エッセイ - 「赤裸々と下品、それぞれの欲求。」
「セキララ」と言えばSHERBET(のちにSHERBETS)のデビューアルバムであるが、今回綴るのはそれではない。
赤裸々に語ることに、いったいどれくらいの意味があるのかわからなくなった。原因のひとつは北野武氏が喋っているこの動画をたまたま観たことかもしれない。
(この動画がYouTubeでおすすめに上がった背景にはザクロ星人氏とつながりがあることが関係しているのかもしれない。アルゴリズム?ナシゴリズム?)
ぼくは、自身の自分語りを何処か誰かの目に見えるところに残したい衝動と承認欲求との関係を、わりとながいこと考えてきた。
だが、ちょっとスッキリしたのだ。
それはぼくが3週間の土日だけを使って催した4回目のドローイング作品展の会期中、最終日前日の朝のことだった。以下、殴り書き。
欲求をマズロー的に考えるとき、各階層は、飛び越えるものではなく積み上げていくもの、"自己実現"攻略の装備。
その階層の欲求が高まり発露するときはそれより下層の欲求が満たされている時だ、と思えばいい。だから何度もやり直すし、やり直すのは下層からだ。
そのように眺めると、自己実現にとって承認欲求は"必要"なもので決して悪者ではない。だからぼくは人の承認欲求をバカにする気にはなれない。
少し問題があるとすれば"承認欲求"が目的化されているときなんじゃないか。自己実現の階層の中で、それ(=承認欲求)を満たそうとする姿は、どうにも下品にみえるときがある。
あまりいじわるな見方をせずに「みんな自己実現に向かってるんだよなあ」と思おうじゃないか。
ただ繰り返すけど、承認欲求が目的化されている時期ってのは見苦しいものなんだ。ぼくが言いたいのは、それも自己実現へのステップだよねってこと。
見苦しさ、下品な自分を知っている者がほんとうの自己実現にたどり着けるんじゃないかと自分を慰めつつ綴る朝。
おじさん、まだまだ青春真っ只中です。
ぼくは自己実現の途上にいるのだと、この殴り書きを通して自分に言ってやったのだ。承認欲求の上に自己実現があると仮定するなら、「見て見て!」や「聞いて!聞いて!」は必要不可欠かつある程度満たされなきゃいけない欲求じゃないかと。
ここで問う。
「近しい間柄の、ごく限られた人に向けて喋っとけばいいんじゃない?」
今なら応答できる。
「もっと自在に、そのときどきに、ゆるく繋がったり散ったりできる共同体みたいなもの(の一部)に自身や作品を存在させたいんだ。」
*
北野武氏は映画において説明的すぎるシーンを「下品だ」と評した。作品の内で説明し過ぎないことが粋なんだと。これはよくわかる。ぼくの場合はドローイングを描き残してきているわけだけど、説明的すぎる線が野暮にみえるあの感じだと理解した。
で、問題は、ぼく自身が作品の在り方や作家としての在り方を語る場面だ。これにも現時点での自分なりの答えを言おう。
「誰かが語ってくれるような作品/作家になるまでは自身が語る以外に何ができる?」
*
今こうして各種SNSが簡単に利用できる環境でぼくは何をしなかったら後悔するだろうかと考える。答えはわりと簡単に出る。というかずっと前からわかっている。たぶんこうして世界の外に向けて発信できる場があるにも関わらず、世間体や体裁を気にしてやりたいことを我慢すること、それだろう。
ひょっとしたらぼくの中でようやく「ねぇ、見て!見て!」最優先の季節が過ぎようとしているのかもしれない。なぜ承認欲求がわくのか?それは実現したい自己があるからだ。
じゃあ、その実現したい自己とは?
繰り返しになるが、「自在に、そのときどきに、ゆるく繋がったり散ったりできる共同体みたいなもの(の一部)に自身や作品を存在させること」だろう。
そこまではっきりしたのなら。
もうスローガンを声高に叫ぶより、実践を示していく段階だろうと思うのだ。
説明的すぎることは野暮かもしれないが、自分が納得するまではこうしてクダを巻くのが自分の気質だと、それもやってきてわかってきたことだ。
*
今のぼくには赤裸々に語ることが必要だ。
ただし作品の外で。だから態度としてはこれでいいのだと思う。
そしてもうぼくが語らなくてもいいや、というときはきっと、ぼくの自己実現の欲求が満たされたときなんだろう。
少しずつ見えてきている。
だがまだはっきりと像を結んではいない。
実現したあとの姿はどんな姿なんだろう?
いつかの語りを引用しよう。
あなたたちが観ているその作品の作者は今のぼくではない。ぼくは常に生成のただなかにいて、ぼくはそういう運動体なのだ。常に未完成、それでいて完全な。FUUDは、そういうものだ。
なんだ、これでいいじゃないか。
今はこれでいいじゃないか。
野良からの声明は、まだ鳴り止んでいない。
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