短編小説 #004 | 偉大なる芸術家の苦悩
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男は小説家であった。
父はなかった。貧しい母親のもと、妾の子と蔑まれ、嘲りと嘲笑の中で育った。
同年の子供達は、男の侘びしく草臥れた服装や持ち物をよく揶揄ったので、少年の頃の男は他人の嘲りから逃れるため、目立たぬよう小さく縮こまっているのが常であった。
本来であれば男の精神の依代となるべきであった母親は、ホステスという職業とその性格から、生活と享楽の海原に翻弄され、その荒波に揉まれ乍ら水面から顔だけ出して呼吸しているような有様で、その依るべき港たる家庭を顧みる余裕などあろうはずもなく、となれば必然我子に愛情を注ぐこともなかった。
心の中に欝々とした仄暗い雲を抱え込んでいた男に唯一安らぎを齎したのは書物であった。
テレビもマンガもスマートフォンも持たぬ男にとって、紙に印刷されたその擦り切れた文庫本は代替の利かぬ宝としか呼べぬものであった。
幼かった男には難しい漢字や謂い回しも多かったが、男はその文庫本の頁を何度も捲り、その小さな脳髄に、文章の骨子を染み込ませていったのである。
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中学、高校と教室の隅で小さく縮まってやり過ごした男は、高校卒業と同時に、とある部品工場に就職した。
工場の仕事は、人間で有りながら機械の一部となることを強いられるようなもので、常人には耐えがたい苦痛を伴うのが常であったが、男は悦んでその工場機械の一部となった。
工場の臓腑の欠片、工場の螺子の一本となることによって、男は役割を得た。是までの人生で一度も役割を演じたことのなかった男にとって、それはこの世界にいることを許されたような望外の喜びであった。
その工場に長く務めるうち、男の真面目な仕事ぶりは高く評価されるようになった。何事にも手を抜かず、コツコツと地道に積み上げる事が重要なこの仕事は男の性に合っていたのだ。
そのうち、男は同じ工場に勤める2ツ年上の女と恋仲になった。
サチコという名のその女は、美人ではないがとても優しい性格で、これまで愛情を全く知らなかった男にとって、それは大層な僥倖と呼べるものであった。
サチコと共に過ごす時間は、男に経験したことのない愉悦を与えてくれたのである。
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しかし、そんな幸せな状態に有り乍らも、男の心の仄暗い雲は、どこかその人生に暗い陰を落としているのであった。
それは男の幼少期の、極端な孤独に起因するものであったことは明白で、それに気づいたサチコは、何か男の鬱積を打開するものはないかと常日頃知恵を絞っていた。
あるとき、サチコはインターネットでno+eというサイトを見つける。
「ねぇ、このサイトに、あなたの苦しかったことを小説にして書いてみたら、少しは気が晴れるんじゃないかな?」
男は怪訝な表情でノートパソコンのモニタを見つめ、暫くののち謂った。
「そっか…書いたらスッキリするかもしれないね…それに僕、ちいさい頃から本をよく読んでいたから、いちど小説なんかを書いてみたいと思ってたんだよ」
こうして、男は小説家となったのだった。
***
暫くして男はサチコに声をかけた。
「サッちゃん、僕、一寸書いてみたんだけどね、どうだろう」
男にそう謂われ、ノートパソコンの画面を男の後ろから覗きこんだサチコは、その文章に思わず目を見張った。

男には文章の才能がまったくなかった。
「え…い、いいんじゃない?」
心優しきサチコは、男にそう答えるのが精いっぱいであった。
ノートパソコンの傍らには、幼少の頃から男が何度も頁を捲ったために擦り切れた愛読書、『大爆笑!おやじギャグ大辞典』のくたびれた文庫本が転がっていた。
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男の実家、即ち男の母親の汚れた家の片隅にゴチャゴチャと物が折重なった一角がある。
その地層の丁度男が小学校5年生頃の層に、男が図画の授業で描いた一枚の画があった。
それは小学生とは思えぬほどに描きこまれた秀作で、一枚の紙の中にこれほどの空間があったのかというほどの色彩と曲線が踊り、その構図はラファエロやミケランジェロを彷彿とさせる非凡なものであった。
その画は珍しく機嫌がよかった母親から絵具セットを買ってもらった男が、喜び勇んで授業で描いたもので、教師も思わず唸ったその力量は、将来の大芸術家の出現を予感させるに十分足るものであった。
しかし、教師の薦めで芸術の道を歩かせようにも、母親が前述の体たらくであった家庭においては、男の才能を開花させる術がなかった。
偉大なる芸術家は、その種が撒かれることもないままに、苦悩せる工場の職員として、その生涯を終える運命にあるのだった。
(2026/02/11)
