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眠りの森の植木屋さん 第九話「雨・後編/高宮 花」

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第九話「雨・後編」


 母との思い出は、バレエしかない。学校行事に来てくれたのは、銀ちゃんの母親の祥子おばさんか、時々は父。

 母の実家は裕福だったようで、銀行に頼らずに教室を開くことが出来たのは、どうやら遺産のおかげらしかった。スタジオ付きの鉄筋コンクリート造の三階建てが、私が育った家だ。

 そんな世間知らずの母は、いつもバレエの事だけを考えていて、バレエ中心の世界を生きていた。自分の夫の事も、娘である私の事も、現世うつしよには全く興味が無い様子だった。

 幼い頃からずっと、一階のレッスン場から聞こえて来る声を聴きながら一人で過ごした。父は不在がちで、母と一緒に過ごすのは私がレッスンを受ける時間だけ。小学校に入学するよりも前から、一人で食事をする事が当たり前になっていた。

 だけど踊る時だけは、母が私を見てくれる。私はいつでも、一番上手に踊った。

 母と私との間には、参観日や遊園地の思い出どころか、百点のテストを褒めてもらった記憶も、一緒にアイスを食べた記憶も無い。たまに共にした食卓の会話ですら、バレエに関する話題ばかりだった。

 それでも子どもの頃の私は、人並みに愛されていると信じたかった。周りの言う、「ママからバレエを教えてもらえるなんていいな」という言葉にすがって。

 だから、右足を少し引きずるようになった中二の夏、私は母親という存在そのものを失ったのだ。

「踊らないあの子となんて、やっていける自信が無いわ。だから子どもなんていらなかったのに」

 母の言葉と、その言葉を受けて怒りに打ち震える祥子おばさんの声が、雨音混じりに聞こえてきたその時に。

 

・・・・・


 一度止んだ雨は、最寄りのコインパーキングから自宅にたどり着く直前に再び降り始め、玄関ドアを閉めた後、急速に激しさを取り戻している様子だった。

「おじゃまします」

 照れくさそうにそう言った高虎さんを誘導する私も、きっと同じくらい照れくさそうな顔をしているのだと思う。

 まだそんなに親しい訳でも無いのに自宅で鍋なんて、警戒されるか変な勘繰りをされるかもという心配はあったけれど、素直に受け入れてもらえたようで嬉しかった。

「お掃除を頑張っておいて良かったです」

 入室するなりすぐに部屋を褒められ、照れ隠し交じりにそう答えた。

 うちのマンションは一人暮らしにしてはなかなかの広さで、寝室とは別に、しっかりとしたサイズのLDKがある。駅からは少し遠く、建物はかなりの年代物で、マンションと言うよりは団地と言う方がしっくりくる外観だが、内見の際にこの間取りを気に入って決めた。

 そして自宅に居る時間が長い事もあり、リビングに居る間は気持ちを切り替えて居心地よく過ごせるようにと、インテリアには少しこだわっているつもりだ。

「奥の部屋が仕事場を兼ねた寝室なんですけど、そっちはとてもお客さんには見せられないです」

 謙遜けんそんでは無く事実を言ったのに、高虎さんは「じゃあ、うちなんて全部見せらんないな」と笑った。

 私はもちろん、その顔に浮かぶ笑いジワを見逃さなかった。

「準備するので、適当に座ってゆっくりしてて下さい」

 私がそう言ってキッチンに立つと、不思議な事に、腕まくりをした高虎さんがこちらに歩み寄って来た。

「いや、俺がやるから休憩してれば? 体調、万全じゃないだろ?」

 失礼ながら、あまりに意外過ぎる発言に驚いていると、高虎さんは自分がまずい事を言ってしまったと思ったらしく、バツが悪そうに言葉を続けた。

「あー……もちろん、俺が台所を使っても嫌じゃ無ければ、だけど……」

「いえ、そんな事!! すみません、ちょっとびっくりしちゃっただけで。じゃあ、せっかくなのでお願いします。食材は、ちょっと良い豚肉とお豆腐を用意しているのでそれを使いたいのと、後は冷蔵庫の中身ならどれでも好きな物を。調理器具も、自由に使って下さい。私は、テーブルの方の準備をしますね」

 一気に説明を終わらせてから収納扉に向かった私の背中越しに、威勢の良い声が響いた。

「それじゃあ失礼して、冷蔵庫開けさせてもらいまっす!!」

 瞬間、庫内の映像が私の脳裏に浮かんだ。

「待って!!」

 慌てて止めたものの、すでに扉は開かれた後だった。彼の視線は、捉えてしまっただろう。なぜか冷蔵庫で大事に眠っている、小さな切子きりこグラスに飾られたサルトリイバラのミニブーケを。

「……見ましたね?」

 返答を待たずとも、扉を閉じながらこちらを振り向いた高虎さんの顔付きで、全てを察した。

「見た。見たし、さっき、初めて俺に対して敬語じゃ無かったのが新鮮だった。なぁ、同い年なんだから、そろそろ敬語止めない?」

「あ、えっと、自分の中で決まっちゃった事って、なかなか変えられなかったりしませんか? 私、特にそういうの苦手で……すみません、すみません……」

 決して責められているわけでは無いと分かっているものの、つい普段の癖で何度も頭を下げていると、高虎さんは冷蔵庫の方に向き直り、ひとり言のように、けれど、わざと声を張り上げて言った。

「まぁ、それも可愛いけど!!」

 思わずその広い背中に擦り寄りたい衝動にかられたが、心の中で自分のほおを引っぱたいて正気に戻し、私も再び収納棚の方に向き直ってIHコンロを取り出した。



 あずみちゃんの為に用意していた大量の豚バラ肉は、私の予想に反して余る事は無く、その上、驚くことに高虎さんは少し物足りない様子だった。

 そうか、二人の違いは、お酒だ。あずみちゃんは大酒飲みだから、食事がひと段落した後もおつまみを食べ続ける。高虎さんは普段からお酒は飲まないと言っていたし、そもそも車の運転があるのでこちらもすすめる事はしない。

 冷凍ご飯で良かったらと雑炊の提案をすると、彼はフットワーク軽く立ち上がり、嬉々として準備を始めた。

 電子レンジで解凍されたご飯と溶き卵が投入され、土鍋の蓋が閉ざされた。二人掛け用の白いテーブルの上で、白い湯気を立てている鍋の向こう側、高虎さんが片手でほおづえをついている。鍋に視線を落としているその顔を盗み見しながら、私は、先ほど食べたニンジンに思いを巡らせた。

 高虎さんが切ってくれた具材は、少し大き目ながらも、普段から料理をしている人のものだと分かる手慣れた切り方で、とりわけ、ニンジンにはお花の飾り切りまで施されていた。職業柄なのか、単に高虎さん個人の長所なのかは分からないが、手先が器用なのだと一目で伝わった。

 ふいに、高虎さんが視線を落としたまま言った。

「花さんって、料理好きなんだ? 凄いよな」

 その言葉の意図するところが分からず、首をかしげた。私は、今日は包丁すら握っていないのに。料理が好きで凄いのは、高虎さんの方じゃないか。

「一人暮らしにしてはかなりの調理器具が揃ってるし、わざわざ昆布で出汁を取るなんてさ。俺、市販の鍋のもとでしか食べた事無ねぇもん。美味かった、ありがとう」

「そんな、こちらこそ、ほとんどお任せしてしまって。ありがとうございました」

 ああ、そういう事か。確かに料理は嫌いではないけれど、今、うちにある調理器具の大半は、あずみちゃんからのプレゼントだ。我が家にご飯を食べに来る度、買い換えどきのまな板や、お高いピーラー、揚げ物用のバットなどなどを、せっせと貢いでくれている。 

 高虎さんが使っていた包丁も、この卓上コンロと土鍋も、全部あずみちゃんからの贈り物だと説明すると、高虎さんは少し驚いた様子で言った。

「じゃあ包丁とかフライパンとか、自分ちの分だって必要なもんを、余計にもう一個買ってるって事か。それも、どれも安物ってわけじゃ無さそうだし。よっぽど余裕があるか、そうでなきゃ、それだけ花さんの手料理が食べたいって事だろうな」

「いえ、あずみちゃんの家に調理器具はーーーーー何でもないです」

 思わず彼女の家の混沌について触れそうになったが、とっさに口をつぐみ、返答内容をすり替えた。

「まあ、お医者さんですから。金銭的な余裕はあっても小まめに自炊する時間は無くて、でも外食ばかりじゃ飽きるからって事みたいですね」

「……医者?」

「あれ、まだ言ってませんでしたっけ? あずみちゃんは、精神科のお医者さんです」

 人は見た目によらないとは言うものの、さすがにギャップが強すぎるのか、あずみちゃんの職業を知った人は、大抵、驚きのあまり言葉を失ってしまう。

 そんな高虎さんを尻目に、私はぐつぐつと音を立てている土鍋の蓋を開け、コンロの電源を落としてから、そっと二杯の雑炊を注いだ。



 雑炊を堪能した後、洗い物もすると主張されたものの、こちらから誘ったのだからさすがに申し訳ないとお断りした。

 解散ムードになりかけたが、念のためにチェックしたお天気アプリによると、雨はこれから弱まっていく様子だった。今は窓越しにも分かる程の大雨だ、わざわざこのタイミングで外に出るのも馬鹿らしい。

「もうちょっとだけ待ちませんか? お茶でもいれますから」

 温かいお茶をいれた後、私が食器を洗っていると、いつの間にかテーブルに顔を伏せていた高虎さんが小さな寝息を立てている事に気付いた。

 よっぽど疲れていたのだろう、仕事が忙しい時期なのに、あんな渋滞を運転させてしまって申し訳ない。熟睡しているみたいだし、このまま少し休んでもらおう。

 私は彼の肩にストールを掛けてから部屋の明かりを消し、そっと奥の部屋に引っ込んだ。



 雷が落ちる音で、目が覚めた。

 本を読んでいたのに、私までうっかりと転寝うたたねに突入していたらしい。読書灯だけが点いた薄暗い室内で慌ててスマホを手繰り寄せて時間を確認すると、日付が変わる寸前だった。

 しまった、高虎さんを起こさないと。

 立ち上がった瞬間に閃光が走り、再び落雷の音が鳴り響いた。まさか冬のこの時期に、雷なんて。そう言えば、日本海側の方だと冬の雷はたまにある話で、そのたちの悪さは夏の雷の比ではないと聞いた事がある。

 思わず足がすくんでいると、タイミング良くノートパソコンから千早の呼び出しがかかり、私はすがるような気持ちでそれに応じた。

「良かった、今、近くで雷が鳴ってて」

『へぇ、そうなんだ。大丈夫? こっちは、今の季節には珍しいくらいの晴天だったよ』

 千早の顔に、声に、その存在そのものに、私の中の不安な気持ちが全て包み込まれていく。

 私は雷に対する恐怖心から逃げるように、千早との会話を続けた。千早はいつものように今日の出来事を報告した後、私の方は何をしていたのかと尋ねてきて、私は仕事で外出した事と、家で鍋をした事を伝えた。

『あずみちゃんと? それとも、また銀水が来てるの?』

 その問いに答えようとした私の言葉は、轟音でかき消された。衝撃を受け、建物に振動が走る。すぐ近くに落雷した事を悟った私の口から、思わず悲鳴が漏れた。

「大丈夫か!?」

 ほんの少しだけ開けていた扉が勢い良く開き、飛び込んできた黒い影を、また閃光が照らす。再び近くに落ちた雷は、しかし先ほどまでの衝撃は無く、通り過ぎた事が分かった。

 無言のまま振り返った私に、高虎さんが言う。

「ごめんな、誰かと話してるみたいだったから、邪魔したら悪いと思ったんだけど……」

 言いながら、彼がちらりと視線を走らせた先は、私のノートパソコン。そこにあるのは、何も映し出されていない、真っ黒なモニター画面だ。

「花さん……?」

 名前を呼ばれ、私の背中が無意識に跳ねた。

 私は電源の入っていないノートパソコンに向き直り、「ごめん、またね」と言ってから、モニターをパタンと閉じた。

 ふいに、あの、老舗旅館で出会った素敵な会長さんの言葉を思い出した。

 ーーーーー人生なんてただでさえ孤独なのに、途方も無い自由に放り出されるなんて。それはもう、とんでもない苦行よねぇ。

 この言葉が忘れられなかったのは、ただ私が独り身だからというわけでは無いだろう。幼い頃の私の環境は、まさに途方も無い自由に放り出されたようなもので、いつも寂しさを持てあましていた。そしてその苦行の果てに、こんな私が出来上がったのだ。

 高虎さんとお互い無言のまま見つめ合っていると、深夜なのに玄関のチャイムが鳴った。こんな非常識な事をする人間に、心当たりが一つだけある。私は黙ったまま、高虎さんをリビングに押しやった。全く抵抗する事なく運ばれてくれた大きな体に、彼の上着を手渡す。

「私、お鍋好きなんです」

 突然口を開いた私を、高虎さんが不思議そうな瞳で見下ろした。 

「うちの家族っていつもバラバラで、皆で揃って鍋なんて一度もした事が無くて。だから、私にとっては憧れの料理で、団らんの象徴みたいな。高虎さんとお鍋を食べられるなんて、嬉しかったです。今日は来ていただいて、本当にありがとうございました」

 何か言いたげな顔に気付かないふりをして、私は一方的に言葉を続けた。

「ごめんなさい。私はやっぱり、一人で居る事を選びます」

 玄関のチャイムが再び鳴った。ああ、ご近所さんに申し訳ない。

 私はまた黙り込み、今度は玄関に向かって高虎さんの背中を押した。けれどその大きな背中は、打って変わって微動だにしなかった。

「本当にそれでいいのかよ?」

 高虎さんがそう言いながら身体ごと振り返ると、私の身体はいとも容易たやすく吹き飛ばされそうになったが、慌てて持ち直した。言葉に詰まり、返事の代わりに何度もうなずく。

 三度目のチャイムが鳴り、私はたまらず玄関に駆けだした。右手で玄関の鍵を開けていると、背後から左手首をつかまれた。決して強い力では無いけれど、彼の体温がとても熱かった。

 思わず振り返り、高虎さんと視線が重なる。

「じゃあ、何で泣いてるんだ!!」

 その言葉とほぼ同時に玄関ドアが開かれ、薔薇の様に麗しい青年が出現した。途端、周囲が銀ちゃん色に包まれ、雨粒すらも美しくはじける。

 深夜の十二時を超えて、日付が変わったらしい。「明日ね」と言われた銀ちゃんにとっての、「明日」が来た。

 銀ちゃんは不思議そうな顔で私達を見つめた後、高虎さんに「ねぇ」と声をかけ、言った。

「あなた達は花の事を好きとか言うくせに、どうして泣かせるの?」

 遠巻きになった雷が、ゴロゴロと空を鈍く鳴らす。

「やめて銀ちゃん。もう、帰るところだから」

 私の言葉に喰い下がろうとする高虎さんを、銀ちゃんが玄関ドアを全開にしていざなった。

「痴話喧嘩は別の日にしてね、さすがに近所迷惑でしょ」

 どの口が言うのかと思ったが、今はそっと流した。高虎さんは数秒の躊躇ためらいを見せた後、何かを決断したように顔を上げ、そして私を真っすぐに見て、言った。

「また今度な!! 絶対に、またな!!」

 小さくなる背中を見届けるより先、玄関ドアは銀ちゃんの手によって強制的に閉じられた。


・・・・・


 どうしようもない寂しさを埋めるためだろう。

 ほんのいくつかだけ記憶にある、バレエ以外の母との会話。その思い出の一つが、幼い私の胸の中で膨らんだ。

 それは、本当にたまたま、両親と私の三人がリビングに揃っていた時の事だ。

 その時テレビで放送されていた番組はバレエとは全く無関係なものだったのに、珍しく母親が反応し、私に言葉をかけた。

「あなたを妊娠した時の最初の受診で、お腹の中に二人居るけど、片方は小さいからこのまま一人になると思うって言われたのよね。その時は全く意味が分からなかったけど、こういう事だったのね」

 バニシングツイン。胎内に双子が宿った後、そのうちの一人だけが消失した状態を言う。これだけ聞くと、まるで作り話のような現象だ。

 そもそもが妊娠というものは、一定の確率でごく初期のうちに自然流産するものらしい。母体に自覚症状が出る前にそれが起これば、本人は自分が妊娠した事にすら気付かないまま終わる事もあり、それは決して珍しい話では無いという。

 その自然流産が、双子の片方にのみ起こるのがバニシングツインという事だった。一般的に言う流産や死産とはまた違い、特に医療的な処置も必要なく、母体も、残された方の胎児も、予後は良好とされる事がほとんどだそうだ。

 まだ妊娠のメカニズムすら知らなかった私には、到底、全てを理解するのは難しかった。ただ、もともとは二人居たのだと、その言葉ばかりが強く印象に残った。

 私は、一人ぼっちでは無いのだと。

 クラスメイトが時折話す、一緒にピアノ教室に通うお姉ちゃんや、公園でブランコを取り合って喧嘩する弟、そんな存在が本当なら私にも居たのだと、思い込みがどんどん膨らんで、やがて私の頭の中には、双子の兄の存在が出来上がった。

 両親から欲しかった言葉を、空想の兄からかけてもらう妄想をし、心細い時は心の中で兄に話しかけた。そうする度、寂しさや不安が消えていった。

 花はしっかりしてるから大丈夫、と父は言った。

 あなたならきっとプリマになれる、と母は言った。

 私に家族としての愛情をくれたのは、頭の中に居る双子の兄だけだった。

「踊らないあの子となんて、やっていける自信が無いわ。だから子どもなんていらなかったのに」

 母の言葉を聞かされたあの日、思春期の私の心はバランスを崩した。踊らない私は必要とされないのなら、生きている価値も無いのか、と。

 土砂降りの中、自宅の屋上でずぶ濡れになりながら、このまま身を投げれば楽になるのか、いいや、この高さでは無理かもしれないと、良からぬ思考を巡らせていると、ふいに、母でも父でもない、そして祥子おばさんや銀ちゃんとも違う声が聞こえてきた。

「花、風邪ひくよ。一緒に中に入ろう」

 そう言ったのは、この世には存在しないはずの双子の兄だった。

 それから千早は姿を持ち、口をきくようになった。




 

第十話『外野がいや達のうたげ』に、続く
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