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「軽度」と言っても、悩みは軽くなかった話


🌷はじめましての方へ
娘の特性と向き合う中で感じた「軽度のむずかしさ」について書きました。
同じように悩む方の心が、少しでも軽くなりますように。

「軽度」と言われたけれど


一人娘なぴは「知的障害のない、軽度の自閉症」と診断されています。
「軽度」というのは一般的に、「相対的にサポートの必要性が低いとされる状態」を指すことが多いです。
けれど、“サポートがいらない”という意味では決してありません。

診断されたばかりの頃、「軽度ということは、障害があまり目立たないってことなのかな?」と考えていました。
確かに娘の障害は、こちらから言わなければ、ほぼ人に伝わることはありません。
ですが、この「伝わらない」や「見た目に分かりにくい」に、今のように手を焼くとは、当初は思ってもみませんでした。

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日常にひそむ“見えにくい努力”


なぴは、定型発達の子が当たり前にできることに、たくさんの努力が必要です。
例えば「教室で、先生の話を聞く」ということにも、いくつかハードルがあります。

聴覚過敏があるので、たくさんの子どもたちがガヤガヤ騒いでいる教室では、音を拾い過ぎてどの音声を聞けばいいのかわからなくなります。
また、視覚優位のため、目の前に気になるもの(クラスメイトの服のかわいい柄や、教室の掲示物が風に揺れる様子など)があると、集中が途切れてしまいます。
手先も不器用なので、作業がみんなから遅れてしまうこともしばしば。
自分は途中でも、次の工程の説明が始まって、本人だけが困ってしまうということがよくあります。

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「がんばればできる」子が抱えるジレンマ


これがいつも全くできないのではなく、本人のがんばり次第でカバーできることもあります。
なので、いつの間にか周りからは、「がんばればできるんだから、やって!」とがんばることを常に求められるようになります。

ですが、本人の中でそれらのことは「できるためにはたくさんの努力を必要とする」こと。
みんなと同じように「当たり前のようにできる」わけではありません。
娘の中では「めっちゃがんばってやった」ことでも、「できて当たり前」「できないのは努力が足りないから」と、さらなる負荷をかけられる。
そんな日々が、集団生活のしんどさにつながっていきます。

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つま先立ちで生活するということ


わかりやすく例えるなら…
目の前に高い塀があって、つま先立ちをすれば向こう側が見えるとします。
周りのみんなは自分より背が高いので、普通に立てば向こう側を見ることができます。
ここで質問ですが、この「常につま先立ちを必要とする場所」に、皆さんはいつもいたいと思いますか?
普通、踏み台を持ってくるとか、もしくは塀がもう少し低い場所に移動するなど、何か工夫するのではないでしょうか…

この「つま先立ち」を常に要求されてしまうことが、娘の日常のつらさと考えてみてください。
がんばりの程度としては「ほんの少し」です。
でも、これが常に続くことと、当たり前に要求されることを考えたら、「やってらんねー!」となるのも無理はないのではないでしょうか…
(言葉がきたなくてごめんなさい💦)

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名案の裏にあった“サバイバル術”


それでも幼稚園の頃は、大好きな先生や気の合うお友だちと遊べることを心の糧にして、毎日元気に登園できていました。
ですが、ある時こんなことがありました。
給食セットのタオルが謎に臭うのです。それも娘の苦手な牛乳の臭い。
娘に「もしかして牛乳こぼしちゃって拭いたの?」と尋ねると、娘からは意外にもこんな答えが。

「あのね、牛乳、みんなにがんばれって言われたから、口に入れたのを内緒でタオルにペーってしたの。そしたらお友だちが飲めたーって喜んでくれたの♪先生からも怒られなかったよ!」

目をキラキラさせて“これぞ名案!”と言わんばかりに答える娘を見て、私は愕然としました。
娘は牛乳が苦手なので、量を「コップに数滴」とかなり減らしてもらってはいました。
でも、それすらも苦痛で、本人なりの苦肉の策としてやったことだったんです。

このことを担任の先生に伝えると、後日こんな報告が。
「床に落ちちゃったおかずを、残していいですか?と言ってくることがあるのですが、今日改めてよく見ていたら、なぴちゃんはわざと床に落としていました」とのこと。
要するに、「落ちちゃったから食べられない=残してもいい」という状況を自ら作り出していたのです。

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誤学習が生まれる環境とは


本来、食事を残さないように指導するのは、“食べ物を大切にする気持ち”を育てるためのはずです。
でも娘は、“残してはいけないなら、苦手なことは隠すしかない”と誤って学んでしまっていました。

私はこのことが起きる前から、幼稚園には「偏食があるので、苦手な食べ物は少なめにしてください」と伝え、
娘には「どうしても食べられないときは『残してもいいですか?』と先生に言うんだよ」と教えてありました。

ですが、幼稚園では給食の量こそ調整はしてくれていたものの、完食できないときに「あと一口だからがんばって」と毎日のようにがんばりを要求されていたのです。

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支援の“微調整”で変わること


この一件で私たち大人の配慮の仕方が間違っていたことに気づかされました。
もちろん、本人には何の責任もありません。
この日を境に「本人が食べ切れないときは『残してもいいですか』と本人が言ってきたことを評価して、残すことをそのまま許可してほしい」と配慮の内容を変更しました。
幼稚園としては、ただでさえ食べる量も種類も少ない娘のお残しについて、最初こそ難色を示していましたが、誤学習している事実を受けて、その後は本人の食べられる量だけ食べることを認めてくださいました。
また、児発でも「給食で全部食べる前にお腹いっぱいになっちゃった時はどうする?」などのSSTを導入してもらい、望ましい行動を促してもらいました。
すると、娘が食べ物をわざと床に落とすことも、タオルに牛乳を染み込ませてくることも無くなりました。

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助けを求める力を奪わないために


この出来事から、娘が普段、多くの苦痛を感じながら生活をしていることと、
「困ったときには助けを求めるように」と教えていても、それを受け入れてもらえないことが続けば、もはや助けを求めることさえできなくなってしまうということに気付かされました。

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“楽しい努力”が、新しい挑戦につながる


努力して何かを成し遂げることは、たしかに素晴らしいことです。
ただそれは、挑戦してみたい気持ちがあって、前向きに取り組める場合のことであって、どんなにがんばっても評価してもらえず、さらに努力を要求される環境は、人を疲弊させます。

大切なことは、やみくもにがんばらせることではなく、ハードルをできる限り低くして、努力しなくてもできるように環境を整えること、もしくは本人ががんばってるとは気がつかないくらい、努力の過程を、“ワクワクできる楽しい時間”にしてしまうこと。
その環境で成功体験を積むことが、本人の自信と安心を増やし、新しい何かに挑戦する意欲へと繋がっていくと思うのです。


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