「バードコール 小鳥のくちびる」第1話 (全7話)
あらすじ
今から40年ほど前。謎のウイルスの感染拡大により緊急事態宣言が発出、外出が制限され、マスク着用が義務化された。そんな中都会の学生マンションで一人暮らしを始めた大学一年生の「私」。部屋に籠りっきりの退屈な生活の中、幼いころにしていたバードウオッチングを始め、偶然手に入れたバードコール。手持無沙汰に任せてバードコールで囀っていると、それをきっかけに2人の女性と知り合う。ひとりは同じマンションに住む女の子。ひとりは年上の人妻。女の子との淡い恋と人妻とのエロチックな関係がすすむ。
第一話
もう四十年ちかくも前のことなので、記憶が曖昧だったり、矛盾していたり、必要以上に美化されていることがあるかもしれない。
その頃、私は都会のワンルームマンションで一人暮らしをしていた。田舎から都会の大学に進学して一人暮らしを始めたのだ。入学式さえろくにすることもなく、私の一人暮らしははじまった。授業はすべてがオンライン。新種のウィルスによる感染症が流行し、政府が緊急事態宣言を発出するなどして、外出などをふくむ個人やひいては社会全体の活動が極端に制限されたのだった。
ところで、なぜ、今、私はこんなことを語ろうと思ったのか。べつに誰かに何かを話したい、語りたいという矢も盾もたまらない情熱から、というのではない。今、私が置かれている状況がその時によく似ていて、たまたま思い出したというわけだ。そしてこのどうしようもなく不愉快で不機嫌な気分。この気分をどうにかするための暇つぶしでもある。
さて、ひがないちにち、私はひとり部屋でぼんやりしていた。オンライン授業といっても体制が整ったのは夏休みがあけた頃で、それまで大学の授業はあってなきがごとく、コミュニケーションアプリやメールで指示がきて、教科書を読んだり課題をこなしたりして、またアプリやメールで返信する、といった感じだった。クラスメイトとはアプリで自己紹介などしあったが、あまり話したりする気にもなれなかった。ちょうどマンションの一階がちょっとしたスーパーで、食料や日用品はそこで調達できた。実家が飲食関係の自営業で、半年もすると仕送りができない、と言ってきた。たまたま、暇に飽かしてやりはじめたオンラインの株や為替の取引で、その頃までには生活費くらいは稼げるようになっていた。そのうち、買い物に行くのもめんどくさくなって、米や野菜や肉などもネットショップで買うようになっていた。かといって、オンラインゲームなどをする気にもならなかった。
ゆいいつの気ばらしといえば、そう、北の通りに面したテラス窓。それは私のワンルームで空の見えるただひとつの窓だったが、その窓をすこし開けていると、わずかな人の気配にまじって、野鳥の鳴き声が聞こえてくる。ガラスと鉄とコンクリートの無機質なビルの群れのなかにオアシスのようにみどりの繁る大きな寺が近くにあるせいだろうか。そんな野鳥の声をきくともなく聞いていると、ほんのすこしのあいだ、こころがやすらぎ、ほどけてくるばかりか、懐かしささえ感じて、そういえば、子どもの頃、バードウオッチングをしていたことがあったのを思い出す。かなり熱中していたようで、学校から帰ると、毎日のように、近所の山に双眼鏡と野鳥のハンドブックを携えて出かけていった。毎日がちいさな冒険であり、いつもの山路にはささいなあたらしい発見がちりばめられていた。日がたつにつれて懐かしさが募って、とうとういても立ってもいられなくなり、実家に、以前使っていた双眼鏡と野鳥のハンドブックと図鑑を送ってくれるようにメールしてみた。それらは、いつの間にか私のまえから姿を消して、どこにあるのかさえもう気にならなくなっていたものだ。私自身にさえ心当たりのないものが、いまさら、家族のだれにも思いあたるはずがない、と言わんばかりの返事がかえってきた。
しかたなく、私はネットショップであたらしく、双眼鏡と野鳥のハンドブックと図鑑とを買いこむことにした。双眼鏡は以前使っていたのよりも性能がいいものを、ハンドブックと図鑑は以前とおなじものを。そのとき、たまたま、バードコールというものをはじめて知った。ネットショップ特有のあのお節介な関連づけのおかげだ。
バードコールとは、鳥の声を出す楽器というか、器具のようなものだ。木片とその穴に突っこんである金属柱との摩擦の音が、あたかも鳥の声のように聞こえるのだ。試しに、私は、いろいろあるバードコールのなかで、ユーザーの評価が高いふたつを買ってみた。ひとつは、日本の楽器製作会社のバードコール。これは楓の木と真鍮で、こすりあわせてみると澄んだ柔らかい音がした。ひとつは、アメリカの老舗のバードコール。これは、木はなにかわからない。こすりあわせてみると、わりと甲高い、濁った音がした。ああ、そうか、と私はひとり微笑んでいた。犬の声を「ワンワン」と聞きなすか、「bowwow」と聞きなすか。そんな違いがこんなちいさな器具にもあらわれているのだと、おかしかった(まあ、犬種も違うのだろうけど)。それにしても、ネットショップのレヴューに「バードコールは鳥たちの恋の季節につかうのは控えましょう」とあるのが目に留まり、すこし気になった。
青空の谷間。軒と柵に仕切られて、谷間のようになった青空をぼんやりとみている。この青空が、ゆいいつ、ベッドに寝ころんだまま、私の部屋から見える自然だった。白い雲がながれていく。この青空のもとでひとびとの世界は静まりかえっている。手持ち無沙汰な私はポケットからとりだすと、バードコールを鳴らしはじめる。机のうえのパソコンでは、憲法の教授がオンラインの講義をしている。
実際に野鳥のさえずりや鳴き声をきき、姿を見、ハンドブックと図鑑で名前や習性をたしかめていくうちに、いろいろな鳥の鳴き声をぼんやりと思いだして、イメージできるようになっていた。そのさえずりや鳴き声を、私はなんとかバードコールで再現できないか、と思うようになった。
いちばん簡単そうなのはあれ。そう、ジョウビタキの声。ヒィとキィのあいだのような声で、ちょっと尻上がりで、それはまるで坂道を駆け下りていく自転車のブレーキのようだ。キィーーーという音は出るには出たが、尻上がりに大気の彼方へとフェードしていくあの感じはとても出せそうになかった。
バードコールを小刻みにこすりあわせると、空の彼方まで、どこまでも舞いあがっていくヒバリのさえずりのようにもなった。ひとつの音を長くしたり短くしたりして変化をつけると、ホオジロのさえずりのようにも、メジロのさえずりのようにも聞こえた。ただ、やはり鳥たちのようなリズムがなく、音もどこか違っていて、どうしても鳥のようにはなれなかった。とはいえ、空を見あげながら「ヒバリのさえずり」をすると、どんどんと空の青の彼方にすいこまれて、たましいが舞いあがっていくようで、とてもここちよかった。
そんなことをしていると、窓の外でふいに鳥たちのさえずりが聞こえてくることがあった。はじめはたまたま鳥たちがとおりかかったのだろう、と思っていたが、たび重なるうちに、たしかにバードコールが鳥たちを呼び寄せているのかも知れない、と思うようになった。その反面、鳥たちを呼び寄せようと思ってバードコールでさえずってみても、まったく梨の礫ということもすくなくなかった。
今しも「ヒバリのさえずり」にのって、意識を青い空の彼方、真空の青の深みへと飛ばしているそのときだった、「ジューゥ」「ジューゥ」と窓の外から声がきこえてきた。私は空のかなたから意識をひきとって、さえずるのをやめ、耳を澄ました。いや、いつも思うのだが、耳を澄ますというよりは、時間が停止する一瞬だ。声に誘われて、ベッドから半分身体を起こしかけたままの姿勢で静止しているのだから。ゆっくりと時間が戻ってくる。外の鳥たちに気配を悟られないように、そろそろと身を起こし、窓際へと首をのばす。電線にとまっている。お腹の黒いライン、黒い頭、黒い長めの尾が印象的なシジュウカラだ。私は彼の姿をみながら、できるだけ真似て鳴いてみた。
「ジィー」「ジィー」
首をかしげているのだろうか。それとも鳥たちのよくするあの仕草なのだろうか。私の鳴き真似は、音もすこし違うし、抑揚ときたらまったく違っている。鳥たちのように音に高低や抑揚を上手につけることなどできなかった。
すると、彼は、飛び去るどころか、また、「ジューゥィ」「ジュゥーィ」と啼いてみせた。私はできるだけ真似ようと、また鳴いてみた。
彼は小さく首をかしげているようにも見えた。私にとってはながい沈黙のあと、また、彼はおなじ声で啼いてみせた。私はすかさず真似て鳴いた。いや、せいいっぱい、彼の啼き声に似せて。
彼はまたしばらく首をかしげていた。
沈黙のあと、また、彼は啼いてみせた。すかさず私が真似て鳴く。
と、私の鳴き声が終わらないうちに、彼がまた啼いた。また私が真似ようと鳴くと、さらにせっかちに私の鳴き声を遮って彼は啼きつづけた。
しばらく啼きつづけて、彼は飛び去っていった。「ジューゥィ」「ジューウィ」のあいだに、絶対真似できない素敵で複雑な装飾音を挿入して、いかにも、こう言い捨てて。
「まだまだ百年早いよな、おまえ」
あんなちいさな野鳥の飛翔が、私の目には、なんと堂々としたはばたきに見えたことか。
小刻みに、リズムよく、軽快に、ただこすりあわせるだけではなく、金属と木片の接する面積を大きくしたり小さくしたり、斜めにしたり、左右上下に動かしたり、などなど、いろいろな工夫をしながら、それから私は前にもまして耳を澄まし、注意深く自分のさえずりを聴き、くりかえし練習するようになった。
さあ、その練習の甲斐あって、私のさえずりははたして上達したのかどうか。
しばらくは熱心に練習にうちこんでいたが、やがてそれにもあきがきて、私は、暇つぶしに、やはり気ままに気楽にさえずっては空の彼方をただような生活にもどっていった。
チュッチッキッチュッチッキッキュッチッチッチッチュチッツィーッイーツィー
はっとして、私はベッドからからだを起こした。大空の青い深淵のかなたをただよっていた魂は一瞬にして、地上の私のからだにひきもどされていた。神経をとがらせ、耳をすまし、窓の隙間から外の気配をうかがった。ほとんどの人の活動が停止している、そんな静寂だけがながれていった。しばらく固まっていた私は緊張をとくとベッドに寝転がり、「揚げヒバリ」とよんでいるさえずりとともに、また、大空の深淵へと飛翔した。
チュッチッキッチュッチッキッキュッチッチッチッチュチッツィーッイーツィーツィーッチュチッチィー
意識はまた、私のからだにひき戻されていた。間違いなかった。いつものあのさえずり。どこかで、誰かが、バードコールでさえずっている。しかも、まるで、私のさえずりに呼応するかのように。私はベッドに寝ころんだまま、「てっぺんのホオジロ」と名付けたさえずりをしてみた。
チュッチィッチッキッチュッチッキッキュッキュッチッチッチッチュチッツィーッイーツィーツィーッチュチッチィー
呼応するように、といってもいつもそうだが、べつに真似ようとしているわけではないらしかった。いつごろからだろう……。あのシジュウカラのことがあってすこししてからだったろうか。うっかりしていたといえばしていたわけだが、まさか、このちかくに私の他にもバードコールでさえずっているものがいるなんて思ってもみなかった。それからも、いつも必ずというわけではないが、「揚げヒバリ」で空の彼方へと翔んでいくと、さえずりがきこえてくることがあった。
私は「揚げヒバリ」でも「てっぺんのホオジロ」でもない、即興のさえずりをしてみた。
チューツィーッツィッィッチュチュチュッキュルッキュルルルッツィィィィッッキィキィキュッキィッ
チューッィツィッツィッツィッチュチュチチュチュチュチュキュルゥゥゥゥゥッツィーーーーーッキッュキッュキユッ
思わず笑みがこぼれた。もう一度私は別のさえずりをしてみた。
チュルチュルチュルキュルルルルッチュルチュルチュルキュルルルルルルッ
チュルッチュッチュルキュルゥゥッチュルチュルチュルキュルルゥゥゥゥゥッ
どうやらいつもとちがって、今日は私のさえずりを真似ようとしているみたいだった。私は可笑しくて、たのしくなった。ベッドからむっくりとからだをおこしかけた中途半端な姿勢でかたまっていた私は、ゆっくり立ちあがった。何度もそうしようかと迷っていたことを、今日は思いきってやってみよう、と。
テラス窓の隙間をおしひろげて、私はベランダに出た。
隙間からは見えなかった雲がながれていた。ほとんど活動を停止したと思っていた人々は、通りを歩いてもいれば、透かして見える大通りにはまれに車も走っていた。
私はまた、「てっぺんのホオジロ」でさえずってみた。
「チュチュチュチュュチッキュゥーーキュウーーーツーーーィッツーーッィッチュンッツッチュィーッキュルゥゥゥゥ」
さえずりがかえってきた。私は身をのりだしてそちらを見た。おなじマンションの二階上の二部屋隣、そのベランダから顔をのぞかせ、にっこり、彼女が微笑んできた。
その微笑みは私の見間違いだったのか。
時がたつほど疑わしくなってくるような一瞬の出来ごとだった。彼女はすぐに顔をひっこめてしまった。微笑んでいたのではなく、思わぬところからぬっと突きでてきた男の顔に驚いてあたふたと顔をひっこめてしまったようにも思えてくる。微笑んでいたのは私の方で、私だけだったのかも知れない。なんども応答するように聞こえてきたさえずりに私は知らず知らずのうちに親しみを感じていた。そのさえずりをしていた彼女に、見たことも、会ったこともない彼女に、初対面にしては考えられないような微笑みを投げかけてしまっていたのかも知れない。考えてみれば、私の「揚げヒバリ」に応答するようにさえずっていたのが彼女だったとは限らない。私がただ早合点して、あのさえずりを返してきたのが彼女だと勝手に思い込んでいるだけかも知れない。
そんな男の近々しすぎる微笑みに驚いた彼女はあわてて顔をひっこめてしまった……。
でも、あの彼女の微笑み、あの微笑みには私いじょうの近々しさがこめられていたとそんな気持ちも否定できなかったし、否定したくなかった。私の脳裡に灼きついてしまっている、彼女の微笑み。だが不思議なことに、私は思い出せなかった、ほかのところは。くちびる以外のところは。
彼女のくちびる、うっすらと広角が上にきれあがり、つやつやとしていて、あわい桜色をしていた……。
そう、何週間ぶりに、あるいは何ヶ月ぶりに、すこし距離はあったとはいえ、他人のくちびるを私はじかに目にしたのだろう。食料や生活必需品をスーパーやコンビニに買いに行っても、街を歩いている人々を見ても、誰も彼もマスクをしていて、鼻とくちびるを覆い隠していた。ウィルスの感染を防ぐための手段として、外出時に限らず、人と接するときは必ずマスクをすることが義務づけられてどのくらい経っていただろう。独り暮らしの私はうちのなかでマスクなどしていなかったけど、家族がいたらどうなのだろう。親密な人の顔がいつも半分しか見えない、というのはどういうことなのだろう。もっとも、まさか、家族間でもこんな馬鹿げた法律を守っている人間がいるとは思えなかった。ときどき、ネットの動画で見ることもあった、家族間でさえマスクをしなければならないという法律は権力の横暴だとデモをする人々の様子を。メットをかぶり、サングラスをかけ、手に手に権力の横暴を非難するプラカードをかざして。真逆だった、関連動画でふと目にした私が生まれるずっと昔の学園闘争とやらのデモの映像とは。そのデモ参加者はメットをかぶりサングラスをし、タオルやマスクで鼻や口を覆い隠していた。だが今は、メットやサングラスはしていても、口と鼻は一切覆っていない。なかには、パフォーマンスで、学園闘争時の出で立ちで並んでいる最前列の連中が、一斉に自分たちの顔からマスクを剝ぎとって地面にたたきつけてさんざんに踏みにじる、なんて映像も目にしたことがあった。
彼女のくちびる。
メガネをかけていたのかいなかったのか、そんな目立つ特徴でさえ思い出せなかった。桜色で、つやつやで、ぷるるんとしていた……。彼女のくちびるのことを想うだけで、胸がどきどきしている自分に気がついた。ううん、いや、これは、はっきり言って、性的な衝動……。くちびるは人目にさらされている第二の性器だとかなんとか、心理学にかぎらずそんな解釈もあるらしいけど、マスクで隠されることが日常となった今、当時の私の妄想のなかでは、彼女のくちびるは強烈な神秘のスポットライトに炙りだされて、燦々と魅惑的にかがやいていた。
そして、すこしだけ怖かった。「揚げヒバリ」でさえずっていると、それからも、ほとんど欠かすことなくあのさえずりが聞こえてくる。すぐにでもベランダに飛び出していって、彼女のあの微笑みとくちびるとをたしかめたい衝動と、その一方で、やはり彼女ではなかったことを知ったときの落胆と。ふたたび彼女の微笑みとくちびるを見ることになるときめきや喜びが大きくなれば大きくなるほど、その時の落胆も負けずに大きく膨らんでいく。応答するようにそのさえずりが聞こえてくると、自然に私のさえずりはやんでしまうようになった。すると、外のさえずりも止んでしまう。私は耳を澄ます。まるで疑心暗鬼に陥った恋人たちが、お互いの気持ちを探りあっているかのような時が流れていく。ほんの一瞬がとても長く感じられる。しばらくして、ふと、外の気配がふっつりと途切れたのを感じると、緊張もほどけて、やっと私はからだを動かし、日常にもどってくることができた。
ところで、マンションにはエレベーターが一基と外づけの非常階段がひとつあり、人との接触をできる限り避けることが奨励されるようになってからは、つまりこのマンションに引っ越してきてからずっと、私は非常階段を使っていた。使うといっても食料品や日用品の買い出しくらいのもので、それすらもだんだんとネットですますことが多くなっていき、外出自体をほとんどしなくなっていた。もともと狭い場所に他人と一緒にいると、相手のちょっとした仕草や表情の変化や、匂いや、衣服の色や柄はもちろんシワまでも、とにかく普通の人にしてみればどうでもいいような些細なことまでが気になってしまって、同時に自分自身のそんなことも気になってしまう私は、他人といることがひどく苦手で嫌いで、実は、こんなひき籠もりの生活もわるくないと、気に入っているといえば気に入っていた。以前なら、もし、実は私がこんな理由でエレベーターを避けていると知ったら、人々はいったいなんて思っただろう。だけど、今はもうそんなことを気にする必要もない。ただ、それでも衝動的になにかが買いたくなって、それはたいていちょっとした食べ物とか必要のないささいな日用品とかで、そんなときの外出で、雨の日だけは、エレベーターを使っていた。雨は好きだった。部屋のなかにいて、窓をすこしだけあけて、雨の音や、あまりあかるくない空や、湿った大気の匂いを感じるのがとても好きだ。とはいえ、濡れることはすこしでもすごく気になり、嫌いだった。
雨ならばなおさら、ほんとうなら、マンションのあの狭いエレベーターは使うべきではなかったのかも知れない。いや、買い物自体をしなければいい。なのに、雨の日に限って、そんな買い物がしたくなるし、いったん衝動がおこると部屋にじっとしていることができなかった。ただ、吹きさらしの非常階段を、それほどの雨でもないのにたった一往復するだけで琵琶湖を縦断してきたドブネズミのようにびしょ濡れになってしまうのにも、実際はそんなに濡れていないのかも知れないが、うんざりだった。
そう、雨が降っていた。その日も。ゲリラ豪雨というヤツだ。一階のスーパーでれいのちよっとした食料品を買った帰りに、おなじとしごろの女子とエレベーターで乗りあわせた。彼女は、ポリウレタンの淡いピンク色のマスクで鼻と口を覆っていた。彼女も食料品の買い出しと見えて、エコバッグにはフードパック入りの弁当がはいっていた。まずいな、と私は思いつつ、ハコの扉が開くと、ふたりはなかに入り、それぞれ自分のフロアのボタンを押し、床の足あとのしるしの上に立つ。密にならないようにとご丁寧にも間隔をあけた立ち位置が床に印されている。彼女は私のフロアの二階うえのボタンをおした。彼女と私は入口の両端にわかれて、間隔があるというのに窮屈そうに立っている。ああ、はやく、この息苦しい時間から解放されたい、とそんなことばかりを私は願い、念じて、フロアの表示板だけをにらみつけている。気にならないわけじゃなかった、ちら、ちらと気づかれないように、盗み見したり。だけどそれ以上に、見ず知らずの人間と狭い空間に二人だけで閉じ込められている、ということがひどく私を落ち着かなくさせる。はやく、はやく。たった三フロアを更新するわずかな時間が、とてつもなくながいワームホールをくぐり抜けていくように感じられる。そう、ただフロアを上がっていくのではなく、はるかな時空を超えているような。
やっと扉が開き、私はエレベーターから弾かれるようにとびだしていた。その時、あのさえずりが私の襟首をひっ捕まえてきた。私は思わずふり返っていた。エレベーターのドアが閉じきってしまうまでのほんの一刹那、私はたしかに目にした、あの微笑み。
……私は思い出そうとした、エレベーターの扉が閉じ切った瞬間にも、それから、毎日、なんども。彼女の髪はどんな髪だったのか。目はどうだったか。そう、たしかに、メガネをかけていた。マスクのほかにも外出時はメガネやゴーグルが奨励されるようになっていた。そのメガネのレンズの奥にどんな瞳があったのか。服はなにを着ていたのか。スカートだったのか、パンツだったのか。靴は? 背格好は? ほとんどなにも思い出せなかった。ただ、……そう、あのうすピンク色のポリウレタンのマスク。そして、そのマスクのしたに隠されている、あの、くちびる。なぜだろう、見てもいない、あのくちびるはくっきりと私の脳裏にうかんでくる。輪郭さえはっきりしないぼんやりとした彼女の顔、そのなかに、くっきりと、あのあわい桜色のくちびるが、艶々しく、ぷるるんと、なにかを囁き、つぶやきながら、かすかに動いている……
ピーチュチュピュッチッチッキュルッキュッキッキッチュッチュッッキッキュッキュゥッ……
なんかぜんぜんちがう。何回やっても。どうしたんだろう、まったく。「揚げヒバリ」で青空の彼方にこころを飛ばそうとするのに、まったく、なんか、さえずりがうまくいかなかった。空回りする感じがする。摩擦によって木面がつるつるになってしまったのかもとバードコールに松ヤニを塗ってみたけど、やっぱうまくさえずれない。
キュキョチュッチュッチュキュルッキュキュッチュキュキュッ……
「ジューィ」「ジューィ」
とつぜん、ほかから鳥の声が聞こえてきた。さえずるのをやめ、私は耳を澄ました。どうやらシジュウカラが近くに来ているらしかった。
私は彼を真似てさえずってみた。けれど私の耳にさえ、さえずりは似ても似つかなかった。
シジュウカラはさらに何度もさえずってみせた。最後に、「ジューィ」「ジューィ」との間に、今度はとびきり複雑で可憐な装飾音をさし挟んでまるで勝ち鬨をあげるようにさえずると、彼はゆうゆうと飛び去っていった。
キュッキュッチュッチイチィキュルルルルッ
ふいに、べつのさえずりが聞こえてきた。私は一瞬時を失って固まった。あ、……彼女かも知れない、いや、彼女にちがいなかった。音色のひとつひとつがとてもやわらかい。
私のさえずりの一音一音は尖っていた。「揚げヒバリ」がうまくいかなくて、すこしイライラしていた。
キュッキッチィッキッチュッキチュキチュキチュッキチュッ
また、彼女がさえずっている。彼女のさえずりはおだやかでやさしく、どこか私のいらだちを和らげようとしていると、そんな気がした。
私はとっさに彼女のさえずりを真似てさえずってみた。
キュッィッチッキッキッッキチュィッキッチュッキッッチュキキッ
チィチィチィチィッキュィィッッキュィィッッ
すぐに返ってきた彼女のさえずりには、「上手、上手」と手放しで褒めているわけではないけど、どこか肯定的な嬉しげな響きが感じとれた。
なんどかさえずりあううちに、私は落ち着いた穏やかな気持ちになっていった。
チィチィチィ チィチィチィ チュッチュィッチュッィ キュルルルルッッ
チィーッチィーーーッチュッチュッチュッィィッ チュィィィッ キュルルルルッッ
「よしよし、いい子、いい子」なんて、まさか。でも、そんなふうに彼女のさえずりが私の耳には聞こえた。
「チュッチュッチュィッチュィッ ツーーーーーィ ツーーーーィッ キュルルルルッ」と、私。
「キュルルッ チューーイ チューーーィッ ッッチチチチチチ チッチッ チューイッ キュルルルルッ」と、彼女。
「キュルッ キュルッキュルルルッ チューーィッチチチチチッチュッ チュッ チュッ チューーィッ キッュキユッ キュルルルルッッ」
「チュッ キュルッキュルッッチ チューーイッチチチチ チュッチュッ チュッツツツツ チュッ チュッッ キュルルルルッッッ」
「チュッチュッ キュルルッキュゥーーィッ キューーィッ チューーーイッ チチチチチチ チュッチュッチュッ キッチューーィッ キュルルルルッッ キュルルッッ」
「チュッチュキッチュィッチュィッ キルゥゥゥッッキュルゥゥッッ キューーッ キューーイッチチチ チチチチ チチチチ キュルルルルッッッ」
私は楽しくなっていた。たぶん、彼女も。それはさえずりでわかる。どのくらいの時間、あきもせず、彼女と私はさえずりをかわしていただろう。一刹那とも、永遠とも思える時間を、私と彼女はさえずりあった。
「チチチチチ チチチチチ チチチチチ キューーィッキューーイッ チュッ チュッチュッ」
気がつくと、しばらくしても彼女からの応答はなく、かわりに、エナガの群れが私のベランダでさえずっていた。
つづく
第二話 「バードコール 小鳥のくちびる」 第二話|積木蔵 ふぶき (note.com)
第三話 「バードコール 小鳥のくちびる」 第三話|積木蔵 ふぶき (note.com)
第四話 「バードコール 小鳥のくちびる」 第四話|積木蔵 ふぶき (note.com)
第五話 「バードコール 小鳥のくちびる」 第五話|積木蔵 ふぶき (note.com)
第六話 「バードコール 小鳥のくちびる」 第六話 |積木蔵 ふぶき (note.com)
第七話(最終話)「バードコール 小鳥のくちびる」 第七話(最終話)|積木蔵 ふぶき (note.com)
