エッセイ - 10月の現状、野良からの声明
9月からのFUUDは、それまでが長い助走期間だったような気分でいる。わりとはっきりと自覚している9月以前/9月以降のその境目。
9月以前、ぼくは詩であると思っていた。過去の自分語りを参照すれば確かめることができるだろう。ぼくのドローイングのことだ。限られた時間に仕上げることを目論んでの行為。それはそう広くもない水の溜まり場の中の、なんだかよさそうな位置に狙いをつけて素潜りで情景を感じにいくようなものだった。水面に顔をあげたときが作品の完成だ。
9月以降、ぼくは私小説なのだと言っている。これは思えばたいした飛躍だ。もちろん、素潜り的なドローイングも続けてはいるが、それだけではない。それだけではない、というところがFUUDの私小説的なところなのだろう。
詩を詠むようにドローイングするたのしさや行為は作品の中に保存されている。これからもしていくだろう。いま私小説と言っているのは、その詩性を包むことに注意が向いていることだと捉えることができる。例えば、詩が詩集になる際の変容。描かれてきた数々のドローイングがひとまとめに提示される作品展。その要素のひとつひとつは瞬間だが、その重なりはもう物語なのだ。
ぼくは運動体だ、と以前threadsか何かに書いた。そうはっきりと思ったのは自身2回目の作品展のときだ。ぼくは会期中、奇妙な感覚でいたのだ。
「これは今のぼくではなく、あのときのぼくだ」。
自作が並んでいる場で、ぼくはそこに過去のぼくを他人事のように思った。あなたたちが観ているその作品の作者は今のぼくではない、と。ぼくは常に生成のただなかにいて、ぼくはそういう運動体なのだ、と。常に未完成、それでいて完全な。FUUDは、そういうものだと思った。
そのときにしか描けない絵がある。やってきた人間にはわかることだろう。瞬間というものの価値だ。そんな人間が自身を私小説と言い、運動体だと言う。つくるものは詩で、何かの説明ではない。またあるときはぼくは宇宙だといい、ぼくは言葉だと言う。鑑賞者が得することは考えていない、とも。
刺すだの響くだの、そういう計算以前の話だ。ぼくは誰の心も刺しにはいかない。よくは知らない空間にむりくりその詩群を響かせにもいかない。では何のために?
その答えが作品の公開であり、作品展の実施であり、ZINEの配本であり、ディストロの紹介文だ。
ぼくはもうただの詩ではなくなった。
その詩性を世に放つ何者かであるのだ。
これが野良で生きるぼくの声明だ。
こんな文章、大作家には書けるまい。
FUUDはかつてのように「書くこと」を躊躇しない。
かつて三文文士が毒づきながら遊び回っていたあの場所で、いまFUUDは両腕を振り回して叫んでいる。
何度でも言おう、
FUUDは私小説なのだ。
FUUD、次なる作品展示は11月8日(土)、9日(日)。以降15(土)16(日)、22(土)、23(日)と3週の土日計6日間、ホームグラウンドのH apartment studios で4回目のドローイング作品展をやります。前回の展示からあらたに描いた鉛筆ドローイングが並ぶ予定です。
今回の目玉は未発表の連作木炭ドローイング(ピンナップシリーズと呼んでいます)です。まだまだ制作途中ですが、たのしみながら仕上げたいと思います。
それでは今日はこのへんで。
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