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「投」の読み方は「つ」か「と乙」か「と甲」か?


「投」の発音に関する安本美典さんの説明

安本美典さん(邪馬台国の会主宰)は、魏志倭人伝に登場する投馬国の「投」という漢字の発音について、以下のように述べています(安本美典『「倭人語」の解読』(勉誠出版、2003年)p178~、p227~)。

※「投」という漢字は、意外にも、『古事記』『日本書紀』『万葉集』のいずれでも、万葉仮名として使われていません。

▶「投」の字と、まったく同じ上古音と中古音とをもつ「豆」という字は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』ともに、「つ」という音を表記するために用いられている。したがって、「万葉仮名の読み方」では「投」は、一般的には「つ」と読まれる字である
▶また、「甲類のト」をあらわすために、『古事記』『日本書紀』『万葉集』で用いられている「斗」の字の、上古音は「tug」、中古音は「təu」である。これは「投」とほとんど同じである。ここから、「投」は、「万葉仮名の読み方」で、「甲類のト」と読めることになる
▶そのような「投」…が、『播磨国風土記』においては、<大和を表す「山投」という言葉で使われて>「乙類のト」であるはずの、「大和」の「と」を表記するのに用いられている

安本美典『「倭人語」の解読』(勉誠出版、2003年)p178

※引用は、見やすいように文章を▶で改行します。順番は入れ替えていることがあります。< >は僕が補った個所です。
※上代日本語(8世紀=奈良時代の古代日本語)の甲類・乙類の区分や播磨国風土記の例については、下のコラム1コラム2で紹介します。

安本さんの説明は正しいか

ここで、安本さんが述べていることを検証してみます。

「投」(下表のオレンジ)と万葉仮名で「と甲」「と乙」と読む漢字(万葉集で使われている漢字)の上古音・中古音は下表のとおりです。

①「投」は万葉仮名であれば「つ」と読む→〇

「投」と「豆」の上古音・中古音は同じであること、「豆」は万葉仮名で「つ」と読まれていることは、その通りです。上表のオレンジ(投)とグリーン(豆)のとおりです。よって、もし「投」が万葉仮名で使われていれば、「つ」と読むだろうと思います。

ですので、「投馬」の読み方として、「つま」は候補としてはありえます。

②「投」は甲・乙を区分すれば「と甲」である→✖

一方で、「投」と「斗」の上古音・中古音がほとんど同じであるという見方には疑問があります。確かに母音は似ていますが、子音は「投」は /d/(濁音)、「斗」は /t/(清音)です。

もう1つ、不思議なのは、「斗」の上古音・中古音は、「と甲」の他の漢字よりも「と乙」の漢字に近いことです。

  • 「と甲」の母音: /a/

  • 「斗」 の母音: /ɔ,ə/(「ア」と「オ」の中間音)

  • 「投」 の母音: /ɔ,ə/

  • 「と乙」の母音: /ə/ など

「投」の母音が「斗」と同じだからといって、「投」は「と甲」だとは断定できないのではないでしょうか。「斗」は「と甲」の中でもかなり異質の発音をもつ漢字です(ひょっとしたら、「斗」が「と甲」というのは間違いということはないでしょうか)。

「投」がもし万葉仮名で「と」と読まれたとしたら、その「と」の発音は「と乙」であり、「と乙」の発音をあえて濁音の漢字で表したのではないかというのが僕の説です。「邪馬台」の「ト」(と乙)が、濁音の「台」 /də,dɒi/ で表されたのと同じです。

※倭人語(3世紀の古代日本語)、上代日本語(8世紀の古代日本語)では、語頭の濁音はなかったとされています(森博達「「倭人伝」の地名と人名」(『日本の古代1:倭人の登場』、中央公論社、1985年)p188)。

実は、安本さんは上で引用した文章で、「投」の甲類・乙類の区分を説明したかったのではありません。上記の引用に続けて、「投」を事例に、「と」の甲類・乙類は厳格に区別されるものではなかったことを紹介しています。以下のコラムで説明します。

【コラム1】上代日本語の甲類・乙類

上代日本語の「イ段・エ段・オ段」には甲類・乙類の2通りの発音があり、万葉仮名では書き分けられていました。

以前は上代日本語は8母音説が有力でしたが、現在はほとんど支持されず、5~7母音説があって定説はありません(竹村明日香「日本語の母音は本当に五つしかないのですか」(国立国語研究所「ことばの疑問」、2019年)。例えば、「イ段」の甲類・乙類は母音の違いではなく、半母音 /j/(ヤ行)がつくかつかないかの違いだったとされているようです。

先ほど述べたとおり、邪馬台国は「ヤマト」国と読み、「台」は「と乙」です。大和の「ト」は「と乙」で一致するのに対し、九州の「山門」の「ト」は「と甲」であり、「山門」は「邪馬台」にはなりえないという議論があります。この議論については以下で説明しますが、2025/6/24noteでも紹介しました。

「魏志倭人伝の旁国の漢字」と「古代地名の漢字」の甲類・乙類が一致することが望ましいのはもちろんですが、僕は絶対の条件ではないと考えています。理由を整理すると以下のとおりです(2025/6/24note参照)。

  • 8世紀の「ト」の発音が、3世紀も同じだったのかはわからない

  • 中国人が「ト」の発音を聞きわけられなかった可能性もある

  • 8世紀以降でも「ト」の甲類と乙類は、同じ単語で混用されていた

次のコラムも参照してください。

倭人はどんな言葉を話していたのだろうか?(イラストAC)

【コラム2】播磨国風土記の「と乙」「と甲」

安本さんが触れている播磨国風土記の記述(現代語訳)は、以下のとおりです。

播磨国風土記 美嚢の郡[みなぎのこおり]
▶於奚[おけ]・袁奚[をけ]の天皇[すめらみこと]たち(仁賢天皇・顕宗天皇)がこの国<播磨国>におられたわけは、この子たちの父市辺天皇[いちべのすめらみこと]が近江の国の摧綿野[くだわたの]で(雄略天皇に)殺されなさった時、日下部連意美[おみ]をひき連れて<意美に連れられて>逃れてきて、この村の石室に隠れておいでいなった<からである>
<中略>
▶二人のみ子たちはあちらこちらに隠れ、東・西に迷い歩き、とうとう志深[しじみ]の村の首長の伊等尾[いとみ]の家に召し使われる身となった
▶(ある時)伊等尾が新室宴[にいむろうたげ=新築祝い]をすることになって、二人のみ子たちにかがり火をともさせ、そして詠辞[ながめごと=祝い歌]を挙げさせた。ここに兄弟たちはおのおのお互いに譲りあったあげく、弟(袁奚皇子)が立って(歌を)詠[なが]めた
<中略>
▶その辞[ことば]にいう、
淡海[あふみ=近江]は、水淳[たま]る国
[やまと=大和]は、青垣
青垣の 山投[やまと]に坐[ま]しし
市辺の天皇の 御足末[みあなすゑ」 奴僕良麻[やつこらま] 

▶(それを聞いて)そこにいた人びとは恐れかしこんで、ただちに(庭火をたいていた皇子たちのもとに)室内から出て走り寄った
▶さて、針間の国の山門の領[つかさ=御料林管理官]として派遣された山辺連小楯[おだて]は(二人の皇子たちと)互いに会ったり話したり、そして語っていうことには、「このみ子のために、おん身の母の手白髪命[たしらがのみこと]は、昼は御飯もお食べにならず、夜は寝もやらず、<皇子たちの>生死のほどもおぼえずに、泣き恋いこがれているみ子たちぞ」と
▶そこで(小楯は)朝廷に参上して上記の次第を申しあげた。すなわち(手白髪命[たしらがのみこと]は)歓び泣き、哀しみ泣いて、(小楯を播磨に)還し遣わし、(皇子たちを)お召しになった

吉野裕『風土記』(平凡社、2000年)p120

※市辺:市辺押磐皇子[いちのべのおしはのみこ]。17代履中天皇の第1皇子で、いとこの21代雄略天皇に殺される。オケ(於奚=億計=24代仁賢天皇)・ヲケ(袁奚=弘計=23代顕宗天皇)の父

有名なオケ・ヲケの貴種流離譚[きしゅりゅうりたん]です。

ここでヲケが「倭は青垣 青垣の山投」と詠っている「山投」は「倭」=
「大和」(ヤマト)で間違いありません。「大和」の「ト」の発音は「と乙」であり、「投」も上で述べたとおり、区分するなら「と乙」なので問題ありません。

しかし、その次に小楯[おだて]という人物が出てきて、「針間の国の山門の領[つかさ]」だと記述されています。「山門」の「ト」は「と甲」です。「山門」が「大和」だとすると、これは「と乙」と「と甲」が混用されていた(厳格には区分されていなかった)ことを示します。安本さんもその可能性を指摘しています。

ただ、「針間の国の山門の領」の「山門」は「大和」ではなく、文字どおり「山の入り口」だという解釈も成り立ちます。「播磨国の大和の(大和から派遣された)管理者」というよりは、「播磨国の山(林)の管理者」と解釈するほうが自然だと思います。平凡社の現代語訳はその解釈にのっとっています。

僕も最初は、播磨国風土記の例は甲類・乙類の混用だと思っていましたが、「山門」は「山の入り口」という意味で「大和」ではないと言われると、反論が難しいことに気づきました。「と甲」「と乙」の混用には当たらない可能性があります。

ただし、播磨国風土記を持ち出さなくても、「と甲」「と乙」の混用(違例)は少なくないです。2025/6/24noteでも紹介しました(安本さんも書籍で紹介しています)。

  • 【人】:比(甲)/比(乙)

  • く【解く】:気氐(とけて)(甲)/久(乙)

  • も【助詞】:毛(甲)/毛(乙)、など

※軽部利恵「上代仮名遣いの「違例」について」(『叙説』(奈良女子大学日本アジア言語文化学会)巻45、2018年 p22,26など)

播磨国風土記の「山門」は、混用の例に挙げたとしても、「ヤマト」の説明にしか使えません。「ヤマト」に限らず、「と」の甲類・乙類には混用があることを示すほうが説得力があります。

まとめ

  • 「投」は万葉仮名に使われたとすれば、「つ」と読む。「豆」(万葉仮名で「つ」)と上古音・中古音の発音が同じだからである

  • 「投」は、もし「と」と読んだとすれば、「と乙」である。「投」の上古音・中古音は濁音 /d/ であること、「と乙」の漢字と母音の発音が似ていることが根拠である

  • 播磨国風土記の「山門」の例は、「と甲」「と乙」の混用には当たらない可能性がある

  • 「魏志倭人伝の旁国の漢字」と「古代地名の漢字」の甲類・乙類は一致することが望ましいが、絶対的な条件ではない。甲類・乙類には混用も多い

※トップ写真:広島県福山市 鞆[とも]の浦(投馬国の候補地の1つ)
(写真AC)

【コラム3】市辺之天皇 御足末 奴僕良麻

ところで、播磨国風土記でヲケが歌を詠むシーンは、この物語のクライマックスです。しかし、この歌がどうして出自を明かしたことになるのか、僕はよくわかりませんでした。

※このコラムは発音からは離れます

播磨国風土記 美嚢の郡
<原文>市辺之天皇 御足末 奴僕良麻
<読下し>いちのべの すめらみことの みあなすゑ やつこらま
<訳>(私たちは)市辺の天皇のお足元の下僕でございます
  (私たちは)市辺の天皇にお仕えした下僕でございます
※御足末[みあなすゑ]:御足な末=お足の元=足元の尊敬語
(「な」は助詞の「の」の意味で使用(2026/4/21note参照))
※奴僕[やっこ]:下僕
※良麻[らま]:〇〇でこざいます(丁寧語)

(『風土記』(平凡社)ではこの歌は現代語訳されていません)

同じ場面を日本書紀と比べてみます。

日本書紀 顕宗天皇
<原文>於市辺宮 治天下 天万国万 押磐尊御裔 僕是也
読下し>いちのべのみやに あめのしたしろしめしし あめよろずくによろず おしはのみことのみすえ やつかれこれなり
<訳>市辺宮で天下をお治めになった、押磐尊[おしはのみこと]の御子であるぞ、我は
※御裔[みすえ]:末裔(子孫)
※僕[やつかれ]:一人称の謙譲語

現代語訳:『全現代語訳日本書紀(上)』(宇治谷孟、講談社学術文庫、1988年)p323 

日本書紀では「御裔」[みすえ=末裔]と詠っていて、意味は明確です。ヲケが出自を皇子だと明かしています。一方、播磨国風土記の歌は、単に「私たちは下僕です」と言っているだけに見えます。

調べてみたら、実は「足末」[あなすゑ]という古語には、「御裔」と同じように、「末裔(子孫)」という意味があることがわかりました。

  • 「足元」:表向きに説明できる意味

  • 「末裔」:裏に込めた真意

末裔という意味だとすれば、播磨国風土記の歌は以下のように訳せます。

<訳>(私たちは)市辺の天皇の末裔であり、下僕でございます
  →(私たちは)市辺の天皇の末裔ですが、(今は)下僕でございます
  
→市辺の天皇の末裔にもかかわらず、今は下僕に成り下がっています

出自を明かし、現在の境遇を嘆いた歌であることがわかります。ヲケは、「足末」[あなすゑ]という2つの意味がある言葉を使って、わかる人にだけわかるような歌にしました。大和から派遣された小楯[おだて]は裏の意味に気づいて、かしこまったのです。

ヲケはどうしてそんなややこしいことをしたのでしょうか。それは出自を明かすことは大きな危険を冒すことになるからです。日本書紀では、この歌を詠む前に、ヲケと兄のオケの間で以下のような会話が交わされています。

▶ヲケ「わざわいをここに逃れて何年にもなった。名を明かし貴い身分であることを知らせるのに、今宵はちょうど良い」
▶オケ「自分から暴露して殺されるのと、身分を隠して災厄を免れるのと、どちらがよいか」
▶ヲケ「私は履中天皇の孫なのだ。それなのに苦しんで人に仕え、牛馬の世話をしている。名を明らかにして、殺されるなら殺される方がましだ」

『全現代語訳日本書紀(上)』(宇治谷孟、講談社学術文庫、1988年)p320 を改変

そもそも、「市辺の天皇」と詠むこと自体がリスクです。雄略と市辺は政敵だったからです。市辺を天皇と呼ぶことは、雄略の批判になります。小楯に謀反だと読み取られ、殺される可能性があります。そのことを兄弟は自覚していました。

ヲケは強気ではありましたが、もし小楯に殺されそうになったら、「いえいえ、私たちは単なる下僕だと申しただけです」と説明できるようにしたのだと思います。

ネットでは、ヲケが出自を明かしたという裏の意味の紹介サイトはあるのですが(そうでないと物語が成り立ちません)、「表と裏の意味がある」というような説が探せませんでした。せっかくの機会ですので、テーマが異なりますが、ここに書いてみました。

※播磨国風土記は兄弟の母を「手白髪」としています。「手白香」[たしらか]は、日本書紀ではオケ(仁賢天皇)の娘、26代継体天皇の皇后、29代欽明天皇の母であり、記述に混乱があります。

(参考)

※播磨広域連携協議会「はりま風土記紀行/古の播磨を訪ねて~三木市 編」
※兵庫県立歴史博物館「二人の皇子と根日女/恋と勇気の物語」

どちらのサイトもわかりやすく、おもしろいです。

(最終更新2026/6/8)

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