野蛮と思想 ・3
前回はこちら。
犬の話つづきで言えば、太宰治に「畜犬談」という小品がある。名作である。文章の出来は太宰作品中屈指である。ひょっとすると最高傑作かもしれない。
犬の野蛮性を嫌っていたが、野良の子犬になつかれてやむなく飼うことにする。しかし引っ越しもあり、犬の皮膚病もあり、処分のため毒殺することにする、という話である。結末はお読みいただきたい。
なんてことはないホノボノ間抜け系の話なのだが、驚異的な文章力だけで読ませる。なぜ作者はこんなに文章に気持ちが乗ったか。それは犬の持つ凶暴性が(文中の表現とは逆で)太宰にも共通するものであり(だから犬が気になってしかたがない)、同時に実際に太宰が、女を毒殺したことがある人間だからである。
毒殺事件は一応、心中未遂ということになっている。しかし太宰はそれ以前に、睡眠薬を飲んで自殺未遂して助かっているのである。だから実質的に、悪意がある。心中というより実質的に殺人である。性根の部分でこの作家は、人を殺したい、生死のちまたに彷徨いたい、そこが帰るべき場所であるという感覚を持っている。文明人ではない。噛みぐせの除去できていない和犬である。実際畜犬談の「犬」を「女」に全て置き換えても、全く矛盾がない。女を主題にした似たような事件がもしかしたら、山梨時代にあったのかもしれない。
太宰とこの殺傷願望が共通するのが、夏目漱石である。太宰は直接暴力は振るわなかったが、漱石は自分より弱い妻や子どもには暴力をふるった。男の子なんぞ殴りつけて倒れたところを繰り返し蹴りつけた。当たりどころが悪かったら死んでいたが、運良く助かり、息子にトラウマ植え付けただけで終わった。陰湿に人間を毒殺しているわけではないから太宰よりはマシなのだが、逆に言えばこんな人物でもマシとなるのだから、文学業界の人格の基準値はいささか低きにすぎるようである。
そんな漱石の露骨な攻撃性というか、権力欲が発揮された作品が「草枕」である。冒頭の自閉正当化文章に騙されて出世間の作品と勘違いされることが多いが、さにあらず、小刀が似合う女性と一緒になって、日本の歴史を一から作り直そうという野望が内包されている。
実際主人公の那美のモデル、前田卓(まえだつな)は後に辛亥革命の手助けに従事することになる、国士とも言える女性だった。清帝国を瓦解させたのだから、殺傷能力は高い。その野犬のような女性でも、二・二六事件には怯えた。そして太宰も二・二六事件には否定的だった。
「関東地方一帯に珍らしい大雪が降った。その日に、二・二六事件というものが起った。私は、ムッとした。どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。
実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。激怒に似た気持であった。
プランがあるのか。組織があるのか。何も無かった。
狂人の発作に近かった。
組織の無いテロリズムは、最も悪質の犯罪である。馬鹿とも何とも言いようがない。
このいい気な愚行のにおいが、所謂大東亜戦争の終りまでただよっていた。
東条の背後に、何かあるのかと思ったら、格別のものもなかった。からっぽであった。怪談に似ている。」
太宰、漱石、前田卓、彼らに共通するのは、文明化されていない野生の殺傷本能であり、それと隣り合わせにある野性的なカンである。二・二六当時漱石は死んでいるが、生きていれば不快になっただろう。二・二六の青年将校たちは、軍事権を掌握しさえすれば天皇が味方につくと勘違いした。しかし自分自身が任命した総理大臣経験者(高橋、斎藤)を殺した勢力を、天皇が認めるはずがない。認めれば以後誰もついてこなくなる。総理任命不能となる。反乱軍はなぜそんなこともわからなかったか。憎悪する人物の殺傷にのみ興味が集中し、自らを突き動かす殺傷本能に無自覚であったからである。
青年将校も、太宰、漱石、前田卓と同じく、噛みぐせの除去できない和犬であり、内なる殺傷本能という点では共通している。ただ青年将校はそれを自覚せず、太宰たちははそれを自覚していた。自覚して制御しようとしていた。もっとも制御しきれず女を毒殺したり、子どもを蹴り上げたりしたのだから、決して善人ではない。ただ、自分の事を善人だと勘違いしなかったというだけである。紙一重の差なのだが、その紙一重が大きな結果の差となるのだから世の中は恐ろしい。
青年将校のような内なる殺傷本能に無自覚な種族は、やがて太平洋戦争をおこして、自国国民を大規模に殺傷した。死者の6割以上が戦病死、餓死である。つまりアメリカに殺されたのではなく、参謀本部が日本人を捨てて殺していった。棄民である。同じようなことは最近も繰り返されている。平成時代多くの日本人が自殺した。年平均2万人台だった自殺者数が、3万人台に高止まりした。余剰の自殺者は累計で12万人にのぼる。日露戦争よりも多い損害である。これまた実質的に棄民であった。悪夢のような棄民を実行したのは、日本人の内なる殺傷本能である。自覚されざる殺傷本能である。
現在コロナの影響で、困窮者が続出している。しかし一方で「いざという時の準備をしていない奴がわるい」「国家財政のほうが重要だ」と連呼する人が後を絶たない。彼らを突き動かしているのも、自覚されざる殺傷本能である。ただひたすらに殺したい、噛みたい、でもそんな自分を認めたくないから、自覚がない。自分を善なる存在と思いたいから我が身を振り返らない。二・二六の青年将校が、輪廻転生して財政破綻論のエコノミストとなったのだろう。太平洋戦争の参謀本部が、輪廻転生して財務省になったのだろう。
我々日本人は残念ながら、この殺傷本能から離脱できない。私自身にも内にその本能は残存し、読者の方々の内にも残存している。殺傷本能の自覚は、野生のカンの自覚とおそらく共通している。内なる殺傷本能から目をそらした瞬間に、日本人はカンを喪失する。青年将校たち、軍参謀たちのように、当然わかるべき事がわからなくなる。漱石や太宰が重要な存在なのは、そのどうにもならない噛みグセを糊塗しようとしなかったからであろう。善人ではなかった、しかしカンの良い人物であり続けれたからであろう。では三島はどうか。次回「豊饒の海」、第二作「奔馬」から考えてみたい。
