邪馬台=ヤマト=大和、発音が一致:卑弥呼九州/邪馬台国大和説【2/4】
【1/4】の記事では、女王国と邪馬台国は別の国であること、そう考えれば、魏志倭人伝の謎(矛盾)が解けてくることを紹介しました。
※トップ写真:龍王山から望む奈良盆地(写真AC)=「やまとは くにのまほらま(まほろば) たたなづく あをかき」のイメージ
(最終更新2025/6/26)
「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」の要約
僕の「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」を4行で要約します(【1/4】の記事からの再掲です)。
「邪馬台国」は大和にあった
「女王国」(卑弥呼の都)は九州北部にあった。卑弥呼は邪馬台国にはいなかった
つまり、帯方郡から1万2000里の「女王国」と、九州北部から水行陸行の「邪馬台国」は別の国だった
魏志倭人伝は「女王国」と「邪馬台国」が同じ国だと誤解して書かれた
4行で補足します。
卑弥呼の死後に台与が東遷して邪馬台国になったわけではない。「女王国」と「邪馬台国」は同じ時代に並存した
3世紀の邪馬台国(大和)は地方の新興国だった。4世紀に発展してヤマト王権になった。邪馬台国の女王は、卑弥呼とは別の女王だった
九州北部の王権(女王国)は、4世紀後半以降、優位性を失い、6世紀にはヤマト王権の実質支配が始まった
邪馬台国とヤマト王権は連続しているが、卑弥呼や台与とヤマト王権は連続しているわけではない
「倭国」「女王国」「邪馬台国」などの関係を図にすると下図のようなイメージです。「倭地」の中に「倭国」があり、「狗奴国」や「邪馬台国」が別にあります。倭国の王都が「女王国」です。

以上のとおり、僕は女王国(卑弥呼の都)は九州北部、邪馬台国は大和だったと考えています。
「邪馬台国=大和」には、それほど確かな根拠があるわけではありません。魏志倭人伝には、九州北部から水行30日・陸行1ヶ月とあるだけで、邪馬台国の描写もなく、記述からは所在地を特定しようがないのです。
※魏志倭人伝は邪馬台国伝ではありません。魏の使者は伊都国に滞在しており、魏志倭人伝の風習・自然環境のパートは伊都国を中心とする九州北部の描写の可能性が高いです。
3世紀前半の段階においては、邪馬台国は地方の新興国の1つに過ぎず、重要な国ではありませんでした。大陸との交流・交易も九州北部に窓口になってもらっていたと考えられます。
女王国(卑弥呼の都)が九州だったのか大和だったかによって、3世紀の日本列島では、どのように国家が形成されていたのかが変わってきます。
女王国が大和であれば、倭国は3世紀で既に西日本全体だったということになります。女王国が九州北部であれば、倭国は3世紀ではまだ九州北部に限定されることになります(僕はこちらの説です)。
重要なのは、女王国の所在地であって、邪馬台国の所在地ではないことは、改めて強調しておきたいと思います。
桃崎有一郎氏の論文は難しい
もともと、邪馬台国大和説は、邪馬台国を「ヤマト国」と読み、「大和」と発音が同じであるというところから始まった説だと思います。
大和説を桃崎有一郎さん(武蔵大学)が文献学から補強しています。桃崎さんの説を紹介することで、邪馬台国は大和の(消極的)根拠としたいと思います。
今回【2/4】の記事の結論は以下の2点です。
「邪馬台国は大和」の根拠としては、邪馬臺(台)と大和の発音が一致していることが(消極的だが)挙げられる(否定はできない)
隋書・後漢書注などは邪馬台国大和説である。それが「邪馬台国は大和」の根拠とされることがあるが、中国の歴史書の王権の連続に関する認識は間違っていることがあり、根拠にはならない
僕は文藝春秋2024年3月号で桃崎さんの寄稿を読みました(ネットでは「文藝春秋PLUS」で購読できます)。
恥ずかしながら、論文もネットで公開されていることを最近になって知りました。
【論文】
「邪馬台国畿内説の新証左~「倭」「ヤマト」地名の相互転移と王業・諸侯国」(武蔵大学人文学会雑誌、2023年12月)
【寄稿】
正直難しく、簡単には読めませんでした。がんばって何度も読み返し、僕なりに整理すると、桃崎さんの説は以下のようにまとめられると思います。
ここでは桃崎さんの述べていないことも僕の解釈で補って意訳します。ですので、以下が桃崎さんの説を正確に表しているとは限りません。
1.「倭」「ヤマト」地名の相互転移
➊日本列島全体を表す「倭」という漢字表記(中国語)は、中国との外交関係に伴って使われはじめた
➋奈良盆地東南部は「ヤマト」と呼ばれていた(日本語=大和ことば)。つまり、「倭」と「ヤマト」は別々に存在していた。この「ヤマト」は纒向[まきむく]遺跡周辺を含む地域名だった
➌纒向(ヤマト)の勢力が発展すると、「倭」という漢字表記は訓読みで「ヤマト」と読まれるようになった。「倭」という漢字表記が奈良盆地東南部の地域名でも使われるようになった
➍纒向(ヤマト)の勢力は、中国の王朝名の成立過程を模倣して、基盤を確立した地域名である「ヤマト」を王権名としても使うようになった
➎こうして「倭」と「ヤマト」の相互転移が成立した
2. 邪馬台国と「ヤマト」
①邪馬臺(台)国は「ヤマタイ国」ではなく、「ヤマト国」と読む(先秦上古音を主な根拠とする)
②古代日本語の「ト」の発音には甲類・乙類があった。邪馬臺(台)の「ト」は乙類である
③「ヤマト」という地域名は、近畿の「大和」と九州の「山門」が知られている。このうち、山門の「ト」は甲類で発音が異なる。大和の「ト」は乙類で邪馬臺(台)の「ト」と発音が一致する
④よって、邪馬臺(台)国は大和である
地名の「相互転移」という考え方や邪馬臺(台)国を「ヤマト国」と読むことについての根拠は、僕は今まで深く考えたことがなかったので、とても参考になりました。
一方、桃崎さんが、邪馬臺(台)国は大和しかないと断定していることには賛成できません。
1.「倭」 「ヤマト」地名の相互転移
奈良盆地東南部の「ヤマト」という地域名が、大和国[やまとのくに=奈良県全体]を指すようになり、さらに日本全体を表す王権名や国号にもなったのは当たり前だと認識されることが多いと思います。例えば、直木孝次郎さん(元・大阪市立大学)は以下のように述べます。
▶もっとも狭義のやまと地方~大和国の一部~に成立した政権が、奈良盆地全体を勢力下におさめ、これを基盤として日本全体に支配をのばしていったために、やまとの語が次第に広い意味に用いられるようになったのであろう
▶これは学界の常識であって、いまさらこの問題に詳論を加える必要はない
※引用は、見やすいように文章を▶で改行します。順番は入れ替えていることがあります。< >は僕が補った個所です。
僕は直木さんと同じように考えていましたが、桃崎さんの論証によって、より納得感が高まりました。
➊「倭」という漢字表記
日本列島全体を表す「倭」という漢字表記(中国語)が、中国との外交関係に伴って使われはじめたことは、よく知られています。漢書地理志(1世紀)の「楽浪海中有倭人」に始まって、魏志倭人伝(三国志)(3世紀)の「倭人在帯方東南大海之中」、後漢書倭伝(5世紀)の「倭在韓東南大海中」「倭奴国」「倭国王帥升」などが当てはまります。
➋「ヤマト」は纒向
倭名類聚抄[わみょうるいじゅしょう]※には大和国[やまとのくに]城下[しきのしも]郡大和郷という地域名が掲載されています。直木さんは、「ヤマト」と呼ばれていた地域は奈良盆地東南部、現在の纒向遺跡を含む地域だと推定していて、桃崎さんもその推定は信頼できるとします。直木さんと桃崎さんによる根拠を整理すると以下のとおりです。
※和名類聚抄(和名抄):平安時代につくられた事典。巻5~9が國郡部で、律令制における国・郡・郷の名称が掲載されている。和名抄に掲載されていれば、平安時代には存在した地名とわかる。
日本書紀の仁徳紀(即位前)に、倭屯田[やまとのみた=ヤマト王権の直轄地]の経緯に一番詳しいのは吾子籠[あごこ]だという話が出てくる。吾子籠は雄略紀では倭国造[やまとのくにのみやつこ]になっている人物である
吾子籠によると、倭屯田は「垂仁天皇の御世[みよ]に、御子の景行天皇に仰せられて、倭屯田を定められた」とする。垂仁天皇・景行天皇の王宮は纒向珠城宮[たまきのみや]・日代宮[ひしろのみや]である
神武紀では倭国造[やまとのくにのみやつこ]と葛城国造[かずらきのくにのみやつこ]が同時に任命されおり、「ヤマト」と「カズラキ」は別々の地域だったと推定できる。「カズラキ」は奈良盆地西南部だから、「ヤマト」は東部(磯城[しき]郡・十市[とおいち]郡を中心とする地域=現在の桜井市・天理市の一部など)である
欽明天皇23年(562年)条に倭国造[やまとのくにのみやつこ]という名称が出てくる。欽明天皇の時代の記述は、年代も含めて史実に基づくと考えられ、倭国造は遅くとも6世紀までには存在したことがわかる
天平2年(730年)の大倭国(=大和国)正税帳によって十市郡・城下[しきのしも]郡に屯田[みた]が存在したことがわかる。かつての倭屯田[やまとのみた]であり、倭国造の支配領域である
天平14年(742年)の正倉院文書に大養徳連[やまとのむらじ]友足という人物による黒田郷(田原本町=唐古・鍵遺跡がある地域)についての文書がある。大養徳連は倭国造の子孫だと考えられ、倭国造が磯城郡(城下[しきのしも]郡)を基盤としていたことがわかる
これらを総合すると、「ヤマト」と呼ばれていたのは現在の纒向遺跡を含む周辺地域だったと推定できる

これらは8世紀の文献資料を基にしており、3世紀の地名の100%確かな根拠になるとまでは言えませんが、桃崎さんが挙げている根拠は十分だと思います。例えば、九州北部の末盧国・伊都国・奴国などにしても、「ヤマト」以上の確かな文献学的根拠を示すのは難しいと思います。
※末盧国・伊都国・奴国については、魏志倭人伝の行程の順番どおりに類似の発音の地名(旧・松浦郡・怡土[いと]郡・那珂郡)があり、偶然とは考えられません。それぞれ有力な遺跡が存在することも根拠になります。
➌「倭」が「ヤマト」という訓読みを獲得
上記のとおり、欽明天皇23年(562年)条に倭国造[やまとのくにのみやつこ]という名称が出てきます。遅くとも6世紀までには、漢字表記の「倭」は日本列島において「ヤマト」という訓読みを獲得したと考えられます。
「倭」という漢字表記の訓読は、対外的な国号である「倭」(中国語)を変更せず、国内での地域名(日本語=大和ことば)をそのまま使えるようにするという、日本古来の知恵だと言えます。
➍出身地名である「ヤマト」が国号に
纒向(ヤマト)の勢力は、中国の王朝名の成立過程を模倣して、基盤確立の地域名である「ヤマト」を王権名として使うようになりました。これは桃崎さんの説の最も重要な部分です。長くなりますが、寄稿(▷)と論文(▶)から引用します。
▷古代中国では…<王朝名について>根強く一貫した習慣があった。「統一王朝を樹立する直前に領していた諸侯国※の国名を、統一王朝の国号にする」というものである
▷<例えば>秦が滅び…漢(前漢)が成立するが…始祖劉邦は諸侯国「漢国」を領有する諸侯「漢王」となり、中国を統一すると国号をそのまま「漢」とした
▷曹操は「魏郡」を領有していた。後漢は曹操に「公」の爵位を与えて「魏公」という諸侯にし、諸侯国「魏国」を建国させた。曹操はさらに爵位を進めて「魏王」となり、その没後、息子の曹丕[そうひ]が「魏王」と「魏国」を相続した上で、後漢から帝位を禅譲されて王朝を樹立し、国号を「魏」とした
※諸侯[しょこう]:君主から一定の領域の支配を任された臣下
※桃崎さんは「統一王朝を樹立する直前に領していた諸侯国の国名を、統一王朝の国号にする」という手順を「諸侯由来行程」と呼んでいます。
※桃崎さんの引用のうち、▷は寄稿から、▶は論文からの引用です。
▶「都の所在地名が王朝の全体名に転化した」という古い俗説には、裏づけも、古代東アジアの類例も皆無である
▶「倭」と「ヤマト」の交差的相互転移・結合はなぜ、いつ、いかなる論理で成ったのか。国号成立問題の基礎史料というべき平安期の日本紀講書※問答が、実は真相に肉薄している
▶「なぜ数ある部分国のうち大和国のみが国号となるのか」と問う弟子に、講師は答えた。「磐余彦(神武)天皇は天下平定後、大和国(の磐余)に東遷した。それで初めて王業が成り(王朝が完成し)、だからその地の名を国号とした。<周が>成周の地で王業を定めた(王朝の基礎を固めた)のを理由に、成王が父武王に始まる王朝を周と名づけたのと同じだ」と
▶弟子は食い下がる。「始祖が天降った筑紫こそ始まりの地なのに、なぜ専ら倭(ヤマト)国の名を国号とするのか」と。師は答える。「周王室の祖の后稷[こうしょく]は邰(たい)に封じられ、末裔の公劉は豳(ひん)に住んだが、まだ王業が萌した(着手された)にすぎないので、邰や豳を王朝名としなかった。その後、武王が周の地に居を定めた時に初めて王業が定まった(王朝の基礎が固まった)ので、国号は周となったのであり、『日本書紀』もそれに倣ったのである」と
▶ここに、「王朝の全体名に採るべきは、王業が定まった(基盤が確立した)地である」という命名慣行と、それが周に由来するという歴史認識が明瞭に現れる。この命名慣行を「王業基盤地名の王朝名化」と呼ぼう。講師は、該慣行<この命名慣行>こそ、奈良地方の部分名「和/倭」「大和/大倭」が全体名に転移した理由を説明できる仕組みである、という解釈を提示した
▶統一王朝自体が一つの「国」でありながら内部に直轄領と並立する諸侯の「国」を内包する二重「国」構造の国土把握方式は、古代東アジアでは中国と日本列島にのみ存在した。…重要なのは、この二重「国」構造が存在しなければ、諸侯由来行程を踏む〝王業基盤地名の王朝名化〟が起こり得ないことである
※日本紀講書[にほんぎこうしょ]:平安時代に学者が役人などを対象に行った日本書紀の講義
▶倭国・初期日本国における中国国制模倣の実績を勘案すれば、倭王の王業完遂(統一王国樹立)にあたって中国の該手順<この手順>が参照・模倣された可能性は十分に高い
▶<例えば>漢・曹魏にかけて倭使<難升米[なんしょうまい]など>が「<中国の肩書である>大夫と自称」した事実は、倭が中国の制度をすでに(部分的とはいえ)導入していた明証と見なし得る
※桃崎さんの論文の文章、難しいですよね…。桃崎さんは書籍化も予定しているそうなので、書籍ではもう少しわかりやすく説明してくれることを期待します。
おもしろいのは、桃崎さんは、「ヤマト」が王権名になったのは、都の所在地を王権名にしたのではなく(そのような事例は東アジアに皆無)、「ヤマト」が王権の基盤が確立した地域だからだとしていることです。たまたま日本列島では、王権の基盤が確立した地域と都の所在地が同じですが、あくまで「王業基盤地名の王朝名化」を倭が模倣した結果だとしています。
➎相互転移の成立
まとめると、「倭」「ヤマト」地名の相互転移とは、以下のような事象を指します。
漢字表記の「倭」(中国語)が「ヤマト」という訓読を与えられた。同時に、「倭」は王業基盤地名である「ヤマト」(日本語=大和ことば)の漢字表記にも使われるようになった
王業基盤地名の「ヤマト」が、中国の統一王朝名の成立過程を模倣することによって、対外的な国号、国内的な王権名に使われるようになった
2で紹介するように、桃崎さんは邪馬台国は大和しかないとします。「ヤマト」が王業基盤地名であり、「邪馬台(ヤマト)国」が中国から「親魏倭王」に任ぜられた諸侯国であり、「倭(ヤマト)」が王権名・国号になったとするわけです。
2. 邪馬台国と「ヤマト」
奈良盆地東南部の「ヤマト」という地域名が、国内的には王権名になり、対外的にも国号になったことはわかりました。問題はそれが邪馬台国とどのように結びつくかです。
①邪馬臺は「ヤマト」
邪馬台国は一般的に「ヤマタイ国」と読まれますが、桃崎さんは「邪馬台国論争を解決から遠ざけてきた最大の誤りは、「邪馬台国」を「ヤマタイ国」と読んできたことだ」と述べます。邪馬台国は「ヤマト国」と読むべきだとし、その根拠をいくつか挙げています。僕も邪馬台国は「ヤマト国」と読むことに賛成です。桃崎さんの根拠を僕なりに整理して紹介します。
※ちなみに、魏志倭人伝には「邪馬臺(台)国」※ではなく、「邪馬壹(壱)国」※と記述されています。魏志倭人伝の原本は失われていて、現在、僕たちが目にする魏志倭人伝は中国で12世紀に刊行された印刷本です。三国志は書き写しを重ねて伝えられましたが、転写の過程で誤字が発生しました。5世紀の後漢書をはじめ、隋書、北史など後続の歴史書では「邪馬臺(台)」と記述されていることなどから、「邪馬壹(壱)国」は誤字だということがわかります(2023/3/14note参照)。
※「臺」は台の旧字、「壹」は壱の旧字
桃崎さんが挙げている「邪馬臺(台)」を「ヤマト」と読む根拠のうち、僕が最も確からしいと考えるのは以下です。
古代中国での漢字の発音には複数の説があるが、どの説でも「臺」は、前漢・後漢以前の上古音では「ダ」と「ドゥ」の中間音(単母音)、三国時代以降の中古音では、「ダイ」(二重母音)と復元されている
日本語には二重母音はないので、上古音による復元が適切である
上古音と中古音の様々な説は以下のサイト(小学堂)で検索できます。先秦上古音と隋唐中古音の研究が進んでおり、検索結果はこの2つの時代の説が多いです(「臺」は前漢・後漢の発音は説が出されておらず、残念ながら不明です)。
※小学堂:台湾大学中国文学部・中央研究院歴史言語研究所・情報科学研究所・デジタル文化センターによって共同開発されたデータベース
検索方法は以下のとおりです。
画面左側の「字形」に「臺」と入力し、「確定送出」をクリック
右側の「相関連結」の中の「上古音」をクリックすると結果が表示される。「上古音」ではどの系統(復元案)でも「də」など(「ダ」と「ドゥ」の中間音)とわかる
次に「中古音」をクリック。「中古音」では「dəi」などとわかる
桃崎さんは、以下のように、日本書紀や続日本後紀[しょくにほんこうき]の事例も紹介しています。ただし、これらは8世紀以降の発音に基づくので、補足という位置づけになると思います。
➊日本書紀の景行天皇一七年三月己酉条で詠まれた有名な長歌で、「ヤマト」を「夜摩苔」と表記する。同じ長歌で「ヒト(人)」に「比苔」の字をあてており、「苔」は「ト」と読んでいる
➋同様に、仁徳天皇三〇年九月乙丑条で皇后が詠んだ長歌でも、「ヤマト」を「夜莽苔」と表記する。「苔」と「臺」は上古音でも中古音でも同じ発音である(小学堂データベース参照)
➌続日本後紀の嘉祥二年(849年)三月二六日条で興福寺大法師らが仁明[にんみょう]天皇に詠んだ長歌で、「ヒノモトノヤマトノクニ」を「日本乃倭之国」と「日本乃野馬台能国」の2通りで表記する。「倭(ヤマト)」を「野馬台」と表記し、「台」を「ト」と読んでいる
▶➊夜摩苔波 区珥能摩倍邏摩 多多儺豆久 阿烏伽枳 夜摩 許莽例屡 夜摩苔之 于屡破試
(やまとは くにのまほらま たたなづく あをかき やま こもれる やまとし うるはし)
▶➋阿烏珥豫辞 儺羅烏輸疑 烏陀弓 夜莽苔烏輸疑
(あをによし ならをすぎ をだて やまとをすぎ)
▶➌日本乃 野馬台能国遠 賀美侶伎能、宿那毘古那加 葦菅遠 殖生志川川 國固米 造介牟與理…
日本乃 倭之国波 言玉乃、富国度曾 古語尓 流來礼留
(ひのもとの やまとのくにを かみろぎの すくなひこなが あしすげを うゑおふしつつ くにかため つくりけむより…
ひのもとの やまとのくには ことだまの さきはふくにとぞ ふることに ながれこれる)
【現代語訳:日本の倭の国は少彦名神[すくなひこなのかみ]が葦・菅を植えて建国して以来…日本の倭の国は言霊の栄える国と言い伝えられています
※「やまとは くにのまほらま…」の長歌は、日本書紀では景行天皇の歌ですが、古事記では倭建命[やまとたけるのみこと=日本武尊]の歌になっていて「やまとは くにのまほろば…」と少し異なります。
※「まほらま」の「ま」「らま」は接頭語・接尾語であり「ほ」は秀でたところという意味です。「やまとは くにのまほらま」とは、「大和(奈良盆地)は国(日本列島)の中でも秀でたところ」と解釈するのが通説だと思いますが、直木さんはこの歌は国家成立以前の大和地方の歌謡だという説を支持し、「くに」を奈良盆地、「やまと」を東南部と狭く解釈するのがいいのではないかとしています(直木孝次郎「“やまと”の範囲について」(『飛鳥奈良時代の研究』(塙書房、1981年))。
②「邪馬臺(ヤマト)」の「ト」は乙類
漢字で日本語の発音を表した(簡単にいうと当て字をした)万葉仮名の研究により、現在の日本語は5母音ですが、古代日本語は「イ」「エ」「オ」段には甲類・乙類があり、8母音だったとする説があります。「ヤマト」の「ト」にも甲類・乙類がありました。
僕が8母音説を知ったのは、大野晋さん(元・学習院大学)の『日本語の起源』(旧版)(岩波新書、1957年)ですが、なんと、8母音説は現在はほとんど支持されておらず、母音数については現在まだ定説はないのだそうです(竹村明日香「日本語の母音は本当に五つしかないのですか」(国立国語研究所サイト「ことばの疑問」、2019年)。
ただ、6母音説や5母音説などでも、「オ」段の発音には甲類・乙類の2種類があり、万葉仮名で書き分けられていたことは認めていると思います(5母音説:松本克己『古代日本語母音論:上代特殊仮名遣の再解釈』(ひつじ書房、1995年))。
「ト」を表す万葉仮名には以下のようなものがあります。

※中山修一「ヤマト地名考」(史林、1958年)
この一覧を見てもわかるとおり、大和(奈良盆地)の「ト」を表す万葉仮名はすべて乙類であり、邪馬臺(台)の「ト」と一致します。
【参考】韓国語の「오」と「어」
ところで、「オ」段の発音が2つあるというのは、韓国語を学んだ人は理解しやすいのではないでしょうか(僕はソウルに住んだことがあります)。日本人に「オ」と聞こえる韓国語には「오(o)」と「어(ɔ)」の2つがあります。僕は古代日本語の「オ」の甲類・乙類の違いは、韓国語の「오(o)」と「어(ɔ)」の違いとほぼ同じではないかという仮説を立てています(間違っているかもしれません)。
오(o) 口をややすぼめる「オ」 (日本語の「オ」とほぼ同じ)
어(ɔ) 口を開く「オ」 (「ア」と「オ」の中間の音)
※ちなみに、韓国人には、오(o)は明るく軽いニュアンスがあり、어(ɔ)には暗く重いニュアンスがあるそうです。韓国人は一般的に後者のニュアンスを重視します。
※釜山など慶尚道[キョンサンド=韓国東南部]の方言(サトリ)では、「オ(ɔ)」は日本語の「ウ」に近い発音になり、日本人は混乱します。
어(ɔ)は韓国語のローマ字表記では「eo」と表されることが多いですが、「u」で表されることもあるのはそのためです(日本語のローマ字表記の日本式とヘボン式の違いに似ています)。慶尚道発祥の財閥、三星[サムソン]は「Samsung」と表記されます。
③邪馬臺(台)と大和は発音が一致
九州には和名抄に掲載されている「ヤマト」が2つあります。福岡県山門郡と熊本県菊池郡山門郷です。山門の「ト」は甲類で(「門」の訓読みをあてる)、邪馬臺(台)とは異なります。そのため、山門が邪馬臺(台)国であるという説は、大和説からは否定されます。
桃崎さんも「九州にも「山門(やまと)」という地名があるが、「門」の字で表す「ト」は甲類なので、日本全体や奈良地方を指す「ヤマト」とは上代[じょうだい=古代]の発音が違い、ここでは忘れてよい」と述べます。「ト」が乙類の「ヤマト」は大和しかないから、邪馬臺(台)国は大和だとするのです。
「ト」の発音では断定はできない
「ト」の甲類・乙類については、昔から様々な議論があります。例えば、井上光貞さん(元・東京大学)は以下のように述べます。
▶わたくしは、言語学には門外漢のせいか、この論拠<邪馬臺の「ト」は乙類だから山門ではない>がかならずしも絶対とはおもわない
▶なぜなら、三世紀の卑弥呼時代の倭人の言語において、五百年もあとの奈良時代と同じ音韻法則を認めてよいかということが問題だからである
▶古事記・日本書紀・万葉集のばあいには、同じ日本人が自分の発音している言語を自分で聞きわけ書きわけたのだが、倭人伝のばあいには、魏晋時代の中国人が、倭人の言語を聞いてこれを写したものという違いもある
▶倭人伝の地名・人名・国名などのなかには…何と読んでよいかわからない地名・人名・国名がひじょうに多い※。これは、中国人が倭人の言語をかならずしも正確に聞きわけ書きわけてはいないことの一つの証拠であろう
▶しかし、この問題が、九州説の弱点の一つであることに変わりはない
※魏志倭人伝の「投馬国(とうまこく/つまこく)」や「巳百支國(しおきこく/いわきこく)」などの旁国の国名や、「難升米(なんしょうまい/なしめ)」「牛利(ぎゅうり/ごり)」など使者の人名は、正確な読み方がわかっていないことを指します。
甲類・乙類の違例
実際、万葉集などをみると、同じ1つの単語で、甲類・乙類が混用されている用例が存在します。軽部利恵[かるべ・りえ]さん(都留文科大学)は万葉集での混用を76例挙げています(軽部利恵「上代仮名遣いの「違例」について」(『叙説』(奈良女子大学日本アジア言語文化学会)巻45、2018年)。
そのうち、「ト」には以下のような例があります。
ひと【人】:比度(甲)/比等(乙)
とく【解く】:刀気氐(とけて)(甲)/等久(乙)
とも【助詞】:刀毛(甲)/跡毛(乙)
このように、邪馬臺(台)の「ト」は乙類だから、九州の山門ではないという意見は断定できるものではありません。理由を整理すると以下のとおりです。
8世紀の「ト」の発音が、3世紀も同じだったのかはわからない
中国人が「ト」の発音を聞きわけられなかった可能性もある
8世紀以降でも「ト」の甲類と乙類は、同じ単語で混用されていた
桃崎さんは山門の可能性は「忘れてよい」と述べますが、一言で片づけられるものではなく、これまでの議論を踏まえた桃崎さんの意見を聞きたいところです。
一方、井上さんも述べるとおり、邪馬臺(台)と大和の発音が一致することは事実です。「この問題が<大和説の根拠になり>、九州説の弱点の一つである」ことに変わりはありません。
「邪馬臺(台)」は「大和」だけだと断定はできないものの、発音が一致していることは、邪馬台国とヤマト王権が連続している根拠として否定はできないと思います。
※九州の山門、近畿の大和以外に、和名抄に掲載されていない「ヤマト」という地名があった可能性もゼロではありません。
中国の歴史書は邪馬台国大和説だが
邪馬台国大和説は、文献学的に中国の歴史書も根拠とされることがあります。山尾幸久さん(元・立命館大学)は以下のような記述を取り上げます。
隋は608年(推古天皇の時代)に倭国に裴世清[はい・せいせい]を送りました。その見聞をもとに、7世紀の隋書には以下のように記述されています。
▶都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
<7世紀の倭国は>邪靡堆に都を置いている。<すなわち>これが『魏志』<倭人伝>に書かれているところの邪馬台である
後漢書には、7世紀に唐の皇太子だった李賢[り・けん]が以下の注釈を入れています。
▶其大倭王居邪馬臺國 【注釈】案今名邪摩惟音之訛也
その<3世紀の>大倭王は邪馬台国に住んでいる
【注釈】案ずるに今の<7世紀の>邪摩惟の音の訛[なまり]だろう
山尾さんは「『隋書』や『後漢書』注は、七世紀の中国人がいわば邪馬台国畿内説であったことを示している」と述べます(山尾幸久『新版 魏志倭人伝』(講談社現代新書、1986年))。
中国の歴史書のこのような記述が根拠にできれば、邪馬台国大和説としても都合がいいのですが、王権の連続については、中国の歴史書は確かな根拠にはならないことを義江明子さん(帝京大学)指摘しています。
▶中国側は通常…使者を派遣してくる王がいると、その前に使者を遣[つかわ]した王の「子」とみなし、そのように史書に記録した
▶父子と書かれていても、実際には父子関係でない王が混じっているとみなければならない
▶中国史書の冊封記事にみえる「父」「世子」といった続柄記載は、中国と通交関係を持った前王の正統な継承者であることを次王が主張し、それを中国側が認めたことの表明にほかならない<表明でしかない>
▶必ずしも現実の親子関係を意味しない
義江さんは、倭の五王を念頭に、父子関係(続柄)について述べていますが、王権の連続も、ひいては王権の所在地も同じです。倭国からの使者が「ヤマト王権は(親魏倭王に任ぜられた)卑弥呼と連続しており、正当性がある」と主張すれば、中国の歴史書はそのとおりに記述せざるをえなかったのです。
義江さんは14~15世紀の琉球王朝の事例で、中国の歴史書(明書)の記述が間違っている事例も紹介しています。
詳しくは以下の記事で紹介しました。
桃崎さんは、以下のように述べます。
▶「奈良地方のヤマトの飛鳥にあった倭国の都の所在地「邪靡堆」が、『魏志』倭人伝の「邪馬台」の後身である」という『隋書』編者の考証・認識は、正しかったと結論される
桃崎さんのように「隋書の推論は正しかった」という言い方が適切であり、隋書などの記述が邪馬台国とヤマト王権が連続していた根拠にはならないということです。
改めて、この記事をまとめると以下のとおりです。
「邪馬臺(台)」と「大和」の発音が一致することは事実である。「邪馬台国=大和」の消極的根拠にはなる(ただし、山門は邪馬台国ではないとまでは断定できない。他にヤマトがあった可能性もある)
隋書などの認識は事実とは限らず、邪馬台国=大和の根拠にはならない
卑弥呼とヤマト王権は連続していない
邪馬台国大和説は、箸墓古墳や三角縁神獣鏡など考古学的成果が根拠とされることが多いと思いますが、僕は纒向が卑弥呼の都だったということはありえないと考えています。ありえないと考える12の根拠のうち、10項目は考古学に関連する根拠です(文献学1項目)。
つまり、僕は(消極的ですが)邪馬台国は大和であり、ヤマト王権とは連続しているものの、卑弥呼とヤマト王権は連続していないと考えています。【1/4】の記事で述べたように、女王国と邪馬台国は別の国だからです。
【3/4】の記事では、女王国と邪馬台国は別の国だとする、これまでの4人の研究者の説を紹介します。
(最終更新2026/6/5)
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