見出し画像

わかった |短編


【お読みになる前に】本作には、不安や強い心情の揺れを描いた表現が含まれます。ご自身のペースでお進みください。


 
 わかった、と返信した。

 その返信だって、する前にものすごくたくさん考えた。たとえば「早く帰ってきた方が楽じゃないかな」「A子さん、優しいね」「そんなに疲れたの?」投稿欄に書きもしなかった。脳内で浮かんでは消えた。何をいっても、怒られそうで、機嫌を悪くさせそうだった。なんでしんどい時に、余計なこというの? なんでもう明日帰るって連絡しているのに、それ以上情報を欲しがるの? 黙って待つこともできないの? なんのために情報が欲しいの? 束縛? 夫婦ってそうやって檻に入れることなの? 俺の自由を制限して、そんなことがしたいの? ——彼がいう姿が次々に浮かぶ。わかってる。彼が本当にそういうかはわからない。私の中で、彼を勝手に、モンスターにしているのかもしれない。でも、どうしても「ごめんね」という優しい彼の顔が浮かばない。浮かぶのは、口では「ごめん」といいながら、それ以上いうなよ、と何かを含ませる彼の顔だ。疲れたように見えるあの顔。むくんでいるのかなんなのか。眠いのか見下しているのか。もう、自分の目に映る彼が、本当の彼なのかどうかさえわからない。私が思い浮かべる彼は、一体誰だろう。固着したフィルムみたいに、こういうときはああいう、という方程式が私の中にあって、私はライン一つ打つ前に、もう、一度死んだ気がした。

 わかりました、気をつけて帰ってきてね。これも打った後で失敗だったかもしれない。わかりました。これは、お前にわかる権利があるのか、といわれそう。気をつけて帰ってきてね。これは、ただ待ってるだけのやつが気をつけてって能天気だよな。もう、ありとあらゆる反論をされるのが瞬時に自動化されている私の脳内。どうか黙って。私の脳内。

 脳ってどこで考えているんだろう。別に、脳の断面図を見たいとか、そういうことじゃない。私のこの思考はどこから湧いて出てくるのか。小さな頃、母方のおじいちゃんちに夏休みに行った。田舎で、近所の子供たちと川に遊びに行った。信じられないぐらい綺麗な水だった。河岸から少し中に入ると突如として深くて、冷たくて、本当に怖かった。初めて、水が怖いと思った。周りは鬱蒼とした緑に覆われて、夏の強烈な日差しさえ、遮っていた。水は深い緑色で、どんなパレットでも作り出せないような色をしていた。そして最も深みの奥で、「水が沸いているんだよ」と、あれは誰だったろう——誰かの大人が教えてくれた。そこは河岸よりもっと静かで、広い場所だった。広いと言っても、今考えると六畳もなかったかもしれない。ただ、小学生だった私には緑に囲まれたその場所は、神域のように広く思えた。その中央で、微かに水面が動いていた。ゆらゆらゆら——ゆら、ゆら。不規則に、螺旋を表面で描く揺れが、子供の私の心をとらえた。水が沸くってこんなに静かなのか。無論、あれは表面だけのことで、他は違うのだ、と長ずるに従って知っていったが、それでもあの光景は、今も脳裏にある。暗い影の差す、水泥に覆われた緑色の水が、揺れて——

 思考があのように静かに、私の暗い脳内から湧いてきているのだとしたら、それを見ている私は、それを美しいと思うだろうか。

 美しいものを作りたい。生み出したい。あの川の流れのように、綺麗なものだけ生みだしたいのに。

 なぜ。

 私の脳内は、勝手に、意志とは裏腹に二人の睦み合う情景を、温度を伴って描き出している。まるで、あの二人の方が神域にいて、私がそれを、無粋に覗き見しているようだ。そのぐらい、神々しい光に包まれた二人の閨事が、あるのかないのか、本当なのかどうなのかさえわからない。ただの妄想だと思いながらも、ただの妄想だと思うからこそ、それはリアルな像となっていく。私に対しては、あのむくみきった、物憂げにしか開かないあの目が、あの顔が、彼女には優しく微笑みかけ、相好を崩し、歯を見せて笑う。歯を見せて——ああ、彼の歯を見たのは、前にはいつだったろう。思い出せない。

 思い出した。あれは新婚の時。「綺麗な奥さんですね」といわれて、彼が歯を見せた。最近はいつだったろう。いつだったろう。普段そこらじゅうで、あったはずなのに。口を閉ざして彼が生活していたわけではないのに、まるで最初から歯抜け男だったかのように、彼の歯の記憶がない。あの人の笑い顔自体見た記憶が朧で、その笑い顔でさえ、今となっては笑いなのかどうかもわからない。ああ、そうだ。部長に対して笑っていた。すごく嬉しそうに。

 またラインを開く。わかった、という私の返事の前に、「遅くなるから先に寝てて。泊めてくれるっていうから、朝帰る」この字を見る。遅くなるから先に寝てて。なんでお前に私が先に寝るかどうかを指示されないとならないのか。私が寝ないと、思い詰めて待っていると予想しているのか。泊めてくれるっていうから。A子は優しいね。でも私は、A子とまともに話したこともないんだけど。そういうの、わかんないか——ああ、こいつはわからないやつだよな。自分に良くしてくれる相手は、花丸評価を下すから。ショートカットで、野球少年のような固い目をしたA子を私がどう思おうと、関係ない。あの人には私が最劣位。

 ああ、脳内がまた嫌な思いを生み出している。あいつなんかどうでもいいって言いながら、そのあいつにこれほど心乱されている。もうほっといて、風呂入って寝ればいいじゃんって、私がいうけど、もう一人の私がなぜか、それじゃダメだという。じゃあ、起きててどうすんのって聞いても、わかんないという。わかんないなら黙れ、寝させろっていっても、だって怖い、だって不安、だって脳内であの二人が睦み合ってる——って泣く。おい、私より先に泣くな。だいたいそれは妄想だ。やめなさい。意味ないから。そんなこといわれてないから。また曲解しすぎ。他人の善意や疲れを理解せず自己中。世の中が性でできてるっていわれる。そのとおりだね。私の脳内ではあいつは、性的存在だよ。でも夫じゃん。だからそりゃそうじゃん。取られたくない。私だけを愛してほしいって思って何が悪いの。私が性的思考をやめて、虚無僧のようになれば満足なの。——絶対違う。普段、夜の回数が少ない、毎日じゃないって怒るじゃん。なのに、脳内で性的になるなってどうすればいいのよ。無茶苦茶。あいつ嫌い。大っ嫌い。古い冷蔵庫が音を立てる。

 シャワー浴びた。
 ドライヤーかける。子供が起きるかも。途中でやめる。
 なんか食べたい。何もない。何もないことないけど、何もない。布団に入る。電気消す。脳内の二人はまだ睦み合っている。一回戦が終わって、炭酸でも飲んでる。ああ、悲惨。目を閉じる。私は私に魔法をかける。今あなたは素敵な国にいます。そこではなんでもできます。ほら、イケメンもたくさん。理解してくれる友人もたくさん。ほら、理想的な親もいるよ。私という天使もいるよ。神様もいつも微笑んでるよ。下は花でいっぱいだよ。子供は今夜熟睡してくれるよ。何がしたい?なんでもしていいよ。私は答える。お願い、記憶を消して。脳内を止めて。神様が答える。いいよ。忘れていいよ。イケメンが答える。辛かったね、あいつが悪いよ。君のせいじゃない。君のせいじゃない。そこにいるみんながいってくれる。君のせいじゃない。君のせいじゃない。君のせいじゃない。君のせいじゃない。

 子供がああうと突然呻く。優しくさする。おしっこの匂いのする子供の夜着の脇に、私は顔を突っ伏した。




※本作は連作です。この後「白い家はまだ白い」に続きます。
単独でもお読みいただけますが、前作とあわせて読むと、より背景が伝わる構成になっています。


いいなと思ったら応援しよう!

佐藤りぷ よろしければ応援お願いします。いただいたチップは、創作時のコーヒー豆のグレードアップに使わせていただきます。