白い家はまだ白い |短編小説
リビングの時計が、乾いた音で二十二時を打った。
ダイニングテーブルには、二人分のランチョンマットが敷かれたままだった。夫の席には、ラップをかけたミネストローネ。表面には薄い膜が張り、具は底に沈んでいた。
夫は二十時に出かけた。理由は、会社のバザーにA子が寄付してくれるものを取りにいくためだ。なぜか、A子と夫は我が家で待ち合わせをしてから、各自の車で出発した。
「遅くなるかもしれない、荷物運ぶとかあるし」
片道一時間。荷物を運んだとして、それほど遅くなるのかな、と思ったが、言わなかった。
二十二時十五分、私はスマホを手に取った。
「何時頃になりそう?」
既読はつかない。
「先に寝てればいいの?」
声に出してみると、その言い方がひどく幼く聞こえた。私はただ、この夜をどう過ごせばいいのか、決めてくれる一言がほしかった。
「遅くなるから先に寝てて」でも、「今から帰る」でもいい。そのどちらかさえあれば、この暗い部屋で、帰るかどうかもわからない人を待ちながら、幽霊みたいに座っていなくて済む。
二十三時、不意にスマホが震えた。
『遅くなるから先寝てて。泊めてくれるって言うから、朝帰る』
一瞬、意味が入ってこなかった。指先だけが先に冷えた。なぜ。どうして。山のように聞きたいことがあったが、やめた。
『わかった。明日の朝、気をつけて帰ってきてね』
そう打って送る。指先はひどく冷たかった。
その夜、眠ったのかどうかよくわからない。布団に入っても、意識のどこかが起きていた。玄関の鍵の音を待ちながら、スマホの画面を何度も確かめた。
夫が今どこで、どんな顔をしているのか見えないまま、時間だけが過ぎていった。A子という名前の輪郭だけが、暗がりの中で勝手にふくらんでいった。
翌朝六時、玄関の鍵が回った。
「起きてたの? 寝ててくれればよかったのに」
夫は、外の空気と、嗅いだことのない匂いを連れて入ってきた。よその家の香りだった。靴を脱ぎながら、困ったように笑う。取り繕い上手の、よく見る笑い顔だ。
「そうはいかないよ……」
喉の奥に詰まっていたものを、ようやく押し出す。
「なんで?」
「なんでって……さすがに、既婚者が独身のA子さんの家に泊まるのは、ちょっと考えてほしい」
責めたかったわけではない。ただ、困った、という気持ちを伝えたかった。せめて次からはやめてほしいと。
けれど夫の顔は、すぐに険しくなった。
「は?」
その一音で、空気が変わる。
「俺、疲れてて危なかったから、A子が泊めてくれただけなんだけど。床で寝ただけ。やましいことなんか何もないのに、何をそんなふうに考えてるわけ?」
「いや、その、だって男女が……何もなかったならいいんだけど、でもほら、一応、その」
「一応、何? 疑ってるってことでしょ」
夫はネクタイを外し、ソファに放った。
「よく、そういう発想になるよね。助けてもらった相手にも失礼だし、夫がこれほど疲れて仕事してきたって見えないわけ? 自分がどれだけ下劣なこと言ってるかわかってる? 暇なの?」
下劣。
その言葉だけが、妙にはっきり耳に残った。
「私はただ、心配で……」
「心配?」
夫は鼻で笑った。
「心配してる人間が、真っ先に浮気を疑うの? ありえないでしょ。そういうの、反省したほうがいいよ。俺、眠いから寝る。しばらく起こさないで」
寝室のドアが乱暴に閉まり、鍵の回る音がした。
私はその場に立ったまま、動けなかった。
下劣。
一晩中、スマホの画面を見つめて、何もわからないまま心臓を縮めていた時間は、夫の口にかかると、私が勝手に育てた「下劣な疑い」に変わってしまうらしい。
八時、私は子どもを自転車の後ろに乗せて、保育園へ向かった。
ペダルを踏む足が重い。眠れていないせいだけではなかった。胸の奥に、濡れた布みたいなものが詰まっている。
その途中、新築の家が目に入った。
真っ白な外壁。小さな庭。整った窓。朝の光を受けて、その家は静かにそこにあった。
私はふいに思った。
――この家に、子どもと二人で暮らせたら。
思ったあとで、自分で驚いた。
夫が嫌いなわけではない。そう言い切れるのかも、もうよくわからなかった。けれど嫌いかどうかより先に、ここではない場所を願っている自分がいた。
この子と二人で、静かに暮らせる場所。
その想像の中に、夫はいなかった。
私はそのことに、しばらく気づかないふりをした。
散歩をしようと思ったのは、昨夜、寝ている間にひどく足が攣ったせいだ。
完全に目が覚めるほど痛かった。ふくらはぎのあたりには、夕方になってもなお、鈍痛が残っている。その重さを振り払いたくて、今日は歩いてスーパーへ行った。
帰り道、マイバッグが肩に食い込む。牛乳、豆腐、特売の卵、ネギ、味噌。安いものを選んだつもりでも、袋にするとちゃんと重い。歩くたびに荷物が揺れ、そのたびに胸の奥もわずかにざわついた。
どこからか照り焼きの匂いが漂ってくる。息を吸うと、肺の奥に薄い膜が張るような感じがした。
顔を上げると、あの家があった。
あの朝から十五年以上経っているのに、その家はほとんど変わっていない。外壁はまだ白く、庭木は整えられている。弱い光の中で、静かにそこにあった。
白い家は、まだ白かった。
それを見たとき、肩が少し下がった。力が抜けたのか、抜けたふりをしたのか、自分でもわからない。
後ろからママチャリが追い越していった。家の前で止まり、自転車にまたがったままインターフォンを押す。友達だろうか、妹だろうかと、私は何気なく思った。
「パパー、荷物多いから取りにきてー」
その声に、足がわずかにゆるんだ。立ち止まるほどではない。ただ、通り過ぎるのを少しだけ遅らせた。
すぐに、家の中から返事がした。
「おー、今行くー」
ちょうど家の前を過ぎるところだった。
その軽い返事が、頭の中で何度か反復した。
おー、今行くー。
おー、今行くー。
おー、今行くー。
遠ざかるにつれて、声はだんだん細くなり、やがて消えた。
背中がわずかに反った。痛みというより反応だった。身体のどこかに、まだ古い回路が残っている。そこに触れられると、考えるより先に筋肉が動く。
荷物多いから、下に取りにきてくれんかな。
は? 小分けにして持って上がってこられないの?
たったそれだけのやりとりが、喉の奥に小骨みたいに残っている。
私は立ち止まらずに歩いた。
あの家が、まだ新築だったころ。保育園の帰り、子どもを後ろに乗せた自転車を漕ぎながら、私は思ったのだ。
――こんな家に、この子と二人で暮らせたら。
その想像の中に、夫はいなかった。
あのときは、その不在の意味を、まだ最後まで見ていなかった。
夫と別れた日のことは、記憶が曖昧だ。
大きな喧嘩があったのか、静かな話し合いだったのか、今となっては輪郭がぼやけている。ただ、夫が「まだやり直せる」と言ったとき、喉の奥がひどく乾いたことだけは覚えている。
母子家庭になってからの生活は、楽ではなかった。
朝の冷たい床。寝ぼけた子どもの体温。仕事帰りの足の重さ。熱を出した夜。足りないお金。足りない時間。足りない睡眠。
それでも、誰かの機嫌ひとつで部屋の空気が変わることはなくなった。帰宅の足音に身構えることも、言葉の棘がどこから飛んでくるか探ることもなくなった。
その代わり、私はずっと気を張っていた。
誰かの前では、明るくしていた。明るい人、感じのいい人、ちゃんとしている人。そういう輪郭を、自分の外側に貼りつけていた。貼っていないと、崩れそうだった。
夜に一人になると、顔が洗濯糊に浸したみたいに、ぱりぱりのまま固まっていた。うまくほどけない。昔は耳を引っ張った。耳たぶをつまんで、痛みで滞りを流そうとした。
最近は、耳を引っ張ってもあまり痛くない。流さなくても朝は来る。慣れたのだと思う。
白い家を見ながら、ぼんやり思う。そういえば、クリスマスの頃、軒先に派手なイルミネーションをしていたな、と。気づいていたのに、すっかり忘れていた。
最近のサイディングは丈夫だ。もう十五年以上経っているのに、外壁はまだ白い。昔の建物は、もっと早く色が変わった気がする。素材が変わったのか、それとも、気にしていなかっただけなのか。
あの奥さんは、ピンポン一つで夫を呼び出せる。夫が怖くないということだ。
それだけのことが、ずっとできなかった。
あの家に私が妻として入ったとしたら——ふいにそう思った。たちまちあの家は、別の家になるだろう。入れ物の問題ではない。白い壁に合わない素材が一枚混じれば、作品は変わる。
それが私だった。
なぜそうなのかは、うまく言えない。ただ、そうなのだということだけは、十五年かけてわかった。
無理に貼られたものは、端から浮く。端がめくれる。光の吸い込み方が、そこだけ少し違って見える。
白い家は、今日もまだ白い。
そのことが、少しだけ苦しかった。
マイバッグを逆の肩にかけ直す。肩の筋肉がきしんだ。
どこからか自転車が来る。速い。よけた拍子に肩に力が入り、首がすくむ。せっかく安かった卵を割るわけにはいかない。その瞬間、心臓がひとつ跳ねた。
それでも、歩いていた。
ふと顔を上げると、空が赤かった。
夕焼けだった。燃えるような赤で、端がピンクに溶け、その上が青い。
昔は、夕方になると気持ちが沈んだ。夕焼けを見るたびに、消えてしまいたいような気持ちになった。今はただ、綺麗だと思う。綺麗だと思いながら、胸の底に寂しさが溜まっていく。
その寂しさを、どこへも逃がさなかった。ただ、ここにある。
帰り道、コンビニに寄った。
焼き鳥を買った。塩を、不登校でずっと家にいる子どもと二本ずつ。
ちゃんとした献立でも、栄養の計算でもない。ただ、今日はそれを食べたいと思った。そう思った自分を、却下しないでみようと思った。
袋を提げて歩く。温かさが手のひらに伝わってくる。
そのとき、スマホが鳴った。
「未知子さん、お疲れさまですー。XX企画書について、ちょっとご意見いただきたくて。今いいですか? あとでもいいですか?」
一瞬だけ、間があった。
「もう家がすぐそこなので、このまま話して大丈夫です」
声が、自動的に少し上がった。ああ、またやってる、と思った。でも悪くはなかった。顔が引き攣っていても、こうして誰かの声が届いて、私が答える。それだけのことで、今日も終わっていく。
そう答えて、私は家へ歩いた。
※本作は短編「わかった」に続く連作です。
単独でもお読みいただけますが、前作とあわせて読むと、より背景が伝わる構成になっています。
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