見出し画像

「アステロイド・シティ」あらすじ解説【ウェス・アンダーソン】


はじめに

本作は失敗作です。難しく作りすぎて楽しめない作品になっています。なんでそんなに難しい作劇をしてしまったか。
作中に「挑み続ける」天才少年が出現します。屋根から落っこちることに挑んだり、唐辛子を食べることに挑んだり、もちろん全て悲惨な結末に終わりますが、それでも挑み続けます。少年の行動はアンダーソン監督の気持ちを表現しています。

少年父「なぜ挑み続ける?」
少年「わからない。たぶん恐いからだと思う。何かに挑んでなきゃ誰も気付かない。僕の存在なんて」

実際アンダーソン監督の無茶な挑戦のせいで、私は膨大な時間と労力を費やして本作を読み解きました。あまりに大変でしたのでウェス・アンダーソンの名前は絶対に忘れません。一生憶えています。

本作は面倒な工夫を4つぐちゃぐちゃに組み合わせています。
1、キャラ合成
2、枠物語
3、メタフィクション
4、デザイン暗示
です。追って説明しますが、そのまえにあらすじを書きます。

あらすじ

人口の少ない砂漠の街に、天才少年たちが集められます。彼らの発明に賞を与えるためです。

ところが米軍主催の式典の最中に宇宙人が襲来、

5000年前に落下してきた隕石をなぜか盗んでゆきます。
軍は一帯を封鎖。情報が漏れないようにしたつもりですが、集めたのが天才少年たちだから具合が悪いです。知恵を振るって情報を外部に発信してしまいます。

軍は犯人を捜します。でも特定できません。1週間天才少年たちと親と旅行客を拘束しました。さすがに反発食らいました。やむなく解放しようとします。

その時ふたたび宇宙人が来ます。なぜか隕石返してきます。大騒ぎになります。軍は再度封鎖を宣言、拘束されていた連中は怒って大騒ぎ、、、の途中で主人公は芝居がわからなくなって舞台裏に引っ込みます。

テラスで外の空気を吸っていると出番のなくなった亡妻役の女性に邂逅し、

彼女と「没になった台詞」を言い合います。
翌朝、主人公一家の目が覚めると、皆解放されて立ち去っていました。

砂漠の街は元の姿に戻りました。(あらすじ おわり)

なんのことはない、宇宙人が隕石を盗んで返却するだけの話です。ほとんどなんにも起きません。観ていてテンションも上がりません。
以降
1、キャラ合成
2、枠物語
3、メタフィクション
4、デザイン暗示

順に説明してゆきます。

1、キャラ合成

本作には作品自体を書いた脚本家が登場します。コンラッド・アープという名前です。つまり、本作は「闇の奥」という作品の後継作品です。

イギリスの作家ヨセフ、コンラッド作「闇の奥」は後世に大きな影響を与えた作品です。

私の勝手な命名ですが「キャラ合成」という小説技術を使っています。「闇の奥」は作中さまざまな人物が登場し、最後に彼ら全てを合成したキャラが出現します。欲望満載のモンスターのような男です。西洋文明の闇の奥は、単に欲望が肥大化した英雄もどきだったのです。

本作の場合には、5人の天才少年少女が登場します。
彼らの発明品は、
光線銃

飛行装置

新元素

植物の促成栽培(ただし植物は有毒になる)

および天体への映像投影装置です。

最後のは主人公の息子のものですが、それ以外の4者の発明はいずれも軍時利用に直結するものです。実際今回の少年少女集合の主催者は米軍です。特に新元素と有毒植物栽培は、どこか核兵器を連想させますね。ところがこの街は、近くでしょっちゅう核実験やっているのです。

テクノロジーは素晴らしい、それを発明する才能も素晴らしい、しかしそれを合算するとアメリカという軍事国家になります。「闇の奥」の様々なキャラの合算がモンスターキャラであったように、無垢な天才少年少女の合算は、核軍事国家アメリカになるのです。

2、枠物語

本作は、ナレーションで始まります。
「今夜の番組ではアメリカで上演される、新作劇の創作過程を舞台裏から見ていきます。
この「小惑星の街」は、番組のために創られた架空のドラマです。登場人物も架空、テキストも空想、起こる出来事も作り話、ですが現代演劇の内幕を忠実に再現しているのです」

先ほどよんでいただいた「あらすじ」は、この「小惑星の街」のあらすじです。
「小惑星の街」が架空であるならば、それの上演過程も架空のもののはずです。つまり作品内で架空でないとされているのは、ナレーションのみです。こういう物語を「枠(わく)物語」と呼びます。
例えば「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)も枠物語です。シェラザードが王様に語り始めるとこから記述が始まります。語りの中身が例えば「シンドバットの冒険」です。ちょうど額縁に入った絵のように、フレームの中に物語が格納されています。箱の中に物が入っているイメージでもよいです。

本作は三層になっています。
第一層:テレビ番組としての「現代演劇の創作過程の舞台裏」
第二層:そこで紹介される舞台裏のシーン
第三層:実際に上演される演劇の中身

第三層だけがカラー映像、
他はモノクロです。

3、メタフィクション

枠物語とは別に、メタフィクションという文学技法もあります。文学はもちろんフィクションなのですが、作品の中で突然現実の作者の近況を叙述したりして、フィクションのフィクション性を自分で破壊してゆくスタイルです。
例えば志賀直哉の「小僧の神様」もメタフィクションです。

本作は枠物語でもあり、かつメタフィクションでもあります。

第三層には存在しないはずの第一層のナレーターが突然出現したりします。

前述のあらすじのテラスでの亡妻役の女優との会話のシーンも、

第三層を演技中に、主人公が役の意味が理解できなくなり、

舞台裏に引っ込み(引っ込むと同時に第二層のモノクロになります。なぜか舞台裏に第一層のナレータも居ます)、

テラスに出て女優と話します。

第三層から第二層に歩いて移動しちゃうのです。メタフィクションです。
以下女優との会話を全文掲載します。

亡妻役の女性「こんにちは」
主人公「僕の妻役の女優さんか。出番はカットされた。写真は使っている」
亡妻役の女性「セリフ 覚えてる?」
主人公「いいや」
亡妻役の女性「夢で会うの 宇宙人の星で」
主人公「マグナヴォックス27 実際はその衛星だ」

以降セリフの再現

主人公「宇宙人と話したか」
亡妻「まだよ」
主人公「怒鳴ったり笑わせたりしたかと」
亡妻「宇宙の秘密を聞いたりしてね」
主人公「そうだね」
亡妻「彼(宇宙人)はきっとシャイよ」
主人公「ウッドロウ(息子)もだけど、成長するよ 母親がいなくても」
亡妻「あの子(ウッドロウ)は遅咲きなの でも、新しい母親が必要よ」
主人公「なぜ? どうやって? ムリだ」
亡妻「きっと試してみるべきなの。私は戻れないから」

(主人公は亡妻の写真を撮って泣く)

亡妻「現像できるかしら」

主人公「僕の写真だからね」

そしてネガが映ります。

このネガが現像されて、実は主人公の息子が持っています。息子は宇宙人の襲来前にこの写真を胸ポケットから出します。

ところが、主人公と女優のボツになった会話は、ストーリーから考えて宇宙人の襲来の後なのです。宇宙人の襲来の後に夢の中で撮影した写真が、宇宙人の襲来の前に息子の胸ポケットに入っている。メタフィクションだから当然なのかもしれませんが、時系列までグジャグジャになっています。イカれた作劇です。挑戦しすぎです。

このテラスシーンは第二層なのでモノクロで撮影されていますが、語られる内容は第三層、「小惑星の街」のセリフです。ということは、第2.5層です。

しかしセリフから判断するに、内容は主人公の夢の中のシーンです。もしも実際に第三層で演じられていたら、第3.5層と言われるべき内容でした。ではこのテラスシーンを第何層と呼ぶべきでしょうか。第2.75層でしょうか。第3.25層でしょうか。それとも「モノクロの第三層」と呼ぶべきでしょうか。
監督は枠物語にメタフィクションの枠移動を取り入れて、やたらめったら複雑にしているのです。

ただし内容的には息子に対する母の愛情のシーンでして、そこは常識的です。粉雪を舞わせて非常に美しく演出されています。

母は水に浸かった写真が残されています。

母の骨は娘たちによって埋葬されるのですが、シャワースペースのすぐ隣です。

そして出て来るだけで粉雪が舞う。母はアメリカという心の砂漠を潤す水なのですね。

4、デザイン暗示

砂漠の街には鉄道と道路が通っています。鉄道と道路は直角に交わっています。鉄道では核兵器が運搬されています。主人公たちは道路を車でやってきました。

さて第二層で演出家が、続きが書けなくなった劇作家にストーリーの展開を考えてもらうために、俳優を集めて眠る演技をしてもらいます。
ひな壇に俳優たちが座っているのですが、ひな壇がかなり変です。
正面から見ると、一つながりなのですが、

後ろから見ると、左右に分かれて真ん中に通路があります。意味不明です。

俳優たちは眠りながら「目覚めたければ眠れ」を連呼します。眠るとはつまり夢を見る事で、夢を見ることで亡妻に出会い、彼女の息子への愛に触れ、母性に導かれて正しい生き方に目覚めるという意味です。

すると横から宇宙人が出て来て、演出家の前に止まり、そのまま通路を通ってひな壇の後ろまで移動します。ここはテラスでの会話の直後でして、合わせて劇のクライマックスです。

ここが本作最大の難所です。宇宙人は横に動いて、その後縦に動きますが、この映画の中で縦横に動くのは、冒頭の列車と車しかありません。

つまり

です。
宇宙人は

こう動きます。縦横の動きで鉄道自動車シーンと宇宙人シーンを共通させて、意味を取らせようとしています。わかりにくいですね。

作家から見るとひな壇は繋がっており、縦には動けないのですが、眠ることによって(夢を見ることによって)縦に動ける。縦の道は家族の道、母性の道である。そういう意味だと思われます。奇抜すぎて私もいまいち自信がないのですが。

ただし、作家から見ればやはり縦への道は塞がって見えるわけで、

実際作家は初演から半年後に自動車事故で死ぬとナレーションされます。

冒頭でも、末尾でも、縦の道を通る自動車が、警察に追われているシーンが映されます。

作家は国家権力に追われて死んだのでしょう。縦の道もやはり国家に管理されているのです。それでも縦の道を通るべきだ、母性の道を進むべきだ、という主張だと類推されます。

まとめがわりの批判

いくらなんでも奇抜すぎる工夫の連続でして、読解しながら呆れ果てました。以前やったプーシキンの「スペードの女王」以来の感覚です。

デザイン能力の高い監督が、デザインで意味を取らせようとするのは、フェリーニのフェリーニの「8 2/1(はっかにぶんのいち」以来です。

この作品は主人公の少年時代の心境を、

女優が再現する、

というところが理解できないと全体の意味が取れません。三角形を共通させて表現しています。
本作も「8 2/1」も、大量のスクリーンショット取ってようやく読解できました。はたして手間をかける価値があったのかどうか、そこのところは私も考えたくありません。

主人公が家族の再建に向かうシーンで、彼は

トースターに手を当てて自分から火傷します。核兵器が運びこまれる町の話ですから、「他国にやった原爆投下の痛みを自分達も背負わなければアメリカの家族は再生できない」という意味だと、解釈できないこともないですが、もうどうでもよくなりました。説明していないメタフィクション系の工夫もありますが、読者様の負担になるだけと判断して掲載していません。

母性の回復、という意味ではそれなりに良い作品なのかもしれません。でも、nagiさんの以下の記事参照いただきたいのですが、

アメリカは1932年の小説でも、それを主張しているのです。100年近く前です。そしてフォークナーという作家は、

アンダーソン監督に負けず劣らずというか、より悪質な物語構成探求マニアでして、文豪なのか変態なのかよくわからんレベルです。

ここで冷静に考えましょう。物語の形式をむやみに複雑化させるのは、父性的な行為なのでしょうか、母性的な行為なのでしょうか。私には母性的な行為とは思えません。起こったこと受け入れるのが母性であり、時間に素直に寄り添うのが母性だからです。
つまり本作やフォークナーの作品は、それ自体父性的です。父性的作品は無論、社会を父性的にしてしまいます。中身で母性を訴えても、外面を父性でガチガチに固めてしまったらなんにもなりません。空爆国家アメリカは、実は彼らが作っているのではないでしょうか。


いいなと思ったら応援しよう!