応答セヨ ♯1/6
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仕事納めの日の午後は外回りで、田安は何年かぶりに新宿より東に足を伸ばした。御茶ノ水で黄色い電車に乗り換えると、昼過ぎの時間帯、乗客はまばらで、彼は南側を背にして端の席に身を埋めた。暖房のよく効いた車内の温とさに、いつしかうつらうつらしていて、気がつけば電車は県境を跨いでいた。
彼の座るシートにほかに乗客はいない。南側の窓という窓から傾きかかった日が高架を走る車内へ直に差し込むため、乗客は皆それを避けて陰のなかにいるようである。田安は首を後ろに回して、日に目を細めながら窓外を見た。海は、見えない。しかし海がそう遠くないと感じられるのは、百メートルほど離れたところをこちらと並走する道のあることを予感させる松の並木が途切れ途切れにあるからだった。あの松が、往時の防砂林の跡だとは、誰から聞いた話だったか。うんと若い頃に上司と連れ立って県境を渡った折に、その上司から聞かされた話かもしれない。名残の防砂林の向こう数キロが埋め立てられて、そこへ工場が誘致され、工場労働者とその家族の住まう矩形の公団住宅が何棟と乱立し、公園ができ、学校ができ、店が集まり、いっぱしの経済圏が成立する。日本の六十年代に各地で見られた光景だろう。人が集まればそれなりの歓楽街も形成される。松の防砂林の跡を田安に教えたその誰かは、この路線一帯が、さる駅を境にしてかつての赤線・青線地帯だったことも彼に教えたようである。冬の快晴の空に目をやりながら、こんなに日に降られてもなお暗いような土地の来し方行く末を田安は思うのだった。
ミレニアム前後に全国的に都市の美化運動が進められたとは、知識として田安は知っていた。高度経済成長期に外観二の次にして突貫的に作られた鉄やコンクリート建造物のことごとくに、彩色が施されていった。パステル調のクリーム色や鶯色が好まれたようである。あの頃から、時代の空気がやさしさ重視へ転換したのではなかったか。「ゆとり」なんて言葉が飛び交ったのもその頃だ。その結果はどうだ。クリーム色に塗られた鉄とコンクリートの無骨な建造物の果てもなく連なる光景を見下ろしながら、日本人のほとんどがその処世として身につけつつある薄っぺらなお為ごかしを思い、思うにつけ、すぐにも世間を賑わせた二つの事件が思い出された。地下鉄サリン事件と神戸児童連続殺傷事件。スマホで調べてみると、前者が1995年で後者が1997年。あれから二十年以上の歳月が経ったわけか。自分が生まれた年から同じ歳月を遡ってみて何が起きていたかを調べてみれば、その心的距離の遠さはひしひしとわかろうというものである。しかし、眼下の町並みにこびりついた暗さのようなものは、二十年どころか、何十年と変わらないのではないかと田安は思うのだった。
あ、と思わず田安が小さく声を上げたのは、ほかでもない、団地に見え隠れして、背高な給水塔を認めたからだった。一つが意識されてからそれを探す目になると、形状としてはまったく馴染みでないものの、おそらくは給水塔だろうと思しき建造物がそこかしこに立つのを彼は認めた。彼の馴染みの給水塔は、細い柱の上に扁平な円柱が乗っかるもので、柱の頂と円柱の接合部が盃状になっていて、おそらくはそのせいで遠くから見ると秘密基地の管制塔のように子どもの目には映ったのだった。田安の生まれ育った土地には、五、六棟と並ぶ公団集合住宅が点在して、すべての敷地内に同じ形状をした、白塗りに鋲ごとに赤錆の滲んだ給水塔が立っていた。それと同じものを、窓外に彼は認めたのだ。こちらは薄緑色に塗られているほかは、彼の故郷にあったそれと瓜二つだった。
給水塔を認めた瞬間に田安を襲った感情は、郷愁ではなかった。慚愧に近いような、ともすると罪悪感に近かった。それは端的に胸の奥の疼きとなって彼をとらえていた。しかしなんでまた、今になって給水塔なんかが目につくのかと訝った。
三十四十と歳を重ねれば、誰しも一つや二つ、封印された記憶を持つだろう。あるいは偽記憶がいつからか本当の記憶に置き換わる。薄緑色の給水塔が、ゆっくりと回転するようにして遠ざかっていく。あれを管制塔に見立て、僕らは秘密基地を持っていた。そして、秘密基地を持った幼少期の一時期丸ごとが、彼にとって秘密そのものとなって久しかった。思い出そうとして必ず彼は失敗する。この時も、例外ではなかった。
つづく
