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女王国(卑弥呼の都)と邪馬台国は別の国:卑弥呼九州/邪馬台国大和説【1/4】

僕は奈良県纒向[まきむく]遺跡が女王国(卑弥呼が都を置いた国)だったということはありえないと考えています。その12個の根拠を整理して、2025/2/2noteにまとめました。12個の根拠のうち10個は考古学的根拠です。考古学的にも、纒向は女王国だったとは言えません。

かといって、僕は邪馬台国九州説ではありません。

僕は、邪馬台国問題は現段階では結論は出ないと考えています。「邪馬台国は決着」とする説はかえって怪しいです。この記事の最後に説明します。

僕の説は「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」というものです。これは僕がつけた呼び方ですが、僕のオリジナルではありません。

僕の「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」もこれで決着といえるものではありません。根拠はありますが、反論も多いでしょう。「従来の九州説や大和説に加えてこんな説も考えられる」「この説にも光を当てよう」というのが、今回の4回シリーズの目的です。

※トップイラスト:イラストAC(女王国のイメージ)


「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」とは?:卑弥呼は邪馬台国にはいなかった

「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」の要約

僕の「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」を4行で要約します。

  • 「邪馬台国」は大和にあった

  • 「女王国」(卑弥呼の都)は九州北部にあった。卑弥呼は邪馬台国にはいなかった

  • つまり、帯方郡から1万2000里の「女王国」と、九州北部から水行陸行の「邪馬台国」は別の国だった

  • 魏志倭人伝は「女王国」と「邪馬台国」が同じ国だと誤解して書かれた

4行で補足します。

  • 卑弥呼の死後に台与が東遷して邪馬台国になったわけではない。「女王国」と「邪馬台国」は同じ時代に並存した

  • 3世紀の邪馬台国(大和)は地方の新興国だった。4世紀に発展してヤマト王権になった。邪馬台国の女王は、卑弥呼とは別の女王だった

  • 九州北部の王権(女王国)は、4世紀後半以降、優位性を失い、6世紀にはヤマト王権の実質支配が始まった

  • 邪馬台国とヤマト王権は連続しているが、卑弥呼や台与とヤマト王権は連続しているわけではない

従来のほとんどの説は、卑弥呼は邪馬台国にいたことが前提になっています。女王国=邪馬台国です。

僕は女王国と邪馬台国は別の国だと考えます。僕の説をどのように呼ぶかは悩みました。

  • 「卑弥呼/邪馬台国分離説」「女王国/邪馬台国分離説」

  • 「卑弥呼九州説」「女王国九州説」

  • 「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」「女王国九州/邪馬台国大和説」

「女王国九州説」ではピンときません。「卑弥呼」は有名であり、世の中では「邪馬台国」がどこにあったかに関心が集まっていることから、「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」と呼ぶことにしました(「卑弥呼九州・邪馬台国大和説」でも構いません)。

※SNSでのハッシュタグでは記号は使えないので、「#卑弥呼九州邪馬台国大和説」とします。

僕は邪馬台国は大和にあったとしているので、邪馬台国がどこだったかという、表面的・形式的な意味では邪馬台国大和説になります。

僕がこのブログで「纒向は邪馬台国ではない」と書かず、「纒向は卑弥呼の都ではない」と、まどろっこしい書き方をしていることを不思議に感じた人がいるかもしれません。僕は卑弥呼の都は九州北部としますが、邪馬台国大和説は否定しないので、これまで記事の書き方には苦労してきました。

魏志倭人伝は、邪馬台国を「女王が都を置いているところ」と記述し、女王国と邪馬台国は同じ国を指すかのように読み取れます。実際、陳寿はそのように誤解したのだと思います。それが邪馬台国論争が決着せず、いつまでも論争が続く原因になっているのだと思います。

※僕は③で後述するように、3世紀の日本列島には卑弥呼とは別の女王が複数いて、邪馬台国の女王もその1人だったと考えています。

これまで4人の研究者

先ほど述べたとおり、魏志倭人伝が記述する「女王国」と「邪馬台国」が別の国だとする説は、僕のオリジナルではありません。戦前から現在まで、主に4人の研究者の説があり、【3/4】の記事で紹介します。特に上野武さん(元・朝日新聞社)の説(女王国=伊都国説)は斬新で興味深いです。

4人とも(僕も)、邪馬台国は大和としている点では共通しています。

以下の2人の書籍・論文は、国立国会図書館デジタルコレクションで、無料で読むことができます。

①橋本増吉『東洋史上より観たる日本上古史研究・第1(邪馬台国論考)』(大岡山書店、1932年)
(国会図書館デジタルコレクションの登録不要)

②久米雅雄「新邪馬台国論 女王の鬼道と征服戦争」(『歴史における政治と民衆』(北村茂夫追悼日本史学論集、日本史論叢会、1986年))
(国会図書館デジタルコレクションのID登録(無料)が必要)

以下の2人は書籍が入手しやすいです。大和岩雄[おおわ・いわお]さんは出版社も経営した古代史研究家です。上野武さんの著書には教えられることが多かったです。

③大和岩雄『新邪馬台国論 女王の都は二カ所あった』(大和書房、2000年)

④上野武『女王卑弥呼の「都する所」: 史料批判で解けた倭人伝の謎』(NHK出版、2004年)

記事は4回シリーズ

この記事【1/4】では、女王国と邪馬台国が別の国だと考える根拠を紹介します。
【2/4】では邪馬台国は大和と考える(消極的)根拠を紹介します。
【3/4】では、女王国と邪馬台国が別の国だと考える、上記の4人の研究者の説、特に上野武さんの説を紹介します。
【4完】では、女王国が九州北部のどこにあったのか、僕の説を紹介します。

全体で400字×170枚超の長いシリーズになります。

「女王国」 「邪馬台国」 「倭国」の位置づけ

女王国と邪馬台国が別の国である根拠を説明する前に、魏志倭人伝の「女王国」「邪馬台国」「倭国」について、僕の考える位置づけを紹介します。

まず、それぞれ登場する個所を抜き出します。「女王国」は5ヶ所に出てきます。

▶伊都国<には>代々王がおり、みな女王国に統属している
女王国より北は、その戸数や道里はだいたい記載できるが、その他の旁国は遠く隔たっており、詳細にすることができない。つぎに斯馬国があり…つぎに奴国がある。これが女王の領域の尽きる所である
▶帯方[たいほう]郡より女王国に至るまで一万二千余里である
女王国より北には、特別に一人の大率[だいそつ]を置き、諸国を監察させている。…(大率は)常に伊都国を治所<とする>
女王国の東、海を渡ること千余里に、また国がある。いずれも倭の種である

※統属している:属している、したがっている
※「女王の境界の尽きる所」の「女王」は、僕はもともと「女王国」と書かれていたものが、転写の過程で脱字したと考えています。
※帯方[たいほう]郡:204年に中国の朝鮮半島の出先機関である楽浪[らくろう]郡(平壌)を分割して、その南に置かれました。魏の使者の出発地です。現在の北朝鮮・沙里院[サリウォン]とか、ソウルなどの説があり、定説はありません。

「邪馬台国」が出てくるのは、以下の1ヶ所のみです。魏志倭人伝は邪馬台国について記述していると思われがちですが、実は邪馬台国は影が薄いです。

▶<投馬国から>南にすすんで邪馬台国に至る。女王が都を置いているところである。水を行くこと十日、陸を行くこと一月である。七万余戸ばかりである

「倭国」は3ヶ所に出てきます。

▶女王が使者を派遣して京都[けいと=洛陽]・帯方郡・諸韓国に至らせるとき、および帯方郡が使者を倭国に送るときにも、みな(大率が)…間違えることのないようにさせる
▶(男王のもと)七、八十年すると、倭国は乱れて、(国々が)互いに攻撃しあうことが何年も続き、そこで一人の女性を共に立てて王とした。名を卑弥呼という
▶正始元(二四〇)年、帯方太守<帯方郡長官>の弓遵[きゅうじゅん]は…梯儁[ていしゅん]たちを派遣して、詔書と印綬を奉じて倭国に至らせ、(卑弥呼を親魏)倭王に拝仮した

※4回シリーズでの魏志倭人伝現代語訳:渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書、2012年)より
※歴史書の原文:維基文庫より
※引用は見やすいように文章を▶で改行します。順番は入れ替えていることがあります。< >は僕が補った個所です。

「倭国」は倭国乱を終息させるために、200年前後に卑弥呼を共立した国々の連合体です。

卑弥呼は魏志倭人伝(三国志魏書第30巻)で「倭王」「倭女王」と呼ばれています。三少帝記(魏書第4巻)では「倭国女王」と呼ばれています。誤解されることが多いのですが、卑弥呼は邪馬台国の女王ではありません(三国志は卑弥呼が邪馬台国の女王だとは書いていません)。卑弥呼は倭国の女王です。

※ちなみに「卑彌(弥)呼」は魏志倭人伝(魏書第30巻)で5ヶ所に出てきます。三少帝記(魏書第4巻)では、「彌(弥)呼」と、「卑」にニンベン(人偏)がついた名前で1ヶ所に出てきます。

わかりにくく、議論もあるのが「女王国」ですが、僕は「卑弥呼が都を置いた国」を指すと考えています(倭国と女王国の関係は、日本国と東京都の関係と同じです)。「女王国に統属している」と「女王国の東…また国がある」の2つの「女王国」は「倭国」を指すという考え方もできますが、「卑弥呼が都を置いた国」と考えて、文脈上、矛盾はありません。

※女王国は本来は「卑弥呼が都を置いた国」と説明すべきですが、長くなるので4回シリーズでは「卑弥呼の都」と記載します。

「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」による「女王国」「邪馬台国」「倭国」

以上をふまえて、「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」による「倭国」「女王国」「邪馬台国」を整理すると下表のとおりです。

ちなみに、「倭地」は2ヶ所に出てきます。「倭国」に加えて、海を渡って東に倭人(倭種)がいる地、卑弥呼と対立した狗奴国の地を含みます。「倭地」は、ほぼ日本列島(九州・四国・本州)を指します。

倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べ、皆はだしである
倭の地を訪ねると、遠く離れた海中の州島の上に(国が)あり、あるいは海に隔てられあるいは陸続き<である>

「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」による、それぞれの関係を図にすると、下図のようなイメージです。「倭地」の中に「倭国」があり、「狗奴国」や「邪馬台国」が別にあります。倭国の王都が「女王国」です。魏志倭人伝は「倭地」全体について記述していますから、倭国伝ではなく、「倭人伝」なのだと思います。

この図は【4/4】の記事で一部修正します

女王国(卑弥呼の都)が九州だったのか大和だったかによって、3世紀の日本列島では、どのように国家が形成されていたのかが変わってきます。

女王国が大和であれば、倭国は3世紀で既に西日本全体だったということになります。女王国が九州北部であれば、倭国は3世紀ではまだ九州北部に限定されることになります(僕はこちらの説です)。

女王国の所在地が重要なことがわかります(重要なのは、女王国の所在地であって、邪馬台国の所在地ではありません)。

女王国と邪馬台国が別の国だと考える3つの根拠

僕が女王国と邪馬台国が別の国だと考える根拠は、以下の3つです。

  • ➊帯方郡から女王国までの1万2000里(伊都国から残り1500里)と、九州北部から邪馬台国までの水行陸行の日数(60日)は両立しない

  • ➋魏の使者は邪馬台国を訪れていないが、卑弥呼に拝仮している(会っている)

  • ➌女王国と邪馬台国は元資料が別々である

最大の難問とされてきたのは➊です。魏志倭人伝は帯方郡から女王国まで1万2000里(伊都国から残り1500里)と記述しています。残り1500里ですから、里数からは女王国が九州内にあることは明らかです。

ところが、魏志倭人伝は、九州北部から邪馬台国まで水行30日(20日+10日)・陸行1ヶ月とも記述します(以下の行程図参照)。女王国=邪馬台国とすると、残り1500里に水行30日・陸行1ヶ月もかかることになりますが、そんなことはありえません。まず、その矛盾から考えていきましょう。

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