プレイブックの世界#008
どれほど時間が経っただろうか?記事を書こうにも何も動かない。右手の人差し指、左足の小指、右脳のひだひだ、心の奥の封鎖された場所、そして蘇るはずの記憶も何年間も冷凍庫に入ってた氷みたいに全く溶けずじっと固まっている。椅子に座りパソコンを目の前にして一文字も手が出なかった時間は1989年に小渕恵三が平成でありますと「平成」という二文字を持ち上げ、そして2019年にいつの間にか「平成」の二文字が表舞台から退き、約30年の一つの時代が終わったぐらいの気がすると言うことが出来るのも俺、岩澤ならではと思うし、そういうことぐらいしか思い浮かばない時間を過ごした岩澤はその平成の間、舌先で上下に、あるいは左右に動かし、考えうる限りの圧力を舌の先端にかけて奥歯と奥歯の隙間を攻め抜いてもなかなか取れない歯に詰まったニラのようにずっと気になることがあった。
「こんな状況にいる俺は記事を書いている場合か?」
不安だ。けど不安の正体が分からない、どうしようもなかった。俺のいる世界はどこなんだろうか?岩澤は考えれば考えるほど、自分がどうしようもない境地にいることを実感し始めた。こんな状況で記事のことに集中出来ない、まずは自分がどうやって元の世界に戻れるかを考えるだろう、普通。それとも俺が世界を元に戻すのか?この状態はみうらじゅんの不安タスティックの中でも最高峰の不安タスティックだと考えを想い巡らすことができるのも、俺、岩澤ならではと思わざるえなかった。

いや、待てよ、そういえばタモリさん、言ってたな。
「これから記事を書かないといけないんだろ」
ということは、記事を書けば、もしかしたら元の世界に戻れるかもしれない。希望的観測?そんなの知ったこっちゃない。完全に世界と途切れた訳ではないはずだ。会長や社長はこっちの世界にいた。どこかにこの世界と行き来が出来る場所があるのだろう。楽観的?でも俺から楽観的な要素を抜き取ったら、相当退屈な男になるだろう。今、出来ることは記事を書くことぐらいしかなかった。そこから変化が起きるかもしれない。起きるわけも無かった。岩澤は周りのウロチョロしている映画関係の役者や制作陣をチェックした。誰も岩澤に注意を払っている人はいない。岩澤は認知されていない。とにかく今の俺は覚悟が必要だ、いや諦めかもしれない。机の上の取材道具をカバンに入れて、そっと部屋の外に出た。岩澤はトイレに向かった。
岩澤「記事の出来が俺の人生を左右する」
岩澤は着替え、トイレの洗面台の前で鏡に映る自分に告げた。きっとこれまでの人生で何百回も言った言葉だ。人生は変わらない、右往左往しただけだった。これまで岩澤は人生の節目だと感じた時、そして無為な覚悟を決めた時、かりそめの勇気を得るために自分自身を酔わす曲が必要だった。見たことが無い景色をみるために、行ったことがない場所に一歩踏み出す勇気のために。おい岩澤、今度こそ、フレッシュな風景を見たいんだろ?今、岩澤の頭の中にはどんな曲が流れ入るのだろうか?岩澤の耳の中を覗いてみるか。
「過ぎたことは過ぎたことであって、今の今はこれからの前触れ」
これはナオヒロック & スズキスムースじゃないか?あれ、止まった。おっ、違う曲が流れた。
「たぶん23歳 うーっ たぶん、たぶん、たぶん23歳 うーっ」
岡村靖幸の『ぶーしゃかLOOP』うーっ、たぶん、たぶん、岩澤、お前、たぶん30歳超えてるだろ、うーっ、しかし気持ちはまだ23歳ということか?
「Yo, ビアッチ聞いてるか?お前のことだぜイワッチ
夢か現実どちらか知りたい? それは共存しているんだ」
おっ、これはタモリさんa.k.aアンクルTの曲か??
んっ、今度は英語の曲。
「Freedom or jail, clip's inserted, a baby's being born….」
Nasの『Nas Is Like』のイントロが流れ始めた。人生二択の心境なんだろうか?自由か刑務所。でも岩澤の住む世界には無い世界だ。

岩澤は想像した、FreedomとJail。無い世界を想像する岩澤。無いからこそ想像できる岩澤。何も考えてないから想像できる岩澤。全て含めてそれも岩澤。そう、それがきっと岩澤の歩む道に違いない。誰も足を踏み入れたことのない、人類の興味から敬遠された、真っさらなエリア、それが岩澤。


トイレの鏡に映る岩澤。岩澤は整髪剤で髪をガチガチに固めた。気分を一新、トイレの外に出る。部屋に戻る途中、カフェが目に入った。撮影のリハーサルが行われていた部屋で疎外感から世界から一人取り残されたような惨めな気分になっていた。そんな環境では記事を書けない、岩澤、それは立派な言い訳。岩澤の足は自然と自己認識の甘さを暖かく許しくれる欺瞞まみれがハイスペックな場所に向かってた。
岩澤は店員に案内され席に腰を下ろし、店内を見回した。すると一人、饒舌な店員が岩澤の目の前にやってきた。

岩澤「ちょっと何言ってるかわかんない」
カフェ店員「お客さん、私、先が尖った靴を履いてる20代そこらの男が大嫌いです!何なんですかあの、無神経な格好は!もうおとぎ話に登場してもおかしくないようなとがりに尖った靴を履いてる男どもを見かけたら、もういてもたってもいられなくて、アメリカのバスケットボール、NBAのAllen Iversonみたいにそのトガり野郎との距離感を一瞬で読み、そして懐に入り込み、その男性をStephen Curry並みにバスケットボールのコートの半分ぐらいの距離からかます『ディープ背負い投げ』で飛ばしたくなっちゃうんです、背負い投げの直後、その男どもの靴の先端が地面に接触した時、やっぱりShaquille O'Nealがいくらなんでもそれはやり過ぎだろうという角田夏実並の寝技ぐらいねじ伏せるダンクをしてリングをぐちゃぐちゃに壊してしまったぐらい靴の先端部分が潰れてしまえばいいのになんて想像しちゃうんです、そんな私、変ですか? あと、17歳そこそこの若い女の子と50代にさしかかった小太り気味のオバさんが無遠慮に小豆色のベレー帽をかぶってたら、私の堪忍袋の緒が切れるんです。黒色のベレー帽は、私、大丈夫なんです。あっ、でも大学生の男で、黒のロングコート、黒色のベレー帽で、黒の伊達メガネで、底が異常に厚い1,000人に1人の確率で履いてそうなヘンテコなブーツをキメていると思ってる勘違い野郎は例外です、そういう奴の黒のベレー帽も同罪なんです、そうなんです、仏の顔も三度までなんです。でも、やっぱり、外の世界のマナー配慮に欠けた芸術家風情を気取る、あの小豆色のベレー帽を見た時の、私ときたらね、腹の虫がおさまらないんです。街中でベレー帽をかぶっているトンチンカン野郎を見つけるとしますよね、すると、私がどんな人混みの中にいようともサッカーブラジル代表のRonaldinho並みに華麗に抜き出て、そして、その時の私の精神状態は角田夏実の戦闘モードに加え、Ibrahimovićのズラタンモードになってて、何ならNBAファイナルのチャンピオンを賭けたJAZZ戦の時のMichael Jordanの熱意も得て、一気に直進ドリブルでそのパリ風情気取った奴を取っ捕まえて、柔道のようにガッチリ組み合って、例えて言うなら、1998年NBAファイナル第6戦のMichael Jordanの"ラストショット"、試合終了まで残り9秒で一点差で負けている状況、マッチアップしたJAZZのBryon Russellのバランスを崩しに崩して勝利のラストショットを決めたかのように、娘たちの平衡感覚を完全に失わせ、小豆色ベレー帽娘をキレっキレっの『支えつり込み足』で相手を一瞬にして宙に浮かべ、ベレー帽を5メートル向こうに飛ばしたくなるんです、人生、一瞬で底に落ちることもあるんだぞとアーティスト気取りに忠告したいんです、そんな私、変ですか?あと、私、60代も半ばに差し掛かったオバさんが白色のロングブーツを履いてるのをみると、私の負けず嫌い魂がムクムクと全身に湧き立って、怒りが沸点を突破するんです、棺桶に片足突っ込んでるというのに、もうこれは言行不一致の極地って思っちゃうんです。もう角田夏実の一瞬の間で仕掛けるような巴投げぐらいの唐突さ、つまりニュージーランドラグビー代表allblacksでも活躍したRichie McCawの神出鬼没アタックをかまして、倒れたところを即、角田夏実ばりの『腕ひしぎ十字固め』で、、、、、ところでお客さん「腕ひしぎ」ってどういう意味か知ってますか?(話は終わらない)そんな私、変ですか?」
岩澤はカフェ店員の話を三十分聞いた。なんであの店員は俺に話しかけたんろう?それにしても悪くない、このカフェ。岩澤は取材道具をテーブルの上に取り出した。こっちにきて正解だな、あの部屋はちょっと息苦しかった、リラックス出来なかった。岩澤は店員の顔を見上げた。長話の店員だ。今さら注文を取りにきたようだ。今度はプロフェッショナル感を出して話しかけてきた。
店員「ご注文はどういたしましょうか?本日のスペシャリテ 『allblacksスペシャル More Than Black Ma'a Nonu Aotearoa Coffee』こちらのコーヒーは、キレがMuhammad Ali並みでパンチがMike Tyson級、そして喉越しはallblacksで活躍したMa'a Nonu選手のようにパワフルでスピード感溢れ、喉に間違いなく風穴を開けるニュージーランドのコーヒーでございます、ただあまりにパワフルでGが加重しながら加速する百万馬力のフェラーリのようなコーヒーです、肛門、あるいは尿道まで一気に到達する場合もございますので、お飲みの際は十分に注意をお願いします、ただし、そのパワフルさと類稀なスピードのせいで事故が発生するリスクがあったとしても、注文の誘惑を止めること、阻止できないのが、Ma'a Nonu Aotearoa Coffeeが世界中の危険な快楽メニューの頂点に居座る理由でもあります、お客様、だんだんと興奮してきたでしょうか?」
岩澤はカプチーノを注文した。注文を受けた女性店員はキッチンに戻り同僚に何か話している。同僚が岩澤の方を指さして笑っている。きっと俺が本日のスペシャリテコーヒーを頼む勇気が無かったことを冷やかしているんだろう。岩澤はライバル紙の女性柔道家の記事を読み始めた。

岩澤は女子柔道家、角田夏実選手の記事を書くのだ。
「騙し合いじゃないですけど駆け引きが始まったときは楽しい」
角田選手の言葉だ。そうだ、俺は取材からオフィスに帰ってきてずっとこの言葉が引っかかっていたんだ。思い出してきた、俺はそして晩飯のことも考えていた、ボンゴレにするか餃子にするか?そうだ俺の頭の中は、そのときごちゃ混ぜになっていたな。騙し合い、餃子、駆け引き、ボンゴレ、駆け引き、騙し合い、ボンゴレ、餃子。異なる世界観が同時に頭の中に出現し、畳の上の世界にボンゴレと騙し合いと餃子と駆け引きが出会って、そして俺の頭のチューニングが狂って元に戻らなくなった。
カプチーノが運ばれた。取材ノート、他紙の取材記事、その他、角田選手の資料を読み込む。岩澤はカプチーノを一口飲んで、今回の角田選手の記事のファーストセンテンスを書いた。ファーストセンテンス、いわゆる文章の出だしだ。その良し悪しで読者が読み続けるか、読み飛ばすか決まる。文章の滑り出しが悪ければ、99%の確率で読み飛ばされる、厳しい世界だ。岩澤はイマジネーションの限界まで脳細胞をいじめ抜き、アイディアを練りに練って、推敲に推敲を重ね、出だしの一文を紡ぎだした。
正統派柔道にすべきか?私流にすべきか?それが問題だ。
岩澤は自分自身でこの文章を書いておきながら思わず吹き出した。
岩澤「どんだけ好きなんだよ、この言い方(笑) 『すべきか構文』、使い続けて早十年!どんだけ繰り返して使ってんのよ、俺」
岩澤がファーストセンテンスの次の文章を書こうとカプチーノを飲み、コップをテーブルに置いた時、知らない人から声が掛かった。
店の客「すいません、柔道選手の方ですよね?あの方と同じチームか同じ大会に参加されるんですか?」
岩澤は何のことを言われているのかさっぱり分からなかった。「チーム?大会?あの方?」なんのことだろうか?
岩澤「ちょっと何言ってるかわからないのですが」
店の客「突然すいません、あのー、あちらの席に柔道着を着た人がいたので、同じチームの方かと思いました。僕、最近、柔道にハマってて。道着を着てる人をみて思わず声をかけちゃいました、僕の周りに柔道トークできる人が居なくて、ツラいんですよ、話したくても話せなくて。柔道って、突き詰めると、本当に心技体ですよね、シン!ギ!タイ!その三要素がチーズみたいに溶けて絡まってその総合的な。。。あとやっぱり、脳みそは将棋の藤井さんみたいに次の一手の読みの計算してて、次の一手、いや一手と思わせる一手だったり、一手じゃなくて、ゼロに近い0.2手だったり、一手に近い0.92手だったり、0か1の世界を超えた読みだったり、裏読みの裏読みの裏読みの裏読みの、つまり裏読みの、柔道って何なんですか?笑 興味持ち始めたら止まらなくて」
岩澤は男性の止まらない話を右から左に聞き流しながら店内の柔道着を探している人物を探した。
「俺以外に柔道着を着ている客がこのカフェにいるのか?」
本当か?いた!しかも女性だった。どこか見覚えがあった。岩澤は熱弁をふるう男性にちょっとすいませんと断り席を立ち、柔道着の女性のテーブル前にやってきた。
やっぱりそうだ。
岩澤「女優のEmikoさんですよね?」

女優EMIKO「あらドスケベ役の岩澤さん、奇遇だわ、ここで会うなんて、きっと何かの縁ね」
岩澤「なんで柔道着を着てるんですか?」
女優EMIKO「あなたに言われたく無いわよ」
岩澤は返答に困った。その通りだった。
女優EMIKO「柔道着を着た撮影シーンがあるの、だから私、柔道着を着ているのよ、だって、着こなすには時間も必要よ」
女優EMIKO「ドスケベ役も柔道着を着た撮影があるんでしょ?」
岩澤は全く分からない。そもそも映画に出るなんて嘘だから。
岩澤「やっぱり大事ですよね、形から入るのは」
女優EMIKO「いや、私は形から入るという気持ちは一切無いわよ、私は柔道着を着て、その人たちの心に出来る限り近づこうとしてるだけよ、台本を読むだけじゃ私は無理なの、そろそろ私は稽古の時間だから失礼するわ」
女優EMIKOは店を出て岩澤は元の席に戻った。柔道を熱っぽく語る男性はいなかった。
「台本を読むだけじゃ無理なの」
「裏読みの裏読みの裏読み」
「お客さんとの空気を読んで技を繰り出したら距離感が自由自在になるのよ!」
「Allen Iversonみたいに男との距離感を一瞬で読み」
「物理的にじゃないけど、空間的にお客様との距離をコントロールしてるのよ、お客様が私のテリトリーに入ったら最後、私が言葉でキレキレの技をかけてわるわ」
「そのパワフルさと類稀なスピードのせいで事故が発生するリスクがあったとしても、注文の誘惑を止めること、阻止できないのが、Ma'a Nonu Aotearoa Coffeeが世界中の危険な快楽メニューの頂点に居座る理由でもあります、お客様、だんだんと興奮してきたでしょうか?」
「あとやっぱり、脳みそは将棋の藤井さんみたいに次の一手の読みの計算してて、次の一手、いや一手と思わせる一手だったり、一手じゃなくて、ゼロに近い0.2手だったり、一手に近い0.92手だったり、0か1の世界を超えた読みだったり、裏読みの裏読みの裏読みの裏読みの、つまり裏読みの、柔道って何なんですか?」
「騙し合いじゃないですけど駆け引きが始まったときは楽しい」
岩澤は人の言葉を反芻し、独りごちる。
「ちょっと何言ってるかわかんない、ちょっと何言ってるかわかんない、ちょっと何言ってるかわかんない、か。うーん、そうか、分かんないのか」
カプチーノはもうとっくに冷め、カフェにいるお客さんもずいぶん減っていた。岩澤は再び記事を書き始めた。

