あ 2話

バザー準備・女

※虫の描写があります


艶のある緑色の廊下を、保護者たちの上履きが往来している。
ゴム底が高い音をたて、白い跡を残し、すぐに消えていく。
わたしは一人、玄関にしゃがんでバナナをかじる。

扉が開き、背中で風が吹いた。
うっすら、煙草の匂い。
振り返る。

猫。

「あ」と声が出る。

猫はズボンの足の隙間から、わたしを見ている。
まん丸の目。
しゃがんだまま近づく。
牙。
シャーッと言われる。
手を伸ばす。
シャーッ。また言われた。
手を引っ込める。

駆け出す猫。玄関のガラス扉に顔からぶつかる。
わたしはそっと近づき手を伸ばす。
猫は縦に跳んだ。
腹で着地。

「また野良猫連れてきたぁ」
プラカードを持った青野さんが廊下を駆けてくる。
肩にプラカードの角がかする。痛い。
肩を気にしている間に、猫は消えていた。
「林さん、ごめんねぇ」
と青野さん。
わたしは立ちあがり、首を横に振る。

「この人、いつも猫連れてくるの」
と青野さんは誰かにあごを向け、言った。

あごの向いた先を見る。

男。
灰色の黒目。

棒立ちでわたしを見ている。
わたしは目を逸らす。
男のTシャツの英語を読むふりをして、バナナをかじる。

「林さん……」
優しい声で呼ばれる。

わたしは男に会釈をする。
男のズボンの前ポケットから、タオルハンカチがはみ出ているのが見えた。

ワンポイントのワニが、口を開けている。

顔をあげると、男の顔がプラカードに変わっていた。
わたしは止めていた息を吐く。

プラカードはすぐに持ちあがった。
男の顔が現れる。

「あ」
自分の役割を思い出す。
しゃがむ。
茶色い来客用のスリッパを、廊下に置く。

「ありがとう」 
と男は玄関で靴を脱ぐ。

靴下が、水玉模様。
カルピスみたい。

男はスリッパを履いた。
水玉模様が、隠れた。
歩き出した。

わたしは隣に視線を向ける。
スリッパが詰め込まれた段ボール箱。

そのふちに、カメムシ。

指先で触れる。
飛んだ。
曲線を描きながら、プラカード裏側のガムテープ跡に、止まる。
下へ向かってじわじわと這う。
カメムシのすぐ先に、男の頭。

「あ」と声が出る。

男がプラカードごと振り返った。

わたしは目を逸らす。
バナナの皮をポシェットにしまう。

「林さん」
優しい声。

顔をあげる。

「トイレ、どこ?」
もっと優しい声。

二本、指を立て、二階と教える。

「ありがとう」と男。
茶色いスリッパが、ぺたぺたと遠ざかっていく。

手もとを見る。
ピースにした指。ゆっくりパーにした。

もう一度、見あげる。
階段をのぼる男。
左足のスリッパが脱げた。
青野さんが男に駆け寄り、スリッパを差し出した。
「ありがとう」
男は青野さんにも、言った。

ジグザグで曲がり、男の姿が見えなくなる。

止めていた息を吐く。

視線を下ろす。
廊下にプラカードが横たわっている。
保護者たちの足が、大股に跨いでいく。
廊下に上がり、プラカードを起こす。
「バザー会場 入口」の「ー」の上、羽をひらいたカメムシが貼りついている。

右手を伸ばす。
爪で剥がすと、匂いがした。
カメムシは、少し、平たくなっていた。

プラカードをまた寝かせる。

手のひらの上、カメムシに息を吹きかける。
薄い羽が震え、横に転がり、仰向けになった。

キュキュキュキュ……
小走りの足音。

ガツッ。

「うわ」と青野さん。
プラカードにつまずく。
つんのめったまま向かってきた。

前髪が、ふわっと浮いている。
咄嗟に青野さんを受け止め、手を握り合う格好になる。

ちくっ。

「焦ったー」と青野さん。
わたしを見、「今日は頑張ろうね」と笑顔。

その右の目玉。
白目に、赤い血の塊が見えた。

青野さんが背中を向ける。
エプロンの蝶々結び。揺れる。
保護者たちの流れへ混じっていく。

手のひらを見る。
カメムシに、画びょうが刺さっている。

金色の丸い画びょう。
カメムシより、少し小さめ。