言語化の先にある「つながらない豊かさ」
言語化疲れの話をしてきたわけですが、そもそもなんで言語化をするのかって話ですよね。
言語というのはコミュニケーションツールですから、自分の中の思考や感情を言語という形でアウトプットするのは、他者とコミュニケーションを取るため、つまり自分の思考や感情を他者と共有するためでしょう。
まぁ、自分でも自分の気持ちって書き出してみないとわからないので、自分のための言語化という側面もあるとは思いますが、基本は他者に伝えるための言語化なのです。
いまは総発信者時代ですから、言語化した後に伝える媒体は無数にあるわけです。X、note、YouTube、Podcastなどなど、テキスト、動画、音声、好みは人それぞれでしょう。
そうした媒体で言語化したメッセージを発信する。誰かの心に刺さるような内容であれば、フォロワーが増えていく。フォロワーが増えると、直接的にせよ間接的にせよ収益化が可能になる。なんとなくそんな青写真を描いている人も多いのではないでしょうか(無意識にせよ)。
やや強引な話の流れではありますが、ここまでのことをまとめると、言語化とは自分の思考や感情を価値に変換するための行為だと言えるのです。そう思えば、言語化力が求められるのも当然ですよね。また言語化に食傷気味になる人が出てくるのも納得です。
だから言語化疲れの後に来るのは、その逆の価値観、他者とむやみやたらにつながろうとしない、自分の思考をすぐに価値に変換しようとしない、自分の中の混沌をそのまま自分の中だけに留めておく、そこに精神的な豊かさを感じる、そんなブームではないでしょうか。
60年間、下宿先のアパートの一室で、誰に見せるためでもなく自分のためだけに『非現実の王国で』という空想の絵物語を描き続けたヘンリー・ダーガーのように。
そう、言語化の先の「つながらない豊かさ」にこそアートの出番が待っているような予感がするのです。自分の感情を自分だけのものにしておく、というのはとてもぜいたくなことだと気づく人が出てくるのでしょうか。
もちろん、人と感情を分かち合うのは根源的な喜びです。人間はひとりでは生きていけない社会的動物ですから、言語化が必要なくなることはないでしょう。
かくいう私も、なんだかここまでの話を全部ひっくり返すようですが、言語化することが嫌いではありません。大変だとは思うけれど、やらずにはいられないのです。
「この作品の良さをどうやって伝えたらいいかな?」と頭をひねりながら「あの話とこの話をくっつけたらわかりやすいかな」とか「まずは作品のこの部分に注目してもらったらいいかも」とかそんな感じで。
そして最終的に、まだどこにもないような文章が(ほんのちょっとでも)出来上がったら、もうそれだけで超爽快な気分になります。額に入れて飾りたい気分と言えばいいのでしょうか。
いくらやってもスラスラできるようにはならず、1500字程度でも「これだ」と思える文章ができるまでに何日もかかるなんてざらです。大変だけど、それでもうまく言語化できた時の達成感が味わいたくてまた取り組む。その繰り返しです。
私と同じようなタイプの人は言語化をやめろと言われてもやるでしょうし、だからと言って全員が言語化に無理に取り組む必要もないだろうと思うわけです。現段階での落とし所はここらへんですかね。
うーむ、終始抽象的な話をしてしまった。みなさんはどう思いますか。
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