女王国はどこか? 4人の説:卑弥呼九州/邪馬台国大和説【3/4】
女王国≠邪馬台国:4人の説
【1/4】の記事で紹介したとおり、魏志倭人伝が記述する「女王国」(卑弥呼の都)と「邪馬台国」が別の国だとする説は、僕のオリジナルではありません。これまで主に4人の研究者によって提唱されています。
今回はこの4人の説を紹介します。「女王国」と「邪馬台国」が別の国だとする説とは、具体的にはどのような説で、どのような理由で生まれたものなのか、感じとってもらえればと思います。
4人とも(僕も)、邪馬台国は大和としている点では共通しています。
女王国の所在地については、意見は分かれます。
特に上野武さん(元・朝日新聞社)の「女王国=伊都国説」は、目から鱗の斬新な説になっています。僕は結論には全面的には賛成できませんが、研究手法も含めてとても勉強になりますので、詳しく紹介します。
※トップ画像:上野武『女王卑弥呼の「都する所」: 史料批判で解けた倭人伝の謎』(NHK出版、2004年)
橋本増吉氏:邪馬台国は山門と大和に並存
戦前から橋本増吉さん(元・慶応大学・東洋大学)による説があります。橋本さんの説は、「卑弥呼九州/邪馬台国九州・大和並存説」とも呼ぶべきものです。
邪馬台国(九州)と初期の大和朝廷(大和)が並存したとしていることから「重ね写真説」と呼ばれることもあるようです。1万2000里の「女王国」と水行陸行の「邪馬台国」が別の国だと見ている点は同じです。
▶九州北地より南して筑後国山門の地に至るには、ツマ(妻)<旧・上妻郡・下妻郡=現在の八女市・筑後市など>なる名称の地を通過すると同時に、また九州北部より<日本海を>東して畿内大和に至る水路においては、イツモ(出雲)なる名称の地に寄泊すべき事情にあるとすれば、しかも、前の場合は、魏の使節の親しく行きし所で、里数にて伝えられているに対し、後の場合は、倭人の言による伝聞に過ぎなかったものとすれば、魏略あるいは魏志<倭人伝>の編者が、その地名の類似に誤られて、その両者を混淆[こんこう=混交≒混同]し、しかも、なるべく絶遠の地を連想せしむべき、日程記事によるべきことは、むしろ自然の人情ではあるまいか
▶されば、予は魏志倭人伝の記事を以て、大和朝廷の威力が、瀬戸内海を支配して九州の地に及ぶ以前において、魏略あるいは魏志の編者が、九州北部より筑紫山門に至る記載と、日本海路によりて畿内大和に至る伝えとを混淆せしがために生ぜし、誤伝を示すものあろうと解するの外、また他に了解の途なきを信ずるのである
(大岡山書店、1932年)より現代仮名遣いに改変
※引用は、見やすいように▶で改行します。順番は入れ替えていることがあります。< >は僕が補った個所です。
※『東洋史上より観たる日本上古史研究』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます(登録不要)。上記の記載は「五 瀬戸内海路と日本海路」より(コマ番号45、p57)
橋本さんの説を僕なりに整理すると以下のとおりです。
邪馬台国は2ヶ所にあった。山門の邪馬台(ヤマト)国と大和の邪馬台(ヤマト)国である
卑弥呼の年代には、大和の邪馬台国(ヤマト王権)の支配は九州まで及んでいなかった。ヤマト王権の初期段階である
魏志倭人伝は「九州北部から南へ→妻→山門」への行程と、「九州北部から東へ→出雲→大和」への行程を混同した
僕も以前は橋本さんの説に賛成で、「邪馬台国九州・大和並存説」を論壇サイト「アゴラ」に投稿したことがあります(2020年。現在は削除)。魏志倭人伝が2つの国を混同してしまったのは、「邪馬台(ヤマト)国」という国名が同じだった(似ていた)からだという理由が、最も可能性があると思ったからです。
山門説には反論も多いです。
1つは山門には大規模な遺跡がないという指摘です。しかし、卑弥呼の都は大規模だったかもしれませんし、大規模ではなかったかもしれません。どちらも可能性があります。第1次世界大戦後の国際連盟の本部はジュネーブに置かれました。現在の国連事務総長も大国からは選ばれません。卑弥呼は国連事務総長型(調整役型)のトップだった可能性はあると思います。
もう1つは山門の「ト」は乙類で、邪馬臺(台)とは発音が異なるという指摘です。これについては、【2/4】の記事③で反論を紹介しました。8世紀の発音が3世紀も同じだとは限らないこと、中国人が聞き分けられなかった可能性があること、8世紀でも「ト」の甲類・乙類は混用されていたことから、「ト」の発音によって山門の可能性はないと断定はできません。
久米雅雄氏:卑弥呼は筑紫女王国/男弟が畿内邪馬台国
次に紹介するのは、久米雅雄さん(元・大阪芸術大学)の説です。久米さんは以下のように述べます。
▶従来、単純に同一視されてきた「女王国」と「邪馬台国」とは、実は互いに異なる別々の二国であり、「魏志倭人伝」の内包する地理的諸条件のすべてを同時に満足させる解としては、「女王国」を筑紫の地(伊都国の南・狗奴国の北…)に、「邪馬台国」を畿内大和の地に設定するしか<ない>(同一説では幾つかの矛盾が生じてしまう)
▶もしこの考説が正しいとすれば「邪馬臺国、女王之所都」なる一文は「畿内の邪馬台国、それは筑紫の女王が都を定めた所である」の意であって、それは「倭国大乱」が、侵略的な「東征戦争」という図式を有していたことの明確な証左となりえる
▶卑弥呼は筑紫女王国に留まり、男弟を畿内邪馬台国にすえる
(北村茂夫追悼日本史学論集、日本史論叢会、1986年))より現代仮名遣いに改変
※『歴史における政治と民衆』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます(ID登録(無料)が必要)。上記の記載は「久米雅雄 新邪馬台国論」より(コマ番号134、p262)
久米さんは、筑紫にあった邪馬台国は倭国乱の前から存在して、倭国乱で近畿を征服(東征)し、近畿に男弟を置いて統治したとしています。女王国は伊都国の南ですから、筑後川の北岸地域、吉野ヶ里遺跡あたりということになるでしょうか。
大和岩雄氏:女王国は筑紫平野/台与が東遷
大和[おおわ]岩雄さん(元・出版社経営)は、九州の女王国が、台与の時代に大和に遷都したとします。
▶卑弥呼の都が「筑紫女王国」で、台与[とよ]の即位後遷都し都を大和に置いた。それが「畿内邪馬台国」とみれば、なぜ日数記事の邪馬台国に至る記事が載るかの説明は容易である
▶卑弥呼の都は帯方郡から一万二千里の所にある女王国であり…この記述のみが魏時代の『魏略』などの原資料に載っていたのに、同じ女王の都の台与の邪馬台国(台与が北部九州の女王国から遷都した大和の女王の都)に至る伝聞史料(二六六年の台与派遣の倭使が語った記録)をみた陳寿が、女王国=邪馬台国とみて原史料に付加したため、文献史料では九州説と大和説が生じ、不毛な論争をくりかえすことになったのである
▶纏向型の古墳や畿内型土器<が九州に移動した>集中地は、福岡県那珂川町、筑紫野市、甘木市、小郡市、佐賀県鳥栖市の筑紫平野北西部一帯である。…この地域のどこかに女王の都(女王国)があったのである
大和さんは女王国と邪馬台国は違う年代の国で、畿内邪馬台国の女王は台与だと見ています。大和に遷都した台与が266年に西晋に遣使し、陳寿はその情報を入手して、邪馬台国の情報を合体したと推定しているわけです。
※266年の遣使については、次の上野さんの説で説明します。
上野武氏 1⃣:女王国は伊都国/台与が東遷
上野武さん(元・朝日新聞社)の説は女王国(卑弥呼が都)=伊都国だとしています。あっと驚く新説です。上野さんの説を僕なりに整理して、詳しく紹介します。
上野さんの説は、魏志倭人伝の以下の2つの記述に不審を抱いたことがヒントになっています。どちらも伊都国の説明における不審です。
▶伊都国に到着する。…代々王がおり、みな女王国に統属している
▶女王国より北には、特別に一人の大率[だいそつ]を置き、諸国を監察させている。…(大率は)常に伊都国を治所<とする>
どうしてこの2つが不審なのかについては、【1/4】の記事➌と補足で説明しました。どちらも事実とは考えられません。以下で改めて紹介します。
①「代々の王」はありえない
卑弥呼は倭国乱を終息させるために共立されました。伊都国の王が女王国に統属したのは、卑弥呼が共立されてからのはずです。「(昔からの)代々(の)王が…みな女王国に統属している」という記述は矛盾しています。
魏志倭人伝が参照したと考えられる元資料の1つに、『魏略』という資料(歴史書)があります。魏志倭人伝より早く、魏の役人だった魚豢[ぎょかん]によって、260年代に書かれたとされています。魏略の全文は現在は失われていますが、翰苑[かんえん]など、他の事典や歴史書に魏略の記述が「魏略曰く」として引用されていることから※、魏略の倭に関する記述がうかがえます。魏略と魏志倭人伝に共通する元資料(魏の使者の報告書など)があったこと、魏志倭人伝は魏略も参照したことが推定できます。
※翰苑等に引用されている魏略を「魏略逸文」[いつぶん]と呼びます。
魏志倭人伝と魏略逸文(主に行程に関する記述)を比較すると下表のとおりです。

注目されるのは、黄色く網かけした伊都国についての記述が、魏志倭人伝と魏略逸文で異なることです。まさに上野さんが不審を抱いた個所です。魏略逸文は、対馬国・一支国・末盧国・伊都国までの行程に続き、「その王」と記述しているのに対し、魏志倭人伝は「代々(の)王」と書き換えていることがわかります。
魏志倭人伝は伊都国の後に奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国の情報を合体しました(上表の水色網かけ)。伊都国の説明に(魏略のまま)「その王」と引用してしまうと、その後に出てくる奴国・不弥国・投馬国の王はどうなのか(女王国に属しているのか)がわからないという、おかしな文章構成になってしまいます。そのため、魏志倭人伝は「(伊都国の)代々(の)王」という違う意味に書き換えてしまったのです。
魏略における、伊都国の本来の記述は「その王」だったということがわかります。上野さんはこの本来の記述を重視して、以下のように述べます。
▶<魏略は>郡使<帯方郡の使者=魏の使者>が、見聞した倭の諸国についての報告(国別記事)を伊都国条で完結するにあたって、対馬・一支・末盧の三カ国※について、「其の国王は、皆、女王に属するなり」と総括したに違いない
▶さらに、この推測はまことに重大な推測を導き出す。正始元年(二四〇)に倭国を訪れた郡使の任務は、卑弥呼に詔書・印綬を授けることであった。その復命報告書の国別記事が伊都国条で完結していたということは、郡使が任務を遂行した卑弥呼の「都する所」が伊都国だったということになる
▶「女王の都する所」に至る途中経過国について、「それらの国の王たちは、すべて女王に属している」と総括している文であるから、「女王の都する所」まで記述し終えたところに置かれるのが、文章として自然だからである
この上野さんの指摘はとても説得力があります。魏志倭人伝の記述は間違っていて、本来の記述は伊都国で完結しているのだから、女王国は伊都国だと考えるわけです。
※「その王」が指す国(の数)について、僕は上野さんとは違う意見を持っています。➋で後述します。
※魏志倭人伝の記述から、3世紀の日本列島で王がいたのは、邪馬台国、伊都国、狗奴国の3ヶ国だとされることがあります(リンク先は吉野ヶ里歴史公園サイト「弥生ミュージアム」より「魏志倭人伝に見る階層と身分・地位」)。しかし、元資料である魏略の記述が「その王」だったということは、対馬国・一支国・末盧国をはじめ、他の国々(旁国を含む)にも王がいたことを示します。
②「女王国に統属」=「大率が監察」
上野さんは伊都国の「大率」の記述も不審だとしていて、僕も賛成です。
女王国=邪馬台国なのであれば、「女王国より北」とは、対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国、投馬国の7ヶ国を指します。投馬国は邪馬台国以北ですが、伊都国から南に遠く離れた投馬国を、伊都国に置いた大率が監察することになってしまいます。そんなことはありえません。
※僕はそもそも大率は存在しなかった(倭国を大国に見せかける誇大な記述)と考えていますが、大率の存在を認める研究者はこの矛盾について説明が必要です。
一方、上野さんの説のように、女王国=伊都国であればどうなるでしょうか。上野さんは以下のように述べます。
▶『魏略』では、「女王国」は伊都国を指していた
▶すると、「女王国自り[より]以北」は「伊都国自り以北」であり、具体的には伊都国に至る途中に経過する対馬・一支・末盧の三カ国を指していたことに<なる>
▶伊都国に接している末盧国を含む三カ国を、伊都国に常治する一大率が検察することに位置的な矛盾はまったく<生じない>
大率に関する上野さんの説明を整理すると、以下になると思います。
女王国(卑弥呼の都)=伊都国だった
伊都国には女王がいただけでなく、大率も置かれ、女王国以北を監察していた
つまり、対馬国・一支国・末盧国が伊都国に統属していたという記述は、具体的には、対馬国・一支国・末盧国が、伊都国に置かれた大率によって監察されていたという事実を指す
僕は、上野さんの説をこのように読み取りました。「統属」と「監察」を結びつけて、同じ事実を指すと見なしたわけです。おもしろい説だと思います。
伊都国に女王もいて、大率も置かれたというのは、現在でいえば、東京に首相がいて、総務省(旧・自治省)が置かれているのと、同じような位置づけになると思います。
③台与による東遷
上野さんも大和さんと同じように、卑弥呼の死後、台与の政権が東遷したとします。
▶邪馬台国に注記されている「女王之所都」の「女王」が、卑弥呼以外を指すのであれば、郡使が卑弥呼に印綬を拝仮した都が邪馬台国以外であってもさしつかえない
▶魏ならびに西晋と外交をおこなった女王は二人いた。卑弥呼と…台与である。この史実から私<上野氏>は、邪馬台国を都としたのは卑弥呼ではなく、台与であったと考える
▶台与の即位後の遣使入貢が二四七年のことだったとすると、二六六年の遣使まで…の間に、「女王の都する所」が伊都国から邪馬台国に東遷することはありえただろう
▶<しかし>陳寿が東遷に気づかずに、卑弥呼の時代から邪馬台国が「女王の都する所」であったと誤認したというのは不審ではないか…この難点に対しては、私<上野氏>は適切な解釈を見いだせないでいる
※1行目はわかりにくい文章ですが、「(邪馬台国の女王が卑弥呼ならば、卑弥呼の都は(当然)邪馬台国だが)、邪馬台国の女王が卑弥呼ではないならば、卑弥呼の都は邪馬台国とは限らないことになる」という意味だと思います。
卑弥呼の後を継いだ台与[とよ]が266年に西晋に遣使したことは、日本書紀(8世紀)と晋書(7世紀)が根拠で、通説になっています。
【晋書】(仮訳)
晋書 倭人伝
▶宣帝(司馬懿[しば・い]=西晋の創業者)が公孫氏を平らげると、その女王(卑弥呼)は使者を帯方郡に送り朝見した
▶その後も訪れて貢ぐことは絶えなかった
▶文帝(司馬昭)が魏の相国[しょうこく=首相]になると(263年)、また数度やって来た
▶泰始元年(265年)に使者を送ってきて土産を献じた
晋書 帝紀第3(武帝紀)
▶泰始二年(266年)11月、倭人が来て貢を納めた
※司馬懿(宣帝)の子が司馬昭(文帝)です。その子が司馬炎(武帝)で265年に魏を建国し、年号を泰始と改め、初代皇帝(武帝)になりました。
【日本書紀】
▶<神功皇后>六十六年、この年は晋<西晋>の武帝の泰初<泰始の誤り>ニ年<266年>である
▶晋の国の天子の言行などを記した起居注[きちょちゅう]に、武帝の泰初<泰始>ニ年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している
※晋の起居注は現在は失われていて(日本書紀など)他の歴史書での引用で部分的に知られます。
整理すると以下のとおりです。
卑弥呼による遣使以降も遣使が続いた(晋書)
263年以降、遣使が数度あった(晋書)
265年・266年に遣使があった(晋書)
266年に倭の女王が遣使したという(日本書紀)
晋書では卑弥呼の記述から続いていること、日本書紀に266年は女王とあること、魏志倭人伝では卑弥呼の死後に宗女(親族の女性)・台与が王になったとしていることから、これらの情報を組み合わせて、266年の遣使は卑弥呼の後を継いだ女王・台与の遣使であるとされているわけです。100%確かではありませんが、僕もその通説どおりで問題ないと思います。ちなみに、当時の日本列島には女王が複数いたとされています(【1/4】の記事③参照)。
大和さんも上野さんも、266年に西晋に遣使した女王は、大和の邪馬台国に東遷した台与であり、陳寿は台与の遣使の情報を知ることができたので(魏志倭人伝の成立は280年代)、邪馬台国の記述を魏志倭人伝に合体したとします。
ただ、上野さんは、魏志倭人伝には台与の政権が東遷した形跡が見られず、「陳寿が東遷に気づかずに…誤認したという…難点に対しては…適切な解釈を見いだせない」と述べています。
僕は、仮に東遷があったとしても、魏志倭人伝をはじめ中国の歴史書にその形跡がないのは不思議ではないと思います。中国を訪れた台与の使者(ここでは邪馬台国の使者)は、自分たちが卑弥呼の正当な後継者であることだけを中国に伝え、王都の移動までは伝えなかった可能性があるからです。中国の歴史書は倭国の使者の報告を信じるしかありませんでした。
※➌で後述するとおり、僕は東遷はなかったと考えています。
上野武氏 2⃣: 「女王国=伊都国説」のまとめと弱点
上野さんの説をまとめると以下のとおりです。
①女王国(卑弥呼の都)=伊都国だった
②伊都国に置かれた大率が、対馬国・一支国・末盧国を監察した。この3ヶ国は伊都国に統属した
③卑弥呼の死後、台与が大和に東遷した。陳寿は266年の台与の遣使によって邪馬台国の情報を得て、女王国と同じ国だと誤解し、魏志倭人伝で合体した
上野さんの説には直ちに3つの疑問が想起されます。➊伊都国から女王国までの残り1500里はどうなるのか、➋女王国に統属したのは3ヶ国か、➌台与は本当に東遷したのか、の3つです。
➊伊都国から残り1500里はどこに?
魏志倭人伝は、魏の使者の出発地である帯方郡から女王国までを1万2000里と記述します。伊都国までの行程を合計すると1万500里ですから、1万2000里には足りません。残り1500里はどこにいったのか、伊都国が女王国ということはありえないのではないかという疑問です。
これに対し、上野さんは以下のように述べます。
▶狗奴国まで書き及んだ郡使<帯方郡の使者=魏の使者>が、結末部としてことさらに帯方郡からの総里数を記した意図は何か
▶文脈からすると、「(倭の諸国についての報告を閉じるにあたって)郡より女王支配領域境界(南境)に至るまで(の総里数を最後に記しておくと)、一万二千里である」ということをおいてはないと、私<上野氏>は考える
つまり、上野さんの結論は以下です。
1万2000里は女王国の王都ではなく、卑弥呼の支配の及ぶ範囲の南の境界(狗奴国との国境)までの距離を指していた
なぜなら、魏志倭人伝の「帯方郡より女王国に至るまで一万二千余里である」の「女王国」は、魏略(魏略原文)では「女王」と書かれていたと推定でき、「女王の支配領域」という特異な意味だったと考えられるからである
よって、伊都国から残り1500里は、狗奴国との国境までの距離であり、女王国が伊都国であることと矛盾しない
確かに、魏志倭人伝でも魏略逸文でも、下表(白地)のとおり、「女王」が女王の支配領域という意味で使われている例があります。「女王」は人を指すはずですが、これらは領域(領土)を指しています。不思議な使い方です。

上野さんの、1万2000里での「女王国」は、魏略原文では「女王」であり、女王の支配領域を指していたという説明は、以下のとおり根拠が複雑です。
例えば、侏儒(こびと)国の位置について、魏志倭人伝は「女王」から4000里、魏略逸文は「女王国」から4000里と記述する
侏儒国では、魏略原文が「女王国」で、魏志倭人伝が「女王」に書き換えたとは考えにくい。魏略原文は「女王」であり、魏志倭人伝はそのまま「女王」とし、魏略逸文が「女王国」としたと推定できる。これらの「女王」「女王国」は女王の支配領域を指す
1万2000里では、魏志倭人伝が「女王国」、魏略逸文は「女国」と記述している
侏儒国の例から類推すると、1万2000里では、魏略原文が「女王」で、魏志倭人伝が「女王国」に書き換え、魏略逸文が「女国」に書き換えたと推定できる
つまり、侏儒国では魏略原文の「女王」を魏略逸文は「女王国」に書き換えたが、それと同じように1万2000里では魏略原文の「女王」を魏志倭人伝は「女王国」に書き換えたのではないか
1万2000里での魏略原文の「女王」は女王の支配領域という意味であり、魏志倭人伝の「女王国」も意味は同じである
上野さんが推定する魏略原文は、上表の右端列の薄ピンク網かけになります。その魏略原文が、1万2000里では濃いピンク網かけのように書き換えられたとしているわけです。
僕なりに上野さんの根拠を整理してみましたが、正直、わかりにくいと思います。仮に、魏略原文が、侏儒国と1万2000里では「女王」であり、女王の支配領域という意味で使っていたという推定が正しいとしても、魏志倭人伝は、侏儒国では「女王」のままとし、1万2000里では「女王国」に書き換えています。対応に一貫性がありません(魏略逸文は引用先が異なりますので、対応に一貫性がないのは理解できます)。
魏略原文の「女王」が、魏略逸文では「女国」に書き換えられ、魏志倭人伝では「女王国」と書き換えられたというのは、2通りの書き換えがあったという点でも苦しい説明ではないでしょうか。
魏略逸文に出てくる「女国」という単語は、他の中国の歴史書ではほとんど例がありません(後漢書東夷伝の東沃沮(沃沮[よくそ]=朝鮮半島北部の日本海側の民族)の説明に「海の中に女国あり」という記述があります)。やはり、魏略原文は「女王国」(女王国の王都)であり、魏略逸文の「女国」は脱字と考える通説が自然だと思います。
➋女王国に統属したのは3ヶ国か
上野さんは、魏略は伊都国条で「対馬・一支・末盧の三カ国について、「其の国王は、皆、女王に属するなり」と総括したに違いない」と述べ、「その王」は対馬・一支・末盧の3ヶ国を指すとしています。
一方、上野さんがヒントを得た橋本増吉さんは、以下のように述べています。
▶魏志倭人伝だけによると、いかにも「世有王」<代々王がおり>の句は、伊都国だけについて述べられたもの<伊都国の代々の王>として、認めらる
▶けれども、翰苑所引の魏略本文において考うれば、対馬・一支・末盧・伊都…を掲げし後…これを受けて「其国王皆属女王也」というのであるから、「其国王」とは、以上列挙せし各国の国王を意味するものとして、認むべき<である>
▶すなわち、対馬・一支・末盧・伊都の各国に、みな各々国王の存在することを予想して…「其の国王はみな女王に属する」ことを述べたものと解すべき<である>
「八 国王の問題」の章(コマ番号60=P87)より現代仮名遣いに改変
橋本さんは、魏略逸文の「その王」は伊都国も含む4ヶ国の王としているのに対し、上野さんは3ヶ国と見なします。先ほども引用しましたが、その理由を以下のように述べています。
▶<魏略は>郡使<帯方郡の使者=魏の使者>が、見聞した倭の諸国についての報告(国別記事)を伊都国条で完結するにあたって、対馬・一支・末盧の三カ国について、「其の国王は、皆、女王に属するなり」と総括したに違いない
橋本さんは、魏略逸文は伊都国まで述べた後に「その王」としているのだから、「その王」は伊都国を含む4ヶ国だとします。
上野さんは伊都国の説明で「その王」と総括しているのだから「その王」は3ヶ国だとします。上野さんは「女王国に統属」と「女王国より北には<伊都国に>大率を置き諸国を監察」は同じことを指すと見なしているので、「その王」に伊都国を含めてしまうと、伊都国に置いた大率(女王国の機関)が伊都国(女王国)も監察することになり、文脈がおかしくなってしまうからです。
僕は橋本さんの指摘に賛成です。魏略逸文は、対馬国・一支国・末盧国についての引用があり、「東南に行くこと五百里で、伊都国に到着する。万余戸である」「その王は、みな女王に属している」と引用されているのですから、「その王」は伊都国も含むと見なすのが自然です。上野さんの説は「統属」=「監察」と見なすために、無理が生じていると思います。
➌台与の東遷はあったのか
久米さん、大和さん、上野さんの3人は、九州にあった女王国が近畿に東遷したとしています。僕の結論をいうと、東遷した可能性はほとんどないと思います。
久米さんは九州の邪馬台国が近畿を征服したとします。大和さん、上野さんは「東遷」をどういう意味で使っているか、よくわかりません。ここでは武力を伴わないで王権が移動することを「東遷」、武力が伴うことを「東征」とします。
少なくとも、九州の勢力が武力で近畿を征服したような「東征」があったとは考えられません。根拠は以下のとおりです。
卑弥呼は狗奴国との抗争で魏に支援を求めている。卑弥呼の死後、倭国では再び混乱が生じた。政権基盤は脆弱で「東征」するような力はなかった
3世紀に軍隊が瀬戸内海を通って近畿に「東征」するようなことは考えられない。長距離の後方支援ができたとも考えられない
「東征」であれば、多数の九州の人々が近畿に移住しているはずだが、九州系土器の近畿への移動は少ない。纒向には九州系土器がほとんどない
そもそも、卑弥呼が247年頃に死んでから、台与による266年の遣使まで20年しかなく、短期間に「東征」が行われたとは考えられない
一方、武力を伴わず、九州北部の王権だけが近畿に移動した「東遷」であれば、以下のように可能性がないわけではありません。
狗奴国との抗争または倭国の混乱が再発・激化し、王権だけが近畿に脱出した
近畿の勢力は、卑弥呼が任ぜられた「親魏倭王」の権威を借りるため、台与を女王に戴[いただい]いた
しかし、王権だけの移動も僕は否定的です。根拠は以下のとおりです。
ヤマト王権の正史である日本書紀に、卑弥呼や台与の記憶が残っていない(2025/2/2note ③ 参照)
近畿で銅鏡副葬の墓制が始まったのは、近畿の勢力(邪馬台国)が九州詣でをして中国鏡を入手し、九州の墓制を模倣したためだと考えればよく、東遷まで考える必要はない(2025/3/7note参照)
近畿の勢力が大陸との独自ルート(沖ノ島ルート)を開拓したのは4世紀後半である。3世紀後半に台与の権威を借りられたとは考えられない(リンク先は「宗像・沖ノ島と関連遺産群」サイト)
3世紀後半に王権が脱出したのであれば、大陸との交流・交易における九州北部の優位性が失われたはずである(九州の王権が断絶した)。そのような形跡はない
上野さんの「女王国=伊都国説」は斬新でおもしろいのですが、➊➋➌のように説明の苦しいところもあり、僕は全面的には賛成できません。
文献の不審な個所に注目する
僕が上野さんがすごいと思うのは、文献の不審な個所にヒントを得て、真実を探し出そうとする姿勢です。魏志倭人伝には、以下のように不審な個所があり、魏略逸文との違いもあります。これらにヒントが隠れていたわけです。
女王国まで1万2000里(伊都国から残り1500里)と九州北部から邪馬台国まで水行30日・陸行1ヶ月という、両立しない行程が記述されている
伊都国の「代々の王」が女王国に統属していると記述するが、伊都国の王が女王国に統属したのは卑弥呼共立後のはずである
伊都国に置いた大率が女王国以北を監察すると記述するが、女王国=邪馬台国とすると、伊都国から南に離れた投馬国まで大率が監察することになってしまう
魏略逸文は「その王」と記述するが、魏志倭人伝は「(伊都国の)代々の王」と書き換えている
魏略逸文は「帯方郡から女国まで1万2000里」と記述するが、魏志倭人伝は「帯方郡から女王国まで1万2000里」と記述し、「女国」「女王国」の違いがある
このような上野さんの目のつけどころは、2024/3/8noteでも紹介した「春秋[しゅんじゅう]の筆法」の解読にも通じるところがあります。
中国の歴史書の研究者である孫栄健[そん・えいけん]さんによると、古代中国には「春秋の筆法」という文章術があったそうです。
▶<中国史書には>筆者の深意は、常に文の内容や用字が、形式、慣例、常識などと合わないところ、文の前後の辻褄[つじつま]が合わないところにあった。つまり、文の矛盾する(文の錯[たが]えてある)ところにあった。こうした、二重人格的な面が、中国の史書には伝統的にあった
▶ここに、中国史書の独特の弁証法がある。常識の逆をとって、意図的に文章を誤らせ、混乱させることによって、真意を語ろうとする。…まことに不思議なレトリックだ
陳寿が意図的に文章を誤らせたのかどうかはわかりませんが、文献の不審な個所こそ要チェックという点はとても勉強になりました。上野さんは著書の「はじめに」で研究の姿勢を以下のように述べています。僕も忘れないようにしたいと思います。
▶編集者としての経験からいえば、筆者が論理的におかしな文章を書いてしまう背景には、筆者の思いこみによる、なんらかの誤解・誤認があると断言してよい
▶私の方法は、倭人伝<の>…個々の文章を全体の整合性の観点からチェックし、問題のある文章を析出する。そして、問題のある文章がなぜ書かれたのかを、陳寿の撰述現場、つまり文章が生成されたレベルまで降りていって、解明することにつきる
▶右に述べた方法は、べつに目新しいことではない。歴史を探求する者が最初におこなわなければならない、史料批判に徹するということである
魏志倭人伝の「女王国」と「邪馬台国」が別の国だとする4人の研究者、特に上野武さんの「女王国=伊都国説」を詳しく紹介しました。
さて、僕も「邪馬台国」は(消極的ですが)大和だとします(東遷だとは考えません)。「女王国」はどこだと考えるのか、【4完】の記事で紹介します。
(最終更新2025/11/25)
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