「邪」の上古音 /ʎia/ はイタリア語で読める
おさらい:「支」は「てぃ/ちぃ」と読む
2026/3/2noteで、「一支国」の「支」は奈良時代(8世紀)の万葉仮名で「き」と読まれているけれども、実は「き」と読まれるようになったのは平安時代からではないかという説を紹介しました。大野晋さん(元・学習院大学)の推理によります(大野晋「音韻の変遷(1)」(『岩波講座 日本語5 音韻』、岩波書店、1977年)p169~177)。
僕もその説に賛成で、奈良時代までは「てぃ/ちぃ」のような発音だったと思います。なぜなら、「支」は古代中国語の発音を、台湾の小学堂DBで調べると、先秦上古音でも隋唐中古音でも、「き」とは発音が異なるからです(「き」になりえない)。

※小学堂:古代中国の漢字の発音が調べられる、台湾のデータベースです。台湾大学中国文学部・中央研究院歴史言語研究所・情報科学研究所・デジタル文化センターによって共同開発されました。
※検索方法:リンク先画面左側の「字形」に漢字を入力し、「確定送出」をクリック、右側の「相関連結」で「上古音」「中古音」をクリックすると、時代別・系統別に結果が表示されます。
※〇〇系統:「〇〇氏による発音の復元案」というような意味です。先秦上古音と隋唐中古音は資料が多く、研究が進んでおり、検索結果はこの2つの時代の復元案が多いです。
※「支」は李方桂系統の上古音のみ /krjig/ と /k/ 系(カ行)の発音になっていますが、他の系統はすべて /tj, ts/ 系(チャ行・ツァ行)です。
ちなみに、万葉仮名で使われている「岐」「伎」「企」などは、上古音・中古音からも「き」と読むことが自然です(濁音は清音化)。

僕は、「支」が「き」と読まれるようになったのは、「岐」「伎」を「き」と読むため、旁[つくり]だけでも「き」と読むだろうと誤解されたこと、「岐」「伎」の偏[へん]をとって省略化したことが理由だと思います。どちらも平安時代のことです。
「邪」の上古音 /ʎia, grjiag/ はどんな発音か?
さて、今回のテーマは「邪」です。邪馬台国では「や」、古事記の国生み神話の伊邪那岐・伊邪那美では「ざ」と読まれています。万葉仮名、上古音・中古音は下表のとおりです。

中古音の /jia/ の発音はわかります。「や」と読んで、これが邪馬台国などの「や」に使われていることは違和感ありません。
※邪馬台国の「邪」は中古音で読まれていますが、魏志倭人伝の国名はすべて中古音で読まれるというわけではありません。例えば、「奴」は上古音 /na, nag/、中古音 /nu, nuo/ ですから、上古音で読まれています。三国時代は上古音と中古音の間の時代で、漢字によって、または国によって、どちらの発音かはそれぞれだったのだと思います。
/ʎ/ はイタリア語の「gli」の発音:「リ」と「ギ」の中間音
問題は「邪」の上古音の /ʎia, grjiag/ です。僕は /ʎ/ という発音記号を初めて見ました。どんな発音なのでしょうか。
調べていったところ、イタリア語の「gli」(冠詞)の発音にたどり着きました。/ʎ/ は「gli」の発音そのものなのです。
「gli」の発音を、イタリアにお住まいで、noteでイタリアの古代史の論考も投稿している、Natuko Tomi さんに連絡して、教えてもらいました(インスタで相互フォロー中)。Tomi さんはネイティブに発音してもらった音声も送ってくれました。ありがとうございました。
結論を言うと、「gli」の発音を強いてカタカナで表せば、「リ」のような発音であることがわかりました。もう少し詳しく言うと、「リ」に軽く「ギ」が混ざったような発音です。実は Natsuko さんにも難しい発音なのだそうです。辞書では以下のように説明されています。
▶舌の中央部全体が硬口蓋[こうこうがい=上あごの前方の硬い部分]にべったりと広くつき、その状態のまま舌の両脇のすき間から息をもらすように声を出す
▶日本語にはなく、「リ」か「ギ」あるいはそれの「イ」の中間音、混合音のように聞こえる
※「邪」の発音記号は、王力系統は /ʎia/ ですが、李方桂系統は /grjiag/ です。つまり、王力系統は /ʎ/ だけで表していますが、李方桂系統は /g/ や /r/ に分解して表していることになります。
実際の音声はYouTubeで「イタリア語 gliの発音」などで検索してみてください。「リ」と「ギ」の中間のような発音であることがわかります。
退化して中古音は /j/(ヤ行)に
/ʎ/ は、現代の世界の言語の中でも珍しい発音なのだと思います。時代とともに退化していて、/j/(ヤ行)に吸収されています。フランス語ではすでに絶滅し、イタリア語、カタルーニャ語(スペイン北東部=バルセロナ地方)などに残っています。簡単に言うと、労力の少ない発音に変わっています。Wikipediaの「硬口蓋側面接近音」に /ʎ/ の音声サンプルが掲載されていますが、ほぼ「ヤ」になっています。厳密にはこれは間違いです。
このようなロマンス語系の言語の珍しい発音が古代中国語にもあり、さらに現代のロマンス語系の言語と同じように、古代中国語でも /ʎ/ の発音は退化して、/j/ の発音になったというのが驚きです。「邪」の発音は、上古音では /ʎia/ ですが、中古音では /jia/ になっています。
実は、古代中国語では、「邪」だけではなく、「野」「夜」などの上古音・中古音も同じ変化をたどりました。強いてひらがなで表記すると、上古音は「りゃ→ら」(「りゃ」の発音が変化して「ら」)、中古音は「や」のような発音が近いです。

※魏志倭人伝の旁国の1つ、「已百支」の「已」、「支惟」の「惟」も、上古音(王力系統)の子音が /ʎ/ であることに気づきました。中古音は、やはり /j/ に変化しています。(2026/4/16,26追記)

「邪」を「ざ」と読む理由:/j/ と /z/ は近い?
「邪」は、古代中国語で「りゃ→ら」「や」のような発音でありながら、どうして上代日本語の万葉仮名では「ざ」と読まれているのでしょうか。
※上代日本語:8世紀(奈良時代)の古代日本語
ここからは僕の想像ですが、「や」と「ざ」が近い発音だからではないかと思います。「や・しゃ・じゃ・ざ」という発音は、相互に交代しやすい発音なのではないでしょうか。
現代の例ですが、Japan は英語では「ジャパン」ですが、ドイツ語では「ヤーパン」です。Pajak さんという名字は英語では「パジャク」さんですが、ポーランド語では「パヨンク」さんです。
そもそも、万葉仮名の「佐」「狭」は、清音(さ)にも濁音(ざ)にも使われています(今西浩子「万葉仮名表:私見」(横浜市立大学論叢、1995年)=論文名または「万葉仮名表 site:https://ycu.repo.nii.ac.jp/」で検索)。上代日本語において、濁音はまだ安定していなかったことがうかがえます。
「邪」を万葉仮名で「ざ」と読むのは、古代中国語の発音が「ざ」に近かったからではなく、「や」の発音を受け入れた後に、上代日本語の中で「ざ」に変化したからだというのが僕の説です。
まとめ:「邪」は「りゃ→ら」と読む
「邪」は、万葉仮名で「ざ」、中古音で「や」と読まれている
「邪」の上古音の子音 /ʎ/ はイタリア語の「gli」の発音であり、「リ」に軽く「ギ」が混ざったような発音である
よって、「邪」の上古音 /ʎia/ は「りゃ→ら」と読む
2026/3/2noteで述べたとおり、僕は今、魏志倭人伝の旁国21ヶ国の所在地推定(比定)に挑戦しています。2026/3/2noteでは4月中には投稿すると述べましたが、間に合いそうにありません。1ヶ月リスケして、5月末までを納期とします。
記事は3本シリーズで、現段階で7万字(400字×175枚)前後ですが、さらに増える予定です。
※TOMI さんのトップ固定記事(2026年4月現在)では、もし秦氏の祖先がユダヤの血をひく古代東方キリスト教徒であるならば、日本に渡来する前に使徒トマスの教えに接し、それを日本の古代宗教に上手に溶け込ましていったのではないかとしていて、日本の古代史ファンにも興味深い内容だと思います。
※使徒トマスによって /ʎ/ の発音が古代中国に伝わったとしたらおもしろいと思いましたが、トマスのインド布教は1世紀のことなので、上古音よりも200年も後のことでした。
※トップイラスト:使徒トマス(イラストAC)
(最終更新2026/5/7)
