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2025/1/18 淵上毛錢(詩)の合唱曲&水俣の文化人シリーズ①

1月もすでに半分以上経ってしまいました。

遅ればせながら、
今年も「合唱団みなまた」をどうぞよろしくお願いします。

1/12(日)は団員Tさんのお店で新年会を行いました。
そして明日1/19(日)は3月の演奏会に向けての1日練習です。
これから演奏会までは、年々覚えられなくなる脳みそや、
ややもすれば折れそうになる日々との戦いが待っています。
が、本番はあっという間で、楽しくて、
それまでの苦労を凌駕する喜びが待っているのを知っているから、
頑張れるのですよね・・・・

さて、昨年12月、
「水俣の詩人、淵上毛錢の詩をテキストとした合唱曲を追々紹介します」
といったようなことを書いてしまったので、書きます!

まずは、故滝本泰三先生による『小さき町』
 
(「河童(がらっぱ)」「なんとなんとなんしょ」「冬の子守唄」「魚うり」)
水俣弁満載です。
これは 滝本先生が 毛錢本人と話し合いながら曲を作ったものだそう。
歌った経験がある水俣高校音楽部卒業生も大勢いて、
合唱団みなまたの演奏会でも折に触れ取り上げています。

1992年には『合唱曲「みなまた」を創る会』の委嘱で
柴田南雄先生の手により合唱曲『みなまた』 が作られ
その第3部で 毛錢の4つの詩がテキストとして使われました。
(「散策」「無門」「河童」「約束))

初演時は柴田先生も来て下さり、指揮は故田中信昭先生、
演出は日本を代表する演出家佐藤信氏という、
贅沢極まりない経験をさせていただきました。

そして、昨年12月のブログにも書きましたが、
熊本県立第一高校の委嘱で、瑞慶覧尚子先生作曲の二つの組曲が生まれ、
その後、そのひとつ『なんとなんとなんしょ(「なんとなんとなんしょ」「冬の子守唄」「河童」「とほせんぼ」)混声版を
私たち「合唱団みなまた」が委嘱し、
翌年「合唱団こぶ」さんが混声版『約束』
(「無門」「野原」「暮情」「再生」「約束」)
を委嘱されました。
(「暮情」は「慕情」ではなく「暮情」です)

3月の演奏会で『約束』を歌うことは
12月にも知らせした通りです。

そして、もうひとつ。
私たち「合唱団みなまた」が新実徳英先生に委嘱した
『七つの生きるうた』という組曲があります。
(「雨」「ぶらんこ」「出発点」「不動」「この木」「約束」「花骸」)
私たちの力不足でこの組曲があまり知られていないのが
とてもとても残念です。
愛すべきとても素敵な曲集なので、
ご興味のある合唱団はぜひ歌ってみてください。

「追々」と言いながら、全部書いてしまいました💦
水俣は 淵上毛錢だけでなく、徳富蘇峰蘆花兄弟、谷川雁、石牟礼道子と
素晴らしい文化人を輩出してきました。
その辺りもまた追々(笑) ご紹介していきますね。

毛錢の生涯を私なりにまとめたものも載せておきますね。
私(当ページ管理人)の別ブログに書いたものに
少々手を加えてお届けします。

水俣市陣内の 旧家が並ぶ界隈に やはり旧家の次男として
1915年(大正4年)に生まれました。本名は喬(たかし)。
幼少期は いわゆる「悪ごろ」だったそうです。
六才で父親を亡くしています。

13才、 九州学院入学、翌年 青山学院中等部に転校。
17才、上野の音楽学校にチェロで入学。
この頃から フリーターのようなことをしていました。

チェロも処分するなど 仕事もありとあらゆることをして
放浪生活をしていたようです。
まだ文学への関心はなかったようですが行きつけの喫茶店で
詩人の山之口獏と知り合い、後に詩集の前書きを寄稿してもらっています。

20才で 胸を患い、熊大附属病院に3か月入院したのち
徴兵検査のため水俣に帰りますが激痛に倒れ、脊椎カリエスと診断され、
寝たきり生活に。

病人の気を紛らわそうと姉が短歌を 主治医が俳句を勧めました。
そこから 毛錢の「書く」ことが始まります。
俳句を熱心に書いていましたが詩を勧めたのは毛錢の作品にも登場する
吉崎直彦という親友です。

本格的に書き出したのは昭和14年、
25才の頃同人誌「九州文学」の原田種夫と文通が始まり、
同誌にまず「金魚」という詩が掲載されました。

昭和18年に 初めての詩集「誕生」を刊行。
その頃 毛錢を親身に世話していた看護師がやめ
そのあとに来るようになった看護師ミチエさんと昭和20年に結婚。
周囲の猛反対を押し切っての結婚でした。3人の子供をもうけています。
終戦後は2冊目となる詩集を出版したほか、
水俣青年文化会議なる文化集団を組織し機関紙「無門」を発行したり
文化関係の催し物の相談にのったり、
自然科学講座や漱石研究会を開くなど、
寝たきりとは思えないほど多忙な日々を過ごしています。

淵上家には 訪問者が絶えなかったと言います。
とは言え家計が苦しかったこと、
ミチエ夫人の苦労は想像にかたくなく
惣菜洋食店を開店させたりもしています。
もちろん きりもりは奥さんですが。

終戦後 それまで「牛歩」としていた俳号を「毛錢」に改めましたが
「病気と戦争はもうせんとの洒落にはあらずも、
全体の飄逸(ひょういつ)感をとる、芋錢(うせん)を愛敬してゐるので」だそうです。これは 毛錢の好きだった日本画家 小川芋錢のこと。

1950年、35歳で亡くなりました。(モーツァルトと同じ!)
水俣市わらび野に墓と詩碑があり、
墓石には「生きた 臥た 書いた」と刻んであります。

1998年には市民により「淵上毛錢を顕彰する会」が組織されました。


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