アメリカで学んだ「たかが仕事」の考え方
ナスさんが辞めることになった。
ナスさんというのはもちろん仮名でぼくの同僚のことだ。同じプロダクト開発チームで一緒に開発してきた仲間だ。
浅黒い肌にちょっとぽっちゃりした体型、そして趣味の良いまん丸のメガネがチャームポイントだ。年齢もだいたい同じ30代半ばということ、加えて同じプロダクトマネージャー(PM)という職種で仕事をしていることもあって彼とは仕事やプライベートにまつわるあれこれをフランクに話すことが出来た。そしてなによりもアメリカに来て間もないころに、なかなか周囲に溶け込めないぼくを見かねて優しく言葉をかけてくれた。端的に言えばナイスガイなのだ。
そんなナスさんが辞めるという電撃ニュースを耳にした。きっと素敵な転職先を見つけたんだろうと察しはついたけど、一体全体なんで転職をするのだろうか?ナスさんは転職を決めた途端に1ヶ月ほどの長い有給を取ってしまったが、ぼくはその間ずっとナスさんの転職理由についてあれこれと考えを巡らせることとなった。
そうこうしているうちにナスさんが休暇から帰ってきた。オフィスで平然とぼくの目の前のデスクで働いている。ぼくは単刀直入に聞いてみることにした。
転職おめでとう!ちなみになんで転職することにしたの?
するとナスさんはにっこりと笑顔を浮かべてこう言った。
It's money (お金だよ).
もっと今よりもお金をもらえる職場が見つかったからそっちで働くよ!
ぼくはそのどストレートな答えに目を見開いた。あっけらかんと「もっとお金がもらえるから」と嬉しそうに語るナスさんを前にして、胸に秘めていたウェットな感傷など吹き飛んでしまった。そこまでクリアなレスポンスをもらえると逆に心地よいぐらいだった。
それでいて「なるほど、やはりそうか」と膝を打つところがあった。なぜならその回答はアメリカに来て決して初めて聞く類のものではなかったからだ。
そのナスさんとの短い会話は、ぼくがアメリカで働くようになってから感じていたある種の"違和感"をクリアにするものだった。これを題材に少し考えてみたい。
仕事 = お金を稼ぐ手段
ファイナンシャル・アナリストとして下積みを重ねた末に「キャリアの方向性を変えねば」と一大決心をしてMBAに通い、その後PMとして約6年間も米ビッグテックの一角で踏ん張ってきたナスさん。彼のハードな働きっぷりからは会社や仕事への思い入れのようなものも感じられたが、「お金がもっともらえるから」というシンプルな理由であっさりと他の会社への転職を決めてしまった。
その根底には「仕事はお金を稼ぐ手段である」という割り切った考え方があると思う。
一生懸命であることに変わりはないし、責任感を持って仕事をしていることにも変わりはない。ただそこには仕事と自分との間に明確な境界線を設けているクールな姿が見て取れる。言い方を変えれば、仕事にすべてを求めるということはしない。それはたとえば"やりがい"とか"豊かな人間関係"とか。仕事を「自己実現を果たすための"唯一"のツール」とは見ていないのだ。
じゃあ仕事に求めるのはなにか?その最低ラインでありかつ最高の目的が「できるだけ多くのお金を稼ぐこと」だ。
ぼくがそのように思う理由は、これまでに何度もそう思わされる例を見てきたからだ。ノリノリで大事なプロジェクトを回していると思ったのに「来週からMetaで働きます」と言って出ていったPM。昇進を夢見て頑張って仕事に励んでたのに「T-mobileでマネージャーやります」と言って辞めていったエンジニア。そんな彼や彼女に転職の理由を尋ねると「そっちのほうが待遇良くてさ」とこれ以上なく明瞭な答えが返ってきたものだ。
彼らは「たかが仕事」と思っている節がある。だから必要以上にやりがいや有意義な人間関係を求めない。その淡白な態度故に、もっとサラリーをもらえる仕事が舞い降りてくるとフットワーク軽く今の職場をあとにする。
誤解していただきたくないので伝えておくと、アメリカ人がみんなお金を理由に転職をしているとは言わない。また日本人が転職でお金を気にしないなんてことを言うつもりもさらさらない。そのどちらも事実ではない。ただぼくが言いたいのは、アメリカ人のほうがお金の優先順位についてクリアかつそれを恥ずかしげもなくコミュニケーションする人が圧倒的に多い、ということだ。細かいデータに基づく見解ではないけれど、ビッグテックの一企業の中で繰り返し見てきた経験に基づいた意見として聞いてほしい。
ぼくは最初このアメリカ人のドライとも言える仕事への姿勢に抵抗があった。なんだか情熱に欠けるようで物足りない感じがした。少なくともぼくが10年ほど働いてきた日本の仕事環境にはない異質なようなものに思えた。
でも今は少しだけ違う。冷静に見つめたときに立ち上がってくるのは、この仕事に対して一定の距離感を持つことによる確かな効用だ。
仕事 = 自分ではない
日本にいたとき、仕事で「当事者意識を持って働く」と言ったときそこに仕事とプライベートの合間がなくなってるような感覚があった。そういう姿勢が偉いと言うような風潮すらあったように思う。
プロジェクトが忙しければ土日を返上して仕事することを"責任感の表れ"として見なしたり。はたまた旅行中でも仕事に関する電話がかかってきたら出るのが当然と考えたり。そうやって文字通り自分のエネルギーや気持ちを全面的に仕事に投じる姿を見て「あの人やる気あるな」と考えたり。
でもぼくは思うのだけど仕事を自分ごとに思い過ぎるからこそ、入り込み過ぎてしまい"感情的になりすぎる"ということが起きるじゃないだろうか。その結果として心身を害するレベルでストレスを抱えたり、鬱になったり。
仕事でポジティブな評価をもらったら、それを持って"自分全体"が肯定されたものとして見なす。逆もまた然りで、仕事に対してネガティブなことを言われるとそれを自分自身への攻撃・蔑みとして捉える。良いときはいいかもしれないけれど、悪いときにはまるで自分という存在がまるまる否定されたようなショックを受けて悲しみに暮れる。
まるで「仕事の評価 = 自分の価値」と考える図式がここにはある。
ぼくは日本で働いているときに鬱になって休職する人を何人も見た。それに対してぼくは今の職場のほうが仕事はキツいはずなのにそういうかたちで鬱になる人を見たことがない。
それは仕事と自分を同一視してないからだと思う。仕事は結局替えが利く。今の仕事がダメになったら他の仕事に取り替えればいい。でも自分というものは替えが利かない。自分は一度"ダメ"になってしまうとまた元気な自分を取り戻すのは簡単ではない。
アメリカ人は深いところでこのカラクリを理解しているように思う。そしてこの理解があるからこそ仕事に一線を引くことで自分をダメにするということから上手く回避しているようにぼくには見える。
アメリカがよくて日本がよくない、といった短絡的な主張で結ぶ気はない。けれど「たかが仕事」と捉えることで大切な自分を守るという態度から学べることもきっとあるんじゃないか。そんなことを思う今日このごろです。
かくいうぼくも仕事に気持ちが入り過ぎて「どうしてあの人は思い通りに動いてくれないんだろう?」とか「なんでぼくがこんな仕事しなきゃならないんだろう?」とくよくよ考えることが多かったタイプだ。でもイライラしているときに「たかが仕事」と思うことで落ち着いて仕事に取り組むことが出来るようになった。これは個人的には大きな変化だった、ということを付け加えておきたい。
ナスさんはTikTokに転職した。中国発のショート動画のプラットフォームであるTikTokだ。そのPMを担当するとのことだった。彼が率いる開発チームは米国にはなくエンジニアは皆中国にいるらしい。「それって仕事しづらくない?」と聞いてみた。すると即座にこんな回答が返ってきた。
まあいいよ、そんなことは。
サラリーが2倍もらえるからそれで十分さ。
上手くいかなかったらまた転職をすればいいだけのことよ。
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今日はそんなところですね。ここまで読んでくださりありがとうございました。
旅先のニュージャージーにて。対岸からニューヨークを眺めながら。
それではどうも。お疲れたまねぎでした!
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きっとおもしろいこと書きますので!