眠りの森の植木屋さん 第八話「雨・前編/室見 高虎」
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第八話「雨・前編」
「注意報から警報に変わったって通知来た!!」
脚立の下から叫ぶ弟の声すら、フードに当たる雨音が消しにかかった。
レインウェアは苦手だ。作業の邪魔だし、とにかく蒸れる。夏場ならTシャツ姿のまま構わず濡れるだけだが、さすがに冬はそうもいかない。風邪をひくわけにもいかず渋々着ると、指先は凍てついているのに胴体は蒸れているという、ちょっとした地獄が出来上がる。
「今日は無理だな。断りを入れて来るから、撤収作業を頼む」
外仕事に雨はつきもので、小雨程度なら当然に続行する。しかし、明らかな大雨となると話はまた別だ。
高所作業の危険性の問題はもちろん、電動の道具が使えない場面も出て来る。個人宅の依頼の場合、大抵は美観を保つ事が目的だが、足跡や泥ハネは付き放題だし、切り枝や落ち葉の掃除も完璧にはこなせない。
今回の依頼人も、俺達が作業の手を止めたのを察知して、諦め顔で玄関から顔を出して来た。
本日の仕事は、これにて強制終了。
トイレに行きたいと騒ぐ弟を荷物と一緒に事務所で降ろし、一人でガソリンスタンドに向かった。去年までの自分であれば、真っ先にアパートに帰ってなだれ込むように横になっていたに違いない。
車を停め、給油口レバーを引く前にスマホに指を走らせた。
きっと花さんは仕事中だろう。本当に急な上に平日だが、夕食なら一緒にできるかもしれない。
なるべく簡潔に、だけど丁寧な言葉で、彼女の負担にならない様にさりげなくと、何とか作り上げたお誘いのメッセージを送信し、給油のために車を降りた。
秋から大晦日にかけては殺人的なスケジュールをこなすが、正月が明ければ年末に収まりきらなかった仕事を淡々とこなす時期になり、そして二月になりさえすれば、打って変わって暇を持て余すようになる。
花さんから連絡をもらったあの日、しばらくはまとまった時間が作れない旨を説明し、自分から誘っておいて申し訳ないと詫びると、彼女はむしろ俺の身体を心配してくれた。そして、それなら年が明けるまでなるべく連絡も控えましょうかと提案してきたのだ。
実際、この時期に女性にありがちな密なやり取りを求められると負担になったのかもしれないが、そうあっさり言われてしまうとさすがに寂しかった。
盛り上がっているのは、自分だけかもしれない。気落ちしつつそう思い始めた頃、いつものように早朝のコンビニで花さんと会った。俺に気付いた途端にぱっと顔を明るくした彼女は、小走り気味に寄って来て、照れ笑いしながらこう言ったのだ。
「久しぶりに顔が見られて嬉しいです」
心臓に、直で平手打ちを喰らったかのような衝撃が走った。
それから結局、コンビニで会えない日はつい「おはよう」のメッセージを送るようになり、今は毎日のようにやりとりが続いている。
鉄は熱いうちに打てと言うが、このままでいいのだろうか。いや、違う。良いか悪いかなんて二の次で、ただ素直に会いたかった。十二月の殺人的なスケジュールの中であっても、植木屋という職業柄、急な休みが入る可能性はあった。
その唯一の希望、それが大雨だ。
冬に大雨などそうそう無いが、雨よ降れよと毎日祈り続け、やっと天に願いが通じたらしい。異常気象が与えてくれたこの大チャンス、逃してなるものか。
給油を終えて車内に戻り、さすがに気が早いと思いつつも念のためスマホを確認したが、当然ながら返信は無い。まずは、車を事務所に戻して着替えよう。
そう思いながらエンジンをかけ、ギアをドライブに入れたのと同時に着信音が鳴った。速攻でスマホを手に取る。
花さんだ。どうか快い返事でありますようにと念じながらメッセージを開くと、仕事で遠出をしていたところだったらしく、ちょうど帰ろうとしていたが電車の遅れが出ているとの話だった。
『帰宅時間の目途が立ったらまたお知らせしますね』
遅延情報を検索してみると、単なる大雨によるものではなく乗用車と列車の衝突事故とあり、想像以上の大規模遅延が起きている様子だった。
冬の雨空の下、行き場を失って凍えている彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
『車で迎えに行きます!! どこか店に入ってコーヒーでも飲みながら待ってて』
返事も待たずに発車したものの、すぐにUターンして事務所に戻り、大急ぎで着替えを済ませ、汗と雨で蒸れに蒸れた自分の身体を何とか取り繕い、改めて車を走らせた。
現地に向かう道路は、電車遅延の余波による渋滞が起こっていた。変わらない景色に焦りが募り、蓄積中の疲労がじりじりと体を蝕む。
普段であれば小一時間の距離だが、倍近い時間を要した。それでもなんとか目的地に着くと、俺の車に気付いて駆け寄って来る姿を見ただけで、一気に疲れが吹っ飛んだ。
「こんな遠いところまですみません、本当にありがとうございます」
助手席に乗り込んですぐにペコペコと頭を下げる彼女に、「ごめん、ちょっと待っててな」と断りをいれ、今もなお渋滞中の車道に戻る隙をうかがう。こちらに入って来る車と入れ違いに、何とか割り込む事が出来た。
これは、帰りも長期戦だろう。青信号でも進まない車の群れに覚悟を決め、サイドブレーキを引いて足を休ませつつ、改めて花さんに返答した。
「いや、かえって申し訳無かった。この渋滞ぶりでさ、待たせてる間に電車の方が再開しただろ? 余計に寒い思いさせちまったなって」
「そんな事無いです。動き出したとは言っても、駅自体が酷い人混みで。あの様子だと、実際に乗れるのはまだまだ先になっていたと思います。本当に助かりました」
まだ夕方の五時にもなっていないと言うのに、太陽は雨雲に完全に覆い隠されていて、既に夜を迎えたような錯覚に陥る。フロントガラスに降り注ぐ雨粒が渋滞中の車達のテールランプに照らされ、赤く染まっては流れた。
彼女はフロントガラスに視線を移すと、声のトーンを少し落としてから言葉を続けた。
「それに……少しでも早く会えて嬉しいです」
非日常空間の中、うっかりするとこのまま告白染みた事をしかねない自分を抑えたが、俺も黙っていないで何か言わなければと、気持ちが焦る。
「……えっと……俺も、早く会いたかった……です」
とっさに口をついて出たのはまるで小学生のような拙い返しだったが、花さんの口許がほころんだのは決してそれを笑ったからでは無いと確信できた。
車は少し進んでは止まり、止まっては少し進むを繰り返す。さっきまであんなに忌々しかった渋滞が、今はじれったくも心地いい。お互い、今日の雨でこんな事があったと笑いながら話した。
しばらくして話がひと段落したタイミングで、花さんが言った。
「今日は本当にありがとうございます。私、雨って苦手で。雨が好きって人もそうそう居ないとは思うんですけど、個人的に嫌な思い出もあるし、調子も悪くなっちゃって」
そう言えば、姪っ子の紫も天気や気圧に体調が左右されるタイプだ。
花さんの横顔は少し青白いような気もしたが、本当に顔色が悪いのか、天候のせいでそう見えているのかは分からなかった。
「でも最近は、雨の日も悪い事ばかりじゃ無いなって思えるようになったんですよ。初めて高虎さんを見かけた日も、雨だったから」
喜びの前に疑問が湧いた。彼女が俺を認識したのは、財布の小銭をぶちまけたあの日だ。はたして、雨だっただろうか。
不思議に思っていると、想定外の話が続いた。
「酷い土砂降りの夏の日に、あのコンビニ前の横断歩道で、傘をささずに信号待ちをしている男の子が居たんです。見ているこっちがハラハラしてしまうくらい、びしょ濡れで。でも、通りすがりの人がその男の子に傘をくれてーーーーー覚えてますか?」
花さんはそう言って、助手席から俺の顔を見上げた。
「高虎さんは男の子に傘をあげて、いらないならコンビニの傘立てに返しておいてと言っていました」
覚えている。
あの日は新規客の見積もりに行った帰りで、それが何とも態度の悪い厄介なタイプの客だった。帰りの車内、治まらないイラつきから電子タバコに手を延ばしたがカートリッジが切れていた事に気付き、土砂降りの中わざわざコンビニに寄ったのだ。
店を出たタイミングで、ずぶ濡れの男子中学生が信号待ちをしている姿が目に入った。ちょうど車に置きっぱなしだった古い傘の存在を思い出し、助けてやるかと手に取った。
「次の日の朝、日課の散歩中に何となく気になって、傘がコンビニに戻っているか見に行ったんです。その時はすっかり晴れてたから、傘立てが仕舞われていて。でも、高虎さんの車が停まっていました」
俺の驚きを他所に、花さんは語り続けた。
「高虎さんは、すごく腰が曲がったおばあさんのカゴを持っていて。ご家族かなと思ったら、どうやら全然知らない他のお客さんで。それからも度々、あの朝のコンビニで、高虎さんが優しさを振りまく姿を見かけては勝手に元気付けられていました。だから、小銭を拾ってもらった時、私、本当に嬉しかったんです」
彼女はそこまで言うと、急に我に返ったような顔をして「一方的に見られてるなんて、気持ち悪いですよね」と、また何度も頭を下げて謝罪の言葉を繰り返した。
違う。一方的に見ていたのは、俺の方だ。
朝のコンビニで時折見かけるようになった、こうやってペコペコと頭を下げる花さんの事を。いつもどこか危なっかしくて、気になって、目で追うようになった。
ああ、そうか。だからーーーーーあの時のあの人も、花さんなのか。
車内から傘を取り出して振り返ると、中学生の隣で信号待ちをしている線の細い後姿が、何度も何度も隣の様子を伺っている事に気付いた。そしてその後ろ姿が、とうとう中学生に向かってそっと歩み寄った。だから俺は、慌てて走って声をかけたんだ。
花さん、あなたが、今にも自分の傘を差し出しそうだったから。
驚きで固まっていると、クラクションの音で我に返った。しまった、信号はとっくに青だ。
慌てて進んだタイミングで、車内に聞きなれない着信音が流れた。
「あれ、銀ちゃんだ。ちょっとすみません」
花さんはそう言って通話を開始すると、すぐに何やら揉め始めた。俺は運転に集中しようとしたが、車内は狭い。聞くともなしに、耳に入ってくる。
「……何でいつもそんなに唐突なの? ……ダメ!! ……何時ならとかじゃ無くて、実家に帰ればいいじゃない。とにかく、今日は絶対ダメだから……もう……いや、だから来ないでって……え、明日? それならいいけど……うん、じゃあね」
珍しく鼻息が荒い。いつも低姿勢な花さんが、あのいとこ相手だと急に強気な姉になるところが、ちょっと面白かった。
「何か急用でもあったんじゃ? 大丈夫そう?」
「何でもないです、気にしないで下さい。銀ちゃんって、いつもこんな感じで。海外に居た頃だって、今から家に行くからねって、成田空港から電話してきたり。せめて、飛行機に乗る前に言えばいいのに」
「慕ってくれる親戚がいるのは、いい事じゃん。海外に居たのは、バレエ関係で? 優秀なんだな」
「銀ちゃんは一人っ子だし、いとこも私だけで。親戚と言うより家族に近い感覚なんだと思います。あの子、以前はヘルシンキの国立バレエ団の団員だったんですよ。ああ見えて、バレエの才能は本当に凄くって」
フィンランドか。有名どころのサッカーチームがある都市なら大体分かる。そう言えば、花さんの昔の彼氏とかいう奴も、そんな感じで海外に居るんだったっけ。
ワールドワイドな話の規模に気後れしそうになるが、サッカーに置き換えれば理解できる。海外が本場なら、そりゃあ実力がある奴は挑戦するだろう。
「銀ちゃんは十五歳で奨学金付きの賞を受賞して、パリに留学したり、スイスで研修員として所属したり、あちこち行ってて。でも、結局どこでも上手くいかなくて苦労したみたいです。バレエの技術的な事では無くて、人間関係の方で。性格はあの通りだし、時にはアジア人差別も受けたみたいで。やっぱり、皆が皆、藤崎さんみたいには……あ……」
昔の男の名前を口にした花さんが、気まずそうに話を止めた。昔の恋人の話をするのはマナー違反だなんて言う奴もいるが、十代の頃の話なんて微笑ましいもんだろうに。
「まぁまぁ、気にすんなよ!!」
俺は、わざと大きい声でおどけて返した。
「俺達の齢で、過去が無い方がおかしいって」
「違うんです、あれは本当に銀ちゃんの勝手な思い込みで。銀ちゃんは昔から藤崎さんに憧れてて、未だに交流もあるみたいで。たまに顔を合わせると、私が元気にしてるか尋ねてくるそうなんです。それで、藤崎さんがずっと独身なのは私に未練があるんだって、勝手に信じちゃってて」
「でもそれって、思い込みじゃないかもしれねぇじゃん?」
からかい半分、本気半分でそう言うと、花さんは苦笑いをし、それは無いですと断言した。
「藤崎さんの恋愛対象は、男性なんですよ。私の事は妹みたいで好きだけどやっぱり恋愛感情を持つ事はできないって、はっきり振られちゃいましたから。私にとっては初恋で初めての彼氏だったし、苦すぎる思い出です」
意外なオチに驚きつつも、少し安心している自分に気付いた。気にするなと言いつつ、気にしていたのは俺の方だったらしい。
それにしても、初恋で初彼氏という初々しい存在から突き付けられた別れの言葉がそれでは、あまりに不憫と言うものだ。かわいそうだとは思うものの、申し訳無い事に笑いがこみ上げた。笑い上戸な自分が憎い。
俺はそれを誤魔化そうと、とっさに話題を変えた。
「バレエって言えば、お母さんがバレエ教室やってるんだったっけ。花さんもやってたんだろ?」
数秒待ったが、反応が無い。ハンドルを握りながら助手席を横目でうかがうと、そこにはさっきまでとはまた違う、悪天候でも見て取れる程の青白い顔があった。
「大丈夫か!?」
「……すみません、貧血かな……大した事無いので気にしないで下さい」
花さんはそう言うものの、明らかに調子が悪そうだ。ちょうどのタイミングでドラッグストアに差し掛かり、郊外店舗特有の広い駐車場に向かってハンドルを切った。
「飲み物買ってくるから、待ってて」
「あ、いえ、本当に大丈夫ですから。心配させちゃってすみません」
確かに口調は落ち着いているが、やはり顔色は良くない。大丈夫と主張する花さんに、「ついでにトイレ行ってくるからさ」と言って一人で車を降りた。雨はそろそろ終わり際といった気配で、道行く人影も半数は既に傘を閉じている。
トイレを済ませ、初めて訪れた店の慣れない陳列に少し手こずりつつ、ドリンク類と、それから念のための酔い止めの薬を購入した。
店を出て車に近付いていくと、フロントガラス越し、助手席の花さんがスマホと対面して喋っている姿が見えた。誰かと通話をしているらしい。俺が戻って来た事に気付いたようで、会話を切り上げている雰囲気が伝わって来る。
運転席のドアに手を掛けたタイミングで、「じゃあ、またね」と言っているのが聞こえた。
顔色を見ると、大分回復しているようだった。「大丈夫?」と声をかけると、自分の体調に対してでは無く、通話に対する気遣いだと勘違いしたらしい。
「大丈夫です。ちょっと兄と話をしてただけで、急用では無いので。すみません」
「へぇ、お兄さん居るんだ」
左右の手に水とお茶をそれぞれ持ち、彼女に選択を委ねながら差し出すと、「ありがとうございます」とお礼を言いながら水を手に取った。
それから彼女は、その水のペットボトルに視線を数秒落とした後、意を決したような表情で俺を見上げ、不安げな声色で切り出した。
「あの……さっきはすみません。実は、私と母の関係は少し複雑で。いい大人が本当に恥ずかしい話なんですが、私、急に母の事を考えるとパニックを起こしそうになる事があるんです。特に今日は、もともと雨で調子が悪かったせいもあって……」
「そっか、分かった。言い難い事を打ち明けてくれてありがとうな」
あれだけ親戚と仲が良い彼女の事だ、きっと家族仲も良いのだろうと勝手に思っていたので少し意外だったが、俺なりに最大限気を遣った言葉を返すと、花さんは小さく安堵のため息をついてくれた。
「体調の方は、大丈夫?」
「はい。兄に話を聞いてもらえたし、もう落ち着きました」
そう言って微笑んだ彼女は、確かにいつもの調子に戻った様子だった。どうやら、兄妹仲は良いらしい。母親と何があったのかは分からないが、家族に味方が居る事は大きな救いだろう。
小休憩を兼ねて駐車場に車を停めたままお茶を飲んでいると、この後の予定を何も決めていない事に思い当たった。そもそも、夕食に誘ったんだった。
花さんに話題を振ると、まさかの提案が返って来た。
「実は、今夜はあずみちゃんとうちで鍋をする予定だったんですけど、あずみちゃん、急な夜勤で来られなくなっちゃって。材料はもう揃ってるので、良かったらどうですか?」
俺の全力のイエスと、絶対に変な事はしないから安心して欲しいという誓いに彼女が笑った。浮かれる気持ちを抑えつつ、安全運転を自分に言いきかせる。この辺りまで来れば、帰り道もあと一息だ。
そわそわとハンドルを握りながらも、俺の心の中には、ぼんやりと一つ、ある言葉が引っ掛かっていた。
花さんは、確かにこう言っていたのだ。
“銀ちゃんは一人っ子だし、いとこも私だけ“
第九話『雨(後編)』に、続く
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