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低俗なマゾ

小ぎたない恋のはなし:Ex16
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僕は電車の中で同じことばかり考えている。かつて僕の人生の隣りに寄り添っていたが決して触れることはなかった少女を思い、自分のライブストリーミング趣味を思い、自分の生い立ちを思った。

僕はその中で「何かに憧れる気持ち」が自分の中にあるんだろうことに気づく。そしてそれらを一蹴して捨て去ることに快感を覚えていたり、憧れは憧れとしてひた隠しにして、何とも思わないでいることを格好いいと思われたい、とでも思っている自分に気づく恥を知る。

でも実際のところ、人生はその繰り返しだった。

人が興味を持たないことにできるだけ早いうちから(できるだけとは表現したが僕が自分じゃ制御できない勝手な、自発的な心の動きだ)興味を持ち、他者がその趣味に群がり始めると、別にそれを共通語として僕とコミュニケーションを取るようになろうがなるまいが、なんだか疲れて離れてしまった。

僕はそれを別に一匹狼みたいでかっこいいなどとは思わず、自分が好きなことに誰も興味を持ってくれなければ良いなと思うばかりだった。自分が興味のあることは自分一人で追求したかったのだろう。自分にとっての未開拓分野に対し、処女性を求めていたのだろうか。

こうして頭の中で作り話を書いている時だけ僕は誰にも行動を阻害されなかった。でも、それで精神を病んでしまい、世界に閉じこもってしまう人のようにならなかったことが良かったのか悪かったのか僕はわからない。

それぐらい突き抜けていれば僕は何かしらの表現者になっていたのだろうか。そして僕はそれに憧れていたのだろうか。偶像崇拝者のように。

偶像崇拝とは自意識を捨てることに似ている。存在しているかどうかも不明な偶像をアイドルとみなして担ぎ上げ、自分の生活を注いでしまう。自分の生活とはつまり命のことだ。命を注ぐなんて。

当たり前なんだけど、偶像とは自分ではない。その偶像を偶像であると認識した瞬間に、それは既に存在してしまっていて、自分の思うようになんて変えようのないものだ。つまりどうやったって自分を投影することなんてできない趣味だと言える。

変えようとすると、あるいは自己を投影しようとするとおかしなことになる。ストーカー規制法とかの出番になるだろうか。自分を好きになってほしい。自分の好きな行動をとってほしい。他人は変えられない。

偶像とは所詮他人でしかない。つまり一生かけても自分の好きを投影できない対象に好きを投影しようと、あらゆる手段を尽くそうとしている低俗なマゾみたいな状態に陥っていると言えるのだ。

僕は低俗なマゾだった自分を恥じ、正しく健康な豊かな生活とはどんなものなのか考える。しかしながら正しくない僕は、「正しいことを考えるべきだ」という常識を大脳新皮質の基本情報として備えて起きながらも、そちらに考えを巡らすための素材を経験則としてまだ持ち合わせてはいなかった。

次回

・謝辞
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中村風景 このサイト内ではいかなる場合でも返信行為をしていません。