍の調整が必要だった。戦線をどこへ縮小するかは、政治的・軍事的な大決断である。
それでも、山本の作戦思想は攻勢を求めた。
守勢へ移れば、アメリカの物量に押し切られる。だから、まだ力があるうちに敵へ打撃を与えなければならない。
この論理は、一見正しい。
だが攻勢に必要な戦力を失えば、守勢へ移る時期をさらに悪くする。
賭博師は、負けを取り戻すために賭け金を増やす。
しかし山本を単なる賭博師と呼ぶだけでは、理解したことにならない。
彼の賭けは、国家の構造的弱さから生まれていた。
長期戦では負ける。
守れば物量差が開く。
攻めれば精鋭を失う。
講和の道は見えない。
どの道を選んでも悪い。
そのとき指揮官は、自分が得意な方法へ逃げる。
山本が得意だったのは、奇襲、集中、決戦、心理的衝撃だった。
海上護衛、持久防御、戦力温存、後退線の構築ではなかった。
指揮官は、危機のときほど、自分の成功体験に似た解答を選ぶ。
山本にとって、すべての難問は、第二の真珠湾を求める形へ変わっていった。
昭和十八年二月、日本軍はガダルカナル島から撤退した。
作戦上は巧妙な撤収だった。
だが戦略上は、攻勢の時代が終わったことを意味した。
日本国内には、その意味は十分に伝えられなかった。
撤退は「転進」と呼ばれた。
言葉を変えても、戦況は変わらない。
だが組織は、現実を変えられないとき、現実の名前を変える。

間章九 参謀長・宇垣纏の沈黙

山本のそばには、参謀長の宇垣纏がいた。
宇垣は日記をつけた。
作戦、会議、人事、天候、心情。指揮官の近くにいた者の記録は、戦後、連合艦隊の内側を知る重要な手掛かりとなった。
参謀長は、長官の命令を部隊が実行できる形へ整える。
同時に、参謀たちの意見をまとめ、長官へ進言する。
理想を言えば、参謀長は最高指揮官の補佐者であり、必要なら反対する役である。
現実には、長官との信頼関係、人事、組織の空気がある。
山本の真珠湾構想に、連合艦隊司令部の全員が最初から賛成していたわけではない。
軍令部も反対した。
それでも山本が強く決意すると、司令部は実現へ動いた。
有能な参謀ほど、決まった方針を成功させる能力が高い。
だから危険なことがある。
方針そのものが誤っていても、実務能力によって計画は精緻になる。
航路、時刻、兵力、補給、命令文。細部が整うほど、作戦は正しいように見える。
「実行可能」と「戦略的に正しい」は違う。
真珠湾攻撃は、驚くほど実行可能な計画へ仕上げられた。
しかし、成功後に戦争を終える計画は曖昧なままだった。
宇垣たちは、長官の意図を読み、部隊を動かした。
長官へ異論を言う場面もあった。
だが堀悌吉のように、山本の前提そのものを外から問い直す立場ではなかった。
組織の内部にいる反対者には限界がある。
毎日顔を合わせ、同じ情報を読み、同じ責任を負ううちに、問題の見え方も似てくる。
外部の批判は無責任に見える。
内部の批判は、仲間を裏切るように感じられる。
山本は孤独だった。
だが、権力者の孤独には二種類ある。
誰も理解してくれない孤独。
誰も本当のことを言わなくなった孤独。
後者は、自分で作ることがある。
真珠湾成功後、山本の名声は高まった。
長官の直感が正しかったという記憶が、反論の敷居を上げた。
参謀が「危険です」と言っても、長官は「真珠湾も危険だった」と返せる。
成功体験は、次の警告を無効にする。
ミッドウェー作戦が複雑化しても、誰かが全体を止められなかった。
個々の問題は指摘され、調整された。
だが「この作戦そのものをやめる」という結論にはならない。
宇垣の日記に残る迷いや感情からは、参謀長もまた全能ではなかったことが分かる。
彼は組織の一部であり、山本の影であり、同時に一人の軍人だった。
山本戦死の日、宇垣は別の一式陸攻に搭乗し、撃墜されながら生還した。
長官を失い、自分は生き残った。
その偶然は、彼に重い影を残した。
終戦の日、宇垣は部下を率いて特攻出撃し、帰らなかった。
正式な命令系統を外れた出撃であり、若い搭乗員を巻き込んだことへの批判も強い。
山本の死と宇垣の最期は、昭和海軍の精神構造を映している。
責任を制度的に処理できないとき、個人は死によって責任を引き受けようとする。
だが、指揮官が死んでも、失敗の原因は消えない。
死は反省の代わりにはならない。
組織が必要とするのは、立派な死ではない。
次の失敗を減らす、生きた検証である。

第十五章 い号作戦――最後の大勝利という幻

昭和十八年春。
南東方面の戦局を立て直すため、山本は「い号作戦」を指揮した。
空母航空隊の機体と搭乗員をラバウル方面へ進出させ、陸上基地航空部隊と合わせて、ソロモン諸島およびニューギニア方面の連合軍航空基地、艦船を攻撃する。
狙いは、敵の航空戦力と輸送を叩き、反攻を遅らせることだった。
投入された航空兵力は大きく、日本側は相当な戦果を報告した。
しかし、報告戦果は実際より過大だった。
戦場では、複数の搭乗員が同じ敵艦への命中を別々に報告する。煙を噴いた艦を撃沈と判断する。攻撃中の混乱で確認が難しい。意図的な虚偽だけでなく、戦果確認制度そのものが誇大化を生む。
司令部の地図には、沈めたはずの敵艦が増えていった。
実際の連合軍戦力は、報告ほど損なわれていなかった。
ここでも、情報の問題が現れる。
指揮官が欲しい情報ほど、部下は届けやすい。
「敵へ大打撃を与えた」という報告は、作戦継続を正当化する。「損害の割に成果が少ない」という報告は、努力を否定するように受け取られる。
山本が虚偽を命じたわけではない。
だが、攻勢による戦局転換を求める組織では、楽観的な数字が上へ上がりやすい。
い号作戦は、日本航空戦力にも損害を与えた。
空母搭乗員を陸上基地から運用することは、艦隊航空戦力の再建を遅らせた。熟練者は、また減った。
作戦後、山本は前線視察を決めた。
ラバウルからブイン、バラレなどの基地を巡り、将兵を激励する。
危険はあった。
しかし、山本は時間に厳格で、視察予定は詳細に電報で伝えられた。
その暗号電報を、米側が傍受・解読した。
米軍首脳は、山本を狙う作戦を承認した。
長距離飛行が可能なP38戦闘機が選ばれ、航法計画が組まれた。情報源が暗号解読であることを日本側に悟られない配慮も必要だった。
四月十八日朝。
山本は一式陸上攻撃機に乗り込んだ。
同行者は、時間変更を進言したともいう。
だが山本は予定を守った。
規律を示すためだったのか。
部下との約束を破りたくなかったのか。
自分だけが危険を避けることを嫌ったのか。
それとも、彼のなかに、死への傾きがあったのか。
最後の問いに、史料は答えない。
戦況への責任から死に場所を求めたという解釈は、小説としては強い。だが、それを事実として断言することはできない。
山本は死を望んでいたのではなく、危険を受け入れた。
この二つは似ているが、同じではない。

間章十 手紙の中の父

山本は、筆まめだった。
家族、友人、部下、親しい女性へ、多くの手紙を書いた。
最高指揮官の書簡というと、国家や戦略を論じる重い文章を想像する。
実際には、健康を気遣い、子どもの勉強を尋ね、菓子や日用品の話をし、冗談を交えたものもある。
戦争の指揮官にも、日常がある。
朝、顔を洗う。
食事をし、書類を読み、眠れない夜に煙草へ手を伸ばす。
家族の写真を見て、遠くにいる子どもの成長を想像する。
その日常と、何百機を出撃させる命令が、同じ一日に存在する。
山本は部下思いだったと語られる。
若い者へ親しく声をかけ、食事を共にし、手紙へ返事を書く。身分差の大きい海軍組織のなかで、長官の気遣いは強い印象を残した。
だが「部下を愛した名将」という評価にも、考えなければならない点がある。
個々の部下へ優しくすることと、部下を生かす戦略を作ることは同じではない。
出撃前の搭乗員へ温かい言葉をかけても、作戦目的が曖昧なら、その死は救われない。
組織の長に求められる愛情は、親切だけではない。
無理な任務を拒み、損失を正確に数え、撤退を決め、交代要員を育てることも、部下を守る行為である。
山本は、部下の死を平気で見ていたわけではない。
損害報告を受けるたび、責任を感じたはずだ。
それでも次の作戦を命じた。
指揮官は、感情を抑えなければならない。
一人の死に立ち止まれば、全体を動かせない。
しかし、感情を抑える技術は、判断の誤りを耐えられるものにしてしまう。
「この犠牲を無駄にしないため、次は勝たなければならない」
この言葉は美しい。
同時に、追加の犠牲を生む論理になる。
過去の死者は、次の作戦に賛成も反対もできない。
生きている指揮官が、死者の意味を決める。
山本が家族へ手紙を書くとき、彼は父であり、夫であり、一人の男だった。
作戦命令へ署名するとき、彼は連合艦隊司令長官だった。
どちらが本当の山本か。
両方である。
人間らしさは、免罪符ではない。
優しい人も、破滅的な命令を出す。
家族を愛する人も、他人の家族を戦場へ送る。
戦争の恐ろしさは、怪物だけが起こすのではないところにある。
菓子を好み、子どもへ手紙を書き、友を大切にする人間が、合理的な理由を積み上げて起こす。
だから山本を人間らしく描くことは、彼を美化することではない。
私たちと同じ人間が、どこで道を誤るのかを、逃げずに見ることである。

第十六章 海軍甲事件

ラバウルを発った山本の搭乗機は、護衛の零戦とともにブーゲンビル島方面へ向かった。
午前九時三十分すぎ、米陸軍航空軍のP38戦闘機隊が接近した。
迎撃作戦は、のちに「ヴェンジェンス作戦」と呼ばれる。
空戦は短かった。
山本の乗る一式陸攻は被弾し、ジャングルへ墜落した。もう一機も海上へ不時着した。
山本五十六は戦死した。
五十九歳だった。
日本側は当初、死を公表しなかった。
連合艦隊司令長官の戦死は、軍の士気と国民へ与える衝撃が大きすぎた。
捜索隊が墜落現場へ入り、遺体を収容した。
遺体の損傷は比較的少なく、軍刀を握っていた――当時の史料には、そう記すものがある。やがて「座席に腰掛け、白い手袋の手で軍刀を握り、眠るように目を閉じていた」という、完成された武人の最期が広く語られるようになった。
だが、発見時の姿勢、検案時刻、銃創などをめぐっては異なる証言や議論も残る。密林の死者へ、戦時の象徴化と後世の回想が、少しずつ重ねられたのである。
ジャングルの墜落現場は、英雄の最期にふさわしく整えられてはいなかった。
折れた木、焼けた機体、油の臭い、湿気、虫。
死は、国家が後から与える物語を待たず、ただそこにあった。
山本の遺骨は日本へ送られた。
戦死後、元帥の称号が追贈された。生前の彼を厳密に呼ぶなら、連合艦隊司令長官・海軍大将である。「山本五十六元帥」が一般的な呼称として定着しているが、物語の時点に応じて階級を使い分ける必要がある。
六月、国葬が行われた。
国民は、山本を「惜しい人物」として悼んだ。
戦争に反対しながら、命令を受ければ勇敢に戦った名将。部下を愛し、先頭に立ち、南海に散った軍神。
その物語は、戦時下の日本に必要だった。
敗勢を隠し、国民を結束させるため、英雄の死は美しく語られた。
だが、美しい物語は責任を曖昧にする。
山本が生きていれば、戦争を変えられたのか。
早期講和を進めたのか。
マリアナでの決戦をより巧みに指揮したのか。
特攻を止めたのか。
すべて仮定である。
彼は開戦前、長期戦の敗北を見抜いた。
それでも、戦争を止められなかった。
開戦後、真珠湾を成功させた。
それでも、戦争を終わらせられなかった。
ミッドウェーで主力空母を失った。
それでも、攻勢思想から抜け出せなかった。
死は、その矛盾を解決しない。
死者を英雄にすることで、生者が問いから逃げることを許すだけである。

間章十一 敵が見た山本

アメリカにとって、山本五十六は真珠湾攻撃の設計者だった。
日本では、対米戦争に反対した知米派として語られる。
アメリカ側の記憶では、日曜日の朝に艦隊を襲った敵将である。
同じ人物が、国によってまったく違う顔を持つ。
米軍が山本の視察予定を知ったとき、最高指揮官を狙うことへの議論があった。戦場で敵司令官を攻撃することは軍事行動の範囲に入る。しかし暗号解読能力を悟られれば、情報上の優位を失う。
作戦の承認には、軍事的価値と情報保全の両方が考慮された。
山本を失えば、日本海軍の指揮へ打撃を与えられる。真珠湾への報復という心理的意味もあった。
P38の搭乗員たちは、政治家の演説を実行するためではなく、綿密な航法計画に従って飛んだ。
海面すれすれを長距離飛行し、予定時刻に山本機の航路へ達する。
そこには、真珠湾攻撃と似たものがある。
情報、奇襲、時間、航続距離、秘匿。
山本がアメリカへ用いた方法を、アメリカが山本へ返した。
違いは、戦略的位置だった。
昭和十八年春、アメリカはすでに反攻能力を増し、日本は守勢へ追い込まれていた。
山本の死が、日本海軍をただちに崩壊させたわけではない。
後任には古賀峯一が就き、連合艦隊は戦い続けた。国家の戦争遂行は、一人の天才だけで動いていたわけではない。
それでも、象徴の喪失は大きかった。
山本は、真珠湾の成功、海軍の威信、開戦前の警告を一身に背負っていた。
アメリカ側には、彼を有能な敵として評価する見方がある。
同時に、ミッドウェーの複雑な作戦や、戦争全体の見通しを批判する見方もある。
敵国の評価だから客観的とは限らない。
敵将を過大評価すれば、自国の勝利を大きく見せられる。
過小評価すれば、相手の失敗を嘲笑できる。
山本を評価するには、日本の英雄伝説とアメリカの報復物語の両方から距離を取る必要がある。
彼は「平和を愛したアメリカ通」だけではない。
アメリカ海軍を奇襲し、多数の死者を出した作戦の最高責任者である。
彼は「卑劣なだまし討ちの首謀者」だけでもない。
外交通告の遅延を直接指揮したわけではなく、軍事的には南方作戦を守るための先制攻撃を構想した。
歴史人物を理解することは、好きになることでも、許すことでもない。
その人が見た世界を再現し、どこで判断を誤ったかを確かめることである。
山本は、アメリカの力を恐れた。
アメリカは、山本の能力を恐れた。
互いの恐怖が、互いの奇襲を生んだ。
だが、国力の差は対称ではなかった。
アメリカは山本を失わせても戦争を続けられた。
日本は山本を失った後、同じ規模の指揮経験と象徴性を持つ人物を容易には代えられなかった。
人材の代替可能性も、国力の一部である。
山本がテキサスと工場で見たものは、兵器の数だけではなかった。
人と組織を補充できる厚みだった。
最後に彼を撃ち落としたのは、P38の機銃だった。
しかし、その機銃を正しい時刻と場所へ導いたのは、暗号解読、長距離航法、燃料計算、指揮決定、訓練という制度の力だった。
山本は、アメリカという大地そのものを敵に回す危険を知っていた。
ブーゲンビルの上空で、彼はその制度の一撃を受けた。

補章 山本に、戦争を止める権限はあったか

歴史上の人物を裁くとき、私たちはしばしば、その人物が実際には持っていなかった権力まで与えてしまう。
山本五十六が対米戦争に反対していたのなら、なぜ止めなかったのか。
連合艦隊司令長官だったのだから、「この戦争はできない」と言えばよかったのではないか。
辞表を叩きつけ、艦隊を動かさなければよかったのではないか。
後世から見れば、問いは簡単である。
だが、当時の国家機構は、一人の英雄が号令をかければ止まるようにはできていなかった。
日本の戦争指導は、内閣、陸軍、海軍、参謀本部、軍令部、外務省、そして天皇の名の下に動く統帥機構が、互いに権限を分け合いながら、責任の所在だけは曖昧にする構造を持っていた。
海軍の中だけを見ても、軍政を担う海軍省と、作戦を担う軍令部は別である。連合艦隊司令長官は、与えられた戦略方針のもとで艦隊を指揮する最高の実戦指揮官ではあったが、外交交渉や国家の開戦決定を単独で覆す権限を持っていたわけではない。
山本が海軍次官として三国同盟に反対した時期、彼は政治と軍政の中心に近かった。
だが昭和十四年、連合艦隊司令長官へ転じると、海軍省の政策決定の場からは離れた。これは、暗殺の危険から彼を遠ざける意味があったとも、同盟反対派の山本を中央から外す意味があったともいわれる。
pいずれにせよ、艦隊へ出た山本に残されたのは、国策そのものを決める権力ではなく、国策が破綻したときに海上で何をするかを考える役割だった。
ここまでなら、山本を弁護することはできる。
彼は開戦を決めていない。
石油禁輸を招いた外交を決めていない。
中国大陸から撤兵しない方針を決めていない。
南部仏印進駐を単独で決めていない。
陸海軍の対立した国策を統合する権限もない。
しかし、弁護はそこで終わらない。
権限がなかったことと、責任がなかったことは同じではない。
山本は、戦争を止める最終決定権を持たなかった。
その一方で、戦争を始める側に「最初の勝利」を約束できる、ほとんど唯一の人物だった。
対米戦は長期になれば勝てない。
海軍首脳の多くは、その程度の国力差を理解していた。にもかかわらず、御前会議や大本営政府連絡会議では、「絶対に遂行不能である」という結論に至らなかった。
なぜなら、軍事組織は長年、対米戦を想定して予算を求め、艦艇を造り、兵を訓練してきたからである。
いざ政治から「戦えるのか」と問われたとき、「戦えません」とだけ答えることは、組織の存在理由を自ら否定するに等しかった。
山本は、この矛盾の外にいたのではない。
矛盾の中心にいた。
彼は、通常の漸減邀撃作戦では勝算が薄いと考えた。
そこで、真珠湾という別の解答を提出した。
その解答は、軍令部が当初難色を示すほど危険だったが、同時に、政治指導者へ一つの幻想を与えた。
開戦しても、最初に大打撃を与えれば何とかなるかもしれない。
南方資源地帯を確保し、防御圏を築き、米国の戦意が鈍れば、講和の機会が来るかもしれない。
「かもしれない」は、平時なら計画にならない。
しかし追い詰められた国家では、希望が計画の服を着る。
山本は、真珠湾作戦の採用に強い決意を示した。自分の案が受け入れられなければ職を辞する意向まで示したとされる。
それは、命令に従っただけの受動的な軍人の姿ではない。
彼は、自らの職責と権威を賭け、作戦を通した。
ここに、山本の責任の核心がある。
彼は開戦を決めなかった。
だが、開戦を軍事的に可能に見せる作戦を作った。
彼は長期戦に勝てないと警告した。
だが、短期の大勝利が長期戦を避けさせるという仮説を提示した。
彼は政治家に戦争回避を求めた。
だが政治が失敗したとき、拒否ではなく、最も鮮烈な攻撃案を差し出した。
もし山本が辞職していたら、戦争は止まっただろうか。
おそらく、そう簡単ではない。
別の司令長官が任命され、別の作戦で開戦した可能性は高い。南方作戦はすでに国家方針の中で進み、陸海軍は戦争準備へ傾いていた。
それでも、山本の辞職は無意味ではなかったはずだ。
海軍で最も米国を知る高級将校が、「勝算がないため指揮できない」と公然と退けば、少なくとも政治的衝撃は生じた。
戦争を止められなかったとしても、後世に残る責任の形は変わった。
ただし、それを当時の山本へ簡単に要求するのも酷である。
職業軍人は、国家の決定に従うことを倫理とする。
命令が気に入らないたびに司令官が辞職すれば、軍隊は成り立たない。
しかも山本には、自分が退けば、米国の実力を知らない強硬派が艦隊を率いるという恐れもあっただろう。
「自分なら、まだ被害を小さくできる」
「自分なら、短期で講和へ持ち込める」
「自分が残らなければ、もっと悪くなる」
有能な人間が破綻した組織に残るとき、しばしばこの理屈を使う。
それは責任感であり、同時に自己過信でもある。
自分がいなければ悪くなると思う者は、組織を去れない。
去れない者は、やがて組織の決定を実行する。
実行するために、成功の可能性を探す。
成功の可能性を探すうちに、最初に反対していた目的へ、自分の才能を貸してしまう。
山本五十六の悲劇は、命令に逆らえなかったことだけではない。
自分の才能なら、敗北必至の条件の中にも細い勝ち筋を作れると信じたことにある。
彼は無力ではなかった。
全能でもなかった。
歴史的責任は、この二つの間に置かなければならない。
すべてを山本一人へ押しつければ、国家機構と政治指導者の責任が消える。
山本は一介の軍人にすぎなかったと言えば、真珠湾作戦を押し通した主体性が消える。
彼は戦争を始めた唯一の男ではない。
だが、始まる戦争へ翼を与えた男だった。
間章十二 死後に作られた二人の山本
山本五十六が戦死したあと、日本は彼を元帥にした。
生前の山本は、海軍大将であり、連合艦隊司令長官だった。
「山本元帥」という呼び名は、死後に贈られた称号である。
戦死の知らせは直ちに国民へ公表されなかった。
作戦上の事情、士気への影響、敵に情報を与える危険。時間を置いて発表されたとき、山本はすでに一人の指揮官ではなく、国家が必要とする物語へ変わっていた。
新聞は、沈着な長官、部下を愛した父、米国を知り尽くした智将、最前線に散った武人を描いた。
国葬級の儀礼の中で、人々は頭を垂れた。
敗色はまだ公然とは語られず、山本の死は「壮烈なる戦死」として、国民の悲しみを戦意へ変えるために用いられた。
戦時国家は、死者をそのまま埋葬しない。
意味を与えてから埋葬する。
山本の死には、都合のよい意味が多くあった。
真珠湾の英雄である。
三国同盟へ反対した良識派である。
米国の力を知っていた先覚者である。
しかも最後は前線視察の途上で敵機に撃墜された。
勝利の象徴にも、悲劇の象徴にもできる。
戦後、日本が敗れると、山本像はもう一度作り直された。
今度は、「戦争に反対していたのに、軍人として命令へ従わざるを得なかった悲劇の名将」という物語が前面に出た。
半年か一年は暴れてみせるが、二年三年は確信がない――その言葉は、彼が敗戦をすべて見通していた証言として繰り返された。
この山本像は、敗戦後の日本人にとって魅力的だった。
軍部にも、分かっていた人がいた。
すべての指導者が狂っていたわけではない。
正しい人物は反対したが、時代に押し流された。
その物語を信じれば、敗戦の責任は「一部の強硬派」と「抗えない時代の空気」へ押し込めることができる。
一方、別の時代になると、反対方向の山本像が現れた。
賭博好きの無謀な提督。
真珠湾で米国を怒らせ、ミッドウェーで空母を失い、ガダルカナルで精鋭を消耗させた愚将。
米国を知っていたと言いながら、その米国へ最初の一撃を加えた矛盾した男。
こちらもまた、分かりやすい。
英雄を引きずり下ろし、「実は無能だった」と言えば、歴史の謎が解けたように感じられる。
神話を壊す快感はある。
だが、壊した場所へ別の神話を置いただけかもしれない。
名将か、愚将か。
平和主義者か、戦争犯罪の実行者か。
天才か、賭博師か。
二つに割れば、文章は強くなる。
動画の見出しにもなる。
しかし人間は、その境界で生きている。
山本は、米国の国力を知っていた。
それは事実である。
だが、知識は未来を完全に予言する能力ではない。
山本は、航空兵力の重要性を早くから認めた。
それも事実である。
だが、日本海軍航空を一人で創造し、戦艦派をすべて打ち破ったという英雄譚は行き過ぎである。航空化は多くの技術者、搭乗員、幕僚、予算担当者の積み重ねだった。山本自身の作戦思想にも、戦艦を含む艦隊決戦の影が残っていた。
山本は、部下に人望があった。
手紙をまめに書き、相手の家族へ気を配り、冗談を好んだ。
同時に、強い意志で自案を押し通し、反対者へ辞職をほのめかすほど頑固だった。
温かい人柄と、危険な作戦は両立する。
部下思いの上司が、部下を大量に死なせる判断をすることもある。
私生活の美徳は、戦略判断の正しさを保証しない。
山本にまつわる名言も、人物像を単純にする。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ……」という有名な言葉は、山本の人材育成論として広く流布している。だが、後世に整えられた形や出典をめぐっては慎重さが必要である。
名言は、長い人生を一枚の札へする。
札には覚えやすい言葉が印刷され、その人物の矛盾は切り落とされる。
だが山本五十六の価値は、名言の美しさにない。
彼の失敗を含めて考えることにある。
先見性があっても、国家戦略を誤る。
敵を知っていても、敵の感情を読み違える。
部下に好かれていても、組織学習を徹底できない。
戦争に反対していても、最も有効な開戦作戦を作る。
この矛盾を消してしまえば、山本は安全な偉人になる。
あるいは、安全な悪役になる。
本当に危険なのは、山本が特別な怪物ではなかったことである。
組織への忠誠と、自分の良心の間で妥協する。
反対しながら、決まった後は成功へ全力を尽くす。
自分が辞めればもっと悪くなると思う。
過去の成功を、別の状況へ適用する。
失敗した部下を守りながら、失敗の構造を残す。
これらは、現代の有能な管理職にも起こり得る。
山本を神にすれば、私たちは彼から学べない。
山本を愚将と笑っても、同じである。
必要なのは、彼を壇上から降ろし、一人の職業人として会議室へ戻すことだ。
そこで彼が何を知り、何を恐れ、何を言えず、どこで自分の能力を過信したのかを見る。
死後に作られた二人の山本――悲劇の名将と無謀な愚将――の間に、生身の男がいる。
その男は、左手の二本の指を失い、米国の油田を見て、三国同盟へ反対し、真珠湾を構想し、ミッドウェーで敗れ、最後は自分の行程を読んだ敵に待ち伏せされた。
英雄と愚将は、別々の人間ではない。
同じ一人の中にいた。

終章 天才が愚将になる瞬間

山本五十六は愚将だったのか。
私は、前稿では能力を四つに分け、技術を見る力、作戦を作る力、戦争を終える力、組織を学習させる力として評した。
それは正しい。
しかし小説の答えとしては、整いすぎている。
人間は、採点表の合計点で歴史を作らない。
性格の癖が、ある一瞬に国家の条件と噛み合い、取り返しのつかない決定になる。
山本の癖は、二つあった。
一つは、退路を心の中にだけ残すことである。
家庭を持ちながら千代子を愛した。
戦争に反対しながら、戦争が始まれば自分が暴れる余地を残した。
国家への奉公を語りながら、すべてを捨てて二人で逃げたいと手紙に書いた。
海軍を辞めたらモナコで賭博師になる、という類いの逸話が似合った。
現実では一つを選び、もう一つを捨てなければならない場面で、彼は両方を胸に抱えた。
もう一つは、全体の問題を、一局の勝負へ変えることである。
国力差は、外交と経済と時間の問題だった。
山本は、それを開戦初日の奇襲へ変えた。
アメリカとの戦争をどう終えるかという問題を、米艦隊を何隻沈めるかという問題へ変えた。
海軍の古い人事制度を変える代わりに、南雲を長官に置き、源田の能力で補おうとした。
国家の戦争指導を立て直す代わりに、ミッドウェーで敵空母を誘い出し、一度の決戦で取り返そうとした。
山本は、問題を解く力があった。
だから、解いてはいけない問いまで解こうとした。
近衛との会談へ戻ろう。
あの場で山本が、
「海軍は近海でしか戦えません」
と言っていたら、日本は全面降伏を避けられたか。
断言はできない。
邀撃漸減作戦は、米艦隊が日本の期待通り西進することを前提とした古い構想であり、米国の潜水艦戦、航空基地建設、圧倒的な造船力に対する答えではなかった。
南方資源地帯を奪うなら、フィリピンと米海軍を無視できず、戦争そのものを避けるには中国政策と南進政策を変える必要があった。
ただし、歴史は「勝てたか」だけで考えるべきではない。
真珠湾を攻撃しない。
主力空母と熟練搭乗員を温存する。
海軍が長期遠洋戦をできないと政府へ明言する。
その結果、開戦が数か月でも一年でも遅れる。
近衛内閣が倒れ、別の政治危機が起きる。
ドイツの対ソ戦の行方が見え、米国との交渉条件が変わる。
そのどこかで、日本が戦争目的を縮小する可能性はあった。
「全面降伏を必ず防げた」とは言えない。
「全面降伏しか道がなかった」とも言えない。
山本の責任は、勝てない戦争に負けたことだけではない。
政治が軍事へ答えを丸投げしたとき、軍事には答えがない、と言い切らなかったことである。
彼は、戦争を止める権限を持たなかった。
しかし、戦争を始める幻想を壊す言葉を持っていた。
その言葉を使わず、代わりに真珠湾という作戦を与えた。
この点において、山本は悲劇の被害者ではない。
明確な当事者である。
では愚将か。
ただの愚将ではない。
南雲忠一を、航空の素人だからという理由だけで無能とするのは簡単である。
実際には、南雲は海軍の序列と組織の都合で置かれた。彼が慎重だったのは、臆病だからだけではない。理解しきれない新兵器の艦隊を預けられ、山本の大胆な構想と源田の航空論の間で、最後の責任だけを負わされたからである。
源田実を天才と呼ぶのも簡単である。
彼は確かに優秀だった。真珠湾攻撃を実行可能な形へ整えた。しかし、優秀な参謀が指揮官の前提を補強するとき、組織は間違った方向へも高速で進む。
山本は、その二人を組み合わせた。
古い海軍の南雲を表に置き、新しい航空の源田を内側で動かす。
それは山本らしい人事であった。
異なるものを切らず、同じ器へ入れる。
家庭と恋人を切らなかったように。
反戦と開戦準備を切らなかったように。
真珠湾では、その曖昧さが奇跡的に機能した。
ミッドウェーでは、責任と判断の境界を曖昧にした。
山本は天才だった。
しかし天才とは、未来を正確に当てる人ではない。
常人が思いつかない方法で、現実を動かせる人である。
そして愚将とは、知識がない人ではない。
自分の得意な方法で、得意ではない問題まで解こうとする指揮官である。
山本五十六は、天才が愚将へ変わる瞬間を、歴史の上に残した。
その瞬間は真珠湾ではない。
ミッドウェーでもない。
荻外荘で、近衛文麿の問いに対し、
「半年は暴れてみせる」
と答えた瞬間である。
あの言葉には、正しい警告と、危険な自負が同居していた。
近衛は警告を捨て、自負だけを持ち帰った。
山本は自負を作戦へ変え、警告の証明を自分の死まで続けた。
ブーゲンビルの森に落ちた一式陸攻の残骸から、山本の遺体が運び出された。
後世は、軍刀を握り、静かに座っていたという完成された最期を好んだ。
実際の検死や発見状況には異なる記録と議論がある。
英雄は死後、乱れた姿を許されない。
国家は、彼を元帥にし、国葬にし、敗北へ向かう国民へ整った死を示した。
だが、山本の本当の遺産は、整った死ではない。
矛盾した生である。
アメリカを知りながら、アメリカを怒らせた。
航空の時代を開きながら、決戦思想から抜けられなかった。
部下を愛しながら、その部下を消耗戦へ送った。
戦争を避けたいと願いながら、最も効果的な開戦作戦を作った。
この矛盾を、「軍人だから仕方がなかった」と閉じてはならない。
現代の組織にも、山本はいる。
危険を最もよく知る専門家が、
「止めるのは経営者の仕事だ」
と言いながら、失敗した場合の最良の実行案を作る。
経営者は、
「専門家が案を作ったのだから、実行可能だ」
と理解する。
誰も本心では賛成していない。
だが、優秀な人間が細部を整えたため、計画だけが前へ進む。
そのとき必要なのは、堀悌吉のような反対者だけではない。
自分の職と名誉を捨てても、
「できません」
と言う当事者である。
山本五十六には、その一言を言う知識があった。
勇気も、たぶんあった。
しかし、言わなかった。
それが彼の最大の敗北である。

* 二つの三十年――山本五十六から見える現代日本の病

日本は、敗北によって衰えたのではない。

成功によって、自分を変えられなくなったのである。

明治二十八年、日本は清国に勝った。

明治三十八年、日本はロシア帝国に勝った。

維新から四十年にも満たない島国が、アジアの大国を破り、さらに欧州の列強を退けた。

世界が驚いた。

だが、世界以上に驚いたのは日本人自身だった。

自分たちの制度は正しい。

自分たちの教育は正しい。

自分たちの軍人は優秀である。

少ない資源、少ない兵力、乏しい工業力でも、規律と訓練と精神力によって大国に勝てる。

日清、日露の二つの勝利は、日本へ自信を与えた。

同時に、最も危険な思い込みも与えた。

勝利した組織は、自分を改革しなくなる。

勝った理由を、都合よく説明し始めるからである。

外交によって戦争を限定したこと。

英国との同盟があったこと。

ロシアが革命と国内混乱を抱えていたこと。

日本の財政が限界に達し、これ以上戦争を続けられなかったこと。

海軍力だけでなく、外国からの借款、情報、外交交渉によって辛うじて講和へ持ち込んだこと。

そうした複雑な条件は、次第に忘れられた。

後に残ったのは、日本軍は強いという結論だった。

日本人の精神力は、物量を上回る。

優秀な兵がいれば、資源の不足は補える。

初戦で大打撃を与えれば、敵は講和を申し出る。

日本海海戦の勝利は、海軍の歴史ではなく、海軍の宗教になった。

東郷平八郎は、研究すべき一人の指揮官ではなく、再現すべき神話になった。

組織が成功を神話に変えた瞬間、学習は終わる。



戦後の日本にも、同じ成功が訪れた。

焼け野原から工場を建てた。

船をつくった。

鉄をつくった。

自動車をつくった。

テレビ、冷蔵庫、洗濯機をつくった。

昨日まで敵国だったアメリカへ製品を輸出し、日本製品は安物だという評価を、世界最高品質という評価へ変えた。

日本企業は強かった。

現場は優秀だった。

労働者は勤勉だった。

技術者は細部を磨き、営業は市場を広げ、会社員は長時間働いた。

高度経済成長は、日本人へ再び自信を与えた。

同時に、再び最も危険な思い込みも与えた。

日本的経営は正しい。

年功序列は正しい。

終身雇用は正しい。

現場改善を積み重ねれば、どんな外国企業にも負けない。

品質を上げ、価格を下げ、生産量を増やせば、市場は永遠に広がる。

だが、戦後日本の成功にも、外部条件があった。

欧米という追いつくべき目標が見えていた。

外国から導入すべき技術があった。

人口は増えた。

国内需要も拡大した。

冷戦下で日本は西側経済の工場になった。

何より世界の産業は、物を大量に正確につくる国を必要としていた。

日本企業は、その時代の要求に完璧に適合した。

だが、適合したことと、普遍的に優れていることは同じではない。

日露戦争に勝った軍隊が、あらゆる戦争に勝てる軍隊ではなかったように、高度経済成長を実現した企業制度が、あらゆる時代に通用する制度であるはずはなかった。



日露戦争終結からミッドウェー海戦まで、およそ四十年弱。

高度経済成長の終わりから、失われた三十年まで、およそ四十年弱。

長さは完全には一致しない。

だが、その過程は驚くほど似ている。

最初の十年、成功した者たちは自信を深める。

次の十年、制度は硬直する。

さらに十年が過ぎる頃には、環境の変化よりも過去の成功体験を守ることが優先される。

そして最後に、大きな敗北や長期停滞という形で現実が請求書を突きつける。

そこで組織は、自分を変える代わりに、説明を変える。

帝国海軍は、航空機の時代が来ていることを知りながら、なお艦隊決戦思想を捨てきれなかった。

その象徴が山本五十六である。

山本はアメリカの国力を知っていた。

航空機の重要性も理解していた。

真珠湾攻撃を構想したのも、短期決戦以外に勝機がないと考えたからだった。

しかし彼もまた、組織そのものを変えることはできなかった。

巨大戦艦を中心とする発想。

一撃で戦局を決めるという発想。

精神力によって不利を覆せるという発想。

それらは海軍全体に深く染み込んでいた。

山本は時代を見ていたが、時代を変えるだけの権限も組織力も持たなかった。

これは現代日本にもよく似ている。

問題が見えている人はいる。

人口減少も知っている。

デジタル化の遅れも知っている。

生産性の低さも知っている。

だが、知っていることと変えられることは別である。

企業でも官僚機構でも政治でも、未来を理解する人間が必ずしも意思決定の中心にいるわけではない。

むしろ過去の成功によって評価された人ほど、大きな権限を持つ。

その結果、説明だけが増える。

売れないのは宣伝が足りないからだ。

若者が挑戦しないからだ。

景気が悪いからだ。

海外情勢が悪いからだ。

説明を変えることで制度を守る。

失敗の原因を外へ置くことで、自分たちの前提を疑わない。

これは戦前の海軍も、現代日本も変わらない病理である。



日清・日露の勝利の後、日本は海外へ権益を広げた。

高度経済成長の後、日本企業も海外へ工場を移し、市場を広げた。

もちろん、軍事侵略と企業の海外進出は同じものではない。

だが、組織心理には共通するものがある。

内部の仕組みを変えず、活動範囲を外側へ広げることで成長を続けようとする心理である。

国内で成長できないなら、外へ出ればよい。

既存事業の収益性が落ちたなら、規模を拡大すればよい。

改革ではなく、膨張によって問題を解決しようとする。

膨張している間、組織の内部矛盾は見えにくくなる。

売上は増える。

支配地域は広がる。

部下の数も増える。

肩書も増える。

経営者も軍人も、自分たちが前進していると思う。

しかし、広がった組織を維持するには、以前より多くの資源が必要になる。

輸送路を守らなければならない。

海外拠点を維持しなければならない。

増えた部門を調整しなければならない。

やがて、成長のために始めた膨張が、組織を食べ始める。



昭和十七年六月、ミッドウェー海戦で帝国海軍は主力空母四隻を失った。

赤城、加賀、蒼龍、飛龍。

真珠湾攻撃を成功させた中核戦力だった。

この敗北は、単なる戦術上の失敗ではない。

長年積み重ねた組織の思い込みが、一気に破裂した瞬間だった。

日本海軍は、自らを世界最高水準の海軍だと信じていた。

実際、その実力は高かった。

搭乗員の技量も優れていた。

だが、その優秀さゆえに、自分たちの前提を疑わなくなった。

敵もまた学習する。

技術も変化する。

戦争の形そのものが変わる。

その当たり前の事実を軽視した。

これも、日本企業の失われた三十年と似ている。

人件費を下げる。

非正規雇用を増やす。

研究開発費を削る。

海外生産へ移す。

子会社を統合する。

中高年を早期退職させる。

一つ一つの判断には、合理的な説明があった。

四半期の数字は改善した。

経営者は改革を実行したと胸を張った。

しかし、改善を積み重ねた結果、会社から新しい事業を生み出す余力が消えた。

人材を育てる時間が消えた。

失敗を許す余白が消えた。

若い者が会社へ人生を預ける理由も消えた。

局所的には合理的な判断が、全体として組織を弱くした。

ミッドウェーでも同じだった。

現場はそれぞれ合理的に動いていた。

帰還機を収容する。

兵装を変更する。

護衛体制を整える。

攻撃隊を再編成する。

どの判断も単独では理解できる。

しかし全体を統括する視点が失われた結果、決定的な機会を逃した。

組織はしばしば、部分最適によって全体を破壊する。



日清・日露の勝利は、日本を滅ぼしたのではない。

高度経済成長も、日本経済を停滞させたのではない。

成功を相対化できなかったことが、次の失敗を生んだ。

勝利を、特定の条件下で得られた一度の結果として考えず、自分たちの制度が普遍的に正しい証拠として理解した。

そのとき、成功は資産ではなくなる。

組織を過去へ縛る負債になる。

日本は二度、同じ失敗をした。

一度目は、日清・日露の勝利を抱いたまま、航空機と総力戦の時代へ入った。

そしてミッドウェーで、その代償を支払った。

二度目は、高度経済成長の成功を抱いたまま、デジタルとソフトウェアの時代へ入った。

どちらの時代にも、変化を予見した人間はいた。

山本五十六は、アメリカの工業力を知っていた。

山口多聞は、空母戦に即断が必要であることを知っていた。

企業の中にも、インターネット、半導体、ソフトウェア、電子商取引の未来を見た者はいた。

だが、未来を知る者は、未来を決める椅子に座っていなかった。

椅子に座っていたのは、過去の勝利によって選ばれた者だった。

ここに現代日本の病巣がある。

問題を知らないのではない。

変化が見えないのでもない。

見えていても、それを実行できる仕組みがないのである。

敗北とは、成功できなかったことではない。

過去の成功を、未来の正解だと思い続けることである。

帝国海軍はミッドウェーで空母を失う前に、すでに思考の柔軟性を失っていた。

日本企業も業績が停滞する前に、変化への適応力を失っていた。

日本は戦争に負ける前に、日露戦争の勝利に負けていた。

そして失われた三十年が始まる前に、日本企業は高度経済成長の成功に負けていたのである。

山本五十六から見えてくるのは、一人の名将の悲劇ではない。

変化を理解していても、成功体験に支配された組織を変えられないという、日本社会に繰り返し現れる構造そのものなのである。

* 

海図を失った会社――失われた三十年の司令長官たち


日本企業の社長は、就任すると決まって似た言葉を口にする。

改革。

改善。

挑戦。

変革。

イノベーション。

言葉だけを並べれば、昨日までの会社を壊し、まだ誰も見たことのない市場へ船を出す覚悟があるように聞こえる。

だが、社長室へ本当に新しい案を持ち込んでみれば分かる。

その新しさが、社長自身の経験則から大きく外れていた瞬間、顔色が変わる。

「それは、本当に事業になるのかね」

「他社で成功した例はあるのか」

「既存事業との相乗効果は」

「失敗した場合、誰が責任を取るのか」

改革せよと言った本人が、改革案へ最初の砲弾を撃つ。

社長が欲しいのは、自分の知らない未来ではない。

自分の過去が、少し形を変えて続いていく未来である。

経営者は若手へ、前例にとらわれるなと言う。

しかし、本当に前例を無視する若手を、危険人物として人事部へ報告する。

失敗を恐れるなと言う。

しかし、失敗した者の評価表には、回復不能な傷をつける。

個性を出せと言う。

しかし、役員候補を選ぶ段階になると、強い個性を持つ者から順番に落としていく。

こうして、会社の頂点には三番手が残る。

一番手は目立ちすぎた。

業績があり、人望があり、自分の言葉を持っていた。経営会議で社長へ反論し、部下からは次の社長と呼ばれた。

だから、社長にはなれなかった。

二番手は、自分こそ一番手だと思い込んだ。

根回しをし、味方をつくり、一番手の失敗を待った。その野心は隠しているつもりでも、役員たちには見えていた。

だから、最後には警戒された。

三番手は、誰からも恐れられなかった。

目立つ失敗がなく、目立つ成功もない。異論を唱えず、会議の空気を読み、強い部下の案を自分の言葉に直して上へ提出した。

案が成功すれば自分の功績にした。

その代わり、原案をつくった部下には次の人事で恩を返した。

功績と昇進を交換する、会社内部だけで通用する手形である。

役員たちは三番手を見て安心した。

あの男なら、自分たちの過去を否定しない。

あの男なら、会社を変えると言いながら、会社の権力構造までは変えない。

日本企業が欲しがるのは、改革者ではない。

改革という言葉を使って、現在の秩序を延命できる管理者である。



戦後の日本企業には、別の種類の男たちがいた。

海軍兵学校を出た者。

海軍機関学校で機械と燃料を学んだ者。

陸軍士官学校や陸軍経理学校で、輸送と補給と地理を叩き込まれた者。

もちろん、彼らが戦争に勝ったわけではない。

むしろ彼らが所属した軍隊は、国家を破滅へ導いた。

年次を能力より重んじ、空気を数字より信じ、責任者のいない作戦をつくり、最後には若者へ死を命じた。

だが敗戦後、彼らの一部は軍服を脱ぎ、工場へ入った。

造船所へ行った。

鉄鋼会社へ行った。

自動車会社へ行った。

電機会社へ行った。

昨日まで艦艇、航空機、通信機、エンジンをつくっていた知識が、貨物船、鉄道、自動車、工作機械、家電製品へ流れ込んだ。

彼らには、会社の外が見えていた。

海の向こうに、どれほど大きな工場があるかを知っていた。

石油が止まれば、巨大な組織が数か月で動かなくなることを知っていた。

優秀な技術だけでは戦争にも商売にも勝てず、資源、輸送、金融、外交、情報を一つの地図に置かなければならないことを知っていた。

何より彼らは、日本が負けたことを知っていた。

敗北は、最も高価な経営教育だった。

自分たちの常識が世界では通用しなかった。

精神力で物量を埋められなかった。

優秀な現場が、誤った大方針を救えなかった。

その事実を、彼らは骨身に刻んでいた。

だから戦後の企業人となった彼らは、外国の機械を見た。

外国の工場を見た。

英語の資料を読み、世界との差を測った。

自分たちの工場が国内で一番であることより、世界の市場で生き残れるかを考えた。

その世代が、日本の高度経済成長をすべてつくった、とまでは言えない。

だが彼らの中には、会社を一つの島としてではなく、世界という海に浮かぶ艦として見る目があった。



やがて、彼らは会社を去った。

次に経営者となったのは、戦争を知らない世代だった。

それ自体は、喜ぶべきことだった。

だが同時に、敗北によって世界を学んだ人間もいなくなった。

後に残ったのは、軍隊の大局観ではなかった。

軍隊の人事制度だった。

年次。

序列。

減点主義。

前例踏襲。

異端者への警戒。

責任の分散。

一番手を嫌い、二番手を疑い、無難な三番手を選ぶ仕組み。

日本企業は帝国陸海軍の軍服を脱いだが、その人事だけは脱がなかった。

しかも戦後の成功が、その制度を正しいものに見せた。

昨日と同じ製品を、昨日より安く、速く、正確につくる。

改善を積み重ねる時代には、それで勝てた。

一つの部品を一円安くする。

不良率を〇・一パーセント下げる。

納期を一日縮める。

日本人は改善の天才だった。

だが、世界の産業そのものが変わり始めたとき、改善は足枷になった。

フィルムを改善し続けても、デジタルカメラにはならない。

ガソリンエンジンを改善し続けても、ソフトウェア企業にはならない。

店舗を改善し続けても、巨大な電子商取引市場は生まれない。

既存事業を百点に近づける能力と、既存事業を捨てる能力は、まったく別のものだった。

日本企業の経営者は、改革を叫んだ。

だが、自分の成功体験を否定する改革だけは認めなかった。

それは、昭和十六年の帝国海軍と似ていた。

海軍は航空機の時代が来たと言いながら、空母艦隊の長に航空専門家を置かなかった。

企業はデジタルの時代が来たと言いながら、デジタルを理解する若者へ決裁権を渡さなかった。

海軍は山口多聞の意見を聞きながら、南雲忠一に決めさせた。

企業は若手の提案を聞きながら、成功した旧事業の役員に採否を決めさせた。

海軍は「航空主兵」を唱えながら、年次主義を守った。

企業は「イノベーション」を唱えながら、減点人事を守った。

言葉だけが新しくなった。

組織は変わらなかった。

失われた三十年とは、政治だけが失敗した三十年ではない。

金利だけが低すぎた三十年でもない。

人口が減っただけの三十年でもない。

世界が変わったときに、世界を俯瞰できない人間を、順番に社長へ選び続けた三十年だった。

日本には優秀な技術者がいた。

優秀な若手もいた。

新しい市場を予見した者もいた。

だが、彼らは決裁印を持っていなかった。

決裁印を持った者は、自分の経験から理解できる案だけを承認した。

ミッドウェーと同じである。

知識を持つ者に権限がなく、権限を持つ者に新しい時代の知識がなかった。

そして誰も、自分が敗北を選んだとは思っていなかった。

全員が規程を守った。

全員が会議へ出た。

全員が説明を受けた。

全員が慎重に判断した。

その結果、日本は三十年を失った。

もちろん、失われた三十年の原因をすべて企業経営だけに求めることはできない。

バブル崩壊後の金融政策。

人口構造の変化。

グローバル化による競争激化。

デジタル革命の速度。

複数の要因が重なり合っていた。

それでもなお、組織が変化へ適応する能力の差が、国や企業の命運を分けたことは否定できない。

変化そのものを止めることはできない。

だが、変化を理解し、必要な人材へ権限を渡すことはできる。

問題は、日本企業の多くがその瞬間に最も慎重になり、最も保守的になったことである。

敗北とは、無能な者が間違った命令を出すことだけではない。

優秀な者が大勢いるのに、誰にも正しい決断をさせない人事を、何十年も続けることである。

海図を失った船は、嵐に遭ったから沈むのではない。

どこへ向かうべきかを決められなくなったときに沈む。

そして組織もまた同じである。

未来を知る者を周縁へ追いやり、過去に成功した者だけで舵を握り続けるなら、どれほど優秀な乗組員がいても、新しい海へは辿り着けない。

失われた三十年とは、経済の停滞である前に、方向感覚の喪失だった。

海図を描く者より、海図を守る者を選び続けた結果である。

もし次の三十年を失いたくないのなら、日本企業が変えるべきものは技術だけではない。

人事である。

評価である。

権限の配り方である。

そして何より、自分たちの成功体験を疑う勇気である。

未来は、過去の延長線上にあるとは限らない。

だからこそ、まだ見ぬ海を語る者に、舵を握らせる覚悟が必要なのである。

エピローグ お前の隣に、堀悌吉はいるか
戦後、山本五十六の名は、何度も作り替えられた。
敗戦直後には、軍国日本の象徴として批判された。
やがて、対米戦争に反対した悲劇の名将として復権した。
企業社会では、「やってみせ、言って聞かせて」という人材育成の言葉と結びつき、理想の上司として語られた。
ただし、有名な語録には後世の加筆や異同も多い。
人物の人気が高まるほど、その人が言っていない言葉まで集まってくる。
山本を現代の組織論へ安易に利用するのは危険である。
彼の生涯が教えるのは、優れた上司の心得だけではない。
むしろ、優秀な人物ほど止めにくいという事実である。
実績がある。
決断が速い。
部下に人気がある。
外の世界を知っている。
反対を押し切って成功した経験がある。
そういう人が誤ったとき、組織は最も深く傷つく。
無能な指揮官なら、周囲が警戒する。
天才と呼ばれる指揮官には、周囲が意味を補ってしまう。
「長官には、深いお考えがある」
この一言が、質問を止める。
堀悌吉は、山本の天才性を認めながら、山本を神にしなかった。
友人だからこそ、間違いを言えた。
だが、堀は組織から去った。
残った者たちは、山本の権威と成功を前に、反対する言葉を失っていった。
現代の会社にも、官庁にも、政党にも、同じ迷宮がある。
業績を上げた経営者。
数字に強い部長。
危機を救ったプロジェクト責任者。
彼らの判断が常に正しいとは限らない。
大切なのは、英雄を持たないことではない。
英雄の隣に、英雄を否定できる人間を置くことである。
しかも、その人間を「空気を読まない」「後ろ向き」「覚悟がない」と排除しないことである。
山本五十六は、アメリカとの戦争が長期化すれば勝てないと理解していた。
その理解を持つ彼でさえ、組織と役割と成功体験のなかで、破局へ進んだ。
だから、この物語は過去の軍人だけの話ではない。
会議室で、誰も反対しなくなったとき。
成功した責任者の案だけが通るとき。
不都合な数字が「士気を下げる」と伏せられるとき。
撤退を「転進」と呼び替えたくなったとき。
失敗の原因より、誰を守るかが先に話し合われるとき。
その場には、すでに小さなミッドウェーがある。
列車は走り続ける。
窓の外の景色は速く流れ、自分たちが世界で最も速いと錯覚する。
だが、別の線路では、さらに速い列車が走っているかもしれない。
その事実を口にする者を、組織は臆病者と呼ぶのか。
それとも、隣の席へ座らせるのか。
もし、あの汽車の客車へ戻れるなら、堀は何と言っただろう。
窓の外には、まだ戦争を知らない田園が流れている。山本は三本の指を膝に置き、遠いアメリカの工場を思い浮かべている。
「五十六。お前は、勝てないと分かっている戦争で、勝つ方法を考えるのか」
堀が尋ねる。
「軍人だからな」
「それは答えになっていない」
山本は窓へ目を戻す。
「俺が考えなければ、もっとひどい作戦になる」
「そうかもしれない。だが、お前が考えれば、戦争を始められると思う者も出てくる」
車輪の音が、二人の間を埋める。
「では、何もしろと言う」
「違う。お前ができることと、お前がするべきことを、同じだと思うなと言っている」
山本は笑わない。
この友人は、いつも最も痛い場所へ言葉を置く。
「できる者がやらなければ、卑怯ではないか」
「できるからこそ、やってはいけないこともある」
汽車はトンネルへ入る。
窓は黒い鏡になり、二人の顔だけを映す。
山本は、その鏡の中に、長門の長官室、単冠湾の空母、燃える赤城、飢えた島、ブーゲンビルの密林を見る。まだ起きていない未来が、煤煙のようにガラスへまとわりつく。
「悌吉。ならば、どこで止まればよかった」
堀はすぐに答えない。
「止まる場所は、最後に一つだけあるのではない」
やがて、静かに言う。
「最初の小さな妥協で止まる。曖昧な言葉を口にする前に止まる。成功したあと、自分を疑って止まる。失敗を隠そうとしたときに止まる。誰も反対しなくなったとき、いちばん強く止まるんだ」
トンネルを抜け、光が客車へ戻る。
向かいの席には、もう誰もいない。
山本は一人で窓を見ている。
汽車は速度を落とさない。
歴史に非常制動はない。
あるのは、まだ引き返せると思えるほど小さな分岐だけである。
ブーゲンビルの森に散った巨鷲が、現代へ残した問いは一つである。
お前の組織には、
お前の独走を止めてくれる「堀悌吉」がいるか。
――完――

史実と推測の境界

再改稿版・校閲ノート
一 近衛文麿との会談
山本の「半年か一年は暴れてみせるが、二年三年は確信がない」という趣旨の発言は、近衛の戦後回想に基づく。録音・逐語記録ではないため、本作では趣旨を史実の骨格とし、室内の動作、沈黙、内心は創作した。会談は昭和十五年九月、近衛の私邸・荻外荘で行われたとされる。
二 「海軍は近海でしか戦えない」という台詞
完全な創作である。ただし、日本海軍が長く採用した邀撃漸減作戦が、西太平洋へ進出する米艦隊を潜水艦・航空兵力などで漸減し、決戦海面へ誘導する思想だったこと、山本の積極・短期決戦構想がそれと異なったことを踏まえた仮説である。
三 近海決戦なら全面降伏を防げたか
反実仮想であり、断定できない。真珠湾を避ければ米国世論の結束、主力空母の損耗、戦争の時間表が変化した可能性はある。一方、南方進出、中国戦線、対米石油禁輸、フィリピンの存在を残したままでは、艦隊運用だけを変えても日米戦回避にはならない。邀撃漸減作戦自体も、米艦隊が日本側の期待する形で西進することに依存していた。
四 河合千代子(梅龍)
山本が昭和八年頃に新橋の芸妓・河合千代子と知り合い、長期間親密な関係を持ち、多数の手紙を送ったことは複数の回想・書簡紹介で確認できる。昭和十七年五月の手紙には、奉公を終えた後に万事を放擲し二人きりになりたいという趣旨がある。本作の座敷での会話、帰宅を避ける夜の描写は創作である。「囲った」という表現は当時の男女関係を単純化するため、本文では距離を置いた。
五 モナコのカジノとディーラー発言
山本の賭博好き、モナコでの勝負、退役後は賭博で暮らすという類いの逸話は広く流布するが、細部には伝説化が強く、部下の軍艦購入費を取り戻した、勝ちすぎて出入り禁止になった等は史実として断定しない。「ディーラーになる」という会話は作者の創作である。モナコはフランスではなく独立公国である。
六 南雲忠一人事
南雲は水雷畑で、航空専門家ではなかった。第一航空艦隊司令長官就任には兵学校卒業期を重んじる人事慣行が作用した。山本一人が自由に任命したわけではないが、人事を受け入れ、南雲の下に草鹿龍之介、源田実らを置いた。「古い海軍の代表を長官にすることで空母集中運用を正統化した」という解釈は本作の推測である。山本が南雲を個人的に「嫌っていた」と断言できる一次史料は乏しいため、本文では政治的・職業的な距離として描いた。
七 源田実の評価
源田は真珠湾作戦の具体化、空母航空兵力の集中運用、訓練・攻撃計画で大きな役割を果たした。ただし真珠湾作戦は山本、大西瀧治郎、黒島亀人、草鹿龍之介、淵田美津雄、技術・実施部隊など多数の共同作業であり、「源田一人が立案した」とするのは不正確である。ミッドウェー前、源田らが米空母の損害を実際以上に大きく見積もっていたとの研究を踏まえ、本作では「優秀だからこそ指揮官の前提を実行可能にしてしまう参謀」として造形した。
八 ミッドウェー海戦時の将棋
山本が旗艦「大和」で将棋を指していたという証言は存在するが、悲報受領時にも対局を続けたとする従兵長の回想と、相手とされた渡辺安次参謀側の回想には食い違いがある。本作は、将棋盤と銀将を象徴として用いた創作場面であり、山本が戦況を無視して遊んでいたと事実認定するものではない。より本質的な問題は、山本の主力部隊が南雲機動部隊の後方にあり、最初の航空戦へ即応できない配置だったことである。
九 ミッドウェーにおける源田・南雲・山本
南雲個人の兵装転換判断だけを敗因とする通俗的説明は採らなかった。暗号・通信情報、索敵、任務の重複、敵情判断、兵力分散、山本の作戦構想、米側の待ち伏せを重ねて描いた。米側は日本暗号を一字一句完全に解読したのではなく、部分解読、通信解析、欺瞞確認を組み合わせて作戦意図を把握した。
十 兵装転換、山口多聞の進言と「運命の五分間」
第一航空艦隊戦闘詳報を紹介するアジア歴史資料センターの整理では、南雲司令部は午前四時十五分に待機機を艦艇攻撃用から地上攻撃用へ転換するよう命じ、敵艦隊発見後の午前四時四十五分に再び艦船攻撃用への転換を命じた。その後は、第一次攻撃隊の収容、防空戦闘、飛行甲板への攻撃隊展開が重なり、単純に「魚雷交換にあと五分かかったため敗れた」とは整理できない。いわゆる「運命の五分間」は戦後の回想から広まった表現で、戦闘詳報には攻撃隊全機が五分後に発進できたと確定できる記述はない。山口多聞が即時発進を進言したことは広く伝えられるが、「再三」の進言や、南雲が個人的嫌悪だけで退けたこと、源田実が嫉妬・出世欲から反対したことを立証する一次史料は確認できない。本作は、南雲司令部で航空判断に大きな影響を持った源田、正式な決裁者である南雲、即時攻撃を主張した山口の知識・権限・野心のずれを描くため、会話と胸中を創作した。山口案を採れば必ず勝てたとも断定しない。即時発進可能だった主力は主に艦爆で、護衛戦闘機、帰還機収容、甲板運用という別の危険を伴った。
十一 人事仮説と現代企業の照応
本作の「軍令部が山本を中央から遠ざけた」「南雲は組織のスパイであった」「源田は将来の地位を意識して進言先を選んだ」という描写は、史料で立証された事実ではなく、人事制度が個人の意図を超えて働く様子を描くための作者の仮説である。山本は昭和十四年に海軍次官から連合艦隊司令長官へ転じた。暗殺の危険から遠ざける意図が語られる一方、この異動によって中央の政策決定から離れたことも事実である。南雲の第一航空艦隊司令長官就任には先任序列が強く作用し、山口多聞は第二航空戦隊司令官、源田実は航空参謀という位置に置かれた。南雲が軍令部の密命を受けた証拠はなく、「スパイ」は組織文化と中央の常識を体現する人物という比喩である。また、山口を第一航空艦隊司令長官にすればミッドウェーで必ず勝利したという反実仮想も採らない。ここでの主題は、能力の高低ではなく、知識・権限・責任が別々の人物へ分割された指揮構造そのものにある。
十二 参考とした主な史料・研究
防衛研究所『戦史叢書 ハワイ作戦』
防衛研究所『戦史叢書 ミッドウェー海戦』
防衛研究所「大本営発表とミッドウェー海戦」
海上自衛隊幹部学校『日本海軍戦略の継承者としての山本五十六』
防衛研究所『近代東アジアの軍事史』開戦期・太平洋戦争関係章
宇垣纏『戦藻録』
山本五十六書簡、河合千代子宛書簡紹介資料
阿川弘之『山本五十六』
反町栄一『人間山本五十六』
南雲忠一、渡辺安次、近江兵治郎ら関係者の回想
日米公刊戦史および米海軍戦史研究
国立国会図書館「近代日本人の肖像 山本五十六」
防衛研究所「太平洋戦争③ 連合艦隊司令長官・山本五十六戦死80年」
米海軍歴史遺産司令部 Battle of Midway 関係史料(山口多聞・飛龍の反撃を含む)
歴史小説は、史実の穴を想像で埋める。
しかし穴があること自体を隠してはならない。
本作の山本五十六は、史料に残る人物そのものではない。史料から立ち上げた、「こうであったかもしれない山本」である。

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