作品と作者は別物とかいう前に、そもそも作者ってだれのことなんだ?②(完結)
寝て起きて昨日の続きに取りかかっている。と、どうにも昨日筆をとったあの熱が少し冷めていることに気づく。そうだ、昨日のぼくは今のぼくではないのだ。
さあ、続きを書こう。
(*前回の記事はこちら)
「絵を描いているのは「FUUD」だが、世間にそれを発表しているのはいったい誰なんだ?」という問いは、①で述べたことを前提にすることでようやく本題に切り込んでいけるようになった。
結論から言えば、その「誰?」はパトロン役(※前回記事を参照)の"ぼく"なのだろう。自信なさげに言っているのはこれまでそのことに無自覚だったからだ。そしてここにまた違和感がある。そうなのだ、パトロン役のぼくはFUUDではないのだ。
パトロン役のぼくが絵を描いているわけじゃない、と断言できるのは、絵を描くようには文を綴ることができないという感覚を、文を綴るときにいつもぼくが身体に感じてきたからだ。
思うに、FUUDが描いている絵はなにかの説明ではないのだろう。あれはたぶん詩に近いものだ。その証拠に、詩を書いているときの感覚とFUUDという人格のあいだには大きな違和感はない。詩作は最近になって始めたのだが(FUUDアカウントのSNS上で始めたというのもあるけれど)別の名義は用意せずに発表しているし、あらたな企てでもない限りFUUDとして書くだろう。
ぐだぐだと書き連ねてきたが、そろそろまとめにはいろうと思う。
FUUDは、「全人格で創作してます」と言い切れない作家だと言うこと。
みなさんはどうなんすかね?
(だから仮に生身のぼくに街で偶然出くわしてもその人物は"FUUD"じゃない可能性が高いのです。)
次に考えたことは、FUUDとして文を綴るなら今までのようにパトロン役がなりすまして書くのではなく、FUUDに書かせる必要があるのではないかということ。これは予想以上に訓練が必要な気がしている。なにせ、彼の性質と物事の説明とはあまり相性がよくないことを知っているから。
どちらにしても、FUUDとして語るとき/FUUDのことを語るときには、今まで気にしていなかった「だれが語っているのか」を意識する必要がありそうだ。
と、いちおうの結論と課題が見えたところで2回にわたって書いてきたこの話題も、いったん終わりにしたいと思う。
あっ、と。
最後に、記事のタイトルにもなっている「作品と作者は別物か?」だが、そのことについて語る隙間は残念ながらなくなった。ただひとことで言えば「おそらく別物だろう/少なくとも同一ではない」だ。比較可能にするためにそれぞれを定義する必要があるものを簡単には語れないし、だいいち賛否だけを論じるのはぼくの趣味じゃない。
散々語り散らしたこの記事の最も重要なところは「タイトル詐欺」だった、と。題名に振り回されたみなさまへは、たいへんなご迷惑をおかけいたしました。
(完)
