短編小説 | わたし物語
- 1 -
窓辺に置いた紫陽花を眺めた。
彼が、ずいぶん前に『きみに似ている』と言って買ってくれた花。
瑞々しかった青は、今ではくすんだ灰色になり、しわしわの汚れた和紙のようになった質感のそれは、もう紫陽花とは呼べないだろう。
花の死骸。
わたしに似てるかな?
***
彼と別れてから、色が消えた。
それどころか、すべての色も音も痛みに置換されるようになった。
街を歩けば、人々の笑い声が全身に刺さった。会社に行けば、上司の無機質な叱責や、同僚の計算高い沈黙で、首を緊く絞められた。料理も地下鉄も空も芝生も色を持たず、無意味で乾燥した世界が広がっているだけになった。
わたしは大人だ。たとえ失恋したって周囲の期待に応え、自分の役割を果たさなければならない。それくらいはわかっている。
でも、何のために?
思えば思うほど、指先は震え、書類の文字は暈けてゆく。わたしは自分が透明な硝子細工になって、ぱりんと音を立てて砕けてしまうのを待っているような心持ちで、会社の席に座って退社までの時間をただやり過ごしていた。
- 2 -
1日の終わりに、わたしは自分を麻痺させるための儀式を始める。
繁華街のバー。隅っこの席。
赤い液体がトリガーになる発露だけが、わたしがまだ生きていることを教えてくれる。
そしてアルコールが血液に混ざり、脳の奥がぼんやりと痺れてくると、ようやく仕事での屈辱や、彼に言われた最後の言葉の呪詛が、遠くへと流れてゆく。
「ねぇねぇ、どっか行こうよ」
バーカウンターの隣に座った、名前も知らない男が謂う。
男はずっとわたしに話しかけてきていたので、わたしはぼんやりと麻痺した脳で、応え、笑い、その男の容姿や仕事を褒め、反射的に会話をしていた。
男の目には、わたしへの敬意も愛情もない。ただ、夜を埋めるための空洞を探しているだけ。空洞に繋がる湿った温かい穴に潜りこみたいだけ。見え透いている。ばかじゃないのか。
でも、今のわたしにはそれがちょうどいい。
***
ベッドの軋む音、重なる吐息、肌と肌が触れ合う瞬間の熱。
誰かに所有されたい欲を満たすために、その刹那の温度だけを探った。
アルコールの力で思考を奪われた肉体は、ただ其処に転がって、歪な充実感だけを求める冷えた体温だった。その状況は、暗闇に溶けて目を硬く瞑れば、愛されているという幻想を得ることができたから、わたしは毎晩それに溺れる事にしていた。
虚しいだけとか、危ないことだとか、破廉恥だとか、人はいろいろ謂うだろう。
では、ほかに、どうしろというのか。
泣けばいいのか。叫べばいいのか。あるいは彼の名を大声で呼び、己の不幸な身空を呪い乍ら、部屋でぼそぼそとコンビニのお弁当でも食べて、ひとりで冷たいベッドに潜りこめとでもいうのか。
わたしにだって、自分の人生の選択を間違う自由くらいある。
- 3 -
わたしがnoteに書く文章は、わたしわたしのわたしに溢れる、どこまで行ってもわたしの物語だった。
ぐでぐでに酔っぱらって帰宅したわたしが気紛れに始めたその日課は、自己憐憫をフライパンで軽くソテーし、自己愛をぐつぐつ煮詰めたソースにのせて、大きな白いお皿に上品に盛り付けられたゲロだ。
テキーラの瓶から直接、メキシコ生まれのサボテン酒をちびちびとやりながら、ざく切りにしたライムを齧る。
わたしは薄氷のような自尊心をパリパリと割ると、その奥にある得体の知れない感情をスプーンで胸から穿りだしては、ラップトップのキーボードにべちゃべちゃと叩きつけた。
意外と人に読まれたけど、リプライなんかで共感を集めれば集めるほど、自分の感情が特別じゃなくって、沢山の人が同じような経験をしていると解って不快になった。
共感されるっていうのはそういうことだ。
わたしは特別じゃないってことだ。
痺れ切った脳で、わたしは一晩中、特別じゃない特別な苦しみを書き続けた。
- 4 -
翌朝、目覚めたわたしは朦朧としていた。
まぶたを持ち上げようとするだけで、鉛のような重みが全身を支配しているのが解った。
ようやく目を開けても、視界は霧がかったようにぼんやりとしていた。まるで世界がわたしを拒絶しているかのようだ。
やっとの思いでベッドから這い出した。全身が痛み、震えが止まらなかった。
なにか重大な病気かもしれない。
わたしは、これまで、自分の若さと命を、まるで尽きることのない泉のように浪費してきた。その報いがきたのだろうか。
夜毎に好きなだけ明け方まで遊び回り、不特定多数の相手との自由奔放なセックスをした。これまでの幾夜もの傲慢な振る舞いと、その残滓が次々と頭に浮かんでは、消えた。
痛い。苦しい。ただただ、苦しい。
死にたくない。
いやだ!死にたくない!
わたしは震える指でスマートフォンを操作し、自分を襲っている症状を検索する。優秀な検索エンジンはすぐに的確な解答を表示した。
『二日酔いの対処法:』
わたしは、床に転がっている空になったテキーラの瓶を見つめる。
(2026/03/03)
