気づきの種#02_『担保の無い信用』~信用ではなく 私は信頼したい~
2025/4/14
人生を楽しく生きるための『気づきの種』を“短い物語”にしてみました。
「投資」「習慣」「幸福」「考え方」などが中心ですので楽しんでもらえましたら何よりです!
『担保の無い信用』~信用ではなく 私は信頼したい~
「パパ、見て!」
小学三年生の息子、福助(ふくすけ)が満面の笑みで駆け寄ってきた。
両手には泥だらけの小さな手が握りしめた、鮮やかな黄色い花が握られている。
「わあ、きれいだね。どこで見つけたの?」
しゃがんで花を受け取ると、福助は少し照れくさそうに言った。
「学校の帰り道、公園の隅っこに咲いてたんだ。ママが好きかなと思って」
妻は花が好きだ。福助はよくそれを覚えている。
私は息子の優しい心に胸が熱くなった。
「ありがとう、福助。ママもきっと喜ぶよ」
その夜、食卓で福助は得意げに花のことを話した。
妻は目を細めて福助の頭を撫でた。
「本当にありがとうね、福助。ママ、すごく嬉しい」
その光景を見ながら、私は心の中で呟いた。
「ああ、これが信頼なんだな」と。
私は息子に対して、「信用していたのに」という言葉を使ったことがない。
もちろん、福助が嘘をついたり、約束を破ったりしたことは何度かある。
宿題を忘れたり、友達と喧嘩したり。
その度に、私は福助とじっくり話し合った。
なぜ嘘をついたのか、なぜ約束を破ってしまったのか。
そして、どうすれば良かったのかを一緒に考えた。
叱ることもあったけれど、決して「信用していたのに」とは言わなかった。
それは、私にとって「信用」という言葉が、どこか薄っぺらで、条件付きのものに感じられたからだ。
何かを期待して、それが裏切られた時に使う言葉。
そんな気がしていた。
私が息子に与えたいのは、そんな脆い「信用」ではない。
もっと深く、揺るぎない「信頼」だ。それは、福助がどんな状況にあっても、どんな選択をしても、変わらないもの。
善い行いをした時はもちろん、過ちを犯した時でさえも、その根底にある福助の心を信じたい。
もちろん、信頼は一方通行では成り立たない。
私もまた、福助にとって信頼できる存在でありたいと願っている。
約束は守る。
嘘はつかない。
福助の気持ちに寄り添い、真剣に向き合う。
そんな当たり前のことを、積み重ねていくしかない。
福助が成長するにつれて、難しい局面に直面することもあるだろう。
誘惑に負けそうになったり、道を踏み外しそうになったりすることもあるかもしれない。
そんな時、私が「信用していたのに」と責めたところで、事態は何も良くならないだろう。
私ができるのは、ただひたすら「信頼している」と伝え続けることだけだ。
根拠も、担保もない。
ただ、福助が私を信頼してくれるように、私も福助を信頼する。
そのシンプルな繋がりこそが、困難を乗り越える力になると信じている。
数年後、福助は高校生になった。
反抗期を迎え、口数も減ったが、根は優しいままだ。
ある日、福助が神妙な面持ちで私の部屋を訪ねてきた。
「父さん、実は…」
福助は少し言い淀んだ後、アルバイト先でミスをして、店に損害を与えてしまったことを打ち明けた。
金額は決して小さくはなかった。
私は福助の目を見つめ、静かに言った。
「そうか。話してくれてありがとう」
福助は顔を歪めた。
「父さん、怒らないの? 僕は…」
「怒ってないよ」私は穏やかに答えた。
「もちろん、ミスをしたことは残念だけど、それよりも、福助が正直に話してくれたことが嬉しいんだ」
福助は驚いたように顔を上げた。
「でも、僕は父さんの期待を裏切ったんじゃないか…」
私は首を横に振った。
「私は、福助に期待しているわけじゃない。ただ、信頼しているんだ。福助なら、この経験を無駄にせず、きっと成長できると信じている」
福助はしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく呟いた。
「ありがとう、父さん」
その時、私は改めて思った。
私が息子に伝えたかったのは、まさにこの気持ちだったのだと。
条件や見返りを求めない、無条件の信頼。
それは、言葉で説明するのは難しいけれど、確かに存在する、温かい光のようなものだ。
そして、その光は、相手を信じる自分の心の中にある。
相手がどんな虚像を描いていたとしても、それを超える深い場所で、ただ信じる。
そこにこそ、本当の信頼が生まれるのかもしれない。
【あとがき】

↓単なる私の感想などなど…↓
以前より「信用」という言葉がどこか引っかかっていました…。
「信用金庫」 や「信用組合」「信用していたのに」「そんな人だと思わなかった」その他にも色々あるとは思いますが、全てに共通しているのは「基本的に信用を損なわない」という条件が設定されているということです。
また、それを守らなかった場合は担保を差し出す(勝手に悪く思われる)などの条件も同時に設定されています。
他人からお金を借りる際の担保は、あって当たり前なのかもしれませんが、人の信用に対しては自分の想像外の事はしないという担保設定を、書面を交わすわけでもなく、ただただ勝手な思い込みで相手にしていることが、この社会の常識になっているのではないかと私は思います。
例を挙げると…
●好感度の高い芸能人が不祥事を起こした
→その芸能人に会ったこともないのに、映像などで勝手に好印象を持っていた
→自分が描いていた好印象が崩れたので裏切られたと勝手に思い込む
→SNSに悪口を書き込む(制裁を加える)
※自分に危害を加えられた訳でもないのに…
●飲食店の店員の服装がだらしない
→お客様に接客をするので身だしなみを整えておくことが当たり前だと思っていた
→自分が描いていた印象が崩れたので裏切られたと勝手に思い込む
→会社にクレームを入れる
※自分に危害を加えられた訳でもないのに…
これらの例は、信用の設定を勝手に行い、自分が想定していた内容から外れた行為をすると「そんな人だと思わなかった」と勝手に損害を訴えるという、現代の日本においてよくある風景となります。
まだまだ例は色々ありますが、私は「信用しているから大丈夫だよ」という言葉を「信用していません」。
その代わり、「信頼しているから」と言ってくれる人を「信頼」しています!
言葉の使い方という方もいるかもしれませんが、私は「信頼」という言葉を大切にしています。
みなさんは、大切な人を「信頼」していますか?
ゼロよりイチ!
今日の一歩が幸福を複利で増やす原動力です!
みんなで幸せになりましょう!
ではまたっ!!
#01-#20(全20話)
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