投馬国は吉備か出雲か?
2026/4/24noteで、「投」という漢字の古代中国語での発音は「つ」または「と乙」だと紹介しました。これはもちろん、魏志倭人伝の「投馬国」を意識したものです。5月中に投稿予定の旁国比定の記事では、狗奴国、不弥国、投馬国の所在地も推定(比定)する予定です。
魏志倭人伝では、投馬国は「南至投馬国水行二十日」と記述されます。方角は、陳寿が女王国を「会稽東治之東」(台湾付近)と誤解したために「南」とされました(2024/3/8note参照)。正しくは、九州北部から「東」に「水行二十日」です。
僕は「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」を提唱しています(2025/10/1note参照)。女王国(卑弥呼が都を置いた国)と邪馬台国は別の国です。邪馬台国は大和にあったけれども、卑弥呼は邪馬台国にはいませんでした。女王国は九州(博多)にあったと考えています。
※ですので、僕は「邪馬台国九州説」「邪馬台国大和説」という一般的な呼び方に代えて、「女王国九州説」「女王国大和説」と呼びます。女王国は「卑弥呼が都を置いた国=卑弥呼の所在地」です。
※トップ写真:「船を漕ぐ人物の絵画土器(弥生中期/複製)」(唐古・鍵考古学ミュージアム展示(2024年10月撮影))
候補地を絞り込み
「投」は「つ」または「と乙」ですから、投馬国は「つま」「とま」のように読むことになり、主に以下のような候補地が挙げられます。
①筑後国上妻郡・下妻郡(福岡県八女市など)
②日向国児湯[こゆ]郡都萬[つま]神社(宮崎県西都[さいと]市妻)
③薩摩国(鹿児島県)
④出雲国(島根県)
⑤備前国児島郡(岡山県玉野市玉)または備中国浅口[あさくち]郡(倉敷市玉島)(玉の浦)
⑥安芸国沼隈郡(広島県福山市鞆[とも])(鞆の浦)
この記事では、発音の問題は置いておいて(旁国比定の記事で予定)、魏志倭人伝の記述から、候補地を絞り込みます。
①上妻郡・下妻郡:投馬国は九州北部から「水行二十日」とされています。上妻郡・下妻郡は、仮に宝満川・筑後川などを川行したとしても、20日もかかりません。
※一方、「博多からの航行距離」と「古代の1日水行距離(推定)」から計算すると、出雲、児湯郡、薩摩国、玉の浦、鞆の浦は、九州北部から「水行二十日」にだいたい見合います(2024/3/8note参照)。ただし、後述するように、いずれも陸行1ヶ月は説明できません。
②児湯郡:僕は邪馬台国は大和だと考えています。投馬国はその経由地ですが、九州南部は経由地になりません。
③薩摩国:同様に、大和への経由地になりません。
※女王国九州説だとしても、投馬国が宮崎(②)や鹿児島(③)では、女王国よりも遠い国になってしまいます(「女王国以北」と矛盾する)。投馬国を宮崎や鹿児島に比定する説は、「女王国以北」をどのように説明するのでしょうか。
「出雲」は「陸行一月」の説明のため
投馬国の候補地になぜ「出雲」があるかというと、魏志倭人伝には、邪馬台国まで「水行十日陸行一月」という記述があるからです。女王国大和説は「陸行一月」を説明するために、魏使が日本海を水行し、但馬・丹後・若狭あたりで上陸して、大和まで陸行したというコースを想定します。
荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡などの豊富な出土品や、出雲神話も、投馬国出雲説を後押しするようです。
ところが、但馬でも、丹後でも、若狭でも、さらには出雲や吉備からでも、大和までは徒歩で1ヶ月もかかりません。10世紀(平安時代)の国の規則を記した延喜式[えんぎしき]では、平安京までの日数は以下のとおりとなっています。
【延喜式が記す平安京までの標準所要日数】
(上り=荷物の多い場合/大和ー平安京は1日)
出雲 上り15日・下り8日
但馬 7日・4日
若狭 3日・2日
備後 11日・6日
備中 9日・5日
※延喜式の日数は実態を表していないという説もあります(なぶんけんブログ「古代の旅を追体験する」(2024年))。
※3世紀には街道は整備されていなかったと思いますが、土器の移動などから地域間の交流が活発化したことがうかがわれ、人が無理せず歩ける道はできていたはずです。延喜式は大ざっぱな目安にはなります。
女王国大和説・投馬国出雲説は、「陸行一月」を説明するために日本海ルートを想定しながら、「陸行一月」には全然足りないという自己矛盾をきたしています。日本海ルートにしたところで、「陸行一月」は説明できず、投馬国を出雲に比定する意味がありません。
「陸行一月」が説明できないのは、女王国九州説も同じです。
そもそも、魏使が皇帝からの贈り物を携えて、日本列島を「陸行一月」するなどということは考えづらいです。倭人が魏使からのヒアリングに誇大に回答したか、魏使が報告書で誇大に報告したもので、事実ではありません。無理をして説明する必要はなく、無視すべき数字です。
「陸行一月」は「陸行一日」の誤記という説があります。確かに、瀬戸内海ルートで難波で上陸すれば、大和までは徒歩1日です。7世紀の梁書で「陸行一月日」と引用されていますが、原文が「陸行一日」だったのであれば、そのまま「陸行一日」と引用すれば済むことです。原文が「陸行一月」だったから、疑問を抱いた梁書の編者が「一月日」という苦肉の表現を使ったのだと思います。
魏使は投馬国・邪馬台国を訪れていない
僕は、魏使は投馬国・邪馬台国には訪れていないと考えています。その根拠は(よく言われていることですが)以下のとおりです。
上述したとおり、魏使が日本列島を「陸行一月」したとは考えづらい
日数が「二十日・十日・一月」と、大ざっぱな数字である
行程が2ヶ月(水行30日・陸行1ヶ月)もかかったと述べていながら、途中国の記述がない
投馬国は戸数が五万戸、邪馬台国は七万戸と記述され、大国であるはずにもかかわらず、どんな国だったのかの描写もない(対馬国・一支国・末盧国は描写がある)
※魏志倭人伝は大きく3つのパートに分かれます(行程・風土・外交)。風土のパートが邪馬台国の描写と考える人がいます。しかし、魏志倭人伝は「倭人伝≒倭国伝」であり、「邪馬台国伝」ではないことに注意する必要があります。風土のパートは、魏使が滞在した伊都国周辺(九州北部)の情報の可能性が高いです。
ちなみに、魏使は投馬国・邪馬台国を訪れていないにもかかわらず、卑弥呼には会って、詔書や金印を授けています。卑弥呼のいた国は邪馬台国ではなく、別の国だったことを示します。僕が「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」を唱える根拠の1つです。
瀬戸内海ルートのほうが速くて安全

投馬国・邪馬台国の情報が倭人からの伝聞だとすると、倭人は魏使からのヒアリングに対し、九州北部から大和を訪れる時の通常ルートを答えたと思います。
九州北部から大和までの「距離」は、日本海ルートよりも瀬戸内海ルートのほうが近い(陸行が短くて済む)ことは経験的にわかっていたでしょう。かかる「時間」(日数)も少なかったはずです。
「安全性」(航海のリスク)はどうでしょうか。
瀬戸内海
潮流(干満差由来)が速く、特に関門海峡や来島[くるしま]海峡などはリスクがある
内海だから外洋に比べれば波は穏やか。天候は年間を通じて比較的安定
島が多く、沿岸航海や避難がしやすい
日本海
干満差は小さい
春〜秋でも天候急変や高波が起きやすい。冬は論外
海岸線が単調で、避難港が限られる
「潮流リスク」と「天候・波浪リスク」を比べれば、当時の丸木舟や準構造船では、瀬戸内海のほうがリスクは小さかったと言えます。瀬戸内海コースは、コントロール可能なリスクだったと言ってもいいかもしれません。日本海の水行は、出発はある意味賭けだったのに対し、瀬戸内海は計画的な水行が可能だったと思います(以下のサイトが参考になります)。
防災新聞(西日本新聞が運営)「冬の日本海はなぜ荒れるのか?瀬戸内では考えられない常識ってなに」(2023年)
NPO法人小豆島ドリームアイランド「瀬戸内海 の特徴《まとめ》」
まとめると以下のとおりです。
倭人は魏使からのヒアリングに対し、通常ルートである瀬戸内海ルートを想定して回答したはずである
仮に魏使が投馬国・邪馬台国を訪れたとしたら、ルートは近く(速く)・安全な瀬戸内海ルートだったと思われる
どちらにせよ、日本海ルートを選ぶ理由がない
もちろん、古代に日本海側の国々の交流・交易も活発でした。出雲の四隅突出型墳丘墓は北陸まで伝わっています。しかし、九州北部から大和へのルートとは別物です。
投馬国の候補地として、発音からは「出雲」も「玉」「鞆」も説明は可能です。しかし、魏志倭人伝の九州北部から大和を目指すコースを考えた場合、「出雲」は候補になりえないと思います。結論として、「玉」「鞆」の吉備近隣が残ります。
5月中に投稿する予定の記事では、発音からも投馬国の候補地を検討します。
(最終更新2026/5/11)
