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庄内系土器の移動と那珂八幡古墳:近畿による九州詣で

2025/2/2のnoteで「纒向[まきむく]は卑弥呼の都とは考えられない」ことを紹介しました。

今回はそれに関連して、近畿の庄内系土器の移動と纒向型前方後円墳について、僕なりの見方を紹介します。

noteで何度も書いているとおり、纒向には朝鮮半島の楽浪[らくろう]※系土器や、九州系の土器はほとんど見られません。卑弥呼は239年以降、中国に遣使していながら、纒向は大陸や九州との交流の痕跡が希薄です。僕はもうそれだけで、纒向が卑弥呼の都だったということはありえないと思っています。

※楽浪郡:中国の朝鮮半島の出先機関。現在の平壌。その南に置かれた帯方郡が魏の使節団の出発地

一方、九州北部(糸島平野・博多平野=卑弥呼の時代の伊都国・奴国)には、近畿と関係があった痕跡が残っています。1つは近畿の庄内系土器が九州北部に入ってきていること、もう1つは前方後円墳(福岡市の那珂八幡古墳)が現れることです。年代はどちらも土器の庄内式新段階(庄内2式・3式期)になります。

これらの現象は、あたかも卑弥呼が西日本全体で共立されて纒向に都を置き、近畿によるコントロールが九州北部に及んだことを示すかのように思う人がいるかもしれません。その認識は間違っています。

僕の結論を先に述べると、以下のとおりです。庄内系土器と前方後円墳は、近畿が倭国の中心だったという根拠にはなりません。

  • 庄内系土器と那珂八幡古墳の出現は庄内式新段階である。近畿と九州北部の関係はようやく庄内式新段階になって本格化したことを示す。卑弥呼の共立は庄内式古段階。九州抜きで共立されたとは考えられない

  • 近畿は大陸と直接交流・交易するルートを持たず、九州北部に窓口になってもらっていた。庄内系土器の移動は、近畿が九州北部の王権詣でをしていたことを示す

  • 那珂八幡古墳は九州独自の墳形であり、近畿の模倣ではない。近畿は前方後円墳のノウハウ(立地・設計・土木技術等)を提供する見返りに、九州北部に大陸との交流・交易の窓口になってもらったと考えられる

※トップ画像:庄内型甕(左)と布留型甕(大阪府船橋遺跡/東博展示)
※なお、僕は年代は以下のように単純化してとらえています。
 弥生終末期=3世紀=庄内式期(前半が卑弥呼の時代)
 古墳前期=4世紀=布留式期
 箸墓古墳=300年前後=古墳時代開始=布留0式期
 ホケノ山古墳=270年前後=庄内3式期
(以下のnote参照/いずれも通説とは異なります)


庄内系土器の移動:近畿は九州北部を窓口に中国鏡や鉄などを入手

近畿と九州北部の関係本格化は庄内式新段階

近畿の庄内系土器の移動について、ちょっと古いですが、1983年のシンポジウムで寺沢薫さん(纒向学研究センター)は以下のように述べています。

▶庄内型の甕というのが近畿地方にはあるわけなんですけども…北部九州のほうで、庄内でもかなり新しい段階になると思うんですけれども、特に交通の要衝と思われるような遺跡に北部九州で点々と庄内型の甕というのが最近発見され出しております。…<大分県>安国寺遺跡ですとか、それ以外には<福岡県>三雲遺跡ですとか
▶それから特に布留式の一番古い段階<布留0式期>で…北部九州の中で遺跡の中に大量に畿内系の土器--畿内のつくり方を持った土器、つまり布留式土器の古い形を持った土器というのがあらわれ始めます
▶逆に、それでは近畿地方のほうはどうかと言いますと、やはり近畿地方のほうもこのぐらいの段階になりますと各地の土器が入ってくるわけです。…しかし、九州の土器はほとんど入ってきていないといってよいと思います

寺沢薫「交流」(『三世紀の九州と近畿』(橿原考古学研究所附属博物館編、
河出書房新社、1986年)所収=1983/11/6シンポジウム発表)

近畿の庄内系土器が九州北部入ってきたということは、近畿の人々が九州北部を訪ねたり、移り住んだことを意味します。

まず土器移動の年代が問題です。寺沢さんは、卑弥呼は倭国乱終息のために210年前後に共立され、纒向に都を置いたとします。庄内式古段階だと思います。卑弥呼の都が纒向だったとすると、卑弥呼は九州を含む西日本全体によって共立されたはずです。共立が九州抜きだったとは考えられません。

にもかかわらず、庄内系土器の移動からは、近畿と九州北部の交流が本格化したのは、ようやく庄内式新段階になってからであることが推測されるのです。卑弥呼の共立が西日本全体ではなかったことを示します。

近畿は大陸との直接ルートがなかった

さらに注目されるのが、中国や朝鮮半島でつくられた鏡、鉄製刀剣類、ガラス製小玉などの日本列島への流入・流通です。辻田淳一郎さん(九州大学)は以下のように述べます。

▶弥生時代後期に関しては、舶載[はくさい=輸入]文物の瀬戸内以東への流入が全般的に少ない
▶注目されるのは弥生時代後期後半以降の日本海沿岸地域あるいは北近畿周辺における舶載の鉄製刀剣類の多さである。…鉄製刀剣類が副葬される墳丘墓などでは鏡が出土しない…つまり、鉄製刀剣類と鏡がセットで大陸からもたらされたという形では説明できない
▶この時期には舶載のガラス製小玉(ビーズ)や石製の管玉などの玉類が楽浪郡などを窓口として列島に流入しているが、列島側では北部九州を窓口としながら各地に広く流通している
▶以上のような点からみて、弥生時代後期~終末期においては、鏡に限らず、どこかの地域が舶載文物を独占的に入手してそこから各地に政治的に分配された、といった理解が難しい

辻田淳一郎『鏡の古代史』(角川選書、2019年)

楽浪系土器は九州北部の糸島平野、福岡平野のほかに、島根県山持[ざんもち]遺跡など山陰にも持ち込まれています。一方、日本海側に特徴的な四隅突出型墳丘墓(西谷[にしだに]墳墓群など)では(リンク先は出雲観光ガイド「西谷墳墓群史跡公園」)、辻田さんの述べるとおり、中国鏡の出土が皆無で、中国鏡が大量に副葬された九州北部とは対照的です。山陰には九州北部とは別の交易・交流ルートがあったことが推測されます。

もし、卑弥呼が西日本全体で共立されて纒向に都を置き、近畿が九州北部をコントロールしていたのであれば、九州北部だけでなく山陰に独自の大陸との交流・交易ルートがあるのは不自然です。近畿は大陸との交流・交易を直接行うことができず(直接行うことができる国として中国に認められておらず)、九州北部に窓口になってもらっていたのです。

土器の流れ、人の流れは、近畿から九州北部への一方通交です。近畿は九州北部を訪ねる必要がありましたが、九州北部は近畿を訪ねる必要はありませんでした(近畿を重要視していなかった)。

辻田さんは中国鏡の瀬戸内以東への拡散について、A型・B型の可能性があるとしていてわかりやすいです。

▶一つは、瀬戸内以東の各地から人が集まり北部九州の諸集団から鏡を入手<下図のA型>
▶もう一つは、瀬戸内以東の各地から派遣された人々が、北部九州の海人集団などを水先案内人として楽浪郡・帯方郡などに赴き鏡を入手した後、地元に鏡を持ち帰る…筆者はこれを「水先案内モデル」と呼称している<B型>

同上
辻田淳一郎『鏡の古代史』(角川選書、2019年)より転載

近畿から九州北部への庄内系土器の移動、ひいては人々の移動は、九州に窓口になってもらって大陸と交流・交易するためだったことを意味します。近畿は九州北部の王権詣でをして、お願いする立場だったわけです。

庄内3式期になって、纒向のホケノ山古墳には画文帯[がもんたい]神獣鏡(完形鏡・破鏡)や鉄製刀剣類などが副葬されます。まさに九州北部への庄内系土器の流入と整合します(近畿が九州北部の王権詣でをして中国鏡などを持ち帰った)。

ホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡(橿原考古学研究所附属博物館)

前方後円墳のノウハウ提供:中国鏡や鉄を入手する見返り

庄内式新段階に那珂八幡古墳が出現

庄内系土器の九州北部への移動が始まってからしばらく経ったころ、福岡市の比恵・那珂[ひえ・なか]遺跡に那珂八幡[なかはちまん]古墳がつくられました。

那珂八幡古墳には主体部(埋葬施設)が2つあり、1号主体部は未調査で、古墳がつくられた正確な年代は不明です。2号主体部からは三角縁神獣鏡が出土していて布留0式併行期と推定できますから、1号主体部はその前の庄内3式併行期以前と考えていいと思います。

福岡県那珂八幡古墳(2023年12月撮影)

寺沢さんは那珂八幡古墳を纒向型前方後円墳だとしています。纒向型とは寺沢さんが提唱する類型で、後円部と前方部の長さの比率が2:1の前方後円墳を指します。纒向石塚古墳が発祥で、纒向から発信され、全国に(山形県から鹿児島県まで)普及したというのです。千葉県にもあります。

千葉県神門[ごうど]5号墳(2021年12月撮影)
右側の前方部が低くて小さい纒向型とされる

那珂八幡古墳は纒向型ではない

那珂八幡古墳は2018年の発掘調査によって、前方部が長いことがわかりました。墳長は約86m(後円部52m・前方部34m)、後円部と前方部の比率は5:3で、纒向型とは異なり、九州北部独自の墳形だと考えられます(報告書は未刊行/墳長は井上義也「須玖遺跡群の衰退と比恵・那珂遺跡群」(朝日カルチャーセンター講座、2025/3/8)の資料の数字をまるめた)。

確かに前方後円墳は纒向で生まれており、近畿が前方後円墳のノウハウ(立地・設計・土木技術等)を各地に提供したのだろうと思います。ただし、それは近畿が前方後円墳の築造を許可したとか、墳丘の規模を指示したといったものではないと思います。

僕は、近畿は何らかの利益(見返り)と引き換えに、前方後円墳のノウハウを提供したのだと思います。九州北部に対しては、中国鏡や朝鮮半島の鉄資源の入手です。

近畿は庄内式新段階になってようやく九州北部との交流を本格化しました。前方後円墳のノウハウを提供する見返りに中国鏡や鉄資源を入手するとともに、九州北部の墓制を模倣して、鏡や鉄製品の副葬という墳墓の属性を取り込んだのではないでしょうか。

つまり、近畿の墳墓への鏡や鉄製品の副葬は、九州北部の王権の移動(東遷)とか、九州と近畿の勢力の合意といった、政治的な出来事によって始まったわけではないということです。単に、九州北部の王権詣でをした近畿の勢力による模倣、属性の取り込みだと思います。庄内3式期のホケノ山古墳以降のことです。

※九州北部には前方後円墳のノウハウ提供を受けるメリットがあったはずですが、どのようなメリットがあったのか、僕はまだ仮説の段階(以下のnote参照)で、明確な説はありません。

【補足1】纒向型というものがあったのか?

僕は、最近は纒向型という類型そのものに疑問を抱くようになりました。寺沢さんは初期の纒向型は100例を超えるとし、2010年のシンポジウムでは60例の平面図を示しています(「纒向型前方後円墳の成立と前方後方墳」(『邪馬台国時代の東海と近畿』(二上山博物館編、学生社、2012年)所収=2010/7/18-19シンポジウム報告)。

確かに、纒向型は前方部が低くて小さいという点では共通しているのですが、平面図を見ると、後円部も前方部も墳形はばらばらです。寺沢さんは纒向型を10類型にも分けています。10類型もあるものを、纒向型と1つにくくるのは適切でしょうか。

【補足2】前方後円墳体制は机上の空論では?

僕は纒向型に限らず、そもそもヤマト王権が前方後円墳を許可・指示したという前方後円墳体制、前方後円墳国家などと呼ばれる考え方には懐疑的で、机上の空論ではないかと思っています。

古墳時代になると前方部が発達して定型化した前方後円墳が普及しますが、古墳中期の初めに大阪府上石津ミサンザイ古墳(墳長365m)と岡山県造山[つくりやま]古墳(350m)が相次いでつくられます。規模はほとんど同じです。ヤマト王権が吉備の王権に同じ規模の古墳を許可・指示したなどということがありえるでしょうか。

古墳出現期・前期(4世紀)はもちろん、古墳中期(5世紀)になっても、ヤマト王権は突出した存在だったわけではなく、群雄割拠していた勢力の1つだったのだと思います。

坂靖さん(元・橿原考古学研究所)は以下のように述べています。

▶ヤマト王権は、古墳時代前期後半に佐紀古墳集団をとり込み、前期末葉にカワチ地方まで版図を広げ(津堂城山古墳)、五世紀にはイズミ地方まで進出して(上石津ミサンザイ古墳)倭国王を輩出するにいたった
▶中国を中心とした冊封体制のもとで、ようやく倭国王と自称し、その地位を得るにいたった
▶しかしながら、氏族の淵源となった有力地域集団(和邇[わに]氏、物部氏、大伴氏、葛城氏など)は、奈良盆地各地に独自の支配領域をもっており、ヤマト王権は、これらの勢力とのあいだに、危ない均衡を保っていた
▶政治的には、きわめて不安定な状態がつづいたのである

坂靖『ヤマト王権の古代学』(新泉社、2020年)

新聞記事での坂さんのコメントは、より端的でわかりやすいです。

▶5世紀は各地に『国』や『王』が個別に割拠しており、専制的な支配機構は完全にできあがっていない
▶中央と地方の関係ができあがるのは6世紀に九州で起こった磐井の乱が終わった後でしょう

朝日新聞「5世紀の日本列島、権力は揺れていた?」(2022年7月21日)

ヤマト王権が独自ルートを持つようになるのは4世紀後半

僕は箸墓古墳の年代(布留0式期=300年前後)をもって古墳時代の開始とします。ヤマト王権が成立し、三角縁神獣鏡の製作・配布が始まり、朝鮮半島南部(三韓)との交流・交易が本格化します。ただし、この年代になっても、ヤマト王権は大陸との直接のルートを持たなかったようです。井上主税さん(関西大学)は以下のように述べます。

▶4世紀に入ると…巴形銅器…といった近畿地方を中心に分布する倭系の威信財が、大成洞古墳群に副葬され始める
▶一方、土器は北部九州の布留式系土器が多く、依然としてこの地域との関係が重要であったことを示唆する
北部九州を窓口としてヤマト王権と金官国間で活発な交渉がなされたといえる
▶交渉の目的は、鉄素材をはじめとする先進文物や関連する技術の入手が大きな目的であったことは3世紀から継続している

井上主税「朝鮮半島南部の諸勢力とヤマト王権の対外関係」
『纒向学の最前線』(纒向学研究センター、2022年)p517-526)

ヤマト王権が独自ルートを確保するのは、4世紀後半(布留2式期)に沖ノ島ルートを開拓してからだと思います(リンク先は「「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」サイト)。

【補足3】4世紀末にヤマト王権が高句麗と戦ったのか?

人によっては「いやいや、ヤマト王権は4世紀末に朝鮮半島に遠征している。早い時期から九州をコントロールしていたのではないか」という見方があるかもしれません。

確かに、高句麗の広開土王碑(中国吉林省)によると、高句麗と倭国は4世紀末から朝鮮半島で戦火を交えたかのように記されています。2024/3/24のNスペ「ヤマト王権 空白の世紀」でも、ヤマト王権が国として朝鮮半島に遠征したかのように印象づけていました(2024/3/25note参照)。

一方、坂さんは以下のように述べていて、僕も賛成です。

▶四世紀半ばに百済王との関係に端緒を開いた奈良盆地の有力地域集団や日本列島各地の王や新興勢力が、五世紀代を通じて朝鮮半島各地域で積極的な活動をおこなっている。百済王との関係のなかで、その軍事行動に加担した倭人も少なからず存在したと考えられる
▶広開土王碑に刻まれた「倭」「倭寇」「倭賊」は、こうした王や新興勢力を指しているのであって、ヤマト王権のもとに編成された組織的な兵力であったわけではない

『倭国の古代学』(坂靖、新泉社、2021年)

広開土王碑は自らの功績を大きく見せるため、倭国を強大な国であるかのように脚色したのでしょう。先ほど述べたように、4世紀の倭国はまだ群雄割拠の時代であり、ヤマト王権に軍隊を組織し、海を渡って遠征するような力があったとは考えられません。南宋への倭王武の上奏文(478年)は誇大です(リンク先は学研キッズネット)。

ヤマト王権が九州を実質的にコントロールするようになるのは、6世紀初めの磐井の乱の後、糟屋屯倉[かすやのみやけ=ヤマト王権の直轄地]を置くようになってからとされています。僕は魏志倭人伝の大率[だいそつ]・大倭[だいわ]などの統治機構も、倭国を大国と見せかけるための脚色であり、存在しなかったと考えています(2024/3/8note参照)。

(最終更新2025/6/27)

#庄内型甕 #那珂八幡古墳 #画文帯神獣鏡 #前方後円墳 #ヤマト王権

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